最終更新日:2000年2月3日

1999年度のEMCA研研究大会



1999年度のEMCA<研究会の研究大会が、以下のようなプログラムで開催されました。詳細については後日掲載していきたいと思います。[西阪]

2000年1月30日(日曜日)

明治学院大学白金校舎 2302教室(2号館2階)

プログラム

11時から13時 シンポジウム (1)
「会話分析から発話の構成をふたたび考える」

14時半から16時 シンポジウム (2)
「エスノメソドロジーと哲学的伝統」

シンポジウム (1) について

シェクロフが「会話のためのシンタクス」と言ったのは、いまから12年前になります(もっとも、それより以前から言っていたにちがいありませんが)。数年前、そのシェグロフを編者の一人として、Interaction and Grammarという論文集が、会話分析と機能言語学の協同の成果として出版されました。「相互行為と文法」という問題を、いま詰めておくことは、わたくしには、とても重要なことに思えます。

なぜいま「文法」なのか。おそらく社会学も言語学も、また心理学も、主流は、いわゆる「認知主義」(つまり行為・文・心を人間の個体内部における、なんらかの操作もしくはその結果とみなす立場)であるように思います。そして、認知主義のルーツをたどれば、その重要な土台の一つは、チョムスキー派の文法理論にあります。だから、文法を、チョムスキー派とまったく違う地平で考え直すことは、エスノメソドロジーおよび会話分析にとって、認知主義に対峙していく上での、一つの重要な試金石になるはずです。一方で、チョムスキー派の出発点にある、いわいる「新文問題」(まったく「新奇な」文をどうしてわたしたは理解・産出できるのかという問題)に対して向き合いながら、他方において、「文法」を相互行為のなかに埋め戻していく作業がいま求められていると考える次第です。

今回は、とくに後者の課題に焦点を当てていきたいと思います。「会話のためのシンタクス」に関する仕事をすでに発表されている、カリフォルニア大学の高木智世氏と、会話分析の手法をもちいて「参与の構造」と発話の組み立てに関するユニークな研究を続けられている、大阪教育大学の串田秀也氏に発表をお願いすることにしました。 (担当世話人 西阪 仰)

シンポジウム (2) について

シンポジウム (2) では、エスノメソドロジーや会話分析の哲学的自己理解をテーマとしてとりあげます。

エスノメソドロジーや会話分析をおこなううえで哲学など無関係だと考えられる方もおられると思いますが、われわれが対象を選択したり、方法を選択したり、ファインディングスの妥当性を判断したりするときには、エスノメソドロジーや会話分析の対象とはなにか、方法とはなにか、またなにをもってエスノメソドロジーや会話分析の成果とみなすのか、ようするにエスノメソドロジーや会話分析とはなんなのか、ということにかんする哲学的な自己理解がつねに隠れて働いています。メルロ=ポンティが言うように、「解釈をおこなうその瞬間には、社会学者も彼自身、すでに哲学者」(「哲学者と社会学」)なのです。

エスノメソドロジーと会話分析に自己理解を供給してきた哲学的伝統には大きく言ってふたつあります。現象学とウィトゲンシュタインです。そして、今日このふたつの伝統にもとづくエスノメソドロジーと会話分析の自己理解は、基礎づけ主義 vs. 反基礎づけ主義、認知主義 vs. プラクシオロジーとして鋭く対立しているようにみえます。

今回は、現象学的伝統からみたエスノメソドロジー・会話分析について、矢田部圭介氏(日本学術振興会特別研究員)に、またウィトゲンシュタインの伝統からみたエスノメソドロジー・会話分析について、前田泰樹氏(一橋大学大学院)に、それぞれ報告していただき、エスノメソドロジー・会話分析のふたつの哲学的自画像について比較しながら検討する機会にしたいと考えています。 (担当世話人  浜 日出夫)