第4回 (2004年6月5日)
大海 篤子(お茶の水女子大学 ジェンダー研究センター研究協力員)

1.「女と男」か「男と女」か
「女と男の政治学」の意味は?「女と男」か「男と女」か。
「政治学」という用語は、学問の一分野と「権力関係」があることを表す。
「政治学」の意味が広がったのは、“ the Personal is Political ( 個人的なことは政治的である ) ”( 1970 年、キャロル・ハニシュ)、というフェミニズムのメッセージ以降。その意味は、個人的な問題にも権力関係が潜んでいたり、政治性があるという主張であった。2.男の政治学の成立過程
2 - 1.啓蒙思想家たちの女性観
世界中、例外なく女性は男性より後から政治的権利を得た。ということは、政治的に排除された時期があったということ。また、女性は学問の世界からも排除された。
しかし、明治の初期、日本にさまざまな学問が輸入された「文明開化」期には、欧米思想の「権利」も日本に紹介され、「女性の権利」についても主張・議論があった。
森有礼、福沢諭吉、植木枝盛の女性の権理論2 - 2.自由民権運動の女性たちー男社会への女性の参加
明治 22 年( 1889 )、帝国憲法が発布され、翌年の国会開設に向かって選挙法が制定された。投票権は 25 歳以上の男子、直接国税 15 円以上納めるものにだけ与えられた「制限選挙」で、女性は政治的権利を認められなかった。自由民権運動の中で女性は女性差別や法的な制約をうけながら、女権を主張した。 楠瀬喜多、岸田俊子、影山英子、清水豊子、西巻開耶らの女権論2 - 3.政治学における女性の排除
実態的な政治の場における女性の排除だけでなく、抽象的な学問レベルにおいても女性の排除はあった。天皇を中心とした政府の成立・統治の基本となる理念や理論を吸収することが知識人と政治指導者の役目であった。政治体制、法体制のモデルを欧州から取り入れる時、保守的勢力と民主的勢力の対立があり、日本の政治学は国家学としてプロイセンから思想的基盤を受け継ぎ、官制の学問となっていった。学問の継承において、女性の排除があった。3.男の政治学の見直しを迫る
3 - 1.初めての 39 人女性代議士誕生
1946 年 4 月 10 日、日本の女性は初めて政治的権利を行使し、投票率は 67.8 %(男性 78.5% )、候補者 79 人、当選者 39 人という結果を残した。一度に女性が 39 人当選した記録は未だに破られていない。その後選挙制度が中選挙区制度に変更され、女性国会議員数は低迷した。 1993 年小選挙区比例並立制度が採用されるようになり、女性の増加が見られるようになった。 (96 念 25 人、 00 年 35 人、 03 年 34 人 ) 。3 - 2.ガイアツによる女性政策の展開
1975 年メキシコ・シティで国連第一回世界女性会議が開催され、世界中で女性は男性より不利な立場にあることが確認され、女性の地位の向上に各国政府が取り組むことが決められた。日本政府も早速に取り組んだが、その実績はガイアツを意識したものであった。 1995 年になって、北京の第四回世界女性会議以降、ようやく「女性政策」への取組みに進捗が見られるようになってきた。さらに、年金や夫婦別姓など、女性の生き方の急速な変化に対応できないのは、政策決定の場に女性が少ないことであるという認識が女性に共有されるようになってきた。4.男の政治学から女と男の政治学へ
女性差別にジェンダーという分析概念を取り込むことで、既存の知識や知識体系が男性によって作られてきたことが証明されるようになった。女性がいないことが当たり前と思われてきた政治、政治学にジェンダーを理論化することで、これまでの政治学が基盤にしてきた思想や理論に、新たな展開が生まれている。
−大海篤子(おおがいとくこ)先生のプロフィール−
専門分野政治学(「政治参加論」、「ジェンダーと政治」、「政治運動論」)
論文・著書「自分をひらき、世界をひらく―日本の女性の政治参加―」、高畠通敏編『現代市民政治論』、
世織書房、 pp113-138、2003年3月、(共著)「 13環境政策策定と市民のかかわり」、「14川をめぐる市民の活動と政策の変化」、原ひろ子、
小澤紀美子、『持続可能な消費と生活者』、(財)放送大学教育振興会、pp175-206、2003年
3月、(放送大学教科書)「女性模擬議会という女性政策」、日本政治学会、『年報政治学「性」と政治学』、岩波書店、
pp113-137、2003年12月