第4回 (2005年5月28日)

『戦争の記憶・暴力の記憶』

藤原 帰一(東京大学法学部教授)

 戦争という痛ましい経験から得られた教訓を次の世代に伝えようと考えるのは、ごく当然のことだろう。だが、戦争から得られる教訓はひとつに限られる ものではないし、時代によっても地域によってもずいぶん違いがある。

 第二次世界大戦について日本で記憶される日付とは、1941年12月8日の真珠湾攻撃、1945年8月6日の原爆投下、さらに8月15日の終戦だろう。「日本国民」を横断する「事件」としての第二次大戦は何よりも日米戦争とその終幕だからである。

 だが、同じ第二次大戦でありながら、記憶される日付は地域によってずいぶんな違いがある。中国であれば蘆溝橋事件の起こった1937年7月7日こそ、日中戦争が全面的に拡大するきっかけとなった記憶すべき日になる。シンガポールでは、マレー半島を南下した日本軍の手によってシンガポールが陥落した1942年2月15日が記憶の中心になる。同じ戦争といっても、どの側に立ってその戦争を経験したのか、どの地域でそれを経験したのかによって記憶の内容にちがいがうまれるわけだ。

 そして違うのは日付だけではない。その戦争のどこを記憶するのか、同じ戦争の記憶でも地域によって著しい相違がある。第二次大戦の経験から戦争一般の暴力性、犠牲、むなしさを日本の多くの人々が記憶したとすれば、中国では、それでいえばシンガポールでも、戦争一般ではなく、日本という特定の侵略者の暴力性とその招いた犠牲が記憶された。

 記憶の相違はそこから得られる教訓や解釈の違いと結びつく。誤っているのは戦争一般なのか、それとも特定の侵略者なのか、どちらに重点を置いて「記憶」するかによって、その戦争から得られる教訓が異なることは明らかだろう。戦争一般の否定は非武装への支持を生み出した。侵略者の無法の記憶は救国自衛の大義を支えることになった。

 異なる記憶が出会うとき、記憶の戦いが生まれる。中国人にとって、37年7月7日を知らない日本人は戦争を「忘れた」存在であり、シンガポール人にとって42年2月15日を顧慮しない日本人は戦争責任を頬被りしていることになる。そして、日本の多くの人々の記憶する戦争とは、7月7日や2月15日ではなく、12月8日、8月6日、8月15日を柱とする戦争であった。

 過去の戦争や暴力の記憶がいま衝突し、新たな紛争の種となる。これは現在の日中・日韓関係ばかりでなく、ユーゴスラビア、アルメニア、インドなどの地域でも見られる現象である。この報告では、戦争の記憶と暴力の記憶がどのようにつくられ、作り変えられ、互いに衝突するのかを考えてみたい。

 

−藤原帰一(ふじわらきいち)先生のプロフィール−

専門分野

 国際政治学

論文・著書
 『デモクラシーの帝国』、岩波書店、2002年
 『「正しい戦争」は本当にあるのか』、ロッキング・オン、2003年
 『平和のリアリズム』、岩波書店、2004年