第1回 (2007年5月12日)
辻 信一(明治学院大学国際学部教授)

今年3月、ブータンを訪れた。九州ほどのサイズしかないヒマラヤの小さな国の魅力にぼくはとりつかれている。ぼくにとっては3度目の訪問になる今回、ぼくは現地の友人と組んで「GNHツアー」と銘打ったツアーを企画し、22名の方々をご案内することになった。
GNHとは何か。それはブータンの第4代国王がつくった言葉だ。GNHとは、GNP(国民総生産)やGDP(国内総生産)をもじったもので、あえて訳せば「国民総幸福」。国王はこの造語を使って、「GNHの方がGNPより大事だ」と言った。GNPやGDPのPはプロダクツ(生産物)のP。それに対してGNHのHはハピネス(幸福)のH。ぼくたちの社会がGNPやGDPの上昇によって示される「経済成長」ばかりを信奉してきたのに対して、ブータンの国王は疑問を投げかけたわけだ。商品とそれを売り買いするお金の量によって、社会の豊かさやそこに住む人々の幸福がはかれるものだろうか、と。
実際、ブータンの村々を訪ねてみると、まだまだ豊かな生態系、自給型農業、コミュニティの助け合い、伝統文化、スローライフが健在で、人々の幸福度、満足度はかなり高そうだ。
ひるがえってGNPの高さを誇るぼくたちの社会のことを考えてみる。うーむ、GNH度が高いとは到底思えない。
特に東京都はGNPというモノサシでは全国第1位だが、食糧自給率はわずか1%。エネルギーや水の供給もゴミの廃棄もほとんど遠隔地に頼っている。おまけに住居は家賃が高くて狭く、都心は緑少なく空気も悪い。高い生活費を稼ぐために忙しい人々の多くは家族や友人とゆっくり顔を合わせる暇もない。そんな東京を豊かさのモデルと見立てて、突っ走ってきたのがこれまでの大量生産・大量消費時代の日本人だった。
そして地球温暖化! それは世界中で繰り広げられるGNPをめぐる競争の結果だ、という「不都合な真実」が誰の目にも明らかになりつつある。経済成長至上主義は単にぼくたちを幸せにしないばかりではなく、ぼくたちが生きるための基盤そのものを壊してしまうのだ。
グローバル経済の大波が生態系を、自給的な農業を、伝統的な技術や文化を押し流してゆく。グローバルスタンダードという名の祭壇に、ぼくたちの幸せを構成するはずの愉しさや美しさや安らぎやおいしさが犠牲として捧げられようとしている。
それを食い止めるためには、GNPからGNHへと、大きく価値観をシフトすることだ。そのためのヒントがブータンにはたくさんある。いやよく見れば、ぼくたちの身近にも、そして自分自身の中にさえ、答えはいっぱいあるはずなのだ。GNPからGNHへ。ぼくたちは皆、幸せになるために生まれてきたのだ。
−辻 信一(つじ しんいち)先生のプロフィール−
専門分野文化人類学、環境問題
論文・著書『スローライフ100のキーワード』、弘文堂、2003年 『スロー・イズ・ビューティフル−遅さとしての文化』、平凡社、2004年 『スロー快楽主義宣言!−愉しさ美しさ安らぎが世界を変える』、集英社、2004年 『ハチドリのひとしずく−いま、私にできること』、光文社、2005年 『「ゆっくり」でいいんだよ』、筑摩書房、2006年