『装甲騎兵ボトムズ』雑感

『ポップ・カルチャー・クリティーク 0. 『エヴァ』の遺せしもの』青弓社(1997年12月)掲載

 稲葉振一郎

 ロボットアニメがお好きな方なら、サンライズで高橋良輔監督が手がけられた『装甲騎兵ボトムズ』のことはよくご存じでしょう。OVAの続編が最近に至るまで作られ続けている他、ついにTV放映版を完全収録したLD、ビデオもリリースされ、レンタルでも利用できるようになりました。
 さてこの作品について、批評家の上野俊哉氏はこう書いてます。

 『装甲騎兵ボトムズ』では、アストラギウス銀河を二分するギルガメスとバララントの星間国家の間で、もはやその理由もさだかではないままつづく「百年戦争」が、実は「ワイズマン」という異能者たちのバイオチップを複合した不可視のコンピュータ・ネットによって演出されていた過程が描かれる。主人公キリコ・キュービイが異能者(ニュータイプ?)であったことも、キリコが遺伝子工学と生化学技術によって作られた異能者であるPS(パーフェクト・ソルジャー)の女と恋におちることも、ここでは全ての出来事が見えない力によってプログラミングされていた(このヘーゲル的「歴史の終り」にのぞんでキリコはニーチェ的な「超人」としてワイズマン=「絶対精神」の支配と遺産すら拒否する)。
(上野俊哉「ジャパノイド・オートマトン」『ユリイカ』1996年8月号「特集 ジャパニメーション」、182頁。)

 これは最後のヘーゲルのニーチェのというオハナシを除けば、きわめてわかりやすい『ボトムズ』の要約紹介です。要するにキリコはPS(『機動戦士ガンダム』シリーズの用語で言えば人工的ニュータイプとしての「強化人間」ですね)の秘密を知ったがために追われ追われの旅を続ける、と最初は見えたのですが、やがて彼をハメた連中の黒幕であるワイズマンの関心が、PSにではなく彼自身にあることがわかってきます。PSはかつて古代文明において自然に出現したワイズマンら異能者(『ガンダム』で言うところのニュータイプです、まさに)の人工的で不完全なコピーに過ぎず、キリコこそが数千年ぶりに誕生した自然の異能者であること、そして全ては、ワイズマンが自分の後継者を生み出し、鍛え、遺産を受け継がせるための出来レースだったわけです。
 そして終幕近くでワイズマンと出会ったキリコは、自分を翻弄した宇宙に復讐するためワイズマンの後継者になる、と宣言し、かつて自分を追いつめてきたワイズマンの手先(そのメンバーはワイズマンの真意をまったく知らされていなかった哀れな単なる道具たち)の秘密結社の首領となり、ワイズマン復活阻止のためついに手を組んだ二大強国の軍を蹴散らし、ワイズマンとの最終ランデヴーポイントに臨みます。その途上でキリコは最愛の人PSのフィアナら数少ない仲間の制止を冷酷に振り切り、いまは自分の部下となった秘密結社のメンバーを弾避け、捨てゴマとして容赦なく消費していきます。このあたりの描写は圧倒的な迫力です。
 しかしついにランデヴーポイントに到達したキリコは、ワイズマンの宿るコンピュータを破壊してしまいます。全てはワイズマンを欺くための決死の演技でした。彼は戦争に利用されることを拒否し、愛するフィアナとともに、戦争のない世界への逃避の希望をつないで、宇宙空間で醒めるあてのない人工冬眠にはいり、物語は終わります。
 平たく言えば、キリコは神様になることを拒否して、普通の人間であることを選んだのです。先代の神様たるワイズマンは彼を選び、彼のために全てを用意しました。しかもご丁寧にも、彼がそう望むような動機(戦争のなかで翻弄され、権力にもてあそばれ、おぞましい人間兵器にされ、その上で愛を知り、人間として生きる喜びを得たにもかかわらずそれを奪われ、世界と己の運命を憎むように、と)さえ与えて。にもかかわらず彼はワイズマンによる選びと救済を拒否したわけです。でもそこには何の不思議もないですね。
 上野氏は「超人」という言葉を用いていますが、注意しなければならないのは、この「超人」とはあくまでも普通の人間だということです。自分を破壊しようとするキリコにワイズマンは、お前を彼女と巡り合わせ、愛するようにし向けたのも自分だ、と言って彼の心を惑わそうとします。しかしそのような惑わしに負けないことが、「超人」であるということです。ワイズマンがそう仕組んだことは確かに事実です。それでも、彼女をいま現に愛しているのは彼自身に他ならない。彼を作り出したのがワイズマンであっても、いま現に生きているのは彼自身なのです。そのことを肯定し、それ以外に自分が生きていることの根拠なるものを必要としないということが「超人」であるということです。別にまったく大したことではありません。
 ちなみにLDボックスvol.2のライナーノートでは、高橋氏が『機動警察パトレイバー』『甲殻機動隊』でおなじみの押井守氏と対談してますが、押井氏は自分のいつもの「犬」概念に引き寄せて無理矢理キリコを解釈しようとしていて笑えます。バカじゃなかろか。押井氏の「犬」ってのはいつも自分がそのために生き、死んでいける神様をうろうろ捜している哀れな捨て犬のことで、まさに「超人」の反対、後述する「ルサンチマン」の権化なんです。『ボトムズ』世界における「犬」はワイズマンの手先たち、そしてワイズマン自身に他なりません。いやこんな言い方、全ての犬に対して失礼ですね。(なお押井氏の「犬」概念については、それに対する佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』文藝春秋、の周到な読解が参考になります。)
 『ボトムズ』が多くの人々に愛されているのは、それがいわゆるリアルロボットもののひとつの到達点(単なる通常兵器としてのロボットに乗る主人公! ロボットはいくらでも代わりがある使い捨ての道具に過ぎない!)を示したと同時に、『ガンダム』『伝説巨神イデオン』『聖戦士ダンバイン』に見られる、富野喜幸氏のロボットアニメがはまっていった落とし穴(「運命に翻弄される人々」というオハナシ)をすんなりと回避しているからでしょう。いえ、「自分が自分であることの肯定」を直接的なお説教という形でしか示せなかった『新世紀エヴァンゲリオン』さえもそこでは前もって克服されているのです。個人として真っ当に生きるためには、いやおそらく社会が真っ当なものであるためにさえ、ニュータイプとか人類補完計画とかは不必要であり、そのようなものへのこだわりこそがますますそれらが癒すと称する病へと人を導くのです。(薬物依存と大差ないですな。)

 でも「超人」って実は難しいんですよね。実際のところニーチェ自身が非常に悩んでいたみたい。いわゆる現代の「ポストモダン」思想においてニーチェってのはヒーローなんですが、これについて樫村晴香さんという方が面白いコメントをしています。

 全員がツァラトストラのようになること。すべてを認識すること。しかしこれは〈いつかツァラトストラのようになること〉という神経症にかかるということとして実現され、資本主義経済――権力をより加速するだろう。
(樫村晴香「汎資本主義と〈イマジナリー/近しさ〉の不在」『クリティーク』1号、92頁。ツァラトストラとは言うまでもなく、フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトストラかく語りき』の主人公です。)

 つまり、「超人」というのは神様とかそういったものへのルサンチマン(うらみつらみ、というか、やましさ、というか)から解放された者のことですが、「超人になろう」と努力すること自体、一歩間違えばまさに別種のルサンチマンにとらえられてしまうことになっちゃうんですよね。
 ルサンチマン、てのは、例えば自分の外側に自分がそれにしたがうべき神様とか道徳とかを見いだして、それに向けて努力するときに起きてしまうある種の倒錯のことです。その核心にあるのは自分が神様や道徳の導きに応えられない弱い者であるという事実に悩み、自己に対して否定的になることなんですが、それがどうしてやばいのか? それは自分一人の悩みやイヤな気分では済まないからです。問題となっているのは道徳とか、神様とか、普遍的なものなんだから。つまりルサンチマンを抱えた者は、自分だけを貶めてすむのではなく、自分の悩みに他人を巻き込んじゃうんですよね。
 私の尊敬する永井均さんという哲学者がうまいことをいっています。彼はとりあえず道徳に即して語っていますが、道徳というのは言ってみれば〈うそ〉に他ならない。ただしそれがあることによって世の中がよくなるような〈うそ〉である。ところが道徳主義というのはそれを超えてこの道徳という〈うそ〉を信じ込ませようとする。

 だが、その本質は単純だ。それは、道徳的に善いことはそれをする当人にとって好いことであり、道徳的に悪いことはそれをする当人にとって嫌なことである、という〈うそ〉を〈ほんとう〉のように見せかけることにつきる。この概念体系が定着すると、「いじめはいじめる側にとっては好いことだ」という言葉づかいそのものが否定されてしまうので、そこに存在するはずの問題そのものがわれわれの眼から隠されてしまう。
 だが、問題はその次の段階だ。次の段階では、道徳的に善いことをすることだけが自分にとってほんとうに好い(=幸福な)ことであり、道徳的に悪いことをすることだけがほんとうに悪い(=不幸な)ことである、というもっと高度な〈うそ〉が創られる。
(永井均『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書、181-182頁。なお永井均『ルサンチマンの哲学』河出書房新社、も必見。)

 ルサンチマンというのはこの〈うそ〉をほんとうと信じ込んでしまうことです。道徳という〈うそ〉によって世の中は善くなるとしたら、その限りでそれとうまくつきあい、神様を信じることで平和な気持ちになるとすれば、その限りで信仰する。ルサンチマンを抱く人は単にこうしたあり方を自分でとらないというだけではなく、それを「偽善」とか「虚偽の信仰」とか言って否定するわけです。あまつさえそのような「間違った」人々に「かわいそう」と同情する。ニーチェが批判したのはこういうことです。そしてこのような「奴隷道徳」から解放された者のことを「超人」と彼は呼びました。
 ところがこれは永井さんが指摘していることですが、ニーチェがそれを「超人」というご大層な呼び方をしなければならなかったわけは他でもない、ニーチェ自身が道徳主義のなかにどっぷり浸かっていたから何ですよね。ニーチェという人のすごいところは、道徳主義の胡散臭さに対して道徳主義の内側から気付き、それを内側から突破しようとしたところにあって、それゆえに道徳主義を離れた境地はすごい「超人」の境地と見えてしまうのですが、それは最初から道徳主義の内側にいない人にとっては当たり前の場所でしかない。
 樫村さんが突いているのもおそらくその点です。つまり「超人」たらんと努力すること、そんなことに努力しなければならないという思いこみ自体が既に罠にはまっているのかも知れない。一歩間違えば「超人」になれない自分に否定的になり、道徳主義者を軽蔑あるいは同情する。そんな羽目に陥ってしまいかねない。 富野氏がニーチェを読んでいるかどうかは知りませんし、それ自体はまったくどうでもよいことですが、たぶんこのような問題に気付いているかどうかはともかく、引っかかって苦闘しているのでしょう。「超人」になるのに努力が必要だとしても、それは道徳的であろうとか、神様に忠実であろうとかしてじたばたするのと同じやり方での努力であってはならないでしょう。実際、あの『イデオン』において、主人公のひとりベス(映画版ではコスモ)は夢のなかで宇宙意志(?)イデと対面し、「俺は俺だ、お前の一部じゃない!」と叫びます。もちろん、ついにその叫びは届くことなく、『イデオン』の主人公たちはイデという神様に救われて解脱してしまうわけですが。)そのようなさりげない努力、ありのままであろうとする努力、とは一体なんでしょうか? 

 もちろん、さしあたりはこんなそれこそお説教めいた解釈などどうでもよいです。『ボトムズ』はロボットものには希有なピカレスク・ロマンです。つまり、あくまでもひとりの自由な個人の冒険を軸に物語を展開しているのです。(富野氏の『戦闘メカザブングル』も前半、面白かった頃はそうだった……。敵も味方もみんな自由気ままな悪党たちだった。)そのようなものとしてまずは楽しんで下さい。頭をひねってそこから何かを学ぼうとするのは、それからでも遅くありません。

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