明治学院大学国際平和研究所研究会
演題:「開発倫理とポスト開発の倫理:比較研究への招待」
報告者:中野佳裕(国際基督教大学研究員)
報告要旨:
経済人類学者カール・ポランニーは、その著『人間の経済』(The Livelihood of Man, 1977年)において、オイコノミアとエコノミーという人類史を通じて現れた二つの経済様式について議論している。前者は古代文明以来営まれている人間共同体のサブシステンスを継続的に再生産するための物質的生産・交換関係を指すのに対し、後者は近代西洋文明において誕生した資本主義市場経済のことを指す。市場経済を基礎とする社会は商品の生産と交換を通じて資本の蓄積を目指す「成長社会」であり、無限の経済成長を目指すためにあらゆる社会関係を市場化してゆくことを正当化する。
新自由主義イデオロギーの下で金融と貿易のグローバリゼーションを推進し、先進国と途上国のあらゆる領域に市場原理を適用していく今日の世界は、まさにポランニーが省察する西洋近代の経済論理が「世界化」したものであると言える。ところが「世界の経済化」の結果、実体経済のグローバル金融への従属、先進国と途上国双方における格差の拡大、生態系の破壊、食料主権の喪失、文化の自律性の喪失といった様々な次元での社会関係の喪失をわれわれは経験している。2008年10月の米国発金融危機の影響の下、経済化した世界に生きる人類は、自らがこれまで依存してきた近代の経済論理の暴力とその自浄能力の限界を目にしている。この危機を乗り切る具体的で実用的な対案が必要であることは無論であるが、それ以上に重要なことは、われわれが依拠する経済論理とその世界観・価値観の限界を哲学的かつ文明論的に理解し、近代経済文明に替わる新たな文明的基礎を描くための思想を構築することではないだろうか。
このような理由から、本報告では、今日の世界経済の限界とそれに替わるオルタナティブな思想を倫理学の視点から考察しようと試みた。経済グローバリゼーションが南北関係と国際開発政治に与える倫理的な問題を今日的な視点から検証するために開発倫理の展開をまとめ、次いで開発倫理の批判として現れたポスト開発思想における倫理について議論した。
まず開発倫理についてだが、1970年代以来カント派政治哲学者や功利主義哲学者らによる「援助の倫理」が議論されてきたが、1990年代以降はアマルティア・センとマーサ・ヌスバウムらによる、アリストテレス倫理学に基づく「ケーパビリティ・アプローチ」が主流となっている。 本報告では、アリストテレス倫理学が注目されるようになった経緯を二十世紀後半の欧米の倫理学の展開を踏まえて説明し、その上で、センとヌスバウムの試みが、近代倫理学における抽象的な個人概念と非目的論的な人間像から離れ、社会に組み込まれた具体的な存在としての人間が為しうることの可能性(ケーパビリティ)を追求するという点で、開発倫理における人間概念のパラダイムシフトに貢献していることを指摘した。
しかし、ケーパビリティ・アプローチ(特にセン)は、実際の国際開発政治においては自由主義経済パラダイムと親和的であり、結果として現行の国際開発体制とグローバル資本主義の構造的問題を部分的に修正する程度の効果しか有さないことも、すでに多くの研究者によって指摘されている。ケーパビリティ・アプローチのこの限界は、ひとつには近代文明が生み出した経済論理の限界に対する批判的な省察が不十分であることに起因する。
このようなケーパビリティ・アプローチの限界を克服する可能性を示唆するものがポスト開発思想である、と報告者は主張した。国際開発政治の倫理的問題について取り組んでいる代表的なポスト開発思想家としては、フランスの経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュが挙げられるが、興味深いことにラトゥーシュもアリストテレス倫理学の影響を受けている。報告者は、センとラトゥーシュとの間の思想的な相違は、アリストテレス倫理学の解釈ならびに西洋近代の評価の仕方にあると述べた。センは、開発政治を従来の経済成長中心主義から人間の根本的な自由を拡大する開発へと修正してゆくための応用倫理としてアリストテレス倫理学を援用するが、他方で近代が「発展」概念とともに生んだ諸々の価値体系や社会制度および人間存在の実存的問題に関しては根源的な批判を与えていない。対照的にラトゥーシュは、ハイデッガー、コルネリュウス・カストリアディス、イヴァン・イリイチ、アンドレ・ゴルツなどの近代産業社会批判の影響を受けながら、今日の開発政治が抱える諸々の問題を近代西洋の文明的基礎の限界であると捉え、アリストテレス倫理学を、近代の経済パラダイムを克服する倫理学として解釈する。ラトゥーシュの関心は、開発政治の修正や改良よりも、人間存在の可能性そのものを近代の経済的、科学的、技術的思考から解放してゆくことにある。
したがってラトゥーシュは、近代の経済パラダイムに依拠しない新しい人間像と社会像が構想することを試みており、その代表的なものが、近年彼が提案している「脱成長(decroissance)」社会である。脱成長社会とは経済成長を目的としない社会であり、市場経済における商品関係よりも非商品的な関係が、資本主義体制における搾取的な労働よりも共愉にあふれる(コンヴィヴィアル)創造的な活動が重視される社会である。またラトゥーシュの脱成長論は、生態系に配慮した自律社会を先進国と途上国の各地域で構築することも提唱しており、多元的でエコロジカルな民主主義を世界中で創造してゆくことを構想している。脱成長社会においては、人は「功利」に従う打算的な経済人としてではなく、他者や自然との贈与関係の中に組み込まれた「間柄を重視する実践的な行為主体」として位置づけられる。換言すると、脱成長社会は、人間が有している多様な象徴行為の可能性を再生し、近代の経済論理が支配的なパラダイムではなくなるような社会である。
報告者は、このようなポスト開発思想の倫理は、近代の経済論理の前提条件を離れて人間存在の多様な可能性を追求するという点で、今後、和辻哲郎の「人間の学としての倫理学」が掲げる様々なテーマと照合して研究される必要がある、と提案した。またポスト開発思想は、環境問題などの今日的な問題を考える上で、人間の「身体性」と「象徴行為」を経済学と近代科学の枠組みを超えて再評価してゆくための基礎となることも指摘した。このようなポスト開発思想の倫理観は、より哲学的な次元では、人生観や生命観の再検討として議論される必要があることも指摘した。
最後に、国際開発政治の規範の歴史的展開を鑑みたとき、ポスト開発の倫理は、新自由主義グローバリゼーションの影響下で国際開発の表舞台から消えつつある(広義の社会主義思想の伝統が生み出した)「正義」の文法を、エコロジーの問題を含める形で新たに再構築していくことに貢献するだろう、と報告を締めくくった。 (了) |