明治学院大学の歴史と現在

A.ヘボン博士の生い立ち

明治学院大学の創設者であるヘボン博士(James Curtis Hepburn,1815-1911)は、1815年3月13日ペンシルバニア州ミルトンに生まれました。ヘボン家の祖先はスコットランドから北アイルランドへ移ったスコッチ・アイリッシュです。信仰心の厚い両親に守られて成長したヘボン博士は、米国長老教会(The Presbyterian Church in the United States of America)が教職者養成を目的として設立したプリンストン大学に1831年に進学しました。卒業後、医学の道を志してペンシルバニア大学に進み36年に卒業しています。

ヘボン博士の生家 ヘボン博士の生家

B. ヘボン博士の結婚と中国における伝道

開業医として医療に携わりながらも海外伝道に使命感を持っていたヘボン博士は、同じく海外伝道に関心を持っていたクララ(Clara Mary Leete,1818-1906)と邂逅しました。1840年に結婚した二人は、米国長老教会のシャムへの宣教師派遣計画に応募して翌41年3月ボストン港を出帆しました。

1841年7月シンガポールに到着しました。夫妻は航海中に夫人クララの流産という悲しみを経験しています。シンガポールで宣教地を当初のシャムから中国のアモイに変更しましたが、アヘン戦争のため直ちに渡航できず、アモイ到着は2年後の43年11月まで待たねばなりませんでした。この間ヘボン夫妻は一児を生後わずか数時間で失うという不幸にも遭遇しています。

風光明媚な反面、アモイは水が悪く、マラリアが猛威を振るっていました。クララはこの地で男子を出産し、サムエル・デビットと命名しました。夫妻の子供で成人したのはこのサムエルだけです。クララは産後の肥立ちも悪く、加えて夫妻ともにマラリアに罹り、伝道を断念せざるをえませんでした。家族3人は46年3月ニューヨークに帰りました。

クララ クララ

C.ヘボン博士帰国後のニューヨーク生活

帰国後ヘボン博士はニューヨークで医療活動を開始しました。旧世界から怒濤のように押し寄せる移民で溢れていた当時のニューヨークは、衛生状態も最悪で疫病が蔓延していました。ヘボン博士は、コレラに罹った患者に対して適切な治療を施し医師としての評判を高めました。また、卒業したペンシルバニア大学伝統の眼科にも精通していたため、病院は繁盛して自ずと財をなすことができました。しかし、繁忙のため帰国後に生まれた子供三人(2歳、3歳、5歳)を病気(猩紅熱と赤痢)で相次いで失うという悲運に見舞われています。ヘボン博士は弟スレーターに宛てた手紙(1855年8月1日付)で次のように記しています。

「私の胸は張り裂けるほどだ。おおニューヨークは何と恐ろしい所であろうか。私に翼があったらどこか寂しい所に飛んで行きたい。これらが悪しき思いならば、神よ許し給え。」

ニューヨーク時代のヘボン博士ニューヨーク時代のヘボン博士

D.ヘボン博士の日本における伝道志願と来日

米国は1858年幕府と日米修好通商条約を締結しました。この情報が伝わると、ヘボン博士は同年の暮れに米国長老教会海外伝道局を訪ねて日本への派遣を申請しました。翌59年1月に申請は認められました。

ヘボン博士は両親の理解を得られないままに、唯一の息子サムエル(14歳)を知人に託し、賑わった病院を閉じて、1859年4月24日ニューヨーク港を出帆しました。喜望峰回りで、香港と上海に寄港した後、10月17の夜半に神奈川沖に到着しました。ヘボン博士は後年ニューヨークのミッション本部宛書簡(1881年3月16日付)において次のように記しています。

「日本に行くべき招命を受けたとき、わたしの心を家郷に結びつける幾多の繋累をたち切り、喜びいさんで出て行ったのであります。いつも思うことですが、中国におけるわたしの最初の宣教師としての生活と経験とは日本における第二の、そして更に最も重要な伝道事業のためであったと考えています。」

長老教会海外伝道局ビル長老教会海外伝道局ビル

E.ヘボン博士の神奈川における医療活動

神奈川の浄土宗成仏寺を居に定めたヘボン夫妻は、1860年を迎えると近くの日本人と親交を結ぶようになりました。当時日本人にキリスト教を布教することは幕府より禁じられていましたが、医療行為は黙認されました。ニューヨークのミッション本部に宛てた書簡(1860年5月14日)をご覧下さい。

「わたしどもが街路を歩いている時なども、みんな楽しそうにほほ笑んで会釈してくれます。まだその人々には大して薬をあげていませんが、この数日間に四人の患者の手当をしました。その三人はわたしどもの番所の係の立派な武士たちでありました。わたしはちょっとした手術を施しましたが、みな苦痛がとれてとても喜んでいたようです。」

評判を聞きつけて各地からヘボン博士に治療を願う日本人が数多く訪れるようになりました。医療活動を考えると成仏寺では手狭となり、1861年の春に近くの宗興寺に施療所を移しました。ところが、宗興寺の施療所における医療活動開始半年後の9月になって、幕府から施療所閉鎖の命令が出されました。ニューヨークのミッション本部に送った書簡(1861年9月8日付)には次のように記されています。

「わたしの施療所は閉鎖されました。その歴史は短いものでした。五ヶ月間ばかりつづいただけです。最初患者はわずかでしたがまもなく非常に増加し、その後三ヶ月間は一日平均百人の患者を診察しました。助手がいなかったのでほとんど満足な記録をつけることができませんでしたから、人数だけ申し上げますが、計三千五百人の患者に処方箋をかきました。それは毎回ちがった患者で延人員ではなかったのです。他の手術以外に瘢痕性内反(眼疾の一種。トラホームのためまつ毛が角膜に向い刺激する症状)の手術三十回、翼状片の手術三回、眼球を摘出したのが一回、脳水腫の手術五回、背中のおでき切開一回、白内障の治療十三回、痔瘻の手術六回、直腸炎一回、チフスの治療三回行いました。そのうち一回だけ白内障の手術はうまくいかず、他はみな上出来でした。」 1870年からヘボン博士と親しく交わったW.E.グリフィスは自らの著書において、当時の日本の衛生状態を次のように記しています。ヘボン博士の医療活動が日本人にどれほど感謝されたか理解していただけるはずです。

「ちまたには乞食が多いのに加えて、神が創られた人間の姿を、見るに耐えないほど醜く歪める不潔と、忌まわしい病気とが蔓延していた。日本には病院はなかった。」

医療活動の開始とほぼ同時期に、ヘボン博士夫妻は日本人に対する教育活動を開始しています。ヘボン塾の原形ともいうべきものであり、後の明治学院そしてフェリス女学院に繋がる一粒の麦の種が蒔かれました。1861年6月22日付の書簡には次のように記されています。

「わたしどもは学修者や学者の小クラスを集めております。施療所に興味をもってわたしの助手となる二人の学生が数日のうちに来ます。日本語の教師(ヘボン博士に日本語を教える日本人・・・引用者)とわたしどもの下僕の息子とがクラスを作って、妻が、毎日午後一時間または二時間、英語を教えるのです。二人とも辛抱づよく勤勉な生徒です。」

成仏寺成仏寺

F.ヘボンの横浜における教育と辞書編纂活動

横浜居留地39番に新築された住宅にヘボン博士が移転したのは1862年12月でした。住宅に付設した施療所を利用する教育活動も翌年秋からヘボン夫人の尽力で本格化し、ヘボン塾の名が生まれました。高橋是清(日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣を務め、二・二六事件で反乱軍の凶刃に斃れた)、林董(はやしただす)(駐英公使として日英同盟締結に尽力し、外務大臣、逓信大臣を歴任)、そして益田孝(三井物産の創設者)をはじめとする優れた人材がヘボン塾に学んでいます。特に、林董は後々までヘボン夫妻の学恩を忘れず、自分の履歴書の学歴にヘボン塾出身を明記したと言われています。

アメリカ・オランダ改革教会(Dutch Reformed Church in America)宣教師キダー(Mary Eddy Kidder,1834-1910)が70年にヘボン塾に着任しましたが、72年独自に女子教育をおこなうためにヘボン塾から独立しました。後のフェリス・セミナリー(現フェリス女学院)へと発展します。

聖書の日本語訳のためにも辞書の必要性を認めていたヘボン博士は、医療をおこないながら熱心に日本語研究と語彙の蒐集に取り組みました。1864年11月28日付書簡には次のように記されています。

「この辞書の完成の暁には、日本人ならびに外国人にとっても最大の恩恵となるでしょう。なぜならば、これを望んでいるは外国人ばかりでなく、日本人も等しく求めているからです。わたしは自分の企てたこの大きい事業と、重い責任を考えて自ら戦慄を感じる次第です。けれども、天にいます父の助けにより、これを完成することができるよう望みます。そして、神にのみすべての栄光があらんことを祈ります。」

当時存在していた唯一の英和辞書は、江戸幕府の洋学調所が1862年に発行した『英和対訳袖珍辞書』です。これは英語と日本語の単語それぞれ一個が対置された、いわば単語帳のようなものでした。ヘボン博士は来日8年目の1867年、日本で最初の本格的な和英・英和辞書である『和英語林集成』を出版するに至ります。その後も語彙の増補だけでなく用例等内容の充実に努め、1886年に第三版の出版が伝えられたときには大変な評判となり、予約だけで18000部にも達したと伝えられています。

『和英語林集成』を超える辞書の出現は、1896年に三省堂が発行したブリンクリー・南条・岩崎共編の『和英大辞典』まで待たねばなりません。その29年間、ヘボン博士の辞書は日本社会において揺るぎない地位を占めました。辞書を編纂するときに考案されたヘボン式ローマ字表記法が、100年以上を経過した現在においても、文部科学省の訓令式ローマ字表記法を凌ぐ支配力を持っていると言うことは、ヘボン博士の辞書の日本社会に対する影響の広がりと深さを示すものです。

ヘボン邸ヘボン邸

キダー
キダー

G.バラ夫妻へのヘボン塾の移譲

ヘボン博士は齢を重ねただけでなく、聖書翻訳作業に時間をとられるようになったという事情もあって、1875年に至り学校教育の専門家であり信仰心厚いバラ(John Craig Ballagh,1842-1920)と夫人にヘボン塾を委ねることにしました。ヘボン塾はバラ学校と呼ばれるようになります。さらに、76年には施療所も閉鎖して横浜山手に住まいを移しました。ヘボン博士はバラの教育者としての力量を1882年4月6日付書簡で次のように高く評価しています。

「氏ほど学校の経営をやれる人はありません。しっかりした辛抱強い親切な人で、学校についても、最も深い関心をもっています。バラ氏は生徒らの父となり、友となって、実によく彼らを統御します。もしあなたが日本の青少年のことがおわかりならば、バラ氏のやっていることは相当なものだということもおわかりになりましょう。もののわからぬ人々は、日本の青少年のことを天使だなどというけれども、むしろ無智でなまいきで、我儘で、言うことをきかない連中なのです。」

J.C.バラJ.C.バラ

H.東京一致神学校の設立

米国長老教会、アメリカ・オランダ改革教会、そしてスコットランド一致長老教会(United Presbyterian Church of Scotland)の三つのミッションは、1877年協力して東京築地に《東京一致神学校》を設立しました。このとき、例えば、アメリカ・オランダ改革教会のブラウン(Samuel Robbins Brown,1810-1880)が横浜山手に開いていたブラウン塾(その跡地に現在の横浜共立学園があります)をはじめ、各ミッションの宣教師が主宰する神学塾は東京一致神学校に合流しました。この東京一致神学校は後に明治学院の設立に参加することになります。

S.R.ブラウンS.R.ブラウン

I.ヘボン塾の後身である東京一致英和学校および英和予備校

バラ学校と呼ばれたヘボン塾は1880年に東京築地に移り、カレッジ・コースを整えて築地大学校と改称されました。この築地大学校は、神学校教育の予備教育をおこなっていた横浜山手の先志学校を1883年に合併して《東京一致英和学校》と改称されます。ヘボン塾の後身であるこの東京一致英和学校は4年制の大学と2年制の予備科から成り、大学の授業はすべて英語でおこなわれました。その後、予備科は東京神田淡路町に移されて《英和予備校》となりました。この東京一致英和学校と英和予備校も明治学院の設立に参加することになります。

J.明治学院の創立と白金キャンパスの開設

宣教師ブラウンの神学教育に発する《東京一致神学校》、そして、いずれもヘボン塾の後身である《東京一致英和学校》と《英和予備校》という三つの教育機関の合同によって1886年に《明治学院》が設立されました。1886年に開催された最初の理事員会は明治学院創立案を制定しました。東京一致神学校は明治学院邦語神学部、東京一致英和学校は明治学院普通部本科、英和予備校は明治学院普通部予科と改称され、校地は現在の明治学院大学がある白金に定められ、翌87年に校舎と寄宿舎が竣工しています。

校舎はサンダム館と呼ばれました。一方、寄宿舎は当時東京随一と言われた木造大建築として威容を誇り、ヘボン館と呼ばれて白金の丘に聳え立ちました。『明治学院五十年史』(1927年)はこの2棟の建物について次のように記しています。

「サンダム館はその後殊に二階の講堂の大きな洋燈の下で毎週一回金曜の夜に行はれた文学会によつて、可成り深く在学生の印象に残つたし、ヘボン館の方はその五階の櫓が非常によい眺望を占めて居た事、西には武蔵野から秩父の山々の彼方に富士を見渡し、東には品川湾の海水の彼方に房総の山々を眺んで、広やかな眺望を占めて居た事、及び有志の人々が其処で朝な朝な早天祈祷会をした事、又澤山の窓から静かな夜の校庭に懐しい燈の光を放つて居た事などによつて、矢張り在舎生の脳裡に深く刻まれてゐた」

サンダム館サンダム館

ヘボン館ヘボン館

K. 明治学院第一回卒業式

1891年6月に明治学院の第一回卒業式がとりおこなわれました。第一回卒業生は、島崎藤村、馬場狐蝶、戸川秋骨など20名でした(馬場と戸川は後にいずれも慶應義塾教授)。そのときの様子を、島崎藤村は自伝的小説『桜の実の熟する時』において、次のように記しています(文中の「捨吉」は島崎藤村)。

「学校の先生方は一同をチャペルに集めて、これから社会へ出て行かうとする青年等のために、前途の祝福を祈つて呉れた。聖書の朗読があり、賛美歌の合唱があり、別離(わかれ)の祈祷があつた。受持々々の学科の下(もと)に、先生方が各自(めいめい)署名して、花のやうな大きな学校の判を押したのが卒業の証書であつた。やがて一同は校堂(こうどう)から出て、その横手にある草地の一角につど集つた。皆で寄って集(たか)つてそこに新しい記念樹を植ゑた。樹の下には一つの石を建てた。最後に、捨吉は菅や足立と一緒にその石に刻んだ文字の前へ行つて立つた。
『明治二十四年 ― 卒業生』」

この時の卒業生であった馬場狐蝶の卒業証書が遺族から寄贈されて明治学院資料館に保存されています。卒業証書左側の署名< President of Board of Directors J.C.Hepburn >は初代総理ヘボン博士のものです。右欄にはバラ、ワイコフ等々の教授のサインと担当科目が記されています。左下には藤村がいうところの「花のような大きな学校の判」(「普通学部の章」)が押されています。明治学院大学の卒業式は110年以上を経た今でもこのような雰囲気を受け継いでいます。

卒業写真卒業写真

島崎藤村島崎藤村

馬場狐蝶の卒業証書馬場狐蝶の卒業証書

L.ヘボン博士の帰国とヘボン博士の生涯を貫く信念"Do for Others"

日本に33年間滞在した後、1892年の秋、ヘボン博士はアメリカに帰国しようとしていました。白金の明治学院で開催された送別会で、別れを惜しむ人々に、次のように語りかけています。

「私は誠に此(この)三十三年間、此(この)国に駐(とど)まって、日本の人を助ける力を尽しましたることを神に感謝します、嗚呼(ああ)私は本国に帰ります、私の仕事は終りました、本国に少しの間休みまして天にある親たちの国へ参ります。」

老いて日本を離れようとしているヘボン博士の胸には万感迫るものがあったはずです。ヘボン博士は、次のようにも言っています。

「余等夫婦の残年僅少(わず)かなるべしといへども永く日本を忘るること無かるべし。」

1906年3月4日クララは88歳でこの世を去り、ヘボン博士はその5年後の1911年9月96歳の生涯をニュージャージー州イーストオレンジにおいて終えました。私達は、日本人と明治学院を、今でも清澄な眼差しで見守り続けてくれているであろうヘボン博士の生涯に思いを馳せます。「此三十三年間、此国に駐まって、日本の人を助ける力を尽し」たヘボン博士の生涯を貫く信念は"Do for Others"に他なりません。

ヘボン塾に学んだ頃、とりわけクララ夫人から可愛がられ、駐英公使として日英同盟締結に尽力し外務大臣にも就いた林董(はやしただす)は、ヘボン博士を次のように回想しています。

「その生涯は信念に基づく行為に、絶えず迷うことなく専心没頭することを彼に要求し続けた。博士は私の国に福音を宣べ伝えるために生涯の最良の時代を惜しみなく費やされた。博士が与えられた義務を全うするために献身された様は、世界の多くの公人の業績がその行為の故に人類の賞賛を集めたような華々しさではなかったにせよ、その生涯は高潔で、尊ばれるべきであった点では、彼らに優るとも劣りはしない。」

ヘボン博士(94歳)ヘボン博士(94歳)

林董林董

M. ヘボン博士の生涯を貫く信念と現在の明治学院大学

明治学院大学はヘボン博士の教育機関です。明治学院大学は、創設者ヘボン博士の生涯を貫く信念である"Do for Others"を、教育の理念として今に受け継いでいます。この理念は明治学院大学の歴史と現在に脈々として息づいています。

大学の基本的な機能は「研究」と「研究成果の教授」すなわち「教育」にありますが、明治学院大学では、「研究成果を運用する人間の人格を問う教育」という機能があると考えています。より具体的には、「"Do for Others"という教育理念を尊重するキリスト教の立場からの人格教育」ということになります。

例えば、学生と教員の個人的接触の過程で「その人格教育」がなされる場合もあるかもしれません。あるいは、クラブ活動の過程で実現する場合もあるかもしれません。しかし、それらは偶然偶々(たまたま)であって、システム化されたものではありません。キリスト教主義教育を標榜する以上、教育システムとしての体裁と内実を備えていなければなりません。その教育システムは、ボランティアセンターであり、国際センターであり、そしてキャリアセンターであると考えています。

ボランティアセンターは、阪神淡路大震災のときに自然発生的に生まれた学生のボランティア活動を契機として、1998年に大学の組織の一部として設置されました。"Do for Others"という教育理念を長きにわたって培ってきたキャンパスに生まれるべくして生まれました。大学組織内に取り込まれているにもかかわらず、専任コーディネーターと学生スタッフが、主体性と自主性を尊重されて活動しています。

ボランティアセンターは常に用意されている1500件を超えるボランティア情報で学生をサポートするだけでなく、横浜市国際交流協会の国連機関インターンシップ、あるいは、本学独自の海外ボランティアなど多彩なプログラムを学生に提供しています。明治学院大学ボランティアセンターは、先進性と独自性の点で全国の大学のボランティア活動に対して指導的な立場にありますが、それを十分に自覚して一層の拡充に努めようとしています。

国際センターは、本学の学生293名を海外の大学に留学生として派遣し、109名の留学生を海外から受け入れています(2014年度実績)。国際センターは、明治学院大学で学ぶ留学生と日本人学生との交流を促し、お互いに理解を深め成長を促しあえるような、"Do for Others"という教育理念を実現する教育システムとしての完成度を高めようとしています。そのためにも、今後なお一層送り出しと受け入れ体制の充実が必要であると自覚しています。

キャリアセンターは自らを、学生に対する就職情報と就職技術の提供という機能に特化することなく、さらに一歩踏み込んで、"Do for Others"という教育理念を実現する人格教育の場としても位置づけています。キャリアセンターの職員は、人間として社会に貢献することの意義を学生と共に考えながら学生をサポートすると同時に、その過程で、学生本人が気づかないような潜在能力を引き出すことができるように日頃より研鑽を重ねています。

白金校舎 本館白金校舎 本館

横浜校舎 チャペル横浜校舎 チャペル

パレットゾーン白金
パレットゾーン白金

《参考文献》

  • 『明治学院五十年史』1927年、明治学院。
  • 『明治学院九十年史』1967年、明治学院。
  • 『明治学院百年史』1977年、明治学院。
  • 『明治学院百年史資料集(第3集)』1976年、明治学院百年史委員会。
  • 島崎藤村『桜の実の熟する時』1919年1月1日発行、春陽堂。
  • 高谷道男『ドクトル・ヘボン』1954年、牧野書店。
  • 高谷道男編訳『ヘボン書簡集』1959年、岩波書店。
  • 高谷道男『ヘボン』(人物叢書61)1961年、吉川弘文館。
  • 高谷道男編訳『ヘボンの手紙(増補版)』1978年、有隣堂。
  • 望月洋子『ヘボンの生涯と日本語』1987年、新潮社。
  • W.E.グリフィス著、佐々木晃訳『ヘボン―同時代人の見た―』1991年、教文館。
  • 明治学院人物列伝研究会『明治学院人物列伝』1998年、新教出版社。
  • 中島耕二・辻直人・大西晴樹『長老・改革教会来日宣教師事典』2003年、新教出版社。
  • 原豊『ヘボン塾につらなる人々』2003年、自費出版。
  • 村上文昭『ヘボン物語』2003年、教文館。
  • 小田泰子『医師ヘボンとその時代』2004年8月、丸善仙台出版サービスセンター。