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あの日の私

B-レポート

「Be Radical, Kumi!」

今思い返しても、この言葉は、私にとって事件だった。カリフォルニア大学大学院アメリカ先住民研究科へ進学した一年目。最初のレポートの表紙に青インクで書かれた指導教授イネスからの唯一のコメント。ちなみにレポートの成績は「Bマイナス」。「出直してきなさい」とのメッセージだ。二次文献を批判的に検証し、現地調査もふまえた「抜け目ない」レポートであった思う。それに対し、日本人院生の英語や分析内容へのダメ出しなどではなく、「ラディカルになりなさい」って意味不明。寝不足の頭を、「やはり大学院なんて来るんじゃなかった」との猛烈な後悔がよぎった。

イネス・ヘルナンデス・アヴィラ教授。ワシントン州のコルビル・インディアン保留地で産まれ育ち、英文学で博士号を取得した後、長く先住民研究を牽引してきた。先住民の思想的伝統を教える優れた教育者でもある。

1960年代以降、合衆国での黒人による権利運動はマイノリティの公民権運動へと拡大した。多文化社会アメリカへの第一歩をこの時期に見出すこともできるであろう。しかし、その一歩はまた、大学や学問分野の再編につながったことはあまり知られていない。マイノリティたちは、それまでの学問がマジョリティ(白人男性)によって支配されてきたと批判の声を上げ、主要大学で、次々にアフリカ系アメリカ人研究、アジア系アメリカ人研究、アメリカ先住民研究、そして女性研究の学部、研究科を誕生させた。もちろん、そこでは、自身もマイノリティである教員や学生たちが多くを占めた。これをもって、大学は多文化主義の実験拠点であり、「デモ行進」を「ペンと紙」に替えた闘いの場となったのだ。イネスはその第一世代の先住民研究者。そして私は、そんな新しい学問の迷宮に入り込んだ最初の日本人であった。

話を私の「Bマイナス」レポートに戻そう。私は「声を持たない人々の歴史を書きたい」と、先住民教員率が最も高い同大学院へ進学した。イネスのゼミは、その始まりから政治的で、攻撃的で、感情的だった。いや応なく自分自身のアイデンティティについても考えさせられた。「日本人」、「アメリカ人」などではない。私が彼(女)らの「闘い」に「自分のこと」として共感できるか否かである。当時の私に闘う心構えなどなかったし、どんなに想像力を働かせても、インディアンの苦闘を「自分のこと」として感じることなどできなかった。土地を奪われた歴史を引き継ぐ彼らと、それをただ学ぼうとする自分との間に、越えられない壁があることは明白だった。ひどく悔しかったが、私は「colonizer(侵略者)」側の人間ではないかと知らされた。イネスは「Be Radical」という起爆剤の一言を投げかけて、私に壁を越え、主体的に闘う感情を教えたかったのだろう。

大学に職を得た今でも、ことあるごとに手に取り、すでに色あせた青インクを見つめる。「Be Radical」事件から、「闘う学問とは何か」、「そもそも大学とは何か」を考えるはめになった。もちろん、まだまだ答えなどでるはずがない。楽しいが、とても苦しい日々である。

先日、ゼミ生の一人から「どの授業を受けてもすっきりとした答えにたどり着かない。次々と新しい疑問が出て、時にそれが怒りとなる」という悩みを打ち明けられた。あの頃の私を見ているようで、「多分、それでいいと思う」と答えた。「先生、悩みを打ち明けたのに、顔がにやけていて不謹慎だ」と叱られた。

国際学部准教授 野口久美子


2006年、カリフォルニア大学デービス校のカフェテリアで。


現在の先生。

白金通信2018年12月号(No.497) 掲載

 

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