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コラム

現代を斬る | 複製技術時代の芸術が教えてくれること

最近気になる社会の動きの一つに、選挙権年齢を一八歳に引き下げる公職選挙法の改正に伴い、学校教育における「政治的中立」を確保させるよう求める文部科学省や、高市早苗総務相の「放送法違反による電波停止命令を是認する発言」など、教育や報道に対する国家による統制を強める現政権の志向がある。

こうした問題は、政治とはもっとも遠いと一般的に考えられている「芸術」の教育現場ではまったく無縁であると思われているかもしれない。だが、芸術の歴史から見えてくるのは、それが偉大な芸術家の記録である以上に、個人と国家や体制という制度的権力との闘いや折衝をめぐる場でもあったことである。それは「表現の自由」といった戦後民主主義的な概念が成立する以前から、常に芸術という概念そのものに関わる根幹的な問題であった。

国家イデオロギー装置と映画

とりわけ、一九世紀末に誕生し、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンが「複製技術時代の芸術」と名付け、写真と並んで二〇世紀を代表する芸術となった映画は、国家イデオロギーの伝達手段としてもっとも有効な装置だと考えられた。

ナチスが映画を最強のプロパガンダ装置と位置づけたことはよく知られている。娯楽産業の最大の生産地であるハリウッドも戦時下には、古典メロドラマの名作として知られる『カサブランカ』で第二次世界大戦へのアメリカ参戦の必要性を説き、多くの戦意高揚映画のミュージカルを作った。映画研究が教えてくれるのは、大衆娯楽が常に社会や政治的無意識と深く関わり、感動はしばしばイデオロギーのもっとも有効な媚薬であったことだ。

ヴィジュアル・リテラシーの重要さ

私たちを取り巻くさまざまなイメージや映像は、単なる現実の反映や事物の再現ではない。実はそれらの背後にある「ものの見方」によって生み出された「表象」である。

フェイスブックやユーチューブなどのソーシャル・メディア・ネットワークが席巻し、かつてないほどに芸術と表象文化の境界が曖昧になっている今こそ、現代文化や社会をよりよく理解するために、このような視覚文化(ヴィジュアル・カルチャー。付随する音楽要素も含め)を読む能力、つまり、ヴィジュアル・リテラシーはもっとも学生たちに求められている能力の一つではないか。

例えば、最近のヒット作『永遠の0』の中で、いかに伝統的な家族像が繰り返し現れ、家族や国家の犠牲となった尊い命というメッセージが古典的ヒーローを再生産しているか。一方、戦後のイタリアで作られたネオリアリズムと呼ばれる映画群は、ファシズムが好んだヒーローを否定することから始まった。『永遠の0』と一九五四年に公開された黒澤明の『七人の侍』を比べてみよう。一見では、ともにヒーローを描いているように見えるが、感動のプロパガンダと、芸術がもたらす陶酔と覚醒との違いは明白である。

ヴィジュアル・リテラシーを身に着けることは、「政治的中立」や「公平性」に隠れたメッセージを理解し、芸術の真の破壊力を知る第一歩なのである。

白金通信2016年7月号(No.485) 掲載

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斉藤綾子 Ayako Saito

明治学院大学文学部教授。
専門は映画理論、特に精神分析理論、フェミニズム理論、ハリウッド映画論、女性映画論など。
芸術学科では映像芸術学演習、映像理論演習、卒論ゼミナールなどを担当。