佐々木 邦
Kuni Sasaki 佐々木 邦 1883 - 1964
日本の「ユーモア小説」の開拓者といわれる佐々木邦。
単なる風刺や滑稽を越えた温かで軽妙な味わいの小説は大正・昭和を通じて長く人々に愛されました。
明治学院に学び、また教員として明治学院と共に過ごした四半世紀の日々。
それは作家佐々木邦の、原点をかたちづくったものでした。

明治学院との出会いが生んだ「ユーモア小説」作家

『トム・ソウヤーの冒険』の翻訳者

佐々木邦は、1883(明治16)年に現在の静岡県の沼津市で生まれた小説家・翻訳家です。明治学院高等学部に学び、その後、明治学院高等学部の英語の教官を勤め、戦後は明治学院大学教授として、長く英文学を教えました。米国の作家、マーク・トウェインの『ハックルベリー物語』や『トム・ソウヤーの冒険』の翻訳者としても、その名前は知られています。これらの翻訳は佐々木邦が三十歳代から四十歳代にかけてのものですが、その後は自らも小説を書き、「愚弟賢兄」「ガラマサどん」をはじめとする多くの作品は、それまでの日本の文学になかった「ユーモア小説」として大人気を博し、舞台化されたものも少なくありません。佐々木は、大正から昭和初期にかけての日本の大人気作家でした。

「家庭風景ユーモア小説」を開拓

『新潮日本文学辞典』で「佐々木邦」の項を執筆した評論家の鶴見俊輔氏も、「明治・大正の皮肉を交えた滑稽文学」を脱して「日本の大衆文学における家庭風景ユーモア小説」を開拓した人間として、その業績を高く評価しています。実際、佐々木邦のどの小説でも、登場する家族やそれを取り巻く人々のやさしさが軽妙な会話の中から浮かび上がり、読む者を爽やかな空気で包みます。後に、やはり「ユーモア小説」の書き手として高い評価を得る源氏鶏太も、佐々木邦の小説の読みやすさや軽妙な文章の味わい、その対話のうまさを褒め、その根拠に、この作家の物を見る眼の温かさのあることを指摘したといわれます。そして、この佐々木邦の独自の小説世界をつくったまなざしの温かさこそ、明治学院での恩師や同僚教師との出会いを通じて育まれたものでした。

明治学院との出会いが生んだ小説家

佐々木邦の明治学院との出会いは、1903年、佐々木が二十歳のときにさかのぼります。この年佐々木邦は、東京の青山学院を経て、明治学院高等学部2年に編入学しました。2年後に卒業した佐々木は、そのまま研究生として在籍。アメリカ人に日本語を教えるかたわら、その交換に英語を学び、間もなく、水戸市フレンド教会附属英語学校教師として赴任します。その後は、1919年4月から7年間、明治学院高等学部で英語講師を務め、平行して作家活動に励んだ後、戦後の1949年に明治学院大学教授(英文学)に就任します。退官する1962年まで、佐々木は13年間にわたって教鞭を執りました。生徒として、また、講師・教授として佐々木邦の明治学院での生活は長きにわたりますが、明治学院との出会いは、この作家に大きな影響を残しました。佐々木は1949年に発表した『心の歴史』という自伝的な小説で、自分と同じ年格好の主人公「丸尾善三郎」が「白金学院」に編入で中途入学するときのエピソードを、こう書いています。

「五十年前のことをこうして詳しく書き立てるのは、その折りの感銘が深かったからである。郷里の中学校は教え子の私を一朝の出来心のために投げ捨てて顧みなかったが、白金学院の院長は初対面の私を無条件で拾い上げてくれたのだった。放校と承知していながら、その理由を絶えて訊かなかった。私が告白しようとしたら、『宜しい、宜しい』と言って遮ったのである。何という深い思いやりだろう。私の最も苦にしていた努力を省いてくれたのである。後悔は十分している。それで事が足りている。今更痛いところへ触る必要はないと考えてくれたのだろう……私の今日あるは白金学院のおかげだと思っている。母校は懐かしい。一足飛びに卒業してしまうには忍びない」(みすず書房『佐々木邦 心の歴史』外山滋比古編)。

「人生愚挙多し」。しかし……

おそらくこの「院長」は、明治学院二代目総理、井深梶之助です。その許可を得て中途編入した明治学院高等部で学んだ2年間。その後の、研究生として在籍した1年弱の期間、ミッションスクールならではの寄宿舎の生活を「常に感謝と喜悦をもって思い出す」と主人公の「丸尾」をして言わしめた佐々木邦の明治学院時代は、間近に接した院長や外国人教師から、そして聖書の教えから多くのことを学んだ豊かな時間でした。その後、母校明治学院で長く英語の講師を務めながら次々と発表した「ユーモア小説」の温かな世界は、まさにその中で育まれました。もしも佐々木邦が明治学院と出会わなかったら、その独特の小説世界は築かれなかったに違いありません。
小説の形だけでなく、自ら明治学院の思い出を綴ったエッセイでも佐々木は「私は明治学院に学んだことを誇りとしている」と振り返っています。そして、ある講演会に招かれた帰途、たまたま車が明治学院の傍らの道を通りかかった折に「何ともいえず懐かしくなって……帽子を脱いで頭を下げながら通り過ぎた」というエピソードを自ら紹介しています。

「人生愚挙多し」とは佐々木が好んで用いた言葉です。しかし佐々木はそれを、諦めや皮肉、嘲笑をもって語ったのではありません。そこには愚挙を犯してしまう人間への深い理解と愛があり、それでも、それぞれの未来に向かって歩いていこうという励ましがありました。
1962年、明治学院大学教授の職を辞した佐々木は、翌1963年には日本聖公会東京聖三一教会で洗礼を受けました。80歳でした。それはあたかも、目前に近づいてきた最後の旅に向けた準備だったようにみえます。翌年の1964年9月22日、佐々木邦は、そのすべての仕事を終えて神に召されました。

[参考図書・資料 ]
『新潮日本文学辞典』(新潮社)、『佐々木邦 心の歴史』(外山滋比古編、みすず書房)、『評伝 佐々木邦』(小坂井澄著、テーミス)、『明治学院生活 佐々木邦編』(現代思潮社)