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1999年度エッセイ

親子関係について(1)

新入生の皆さんご入学おめでとうございます。この「カウンセリングルーム」は学生相談センターのスタッフがこころに関することをテーマにお話しするコラムです。さて今年度はまず数回にわたって「親子」をテーマにお話ししたいと思います。白金通信の読者にはご父兄の方々も多くいらっしゃるので、親子でいっしょにお互いの関係について考えるきっかけにしていただければと思います。
言うまでもないことですが親子というのは父親と母親と子どもの三者関係から成り立っています。この三者関係の幸せな形というのは、父親と母親が愛し合っていて、その愛情の帰結として子どもが生まれ、その子どもも両親から愛されているというものでしょう。
ところが最近感じるのは、この三者の結びつきが愛情によって形づくられているという実感がもてないでいる子どもが増えているのではないかということです。そしてその原因として、子どもにとってそもそも三者関係の源である父親と母親のカップルが何を根拠に結びついているのかが、理屈ではなくて実感として、ピンとこないということがあるように思います。子どもにとってパパとママの関係は当人達が考えているほど自明なものではないのです。ママがいくら子どもに愛情を注いでも、パパがいくら一生懸命働いても、自分という存在がパパとママとが愛し合うことによって紡ぎ出されてきたという感覚をもてなければ、子どもは自分の存在の基点を見失ってしまうことになるでしょう。
そのような子どもにとってこの世の中はどのように映るのでしょうか。おそらく彼らにとって世の中の人々の結びつきは、父親と母親の結びつきと同様に、何か不可解でわけのわからないものとして感じられるでしょう。そしてその次に来るのは「世の中(夫婦)なんてしょせんお金がとりもつ契約関係さ」という考え方です。リストラや失業の問題がしきりに取り沙汰されているこのご時世では、子どもにとってはこちらの方がよほど実感をもって感じられるようです。彼らには人々が情緒的な交流をもつことによって何かよいもの(子どもはその最たるものなわけですが)が生み出されるということが想像できなくなってしまうわけです。
(白金通信1999年4月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



僕が旅に出る時

親子関係について(2)
小さかった頃、僕は世界を「お父さんとお母さん」というフィルターを通してみてたから、親のいうことは、無条件に正しくて間違いのないものだと思ってた。だから僕自身が少しずつ知識や知恵を身につけて、親の弱さや脆さみたいなものを垣間みることがあると、僕の住む世界が絶対のものではなく、どんなに危ういものなのかを実感することになったから、急に拠り所を失った気がして、今まで見たことや聞いたこと全部が色褪せて嘘に思えて、何を信じればいいのかわからなくなったりした。戸惑って、でもそれをどこにどうぶつけていいのかよくわからなくて親に「なんとかしてよ」ってどうにもならない僕を押し付ける一方で「どうせできないんでしょ」と勝手に絶望したりもした。出口なんて本当にあるのかと思うくらいの真っ暗な闇に今いる場所さえわからなくて、何とか進もうとするたびにぶつかった。正しいのに、と思うことに限ってうまくいかなくて苛立ちだけが残った。友達と何度も夜遅くまで話し込んで、冗談めかしていたけど一体僕の存在は何なのか、どこに行こうとしているのかわからず不安で仕方なかった。親が教えてくれるのは「常識は」「普通は」という安全なレール上の生き方で、そうすれば平和に過ごせるのだろうってことはなんとなくわかったけど、鵜呑みにできなくなってた僕は、「だめ」と言われることが本当にだめなのか、じかに触れて自分の意志で決めたい気持ちで一杯になっていた。
正直今まで親と一緒に歩いてきたところを、一人で歩くことは不安で孤独で、したことの責任が全部のしかかって重くて、何度も振り返って戻りたくなったけど引返せなかったし、今まで味わったことのない喜びや面白味があることもわかった。それは世界が他の誰でもない僕自身のつけた色で見えてきたってこと!
一人で歩き始めたからわかってきたこともあるよ。悲しいくらい頭で考えた通りに世界は動いてくれなくて、白と黒―そんな単純さだけではどうしてもやっていけない現実に、時に目をそむけたくなりながらもその中で自分の出した結果に責任を持たなきゃいけない。矛盾だらけの世界を受け入れることは僕にはすごく苦しい作業でいつも立ち止まってしまう。こんなことを考え始めてから親が、小さかった頃とは違う意味で大きな存在に見えてきたよ。親も沢山の矛盾とかあきらめを感じながらも、懸命に自分の道をつくってその責任抱えてきたのかなって。
僕はまだまだ旅の途中。きっと周りから見たら危なっかしくて見ちゃいられない存在。暖かく見守って、なんて甘えた気持ちがあるんだけど、それでも何か言いたくなったら言って。素直になれるかわからないからぶつかっちゃうかもしれないけど、心の中では一生懸命考えてるから。照れくさいからそんな風には見せないけどね。そして僕は旅を続けるよ。僕の世界を作っていくために、つまづきながらも僕の足で一歩ずつ。
(白金通信1999年5月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



父なるものとの出会い

親子関係について(3)
SFアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」がブームになったが、そのヒットの要因として、外傷体験を抱えている登場人物が、現代の若者の共感を生んだことがあげられるだろう。
主人公碇シンジは幼い頃母を亡くし、姉がわりの葛城ミサトに見守られ、支配的な父親との対決の中で、人に嫌われるのを恐れながらも成長していく。こうした人物配置は「巨人の星」とほぼ同じである。主人公星飛雄馬は、スパルタ親父の星一徹の猛特訓のもと巨人に入団し活躍するが、一徹は中日のコーチとなって息子と対決するのである。普通の感覚であれば自分の希望通り息子がなれば、後は満足して応援でもしそうなものだが、星一徹がそうしないのは、ライヴァルとの対決というテーマが心の成長にとって欠かせないという少年マンガの基本を示していると言っていい。 ところがエヴァンゲリオンでは、物語の途中までは、シンジの父親への反抗が描かれているが、いつのまにか父子の対決という問題はたちきえになって終わってしまう。しかもゲンドウの最終目的は妻ユイの再生であったことも明らかになる。
星一徹から碇ゲンドウへの父親象の変化は明らかだ。一徹は最後まで大人として飛雄馬に対決を求めたのに対して、ゲンドウは最後までシンジに向かい合うことはなく、自分の中にある妻のイメージを追い求めている。実はこれはシンジが亡き母を求める気持ちと相似形になっている。
これはかつては尊敬され、一家の中心であった父親が目指したものは理想的な使命ではなく、結局は子どもと同じであったという作者の幻滅ともとれる。
実際の父親が権威の陰で、援助交際を行ったり、リストラされたり実像が明らかになってしまったため、オヤジとカタカナがきされ、尊敬から軽蔑の対象へと変化したことと関連しているように思える。
一昔前だったら、子どもたちは頑固親父と対決し、乗り越えることで一人前と認められるようになった。しかし、「父なるもの」が不在がちな現在、いかにして大人に、一人前になっていくかというのは、学生達だけではなく、自分にとっても大切な問題である。
自己主張をするということはリスクをおかすことでもある。シンジと同じように人に嫌われるのが恐くて、言いたいことをいえないという人も多いのではないか。だが一方で、手応えのない優しい人間関係に満たされない思いを感じている人も多いような気がする。
相手のことが気になることは、うまく育てれば適切な気遣いとなるけれど、時には厳しいことをいうのが相手のためになることもあるのである。しかしそのためにはきちんと受け止めてもらうという体験が重要になってくる。カウンセラーというと受容というイメージがあり、それは非常に大切なことではあるけれど、一方で手応えのある存在であること、きちんと安心してぶつかりあえる存在であることを大事にしたいと思っている。
(白金通信1999年6月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



母の気分もコバルトブルー

親子関係について(4)
「私は明学に娘を通わせている母でございます。お陰様で娘も大学に入学し、一人暮らしを始めるようになりました。やれやれと思っておりましたら、どうも娘の様子が変なのです。
もう私心配で心配で。子どもの頃は何でも話してくれて手の掛からないよい子でしたのに。どうしてこんなに変わってしまったのかしら。私の思い通りにはいかないものでございます。
ついに昨日、しつこく聞き出したんですけど、そしたら一言「大学がつまらない」。
七月は前期試験があると聞きますのに授業にも出席しておらず、それどころではないようです。私、一体どのようにすればよろしいのか、途方にくれております。
そんなブルーな毎日を送っておりましたある日、白金通信六月号で「学生相談センター」の存在を知りました。どのような場所なのでしょうか。
深刻な問題を持ち込む所ではないでしょうか。第一、親が相談に行っていい場所なのかもわかりません。
だからといってこのままの状態で、問題がさらに深刻になってしまったらどうしましょう。とても勇気がいるけどセンターにいってみようかしら。
というわけで、わたくしは学生相談センターのある横浜校舎二号館一階に来てしまいましたわ。
薄暗い通路の奥が目指す学生相談センター。わかりにくい場所にあるから迷ってしまいました。ちょっと重い紫の扉をあけたら鈴が「チリンチリン」。
最初に相談申し込みカードを書くように言われましたけれど、まだまだ私のなかでは気持ちの整理がついておりません。とりあえず「母の気分もコバルトブルー」と書きました。このような経験は初めてなもので、何を聞かれるか胸の鼓動が高まって参りましたが、そろそろ失礼して面接に入りたいと思います。」
学生相談センターは、学生だけでなくその家族へのコンサルテーションも行ってます。高校生までの生活とは異なり、大学生活は自分で選択することが多くなり、サークル活動、アルバイトなど行動範囲が広がります。と同時に学生にとっては、新たな問題と直面することでもあるようです。
また親にとっては、特に一人暮らしなどを始めると様子がわかりにくく、心配の種が尽きないのではないでしょうか。
しかし、遠くに住んでいる家族にとって、大学まで相談に来るのはなかなか大変です。その場合は、電話による相談も可能です。できる限り、学生生活のサポートができればいいなと思います。 最後に、学生の皆さんへ。学生相談センターでは、興味のある方を対象に心理テストと箱庭を実施しています。また毎週火曜日お昼時間にアクティヴィティ・ルームを開放しています。静かに過ごしたい方、お昼を一緒に過ごしませんか?
四月からはホームページを開設しました。ぜひご覧ください。
(白金通信1999年7月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



向き合う勇気を

親子関係について(5)
「お母さんは、私にお母さんの価値観を押しつける」、「お父さんは、僕を一人の人格として認めてくれない」、「お母さんは私より妹のほうをかわいがっているみたい」など、親との関係で引っかかっている方はけっこう多いのではないでしょうか。
「でも大学生にもなってこんなことで悩んでいるのはおかしいのではないだろうか」とか「もう大人なんだから今さら言うことでもないだろう」とか問題と向き合うことに躊躇している方もまたいるのではないでしょうか。
夏休みに入り、帰省される方また自宅の方も普段より家族と接する時間が増えると、家族との関係の中で何らかの感情をかき立てられることがあるのではないかと思います。 このような問題は、他の対人関係でのつきあいにくさなどとして影響を及ぼすこともあります。職業を選択するときに親の価値観とのぶつかりとして表面化したりする事もあるでしょう。高校までと違って、自由に友人関係を結べる大学にあっては、逆にそれがとまどいや緊張感としてのしかかり、長年、親と子の間でつくられてきた行動パターンや性格が災いしているということもあるでしょう。決して大学生にもなって悩むのがおかしいということではなく、むしろこの年代だからこそ気になるのかもしれません。
子どもの頃は、親の言う通りするしかなかったでしょう。何か違うと思っても何が違うかわからないし、それを伝えるすべも知らなかったのです。けれども大きくなるにつれ、自分の考え方や人格もできあがってきます。そうすると、親のイヤなところ、受け入れがたいところも見えるようになってくると思います。しかし、一方では、大学生といっても親に甘えたい、頼りたい気持ちも残っています。独立したい気持ちや心配かけたくない気持ちなども入り混じって、葛藤となります。家族以外の人なら割り切れることも、それだけ深く、複雑で整理しにくくなります。
自分のことをわかってほしいと思う気持ちは、知らず知らずのうちに多くのことを親に望み、親を変えようと働きかけ、かなえられずまた傷ついてしまいます。親なのだから当然だろうという無意識の期待も意外と裏切られることがあります。けれども、自分も認めてほしいように、親も親心をわかってほしいということもあります。親ならではという思いもあるでしょう。親は生まれたときからのあなたを見てきたわけですから。
親を変えようとあれこれ考えたり、抵抗することは余計なストレスを抱え込むことになりかねません。合わない部分を無理に合わせることを考えるより、置いておけるようになるといいのではないでしょうか。そのような心の作業には、長い時間かかりますが、その間に親も年を取るし、自分たちも成長していくわけですから、関係はわずかずつでも変化していくと思います。
(白金通信1999年8月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



答えの出ない問いに

相談するってどういうこと(1)
この頃ちょっと気に入っているのが、いもとようこの絵本「ともだち」です。
ある日、仲の良い三人の男が海釣りに行って嵐に遭い、流されて氷山にたどり着きます。三人が「こわくてさむくてふるえて」いると、一人に一つ願いをかなえてあげようという紙の入った瓶が流れてきます。最初に赤い帽子の男が「あったかいだんろ」を望むと、途端に氷山から消えてしまいます。次に青い帽子の男が「あったかいスープ」を望んで消えます。一人残された黄色い帽子の男はなかなか願い事を決められません。「何にしようかな ああ こんな時 二人がいてくれたらいいのにな」と呟きます。たちまち二人が現れます。そして「三人はそろってもとの・・・氷山の上」というストーリーなのです。ほんわりとやわらかな挿絵は、怒るでもなく並んで淡々と魚を釣る三人の姿で終わります。
一見笑ってしまうようなストーリーでしょう?でも笑えないのです。何ともいえない後味が残ります。内容自体にも、心温まるもの(スープや暖炉以上の温かさ)を感じますが、私はこの結末の収まりのつかなさの方にも魅かれるのです。
私が幼い頃に接した童話や絵本では、たいてい奇想天外な展開はあっても最後にはうまく収まるところに収まってきました。そう、主人公は努力の末に一つの正解を得て、安心するのです。ところがこの絵本ではそうはいきません。はじめは私もそれが居心地の悪いものでした。氷上でゆったりと釣りをする男たちの顔を見比べては、この三人に起こるであろうドラマを想像したり、本を閉じても心は氷上をさまよいます。しましこうしてさまよっているうちに、いつしか魅かれるようになったのです。妙なリアリティが感じられました。解決のつかない課題を抱えたままゆったりと構えるこの三人の顔に・・・・。
現実はまさにこうですよね。子どもの頃は、問いには全て一つの正解が用意されていました。それを信じていれば良かったのに。思春期といわれる時期が終わって、ふと気がついた頃から、しばしば答えの出ない問いにぶつかってきたような。どうしていいかわからないながら、とにかく割り切ろうと焦ったり、器用になろうと誰かを真似たり、変わろうとする自分に嫌気がさしたり、妥協する大人を批判したり怒ってみたり。
学生相談でもしばしばこのような話が出てきます。相談に来たのだから「何としてでも変わらなければ」とか「解決しなければ」という言葉を聞くこともありますし、逆に「かわらなければという期待へのかったるさ」を感じている方も見受けられます。しかし、どうでしょう。変わったり、答えを出すことが目的でしょうか。勿論それも貴重なことです。ただ、すぐに解決がつかない時は、問いを抱えながら氷山の上にたたずむことにも、そういう自分を認めることにも意味があるように思えます。そんな時、私たちが一緒に考えながら糸を垂れる帽子の男になれたらと思います。
(白金通信1999年10月号カウンセリングルームより転載)



扉を開けるとき

相談するってどんなこと(2)
(扉の前で)
学生相談は学生の自主的な来談から開始されます。ところが本学の相談センターをはじめ、相談室の扉は一般には中が見えない堅固な造りになっています。この扉が重く感じられて相談に行きにくいという声があります。それでも勇気を出して扉を開けると、この堅固な扉に守られている空間の意味を感じるようになるでしょう。この扉に守られて、人は自分の心の扉を開いていくのです。 扉が壊れやすい透明度の高いガラス戸だとどうなるでしょうか。ガラス張りのカフェテラスは街の雰囲気をお洒落にしています。開放的な窓には苦悩に顔をゆがめる人も、泣いている人も居眠りをしている人も見かけません。ガラス張りの席には街の歩行者に見られるのを意識して座るからでしょう。この席では周囲を意識して人に見せる自分を演じているとも言えます。
青年期になると自分に内向きと外向きの顔があることに気づき、その調整にひずみが生ずることがあります。自分の持ち物のようであって、大切な自分の心の扉を開けるのはかなり勇気が必要です。日常生活に支障のない範囲を守りながら、真の自分と向き合うことはなかなかむつかしいことです。
(扉を開く)
それでは実際に扉はどうやって開かれるのでしょうか。まず電話で話してみるのはとりかかりやすい方法でしょう。それでも電話をするまでに三年経ったという人がいました。保護者の方は電話での相談から始まることが多く、電話は遠隔地からも利用できる便利さがあります。しかし、話が一方的になりがちなので、学生にはできるだけ来室を勧めています。進路選択の相談で気楽に扉を開ける人もいます。入り口で行ったり来たりしていて、スタッフが出会った時に声をかけたことでようやく決心がついたという人もいます。昨年は、白金通信の特集記事を読んだ保護者に勧められて来室した学生も多くいました。友達に勧められたという人や、友達が付き添って来た人もいます。友達と誘い合って心理テストを受けに来る人もいます。
(扉の中で)
扉を開けた直後は、緊張のために顔の表情が硬かったり、声がかすれる人もあります。それが受付で申し込みカードを記入する頃には、落ち着いた雰囲気になります。扉の内側は想像していたよりも居心地のよい場だったのでしょうか。
自分の相談したいことをあらかじめカードに詳しく記入する人もいます。何から話していいか分からない人もいます。どちらにしても、重い扉を自分で開けたのですから、そこから始めればいいのです。たとえば自分の問題がはっきりしない人で、なんとなく落ち着かないような場合は、問題が見えてくるということが大事な作業になります。
 学生相談は学生の健全な生活が保持できるように援助、育成することを目指しています。カウンセラーは健全な大学生活を支えるサポーターといえるでしょう。
(白金通信1999年11月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



キャンパスにオアシス

相談するってどんなこと(3)
学生生活を過ごす間には、様々な悩みや問題が生じてくるものです。けれども、 その悩みを打ち明けて話せる友達がいないという人が増えています。内容によって は相手を選ばなければならなりませんし、話すと自分の立場が危うくなるかもしれ ないという恐れがあるからでしょう。外見は明るく振る舞っている大学生の中にも 、人知れず苦労している人がいるのは事実です。また、いわゆる「勉強」優先で、 生きた触れ合いがおろそかにされやすい状況にあって、大学生になっても友達を作 れない、何といって話し掛けてよいかわからないという人もいます。それに最近は 、直に会って対話する必要のないインターネットの普及によって、さらにこうした 傾向が助長されているといえましょう。このように対人関係の希薄化しているキャ ンパスの中で、相談センターがいわばオアシスのような役目を果たせたらといいな 、と常々思っています。
相談センターの扉は確かに重いかもしれません。それならば、自分にとって抵抗 のない話題を考えてくださって結構です。単なる情報集めでも、単位の問題でも、 心理テストをしてみたいでもいいのです。面接時間はおよそ50分、この時間は日 頃忙しい大学生にとっては、かなりゆったりと自分に向き合える時間です。落ち着 いてじっくり話しができるように、カウンセラーはできるだけ口を挟まず、来談学 生の話しに耳を傾けます。そうしますと、自然に本当の悩みと思われる問題に焦点 が当たるものです。はっきり自分では掴めていない問題でも、遠慮しないで来てく ださい。
問題点がはっきりしてきましたら、カウンセラーはそれぞれに適切な対応策を考 えます。心理テストによる診断や助言が中心になる場合や比較的短期のカウンセリ ングで解決の得られる場合がほとんどですが、中には長期にわたって心理療法を必 要とする場合もあります。
さて、相談面接で、充分に話してカウンセラーに分かってもらえたと実感できま すと、それまでに鬱積していた感情や葛藤から解放されて心が楽になり、現実に対 して今までとは違った取り組みをしてみようかなという力が沸いてきます。カウン セラーはそういう気持を支えて、来談学生が自分の力で現実に立ち向かう姿を応援 します。 ところで、ことばではうまく自分の気持を伝え切れないもどかしさを感じる時が ありますね。そのような時には、絵画、箱庭、コラージュ、夢などによる自己表現 が役に立ちます。これらの作品にに表現されたイメージは、心の奥深くから生まれ たものもあり、自分の気持をぴったり表現しきれた時の満足感はことばを補う以上 のものがあります。カウンセラーとの間にできた良い関係を基にして、共にその作 品を味わう面接を続けていますと、イメージの力によって難しい情緒的な問題を洞 察していくことも可能です。カウンセラーはこのような過程にも同行する用意がで きています。
(白金通信1999年12月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



わが世の春

相談するってどんなこと(5)
二月ともなれば、期末試験も終わり、大学はなんと二ヶ月もの春休みに入ります。学生にとっては、まさに「わが世の春」を謳歌できるときでしょう。 自由な時間がたっぷりとあります。
この時期に、日頃なんとなく疑問に思っていた自分自身のことに焦点をあてて、考えてみたいという相談が入ります。
自分は本当はどのように生きたいのか。偏差値でこの大学のこの学科に所属しているもののその専門性は自分に適切なのか。
あるいは自分はどうも人間関係がうまくいかないような気がするが、自分の性格はどういう性質をもっているのか。
また、自分が本当に好きなことが分からない。いつも人に嫌われないようにしていたような気がする。情熱を注ぐような対象が何もない。
と、いったような悩みというほどではない悩みを相談に来るのです。 こうした相談は大学にあるカウンセリングルームの特徴のような気がします。心の病気を治すところというより、自分育ての場として考えているのです。
カウンセリングで語るうちに、日頃見過ごしていた小さな疑問がだんだんとはっきりとした形を成してきます。
大学の勉強が面白くない。面白くないのは学科に興味や関心を持てない、即ち適性がないのではないかと思いかけていた。興味や関心は持とうとしなければ持てないものだということを僕は知らなかった。丸暗記に頼って点数をとるという勉強法にこだわっていたのかもしれない。
あるいは人間関係にしても、嫌われないように、変に思われないようにと、気を使うばかりで自分が友達のために何ができるかという風には考えていなかった。友情が与えられないことで人間不信になっていたが、友情は自分から働きかけることでも生まれるのだ。 それにしても、自分にはできないような気がする。もしも、そんな風に僕が変わったら、周りはおかしくなったんじゃないかと思うのではないだろうか。
と、小さな疑問を深めていくうちに、問題はむしろ自分の生き方にあったのかと、ふと、思い当たることになります。親や先生が敷いてくれたレールに乗って無難に生きてきたことで、自ら考えたり、好みを選択したりする機会をもてなかったという訴えです。
受け身の生き方から、自ら働きかける生き方に変わる。
その未知なる体験を始めるには、少しばかり勇気も必要でしょう。はじめは上手にできなくて時間もかかり、おっくうで面倒なことでもあります。失敗を恐れる気持ちとも戦わねばなりません。
それは苦しみを伴うことでもありますが、正面から向き合うことで、自分の人生が開かれることになります。「わが世の春」の味わいも増してくることになるでしょう。
(白金通信2000年2月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



沈黙の大切さについて

相談するってどんなこと(6)
「相談するってどういうこと」と題してお送りしてきたこのシリーズも最終回となりました。そこで今回はまとめを…などとたいそうなことは考えないで、カウンセラーの生業としての相談、すなわちカウンセリングについて最近私が考えていることを少々お話ししたいと思います。
つい先日ある人から「カウンセラーの仕事というのは人生のすばらしさを教えることにあるんですよね」と尋ねられ、戸惑いつつ「いやあそんな大したものではないんです」とお茶を濁したことがありました。日頃の相談の中でも「元気が出るようなことを何か言ってもらえるのではと思って来ました」とか「人生をもっとポジティブに考えられるようにアドバイスがほしいんです」といったことばがよく聞かれます。確かに一般的な相談では相談相手が何かを言ってくれるということに意義があります。  しかしどうもカウンセリングの中で私が提供しようとしているものはそれだけではないというか、むしろカウンセリングではカウンセラーが何も言わないことが重要な意味をもってくるように思うのです。なぜならそれによってカウンセラーもクライアント(来談者)もお互いの交流の中で生まれてくる自分自身の感情や考えについてじっくり触れる機会を得られるからです。
カウンセラーが沈黙していることで、クライアントは邪魔されずにいっときひとりになって自分の中にある感情や考えについてじっくり振り返ることができます。またこのとき同時にカウンセラーもいっときひとりになって自分の中に生じているものについて思い巡らすことが可能になります。そしてこのような営みを通して発せられたことばは深い体験に根ざした意味あるものとなり得るのです。相手の存在を一方的に受け入れるのでもなく、またはじき出すのでもなく、お互いに影響を与えながらもそれぞれが主体的に何かを考えるというこのようなプロセスは真の交流と洞察を生み出します。
それは何かゆったりした、楽しい雰囲気をともないながら、新しいアイデアが生み出されたり、考えあぐねていたことが腑に落ちたり、気持ちが癒されたりということを促進します。カウンセリングに限らず、私たちが誰かと実りのあるコミュニケーションを交わしていると感じるときにはいつでもこのようなプロセスが生じているように思います。
逆に、たとえば「すばらしい人生」とか「ポジティブな生き方」といった価値観について一方的に教示したりアドバイスすることにこだわると、カウンセラーは何かたいそうなことを言わなくてはいけない気持ちにさせられますし、クライアントは万能的な回答への期待の後に訪れる失望を味わうことになるように思います。
どうでしょう、これではカウンセリングはものものしくて、胡散臭くて、息苦しいものになってしまうと思いませんか。
(白金通信2000年3月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



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