ヘボン・スピリッツ エッセイコンクール

優秀賞(部門 I)

植山 なぎさ

(Do for Others といわれて、わたしは何を最初に思い出したのだろう)

父さんが死んだのは昨年の夏だった。
 その年は六月の半ばからすでに猛暑で、夏場の水不足が心配されています。と、そんな事をテレビのニュースキャスターは冷房のガンガン効いているであろうスタジオ内から涼しげな顔をして発信していた。父さんが死んだのは七月も終わりに差し掛かった二十八日。彼は呆気なく逝った。まだいまいちその事実を受け入れられないでいる内から、葬儀の準備は淡々と進み、気がついたら父さんは小さな白いカルシウムの塊と化していた。生前の父さんは長身だったのに、骨となった彼はそれはそれは小さな骨壷にすっぽりと納まってしまった。どうしてだか、それが父さんが死んだ事実なんかより数十倍もわたしを悲しく、切なく、痛くさせた。

幼い頃、わたしは父さんと手紙のやりとりをしていた。手紙と一言で言っても、それはアンケートの様なもので、例えばそれは好きな食べ物だったり好きな動物だったり特技だったり。手紙を渡すと、次の日父さんがアンケートの返事を書いてくれて私に返してくれる。好きな食べ物、餃子とビール。嫌いな食べ物、無し。好きな動物、犬。そういった父さんのパーソナリティーが達筆な字で書かれていた。その手紙に幼い頃のわたしが何を求めていたのか今となっては定かではない。ただ思い出深いのは 「いままでで悲しかった事を三つ書いてください」という質問をした時だ。父さんの手紙の答えには「1、亡くした事 2、失くした事 3、無くした事」と書いてあった。

当時のわたしにはそのニュアンスを受け取る事が出来なかった。だが今思えば父さんは粋な人だったのだ。小さな子供に到底分かるはずも無いこの絶妙な感覚をわたしにも対等に教えてくれた。時々その手紙を読み返すと妙に泣きたくなったりするのは、わたしにもこの時の父さんの気持ちが分かる様になれる年ごろになったからだろう。

父さんはわたしに色々な事を教えてくれた。小さな事から大きな事まで。「十七歳」という言葉が流行語大賞に選ばれた年も、わたしはキレる事無く父さんとよく話した。思えば反抗期らしい反抗期も無かったのだ。二人で買い物へ出かける事もあったし、財布に顔写真入りの名刺も入れていた。友人に父さんを褒められると謙遜はしたが同時に酷く嬉しかった。わたしは父さんを誇っていたのだ。そこいらの父親より大分鋭い感性を持っていたし、仕事上お酒落にも気を配っていた。時々は口煩い性格にうんざりもしたが、だからといって嫌いになる事は無かった。

父さんが死んで、ふと思い立ったらわたしは父さんに何もしてあげられなかった事に気がついた。「親孝行したい時に親は無し」という警句は本当だったのだ。わたしは父さんに何もしてあげられなかった。クリスマスも父の日も誕生日ですら満足に祝ってなかった。それに気付いたわたしは自分の無力さを呪った。いやむしろ、これは力のあるないの問題ではない。意思や行動力ややさしさが、わたしには欠けていたのだ。わたしが父さんの死後初めて泣いたのはそんな事が原因だった。父さんの死に泣いたのではない。父さんの死から波状する自分の愚かさにくやしくて泣いたのだ。

「お線香のかおりって好き」
「ん?」
ポツリと漏らしたわたしの言葉はセミの声にかき消される。一回忌をむかえ、わたしは母さんと弟と共に父さんの元に来ていた。しょっちゅう来られないせいか、墓は世辞にも美しい状態ではなかった。多分父さんがこれを見たら憤慨するに違いない。その姿が容易に想像出来てわたしは軽く笑った。草を刈って、花を活け、水をかけ、線香をたく。一連の動作は形式がかっていた。水をかけたところから、またジリジリと真夏の太陽の日差しで熱を帯びてゆく。最近はよく陽炎も見られる。母さんはつばの広い帽子の下から愛しげに墓を見つめ、弟も受験勉強の最中の息抜きにでもなっているのかリラックスした表情をしている。わたしは墓の前でゆっくりと手を合わせ父さんに挨拶をする。

一年が経った。今年もまた猛暑だ。降板したベテランキャスターの代わりに、若い新人キャスターが「水不足が心配されます」と言いながら白々しい笑顔をふりまき、出来合いの白い歯を輝かせている。その姿にわたしの恋人は呆れ、テレビを消した。

わたしは父さんに何か残せたのだろうか。わたしの身体は父さんから貰ったものでいっぱいだ。血も肉も知識も精神も、すべて、父さんでいっぱいだ。だからそんな父さんに何か一つでも、私の欠片を残せたのなら、わたしはしあわせだ。

父さん。私の皮膚の下で、あなたはまだ息づいているのです。

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