FDの義務化がもたらすもの
大学におけるFDが義務化される。自由競争と自己責任の風潮を追い風として文科省は規制緩和を進めるが、どうやら良くも悪くも自由放任と言えるほど完全に手綱を緩めてくれる気はなさそうである。大学経営に関わる制度上の自由度はずいぶんと増したものの、それと引換えの自助努力として、私たちは教育改善の組織的な営みを不断に続けなければならない身となった。そうしなければお目付役の基準協会からだめ出しがあり、それは社会に公表されて大学の格付けに影響し、学生が減って……そしてさいごに、私たちは路頭に迷う (ことになるかもしれない) 。
義務化されるから押っ取り刀でFDの研修会なのかと問われれば、それは違うと言いたいところだが、以下に述べるような理由でその通りとも言える。
個人的な感想を率直に言えば、FDの義務化はFDについてのモチベーションを減退させる。もちろん義務化されればFD活動は今後大学の生き残りをかけてますます盛んになるだろうが、下手をするとそれはアリバイ作りのためのものとしてパターン化し、組織を硬直させ、教育の現場を窒息させるものになりかねないと危惧している。FDの名のもとに教育システムがあたかもひとつの合成金属のように構造化され、そこに働く人間の体温が奪われてしまうのだとすれば、大学は絶対零度の世界に近づいて、抵抗なく物事が進行するばかりで一切の発熱を止めてしまうであろう。
FDが義務化されるいま、そうならないためにこそ私たちの研修会があるのだと思っている。
FDの義務化が大学の熱を失わせてしまう危険性をはらんでいるのだということに、まず私たちは自覚的でなければならない。言い換えれば、それはFDの義務化が、皮肉なことにFD進展の阻害要因になるということでもある。FD後発の私たちの大学は、いまそのような危うい場所に立たされつつあるのだ。だからこそ私たちはFDの「意味」を考えなければならない。考えなくとも見せかけのFDは可能であるからこそ、FDについて熱くなって考えなければならない。
つまり、FDが義務化された状況をどのようにして乗り越えてゆくか、研修会はFDを私たちの側に取り戻すためにあるのだと言いたい。 |