インブリー館修復Q&A

Q:インブリー館という名前はどうやってついたのですか?

現名誉学院長の武藤富雄氏が「インブリー館」と命名しました。

Q:修復前と色が変わったように思いますが?

たしかに、修復前はかなり濃い色をしていました。玄関のポーチの壁からの塗料片を紙やすりで擦ったところ、順番に薄い水色、肌色、濃い茶色の層が現われました。また1923年の写真では、柱の部分が濃い茶色で下見板の部分が肌色であったと思われます。インブリーが明治学院を去るまでは、修復後のような状態であったと思われます。

Q:煙突が復元されていますね。

これは暖炉用の煙突で、1963年の火災後の屋根修理の際に取り払われたものと思われます。この他に窓の鎧戸やバルコニー、入口ポーチの手すりや階段などが資料から復元されています。

Q:ガス灯の器具跡があるんですね。

ええ、七個所ありますが、創建当時はランプであったと思われます。東京ガスの設立は1885年(明治18年)ですが、当初から白金付近に供給されていたとは思えません。また、電灯がガス灯を追い越して家庭に普及したのは、1903年から1907年(明治36年 - 40年)にかけてであり、おそらくインブリー館でも明治末期から大正初期頃に電灯がともったのでしょう。

Q:板ガラスはインブリー館創建の頃に日本に存在したのでしょうか?

国産品の板ガラスは1903年(明治36年)に島田板ガラス製造所によって作られました。ですから、創建当時はすべて輸入品の板ガラスを使用していたと思われます。

Q:解体調査中に壁内に貼られた紙がたくさん出て来たそうですね。

これは、稲わらから作られた洋紙でした。1881年(明治14年)大蔵省が栃木県小山市で稲わらパルプの工業化に成功していますから、古いものです。
紙には監督者と思われる人の鉛筆書きの見取り図や、大工が筆で書いた絵や名前などがありました。これらはインブリー館を建設した人びとが残した記録として、また日本人の大工によって建てられたことを裏付ける資料として港区の有形文化財に指定されました。

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