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明治元訳の完成ー日本初の聖書全訳

新約聖書

1872年(明治5)9月、横浜居留地39番のヘボン邸で宣教師会議が開かれ、各派共同での翻訳を決定し、翻訳委員社中を結成した。

委員長をS.R.ブラウン(オランダ改革派)とし、ヘボン(長老派)・グリーン(組合派)・マックシー(メソジスト派)・N.ブラウン(バプテスト派)・パイパーとライト(イギリス教会宣教会)の7名で発足したが、事実上ヘボン・S.R.ブラウン・グリーンが中心となり、日本人補佐人は奥野昌綱・松山高吉・高橋五郎・井深梶之助であった。

翻訳を成し遂げた聖書は1876年より順次分冊刊行して、完訳は1880年(明治13)である。

この明治訳は、漢字交じりの格調高い文体であり、本文の正文はかなである。漢字表示は漢訳聖書から当てた字が多く、翻訳を補助した日本人の知識層は漢文に慣れており、漢語調の文体が標準と考えた。しかし、翻訳する宣教師たちは、日本語として誰でもわかる言葉が重要であると考えた。

新約聖書は、平かな版、真仮名(カタカナ)版などの版があり、言葉が定まらない時代に実践的にどのような文字表現が良いかも試している。

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旧約聖書

1876年(明治9)10月30日、築地にて新教5派宣教師による会合により、横浜の新約聖書翻訳委員と協力して旧約聖書を和訳することを決議。東京聖書翻訳委員会を組織し、タムソン(長老派)・ワデル(北英国一致長老派)・カックラン(カナダメソジスト)パイパー(英国教会伝道協会)の4名が選出された。経済支援は大英国・北英国聖書会社によった。

しかし翻訳はうまく進まず、1878年(明治11)5月10日と13日にアメリカンボードの発議により、東京一致教会で宣教師が会合し、新たに各ミッションの協同事業として旧約聖書翻訳の計画を立て、旧委員はそれまでの仕事の成果をこの会合で定められた横浜の聖書常置委員会(The Permanent Committee on the translation, Revision, Publication and Preservation of the Text of the Holy scriptures)に譲り渡して解散した。

1878年10月23日東京一致教会で組織を整え、常置委員会は委員長にJ.C.ヘボン、書記Gカックラン、として事業に着手し、函館・東京・横浜・新潟・神戸・大阪・京都・長崎の宣教師を地方委員として翻訳を分担し、原稿を中央に送るとした。その間に既に翻訳済の明治12・13年出版の部分を訂正し、その全体を奥野昌綱が多少校閲した。これが改訳のできるまでの間の標準テキストとされた。

地方委員は応ずる者が少なく、1881年W.デニングが歴代志略とエレミア記、R.Y.ダビソンが列王紀略を寄せたが、デニング訳は修正を要すると取り返され4年を過ぎた。

1882年(明治15)1月再改組を行い、互選によりJ.C.ヘボン、G.F.フルベッキ、P.K.ファイソン(英国教会)、D.C.Gグリーンを翻訳兼訂正委員としたものの、グリーンは神戸在住で辞退し、3人で翻訳を進めた。

1883年4月には日本人委員を了承、1884年1月東京警醒社に12人の事務委員が集まった。出席者は小崎弘道・井深梶之助・植村正久・奥野昌綱、木村熊二・大儀見元一郎の6名、新島襄や稲垣信などは欠席。小崎弘道(委員長)井深梶之助(書記)大儀見元一郎(会計)翻訳委員に松山高吉・植村正久・井深梶之助3人とした。

1887年(明治20)常置委員会は事業を完成、旧約聖書の完訳を成し遂げた。

詩篇・イザヤ書・雅歌などの韻文の翻訳は文学的に名訳であり、日本の文学にも大きな影響を与えている。

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