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ヘボン博士逝く(東京朝日新聞 明治44年9月24日記事より)

明治44年9月24日 東京朝日新聞 「ヘボン博士逝く-開国当初の恩人」より抜粋

■明治学院二代総理 井深梶之助追悼談「謙遜なる精勤家」より

▲へボン氏の二事業
日本に於ける先生の事業は之を二に区別することを得、一は横浜にて西洋醫術を弘めし事にして昔より長崎には和蘭の醫術はあれど横浜には曾て無かりしなり醫師としての先生の世話を受けし人には醫学博士三宅秀氏あり逓相林董氏の如きも其家に十三より十七歳まで世話になり居たり、又先生は一千八百六十一年施療所を設けしも徳川政府より禁止せられたるが氏の技倆は次第に日本人間に認められ当時の名優田之助の片足を切断して治療せし時の如きは「ヘボンさんでも癒らぬものは云々」と俗謡に迄謡われ神の如く尊敬されたり然れど明治十年頃は西洋醫術を能くするもの輩出したれば先生は最早醫を業とする必要なしとして断然として業を廃し専ら辞書編纂聖書翻譯に努力したり有名なるヘボンの和英辞典は先生が上海にて一千八百六十七年第一版を出したるものにて当時洋学者の珍重此の上なく明治五六年頃一冊五〇円の値を有したり所謂ヘボン辞典以前(ママ)薩摩辞書なるものあれど其の完全遠く及ばざりしなり

▲新約聖書の和譯
新約聖書の和譯事業はヘボン、ブラオン、グリイン三博士の協力にして其後聖書辞典をも編纂せりへボン夫人は内助の功ありし賢夫人にして日本最初の女学校創立者なり横浜山手百七十八番フエリス女学校の前身即ち是なり斯くて先生は日本に滞在すること三十三年明治二十五年十月夫人と共に本国に帰りしが時に七十七歳、居を米国ニュージャージー州イーストオレンジに卜して余生を楽しみつつありしが昨夏余が氏を訪問せし時を以て氏との永久の別となれり、氏は謙遜忠実の精勤家にして同情深く、西洋醫術の輸入、辞書の編纂、基督教の伝道等先見の明在りし人と云ふを得ん三十八年三等旭日章を授けらるるや先生は之を佩びて母校プリンストン大学の卒業式の参列し破るる許の喝采を博したりと言ふ」云々

■高橋是清日本銀行総裁の追懐「嗚呼ヘボン先生」より

嗚呼ヘボン先生は死んだか、余は先年紐育(ニューヨーク)に居った折夫人は脳を病んで入院してニュージャージーに寂しい詫住居をして居られるのを訪問したのが終に此世の別れであったのである。

▲崇高な人格
余は慶応元年横浜に出でて先生の門に入ったのが十一二歳の少年であった先生の本職は宣教師で今の横浜停車場の前の橋端にある教会堂にて布教の傍ら眼科の手術を施された故岸田吟香氏は先生に漢学を教えた縁故で其助手を勤め一時大に流行した岸田精気水といふ目薬は此の当時岸田氏が先生の使用して居た目薬を他日売り出したのである、先生は今日の宣教師の如く最初から基督教を説き徒に信徒の多数を持って誇りとせず先ず日本人に泰西の学術を教へて専ら文化の途を開くことに努められた、人格崇高にして其一言一行は活きたる教訓であった。

▲英譯辞書の嚆矢
先生は岸田氏の助力を得て英和及和英の辞書を編纂し之を上海にて出版し以って大に邦人の英語研究に便宜を與へられた所謂ヘボン辞書と呼ばれて大に重宝がられたのは此書である。是が多分我邦に於ける英語辞書の嚆矢であろう。

▲特許法の制定
明治七八年の頃余が文部省にありたる当時先生はヘボン辞書を再版するに当り之が版権を得たき旨を同省の顧問たりしモルレー氏に懇談せられ同氏は之を同省に提議した、然るに当時我邦には出版又は特許に関する規程なきは勿論之を制定するの必要不必要も薩張り解らなかった、そこで余は政府の命に依って其の調査に取掛かったが文部省にも図書館にも一冊の参考書がない大英百科事典(エンサイクロペディアブリタニカ)に依り辛くも其性質を会得した滑稽な騒ぎで他日余が農商務省に転じて特許に関する法令を制定する事となった、是れもヘボン博士に因ある物語である。

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