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ヘボンの「生きた教師」達

ヘボンは『和英語林集成』の前書でHis principal dependence, however, has been upon the living teacher, so that he feels himself alone responsible for every thing in the work.と書き記している。この生きた教師(living teacher)から言葉を集めることには大変な苦労があった。
ヘボンの後を継いだ井深梶之助(明治学院二代総理)はヘボン博士の回顧談の中で面白いエピソードを述べている。
「先ず日本語の研究に着手し支那に宣教師たりしウイリアムス氏に就き「之は何か」と云う日本語を教へて貰い人に会う毎に之は何かと物を指して犬、木、家等の単語を覚えたり、然れども動詞形容詞の研究に至りては余程困難なりしが如く「危い」といふ日本語形容詞を覚えたるは一日隣家の軒下にて大工が火を焚き居るをみて先生は「危険(デーンジラス)」と云い日本人は「危い」と叫びたるより先生は「デーンジラス」とは日本語にては「危い」と云ふなりと合点せしとぞ其困難思ふべし」

ヘボンは上海からの船中では小野浦の音吉に尋ね、神奈川に上陸してからは外人を隔離させる幕府の政策に苦しみながら、まず散歩で出会った人や出入りの人間から言葉を集めた。散歩中眼病で州千島弁天にお百度参りをしていた戸部浦の漁師仁助と出会い、治癒させたエピソードは有名であるが、町を歩いたときの状況を「街路では子供が次のように挨拶します。「オハヨー」「アナタ」「ジキジキ」「トジン(唐人)」「バカ」「ヨカ」。しかしこれらの言葉は十中八九、無礼な言葉、意味のない無遠慮な用語で、お互い同士でも使わないし、特に目上の人には決して使わない言葉なのです。」とヘボンは日記に書いている。

岩堀行宏著『英和・和英辞典の誕生』より
ヘボン博士と初めて住んだ神奈川成仏寺

「亜米利加国の医者ヘボンと申すもの、日本の言葉少しく覚えたる趣にて、日本人に逢へば片言交り、色々と手真似して甚だ可笑しく見受け候」と神奈川駅山手本陣名主石井源左衛門は1860年7月の神奈川奉行所あての萬書留に書いている。夫妻の身の回りを世話したおヨシさん、出入りの役人、警備の侍などからまずは言葉を集め、施療をするようになると多様な人々と出会えたことは想像に堅くない。

日本語教師については 1860年(万延元)2月29日の手紙に「やっと日本人教師を得ました。三十二歳の医者で、なかなか学識のある日本人です。私は会ったばかりですが、本人は自国のことを良く知っているばかりではなく、外国の知識もかなりあるようです。英学を学び西洋の知識を得たいと望んでおり、わたしどものところへ来たのはそのためのようです。わたしが彼に英語を教えるとともに、彼からできるだけ日本語を集めています。彼は役人の疑惑を刺激しないよう最大の注意を払って、変装してきたのです。そして彼を傭人としてわたしの家に住まわせました。それが一番安全な処置だったからです。」と書かれている、この男が最初の日本語教師ヤゴロウである。

『和英語林集成』は当時の日本人の擬声語・擬態語・方言もあり、医学関係・宗教関係の用語も多い。この多様さが辞書に幕末の生き生きとした日本語を載せることとなった。しかし、7年で和英2万772語、英和1万30語は膨大な収拾である。
ヘボンに学んだ人々は、幕府から派遣された大村益次郎や原田一道をはじめとする9人の学生、ヘボン塾での林董、高橋是清、横浜奉行所内英学所での大鳥圭介、星亨、益田孝、三宅秀、高松凌雲、沼間守一、田中愛橘、安藤太郎などがある。また英学所教授としての石橋助十郎、大田源三郎などとも交わり語彙を増やしていったことは間違いないだろう。初版の作成には最終的に岸田吟香が手伝った。
さらには函館に出かけたときも、蝦夷地の言葉を調べて考察をしている。5回も変わった日本語教師たちに助けられながら、『和英語林集成』は編纂されたのである。

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