2001年度エッセイ

よくある相談

新入生の皆さんはじめまして。学生相談センターでは学生の皆さんが大学生活の中でぶつかるさまざまな悩みについて専門的なトレーニングを受けたカウンセラーが相談にのり、援助を行っています。と言っても実際にどのような相談が寄せられ、どのように援助してもらえるのか、新入生の皆さんに限らず、ピンと来ない方が多いかもしれないですね。
そこで学生相談センターに寄せられることの多い問題の一般例について、これから一年間このコラムの中でお話ししていきたいと思います(誤解のないように申し上げておきますが、個々のケースについてお話するわけではありません)。もしかするとコラムをお読みになって「自分といっしょだ」という問題があるかもしれません。「こんなことで悩んでいるのは自分だけでは」という思いは悩みをさらにつらいものにします。悩んでいるのは自分だけではないと思えることで皆さんの気持ちに少しでもゆとりが生まれればと思います。またそれをきっかけに自分も相談してみようと一歩踏み出すことにつながればとも思います。
さてそれでは実際に学生相談センターに寄せられる相談にはどのようなものがあるのでしょうか。今回は今の時期、特に新入生に多く生じる問題についてお話しします。
新入生の皆さんはまず慣れない大学のシステムに戸惑われているのではないでしょうか。加えて入学式をかわきりに履修登録などの気の抜けない大切な行事、手続きが続きます。大学では掲示板等を通じて重要な情報が伝達され、自己責任においてそれらをチェックしなくてはなりません。また情報交換できる友人もまだいないという人も多いでしょうから、わからないことがあれば自ら主体的に問い合わせることが必要となります。そのため学生相談センターには情報提供を求める問い合わせが多く寄せられています。
また大学ではこれまでのように決ったクラスというものがないために、授業が始まったものの思うように友人を作ることができないという問題が起こりがちです。友人作りのためにはサークルなどに入部するのがよいのですが、これもまたたくさんのサークルの中から自分に合ったところを見つけ出すのはなかなかたいへんなことのようです。夏休みが明ける頃には周りではすでに仲のよいグループが固まってしまっていて、気がつくと孤立していたという話もよく耳にします。このように大学にうまくとけ込めないという相談も多くあります。
その他に不本意入学、転部・転学科に関する相談なども多く寄せられます。実は4月、5月というのはこのような旬の悩みが生じやすく、一年を通じて新規の利用者がもっとも多くなる時期なのです、このような悩みはできるだけ早くセンターに相談にいらしていただければと思います。情報を提供したり、いっしょに考えを整理したりといった援助ができると思います。
(白金通信2001年4月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



ボクの居場所はここじゃない

春は新し尽くめの季節。でも連休で一息つき回りが見えてくると、学部や学科が自分に合ってないのではという疑問や不安に襲われることはありませんか。同時に、今とは違う場所、他大学や他学部に移ったら何かが変わるのでは、新しくやり直せるかもと、かすかな期待が生まれたり…。ちょっと浮かない顔した彼の場合はそうでした。
「明学はボクには合わないみたいなんです。ここしか受からなかったから仕方ないけど、何か違うなぁって。だから再受験しようかどうか悩んでいるんですけど…」<明学は合わないと感じているのね。何がどう違うと?>「うまく言えないけど授業も面白くないしやりたいことも見つからないし」<好きな学科ではないの>「ていうか、勉強はあまり好きじゃないのでどこでもよかったのかな」<じゃあ、大学には何のために?>「う - ん、皆が行くから?すぐ就職するのも嫌だったし…」<ということは、大学に来る目的が見つからない>「それはあるかなぁ。でもよく分かんない」
何もかも漠然としている彼は、単に仕方なく入った大学だから違和感があると思っている様子。どうやら他大学に入り直したとしても同じような気持ちになるものと思われました。
<それなら、しばらくの間その居心地の悪さについて話し合いませんか?>
さて数週間後。「回りは皆お洒落でカッコよく見えて、田舎者のボクにはついていかないって感じ」<自分の居場所がないような?>「うん、浮いているというか、一人だけ場違いな所に来た感じで…」<疎外感を感じる…>「しゃべれる友達はできたけど、ボクのこと、どう思ってるのかよく分かんないし…」<回りにどう思われているか不安なのね>「呑みにも行くけどつっこんだ話もしないし、彼にとっては別にボクじゃなくてもいいのかなって」<それで別の大学で何もかも初めからやり直せれば、気持ちも変わり楽しくなるのではと思ったのね>
何となくモヤモヤしていた気持ち、それは友人に受け入れられているのかという不安、そこから生じた疎外感や居場所のなさだったようです。それが明学に馴染めないという形で感じられていたのでしょう。
理想と現実がピタッと一致して、不安も不満もなく心から楽しいと言えたらどんなにいいでしょう。でも実際には現状に100%満足できる幸せなんてそうはなく、その不完全さに落ち着けないと、ここじゃなければと別の世界に理想郷を求めたくなるのが人の常かもしれません。
でも、転部や再受験を考えている人がいたら、ちょっと待って。今いる所が本当にあなたの居場所ではないのか、もう一度ゆっくり考えてみませんか。心の奥には意外と別の気持ちが隠れているかもしれません。先の彼が、人とのつながりに自信を持てず自分に安心できなかったのを、明学だからつまらないと錯覚していたように。何故なら彼は、友達との心が通じたら明学も好きになれたんですよ。
(白金通信2001年5月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



登校せず、引きこもっているあなたへ - 傷つきやすさと癒し -

折角、入学はしたもののちょっとしたことがきっかけで大学を休みはじめた方へ。あるいは高校時代の不登校を克服しようと入学してこられた方とか、ここ2、3年実は単位未習得ですという方へのメッセージです。
しばらく休んだ今、不登校のきっかけは何だったか思いをめぐらし、考えてみたりしていらっしゃることでしょう。なんとなく大学になじめないということや体調がよくないということなどがあるでしょうか。まずは体調を整えられるといいですね。ぼんやりとする時間の中で自然治癒力がはたらき、回復できるところがあるはずです。また心が疲れているときは深呼吸とか、体をゆっくり使うストレッチ体操などがいいようです。
また、今まで思ってはいてもできなかった読書や深夜放送の番組を聴く、夢の記録を取ることなどに時間をたっぷり使われるのはどうでしょう。なんとなく意味のない人生と感じたり、意欲を失いそうになっているあなたが、お気に入りの何かと出会うチャンスがここにあるかもしれません。こういうときは意外に感性が研ぎ澄まされてきていますから「ほんもの」を発見できるようです。 少し元気になったら、休みはじめた頃のことをゆっくり思い出してみてください。サークルや友達関係、ゼミなどでトラブルがあって、心が傷ついていることはありませんか。あなたを傷つけた友達は軽い気持ちで言われたのかもしれません。が、軽い気持ちで言われたからこそグサッとくることってありますよね。人にはそれぞれプライドというものがあって、そうそう他人からの非難や中傷に平気でいられるものではありません。まずは痛み、それから落ち込みを感じます。そのことが自分の人格や人としての価値までおとしめられたとまで感じることもあると思います。すると当然、次には怒りがわきおこってきます。にもかかわらず、あなたは表面は笑って受け止めて、その場の雰囲気を壊さないように耐えてしまったのではないですか。あるいは沈黙のままに終わっていたかもしれません。でも実は傷ついている。そしてその落胆と怒りは心の底に渦巻き、やがて沈んでいきました。
人は家族や友達、先輩、先生に何らかの意味で承認されてこそ、あたたかい気持ちで自分を受け入れることができるというものでしょう。だからこそ、他人の評価が気になるとも言えます。傷ついていることに気づいたら、そこではあなたの繊細な、しかしもろく傷つきやすい個性をいたわってあげて下さい。いや、あなたがもろいというわけではなく、まわりがあまりにもせっかちで、人のことを考えない傾向にあるからということもあるでしょう。
心の傷は治らないものではありません。痛みや怒りを表出できれば、スポンジや粘土のようにまたふっくらとしてくるものでもあるとイメージしてみましょう。傷が癒える時間を待ちながら、カウンセリングにお出かけください
(白金通信2001年6月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



もうすぐ試験

蒸し暑い日が続き、全く嫌になりますが、追い討ちをかけるように大学は七月一六日から試験期間に入ります。正直なところ、過去の経験からいって試験に楽しい思い出がある人は少数かと思います。けれど学生の身分である限り、試験は避けられません。
試験前になると、誰が書いたのかわからぬノートが飛び交い、コピー機前や図書館には人が群れ、どういうわけかお友達までできてしまったり(しかし試験後友情が続くことは少なかったりする)、血走った目でテストに取り組む学生の姿など、非日常的な光景が繰り広げられます。
このような憎き試験を、たとえ脳の収容能力を越えた徹夜突貫工事であってもクリアしていける場合は、めでたしめでたしということになります。
しかし、中には試験を受けない学生もいると耳にします。「気持ちは学校に行かなきゃと思っていたけどどうしても出ることができなかった」人、「出席しなくなってしまった講義だから、今さら単位をくれるわけでもないだろうし、試験だけを受けてもな - 。」と、あきらめている人、事情はそれぞれあるようです。どちらにしても最初から放棄してしまっている人が少なからずいるのは、なんだかもったいない話です。
もっともこの期に及んで、出席数が増えることはありえないでしょう。けれど、そのような絶望的(?)状況におかれても、まずは駄目もとということで、試験だけは、受けてみるのをお薦めします。
大学の試験は一概にはいえませんが、論述形式が多いので唯一の正答があるとは限りません。受験勉強をしてきた一年生にとっては、まだ慣れないことや戸惑うことが多いと思います。科目によっては、出されたテーマと自分の考えを関連付けて自分なりに論じる姿勢が大切なのです。
もちろん、努力の成果が常に実るわけではありません。しかし、受けもしないで投げてしまうより、もし準備不足であっても大学の試験を体験するつもりで受けたほうが、今後の勉強の仕方や次の試験の参考になると思います。(などと私は、偉そうに書ける立場にはありません。だからこのテーマで書くのは、本当のところ恥ずかしくて仕方がありません。)
話は変わりますが、この非常事態に、ストレスが昂じて不安になり、胃が痛い、眠れない、またはいらいらする学生もいることと思います。逆に、やる気がおきず、家の中で ぼーっとして時間だけがいたずらに流れてしまっている、という人もいるかもしれません。そのような場合は一人で抱え込む必要はなく、学生相談センターに遠慮なくいらしてください。試験に伴うそういった気持ちの状態についての相談を受けつけています。とはいっても当然のことながら、試験のヤマを教えるわけではありませんのであしからず。
魔物の巣窟、試験期間をなんとか乗り越えれば、ぎらぎらした夏の海と山があなたを待っています。
(白金通信2001年7月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



親子の話し合いの大切さ

親の保護のもとを離れて社会人としての第一歩を踏み出すまでの4年間、大学生は自立をテーマに様々な体験を積みながら大学生活を送っています。
その間、親子は何回か対立を経験しながら、その都度話し合いお互いの理解を深めて行くことでしょう。
しかし、何らかの理由でそれができない場合、学生は悩みを抱えてしまいます。大学生の親子関係の悩みは決して少なくありません。
まず第一に挙げられるのが「親離れ、子離れ」の問題です。最近は大学に合格することが第一目的となって、それ以前になされるはずの自立が大学入学後にずれ込みやすいようです。例えば、親への甘えがまだ残っている学生は、親に「もう大学生だから」と突き放されると、どうしてよいのか分からなくなってしまいます。反対に、大学生になってまで親に先取りされて心配され、窮屈でたまらないという学生もいます。
いずれにしても学生は親に不満をもっています。突き放すのでもなく先取りするのでもなく、お互いがよく話し合って親離れと子離れがうまくかみ合うように、柔軟に対応していってほしいと思います。
親子の間で意思の疎通がうまくいってない場合、学生は沈み込んだ表情で相談に訪れます。「母親に理解してもらえない」「母親は自分中心過ぎる」「母親の顔色を伺う生活はもう嫌だ」など、主に母親の無理解を訴えて、弱い立場の自分に無力感を抱いています。
カウンセリングの中で母子関係を整理し母親への理解が深まると、親ばかりではなく自分の方にも問題があることに気づいて、性格面などの自己理解を深めていきます。
大学生活も後半になると進路をめぐって親の期待とずれる場合があります。自分がまだ何をしたいのかはっきりしない場合はもちろんですが、自分の決めた進路が親にどう受け止められるのか、不安で話せない場合があります。ここでは父親との関係や、父親の生き方が見直されます。
今まで抱いてきた父親への思いを客観的に理解できるようになると、父親と対等に話してみようという勇気が沸いてきます。親子の話し合いの場で、子どもが自信をもって親を説得できれば、親も喜んで子どもの進路を受け入れるでしょう。我が子が頼もしく思われる瞬間かもしれません。
親子関係で悩んでいる学生の皆さん、第三者であるカウンセラーに相談してみるのも賢い選択だと思いませんか。また、ご両親には、自分たちも絡んでいる問題として子どもの気持ちをしっかり受け止め、自分たちの今後のためにも、子どもの自立に上手に付き合っていただきたいと思います。
夏休みには親子の話し合いのできる充分な時間があります。お互いの気持ちや親子関係のあり方、親の若い頃の逸話や社会で活躍する等身大の姿、子どもの未来の希望など、普段はなかなか切り出せない大切な話のできる時間を、親子で持ってはいかがでしょうか。
(白金通信2001年8月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



いい恋を。いい人生を

人を好きになる、もっとそばにいたい。その人も自分を好きだと言ってくれた。世界は明るくなり、胸は踊る。ヤバそうな時は、早くなんとかしなきゃとパニック。失恋した時は、何も信じられず、もうお先真っ暗、一生一人なんじゃないかと思ったり…。こう言うと極端ですが、恋愛には魅せられるというかのぼせるというか、そういう力がありますよね。人にとって誰かとつながっていたいという気持ちはやはり切実なものなのでしょう。
 理屈とか損得抜きに、ただ「あなたが大切だ」と。自分を心から認めてくれる、深く受けとめてくれる、かけがえのない存在としてお互いを認める。いいとか悪いとか他人から言えるものではないでしょうが、みなさんにはいい恋愛をしてほしいと基本的には思います。(ただ、もしセックスするとしたら避妊はきちんとしましょう。男性も心しておいて欲しいです。)
とは言え、恋愛にはかなりのエネルギーを使います。消耗して、むなしさに落ち込む人もいれば、何も考えたくなくなる人もいるでしょう。むしゃくしゃして「どうでもいいや」とやけな気持ちになってしまう時もあるのでしょうか。
しばらくは仕方ないにしても、自分なんて全く何の価値もない人間なんじゃないかという気分にずっととらわれてしまうこともあるようです。ささやかであれ何か笑えることがみつかるとか、「俺(私)だって捨てたもんじゃないのにな(カンペキじゃないかもしれないけどさ)」と自分のいい所も探せればと思うのですが、難しい時もあるでしょう。
「いつかまたいいこともある」と言われても信じられないかもしれません。ですが、二五歳・三〇歳になって感じられる楽しさも(結婚しているかもしれませんが、その時にはその暮らしの中に感じられる)心模様もあるでしょう。孤独に耐えるしかない時期もあるかもしれませんが、悩んだ季節はその人を大きくするのではないでしょうか。
相談センターには男女八人のカウンセラーがいます。どうにもならないこともありますが、恋愛話ばかりでなく、今日は試験のこと今日は就職のことというように、色々な話をすることもあります。
思い迷っている時には、新興宗教や自己啓発セミナー等にはまってしまうこともありがちです。そこで得られるもの全てを否定するわけではありませんし、何かを探すというチャレンジ精神自体は応援したいですが、多額の費用を使って後悔という場合もあります。出会い系サイトなども、ある程度自分の秘密を守る、信頼できる相手や場面・場所を選ぶ、怪しさを感じた時には家族や友人に知っておいてもらうなど、多少の警戒心は必要でしょう。
もっとも、最後は自分で決める、そして大人として責任を持つという場面が多くなっていくでしょう。いろいろある世の中を生き抜いて、いい人生を歩いてほしいと思います。
(白金通信2001年10月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



「セクハラ」とは何か

或る日曜日、私は一人の中年女性の訪問を受けました。とりとめのない話に時間が過ぎ、ようやく重い口を開いた彼女から、学生時代、指導教授から性的強要を受けたこと、そしてふとしたことからそれが今言われているセクハラ(セクシャル・ハラスメント)であることを知り、眠れない日々が続くようになったことを聞かされました。まさにPTSD(外傷後ストレス障害)の一症状(事件を思い出したくないのに、何かのきっかけによって事件を再び体験するようにありありと思い出して眠れない)です。
セクハラがクローズアップされるようになったのは、1989年流行語として金賞を獲得した頃からですが、こうした事件はすでに存在しており、新しい出来事ではないのです。新しいのは、個人の問題ではなく、女性の性的自己決定権・性的プライバシー権などの人格権、教育権、労働権などの人権侵害行為として認識されるようになった点です。
ところで、セクハラの概念は正しく認識されているのでしょうか。おそらく、セクハラといえば、週刊誌に書かれているような教授が学生にする性的行為を想像されるでしょう。しかし、これは稀なる事例で、歓迎されない性的な言動や行為により(主として女性に)屈辱や精神的苦痛を感じさせたり、不快な思いをさせる行為一般を含みます。
クラブの先輩や同僚間でも起こり得るのです。食事やデートにしつこく誘われたり、性的な内容の電話や手紙・メールを送りつけられたことはありませんか。身体に不必要にさわられたり、教授のそばに無理に座席を指定されたり、お酌を強要されたことはありませんか。文部科学省はこれらもセクハラになりうるとしています。
セクハラにあたるかどうかについては相手(女性)の感情が重要です。親しさを表すつもりの言動も、ときには、相手を不快にさせ、それがしつこくくり返されればセクハラとなるのです。ですから、女性の側も勇気を出して不快感を相手に伝えることが必要です。
とはいうものの、相手が指導教授や、クラブの先輩であったりすると、人間関係を考え、はっきり言えないこともあります。皆が認識をあらたにし、「それってセクハラですよ。やめてください」と言えるような環境を作り出すことができたら、セクハラはなくなるのではないでしょうか。
本学には、セクハラ人権委員会があることを御存知ですか。学生手帳を開いてみてください。「セクハラ人権委員会って何するところ?訴えるとどうなるの?」という声をよく聞きます。学生さんは事件として扱われることを必ずしも望まず、ただ「許せない」と悶々とした気持ちを抱いたまま悩んでいる例が多いようです。そんなときは、是非学生相談センターを訪ねてください。セクハラ人権委員会に訴えるかどうかはそれから決めればよいのです。「あなたが悪いわけではない」。それがわかるだけでも救われるでしょう。
(白金通信2001年11月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



「死にたい」・・・言葉に隠れたSOS

「最近、仲の良い友達から電話の度に『死にたい』ということを言われ、どうしていいか困っています。力になりたいし、『自分もついているから頑張ろう』と励ましていますが、内心、とても心配です」と困惑した表情でおっしゃったのは同級生のAさん。もしも、あなたがAさんの立場だったらどうしますか?
「死」という言葉を聞くと、誰しもドキッとしますね。話を聞いているとハラハラするし、確かに出口が見出せそうにないからただ励まそうとする。でも「頑張れ」と励ますと、逆に「友達はこんなに心配してくれているのに、私は応えられない」といって相手は余計に落ち込んでしまったり。
先のAさんは友達に「学生相談センターがあることを教え、死にたい気持ちはそちらでも話すように勧めて下さいました。数日後、センターに「勉強する気になれない、転科したい」との申し込みが入り、面接の中で、来談に至る友達の紹介があったことを話されたので、恐らくはAさんの友達なのだろうと推測されました。カウンセラーはあくまでも来談者の秘密を守りますから、このような経過も双方には伝えません。後日、Aさんからは「(友達は)センターに行ってから、重い話はそちらでしているようで、もとの友達として話せるようになりました」との報告がありました。
この友達は、高校までは自他ともに認める優等生でしたが、それもどうやら「いい子」を演じてきていたようです。両親の仲が悪かったために、暖かい安定した家庭にあこがれつつ、早く自立して自分は違う家庭を作ろうと思っていたようです。しかし、頑張れば頑張るほどに何をしても空虚な気持ちになり、自分の人生を生きているという実感をほとんど持てなくなっていました。両親には頼れない、この出口が見えない状況で、誰かの助けを求めていたのでしょうね。
「死」は現代生活ではあまり身近なものではないように見えます。しかし、思春期や青年期にあたる十代から二十代前半にかけては、自分の人生を賭けて自分の生き方を変えなければならない転換点を迎えることも、ままあるのです。「死にたい」の言葉の裏には、本人もまだ気がづいていない、このようないきさつが隠されているのでしょう。この心のSOSが読み取れれば、また新しい生き方を模索していけるのです。
これをお読みの皆さんの中にも、もしかしたら、誰にも言わずにはいるけれど、「死ぬこと」をひとつの選択肢としてお考えの方がいらっしゃるのではないでしょうか。その場合、他の選択肢でうまくいかないかもしれないと思うなら、とりあえず、選択肢の中に「学生相談センターへ行く」という項目を加えてください。
一緒に考えていければと思っています。
(白金通信2001年12月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



普通に食べられるようになりたい

皆さんの身の回りにも、自然な食生活が取れなくなっている知り合いが必ずいるのではないかと思います。
摂食障害とは、行き過ぎたダイエットを重ねてやせ細っても、それでもダイエットをやめようとしなかったり、あるいは、無茶食いをしては自分で意図的に嘔吐したり(過食嘔吐)、下剤を利用するということを執拗に繰り返す状態が数ヶ月以上継続していることです。男性よりも女性の方に、はるかに多く見られます。
このうち、前者のひたすらやせようとするタイプを神経性無食欲症(拒食症)、後者の無茶食いしては排出するタイプを神経性大食症(過食症)といいます。
この病気が一躍有名になったのが1983年。ポピュラー音楽の世界で一世を風靡したアメリカの兄妹デュオ、カーペンターズの妹の方、カレン・カーペンターが、拒食症をかかえ、心臓発作をおこして死んだことが報じられた時でした。
ところが、ここ十数年の間に拒食症タイプの人は少なくなり、最初はダイエットから出発しながらも、さほどたたないうちに、過食嘔吐を繰り返す状態に進んでしまう症例がぐんぐん増えていきました。
現在では、摂食障害といえば、ほとんどの場合、この過食症タイプを指すと言ってもいいくらいになっています。
「過食症」とだけ聞くと、食べ過ぎで太っている人をイメージするかもしれませんが、食べては吐くことを週何回もくり返していたりするので、むしろ平均体重よりも痩せていることも少なくなく、身体は生理学的には慢性的な飢餓状態に陥っているそうです。
調子がいい時には、やたらといろいろな活動予定を入れて、勉強やバイトなどに人並みはずれて無理な頑張りを重ねるものの、何かのきっかけで行き詰まると、挫折感と自己嫌悪・無気力の中で引きこもったり、死にたい気持ちが強まる場合も少なくないようです。
これらの人たちの心の中は、まさに食事のことを中心に回っていると言ってもよく、何かに熱中できている時はともかく、普通の人ならまったりとくつろぐような場面になると、すぐに食事のことが脳裏に浮かび気になり始め、カロリー計算や、たまたま立ち寄ったコンビニで見かけたお菓子のことで埋め尽くされてしまいます。
もはや空腹感も満腹感も「おいしい」という味わいもないまま、心の中に生じた漠然としたモヤモヤや焦りを、すべて食べるか吐くかで解消しないではいられないようでもあります。
すごく逆説的ですが、「普通に食べられるようになりたい」ということばかりにとらわれているうちは、この過食嘔吐の蟻地獄からはなかなか抜け出せないようです。
面接では、勉強や習い事以外の、生活や対人関係の中での様々なささやまな楽しみや喜びや悲しみについて「味わい」、対話できるような、くつろいだ場になるように心がけています。
(白金通信2002年1月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



就職活動は自分を知るチャンス

後期試験も終わり、三年生のみなさんは、いよいよ就職について、考えさせられる時期にきましたね。すでに説明会などにも出て、周囲の慌しさに焦りを感じている人もいるでしょう。まだまだ先のことと思っていた卒業後のことが急に近く、現実味を帯びて感じられている人もいるでしょう。また逆に、社会人になるということに、実感が持てず、就職活動にどう取り組んでいいのか、途方に暮れている人も少なくないのではないでしょうか。 この将来の仕事を決めるということは、自分が何に向いていて、何を好きか嫌いか、どういうことならできるかという問いに始まり、自分はどんな人間なのか、これからの人生をどう生きていくのかということも考えさせられる、多くの意味合いを含んだ課題でもあるようです。 中学、高校などでは、進路というと、多くは進学でした。たとえば大学受験の場合、選択の仕方としては、興味のある学部、学科のあるところとか、偏差値と照らし合わせたりとか、まだ就職よりはわかりやすかったのではないかと思います。努力の方向も、とりあえず勉強して、成績を上げることに向ければよかったでしょう。けれども、会社を選ぶとなると、何を基準にしていいかわからなくなってしまうのではないでしょうか。何をどうがんばったらよいかもよくわからなくなってしまうでしょう。自分が社会でやっていける人間なのかどうかも不安になったりします。  説明会や集団面接へ行くと、周りの人がとても積極的で、やりたいこともしっかり見つけているように見えて、自分と比べ、落ち込むこともあるでしょう。面接官の言葉に傷つくこともあるでしょう。人間性を評価されているようで、だめな人間と言われているように思え、自信をなくしてしまうこともあるでしょう。  けれども就職活動は、自分を知る良い機会と、とらえられないでしょうか。今までは、そんなに自分のことを考えなくても過ごせたかもしれません。そこに自分を見つめるチャンスが音連れ田と考えることができると思うのです。単なる就職のためばかりでなく、これから長い人生の中で、幾度となくぶつかる困難によって、自分と向き合わなければならないことはたくさんあるでしょう。そのスタート地点に立ったということなのかもしれません。  完璧な人間などいません。自分を否定したり、卑下するのではなく、自分の気持ちに耳を傾け、ありのままの自分に向き合っていくことが大切なのではないでしょうか。時にはどうしても認めたくない自分と出会ってしまうかもしれません。それは、その自分を欠点だと思ってしまうから認められないのではないでしょうか。自分を知るからこそ、自分の表現の仕方を工夫したり、良い方向へ向かわせられるように言動をコントロールできるのではないかと思います。一人では、なかなか難しいこの心の作業を学生相談センターはお手伝いいたします。 (白金通信2002年2月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



別れの春  出会いの春

季節はそろそろ春です。
今年はどんな春が迎えられそうですか?卒業も決まり、わが世の春を謳歌されているのでしょうか。なんとか無事に年度を終えられて、ホッとされているのでしょうか。春は何らかの結果が出る季節。そして別れの季節でもありますね。  遠く離れる友との別れ。人だけではなく例えば、社会人になる人は親から援助を受けていた学生生活に、就職活動を始める人は穏やかだったユートピアに別れを告げます。もしかしたら、どうしても告げなければ先に進めない別れや、認めたくない別れを経験することになる人もいるかもしれません。私たちはこのような「別れ」をどのように受けとめ、こころに残していくことになるのでしょう。  握手をして笑顔で去っていける別れもあれば、なかなか別れがたかったり、なかには厳重に密閉してもなおブラックホールに葬り、なかったことにしてしまいたい別れもあるはず。  大切なことは、ちゃんと別れを告げてゆくことです。時には卒業式などの儀式が、迷う背中を少し押してくれるかもしれません。できるなら慌しさにまぎれず、その時々で感じる喜びや悲しみ、怒りなどをじゅうぶんに自身で、または誰かと共に噛みしめてからサヨナラをして、気持ちの整理をしておけるとよいと思います(センターを利用するというのも一つの手段です)。なぜなら行き場を失ってしまった想い(出)はこころの中を彷徨い、後々まで引きずったり、それにとらわれて、やがて私たちは身動きができなくなってしまうこともあるからです。 ブラックホールに捨ててしまうのは得策ではありません。もし、今は噛みしめることなんて到底できそうにない想い(出)を抱いているのなら、とりあえずこころの一番奥にそっとしまっておくことならできないでしょうか?消え入りたい失敗、失恋、挫折、後悔やはがゆさなど、その時感じたことをそのままに。そしてしばらくの間、離れて距離をおいてみませんか。 これからも私たちは、新たな経験を積み重ねていきます。そしていつか気づく日が来るはずです。辛く苦い想い(出)であったはずのものが以前とは違う価値を抱いていることに。時間や経験、人との対話などは私たちを自身の感情から客観的にさせ、さまざまな視点から考えてみるゆとりを与えてくれます。そして、こうして織り合わせたこころ模様は、私たち自身を助け、深みと豊かさを与えてくれる人生の糧となっていくことでしょう。 また、春は「出会い」の季節でもあります。期待と不安を膨らませながらも私たちは未知なるものに出会います。けれど私たちは容易につまずき、幻滅し、一つの失敗に目の前が真っ暗になることもあります。悲観的になり、先のことなど到底考えられなくなるかもしれません。でも忘れないでほしいのです。人生はまだ途中であり、私たちは変化する可能性を私たち自身の中に大いに秘めている存在であるということを。
(白金通信2002年3月号「カウンセリング・ルーム」より転載)



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