ヘボンの活動

ニューヨークで名声高い医師として開業していた44才のヘボンは、開国直後の1859年(安政5年)の日本にキリスト教伝道と医療活動を目的として、自国での財産すべてを売り払い来日しました。この前年の1858年は日米通商友好条約が締結された年です。

当時の日本のいまだ近代医療の恩恵を受けていない状況のなかで、1861年に横浜の宗興寺に施療所を開設、私財をつぎ込み多くの人達を無償で診療しました。ヘボンは64歳で施療所を閉鎖するまでに老若男女、貧富、身分の差別無く1万人にも及ぶ患者を診療しています。

診療所を開設した翌年にはあの有名な英国人襲撃殺傷事件である「生麦事件」の負傷者2名を治療しています。当時の外国人に対する危険は大変ななかで、自身の危険をかえりみないで活動するヘボンの名医ぶりは、当時の俗謡にも「ヘボンさんでも草津の湯でも、恋の病は治りゃせぬ」と歌われたほどです。

来日したヘボン夫妻は、横浜の成仏寺に住み、そこでヘボン夫人のクララが本国での教師の経験を生かして日本の少年達への英語教育を開始しました。これがプロテスタントミッションが関わった日本での初めての英語教育となりました。ヘボン自身も幕府からの依頼により、大村益次郎などに英学を教えました。

1863年には横浜山下町の居留地39番の自宅に、当時は珍しかった男女共学の「ヘボン塾」を開き、ここでは後に首相となった「高橋是清」や外相となった「林董」なども学びました。このヘボン塾の教師のメアリ・ギダーは途中から女子部を受け持ち、これが後年「フェリス女子学院」となります。ヘボン塾はその後、聖書の翻訳に専念したヘボンに代わり「J.C.バラ」に引き継がれ、1880年(明治13年)築地に移転して「築地大学校」、「東京一致英和学校」となり、横浜海岸教会から発する「先志学校」と合流した後、1886年(明治19年)に明治学院として白金の地に開校しました。その初代総理に推挙されたのはヘボンでした。

ヘボンの功績といえば、有名な「ヘボン式ローマ字」の考案があります。これは日本初の本格的和英・英和辞典である「和英後林集成」の日本語記述方式として考案されたものですが、その後一般に広く普及して使われるようになったのはご存知のとおりです。

その日本初の本格的和英・英和辞典である「和英語林集成」はヘボンが7年の期間を費やして、1867年(慶応3年)に初版200部で、初めての鉛活字による、初めての横組活字本として出版されました。

この辞書は1900年の第9版まで版を重ね、日本の幕末から明治期の日本と世界を結ぶ重要な役割をはたす辞書となりました。ヘボンは後に第3版の権利を「丸善」に譲渡し、その代金を明治学院に寄付され、初代ヘボン館建設の資金となりました。ここでは文豪「島崎藤村」も寄宿しています。

さらに、ヘボンを中心に、明治学院の創立者達と1874年に結成した「翻訳委員社中」によって、キリスト教禁制下で命がけで行なわれた聖書翻訳は、1872年から分冊で出版を開始、1880年(明治13年)に完成いたしました。旧約聖書翻訳は1878年(明治11年)に完成、その後、戦後の1955年(昭和30)年の「口語訳聖書」の登場まで「明治訳」として使用されていました。

ヘボンの功績はこの他にも、日本初のクロロフォルムによる麻酔を使用した片足切断手術と西洋義足の装着は、患者が当時の人気歌舞伎役者、「三代目田之助」だったこともあり、大変評判となりました。

この他、国内初の新聞発行や、日本初の西洋目薬の販売、国内初のリゾート「日光金谷カッテージイン」(現日光金谷ホテル)の開業などに影響をあたえました。

このように、医療、教育、翻訳出版、キリスト教伝導などに精力的に活動されたヘボンの志は”Do for Others”という教育理念として明治学院大学のキャンパスに現在に至るまで生き続けています。もちろん、ボランティアセンターの運営を支える理念でもあります。