三善晃先生の「オマージュ」シリーズ

─第2回日本近代音楽館レクチャーコンサート抄録─

石島正博


*譜例はネット公開できません。
ご了承ください。

 三善晃先生の「オマージュ」シリーズの変遷を追い、特に記譜法との関係に注目しながら、他の作品との比較を交えて先生の作曲法を考えてみたいと思います。
 「オマージュⅠ」が書かれたのは「王孫不帰」「オデコのこいつ」と同じ時期で、「」「」「」「」は、「レクイエム」「シェーヌ」「ノクチュルヌ」「チェロ協奏曲」など、名作が次々に書かれた時期に重なります。先生は、大作と中規模な曲、小規模な曲を同時に手掛け、相互に比較対照しながら書き進めておられました。「オマージュ」はその中では一番規模の小さい曲ですが、このシリーズはショパンの「マズルカ」のような存在で、ある方法論を繋ぎながら先に進めていく「カイエ(ノート)」のような役割を果たしていますので、作曲家から見ると非常に面白い課題と言えます。「オマージュ」を検証していくことによって、同時期に書かれた「レクイエム」「シェーヌ」「ノクチュルヌ」などが違った形で見えてくるかもしれません。
 最初に、先生の創作時期の大まかな区分について触れておきます。私は四つに分けて考えております。第一期は五〇-六〇年代、東大在学中の「クラリネット、ファゴット、ピアノのためのソナタ」(一九五三、音楽コンクール一 位受賞作)に始まり、フランス留学を経て、「最も表現主義に接近した」とおっしゃる、初期の傑作「弦楽四重奏曲第2番」(一九六七)を含む期間。この時期に、シェーンベルク、バルトーク、ストラヴィンスキー、ベルク、メシアン、デュティユー、という六人の作曲家を勉強することによって、自身の語法の基本的な確立をみた、とおっしゃっています。つまり、音楽語法の探求、創造の時期です。ただ、ここに、どうしてもラヴェルを加えなければならないと思うのです。私は先生と一緒にラヴェルのピアノ曲全集の仕事をしたことがありますが(全音楽譜 二〇〇六-〇七)、その過程で、ラヴェルに対する先生の考え方、アプローチの仕方、読み方など、非常に多くのことを学ばせていただきました。さて、第一期の中で、三〇歳までとそれ以降は少し違っています。有名な四つの歌曲集、「高原断章」「白く」「聖三稜玻璃」「四つの秋の歌」は三〇歳までに書かれていますが、その後、歌曲集が書かれるのは相当後になってからです。三〇歳以降には「管弦楽のための協奏曲」「決闘」「ヴァイオリン協奏曲」などが書かれています。
 第二期は今日採り上げる一九七〇年代ですが、三好達治の「王孫不帰」から「レクイエム」「シェーヌ」「詩篇」まで。倫理的な側面、人間的なモラルの問題に深く関わる作品が多く書かれる時期です。この時、記譜法の問題─定量(確定的記譜法)から非定量(非確定的記譜法)への移動─が起きますが、それが少しずつ返ってきて、定量的なものと非定量的なもの、西洋的なものと日本的なものの融合に至ります。それは、謂わば西洋的なもの(外国語)と日本的なもの(日本語・母語)との相克から融合へのプロセスであったとも言えましょう。
 第三期、合理と非合理がどのように結び合うか、という課題が解決されたと思われるのが、一九八〇年に書かれた「アン・ヴェール」です。これを書かれた時に、「これで自分の足でヨーロッパに行ってもいい」とおっしゃっていたので、何か掴まれたのではないか、と感じておりました。そのあと、「鏡」(一九八一)「アン・ソワ・ロアンタン」(一九八二)、最後は「響紋」(一九八四)、オーケストラと児童合唱による作品です。
 第四期は九五年以降。桐朋の学長を退任されて少し時間ができ、オーケストラ四部作、オペラに向かって集中して仕事をしていく時期です。今日のプログラムでは「オマージュ」「シェーヌ」が第二期、「鏡」が第三期、「随風吹道」が第四期に属する作品です。
 まず、先生がフランスに留学される直前の「ヴァイオリン・ソナタ」(一九五五)の緩徐楽章から聴いてみましょう。冒頭のテーマ、和声と旋律にモデルが見えます。和声のモデルはベルクの「ピアノソナタ」で、半音移調して和声の形態をそのまま残すと、ベルクの「ピアノソナタ」の主題の構造に重なります。そして、旋律はラヴェルの「ソナチネ」の第二楽章 des‒as‒des‒ges‒as を反転させて f‒b‒f‒es‒des‒c という風に作っていると思われます。つまり、この非常にロマンティックな先生のテクスチュアは、ベルクとラヴェルへの視線が強く感じられ、なおかつ作り方も非常に緊密で、あるテーマを徹底的に使って書く、というタイプのものです。
 これから十五年ぐらい経って「オマージュ」が書かれるのですが、「オマージュ」は、「室内楽'70」という、野口龍、植木三郎、若杉弘の三先生が結成されたグループのために毎年一曲ずつ書かれたものです。同様の編成で、「オマージュ・アン・クリスタル」「オマージュ・アン・ドゥイユ」─亡くなられた矢代先生のために書かれました─がありますが、「オマージュ」について、先生は、「私にとって、それが音楽家として七〇 年代を生きるということだった」と書いています。
 五つある「オマージュ」のうち、最初に「」を聴きます。最後の音、フルートがa、ヴァイオリンがg とd のハーモニクス、ピアノがe。これはヴァイオリンの開放弦で、四本の開放弦の音を倒置して終わっています。これが「オマージュ」のキーワードです。それから、これは非定量の記譜で、音価が定められていません。それは奏者の自由に委ねられていて、上下の関係も同様です。非常に開放された、自由な楽譜です。
021 「オマージュⅠ」の楽譜を見ましょう。2/4拍子、小節線もあり、「Modérémentvif」と速度記号も書かれています。冒頭、ラヴェルの「ピアノ・トリオ」のモーダルな旋律だということがすぐお分かりになると思いますが、ヴァイオリンにaとeのハーモニクス、ピアノにa とe の刻みがあります【譜例1】。また、 e‒e‒d‒e‒f‒g‒a‒eという旋律があって、 b‒c‒cis‒dis‒e というピアノが聴こえます【譜例2】。重要なポイントが三つあります。一つ目は、ヴァイオリンに託されたa とe(解放弦)のハーモニクスとその連打特性、二つ目はb‒c‒cis‒dis‒e というピアノの左手の音列が、メシアンのMTL(移調の限られた旋法Les modes à transpositions limitées)第二番を含んでいること。そして三つ目がその旋律、例えば、a‒b‒c‒cis‒dis‒e を入れ替えると、a‒b‒cis‒c のような、バルトークが「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」の主題として用いた、短2度と短3度の特徴的な旋律の組合せを含むということ。これらが「オマージュ」全曲を貫くコンセプトであり、以後、多様な変容を遂げていきます。

022 では、「オマージュ」。一九七一年の一一月一日に脱稿されていますが、その年の七月から「レクイエム」が書き始められています。この作品が、あの激しい「レクイエム」と同時に書かれたということは非常に興味深いと思います。楽譜を見ると、拍子、速度の指示はなく、音価は自由に決められていて、括弧で囲まれたフェルマータは全部奏者に委ねられています。ただ、「18″」「28″」「36″」のように秒数は書いてあります。ヴァイオリンが最初に入ってくるところは、g‒d、a‒eのハーモニクスです【譜例4】。ピアノの囲まれている音は、MTLから切り取られた短2度と短3度の旋律が、長く拡大されたものです【譜例3】。印象的なフルートの旋律、 b‒c‒a‒c‒d‒e‒g‒a【譜例5】は、 e‒e‒d‒e‒f‒g‒a e‒d‒e という最初のラの旋法(エオリア旋法)にbを加えて変容させたものです。この変容の美しさは先生のメチエであり、感性であって、すぐにそれがある作曲家のものだとは分らないけれど、確実にその作曲家のものでしかない、というテクスチュアが聴こえてきます。システムに縛られることなく、体が感じるものと脳が直感するものがいつも結び合っていることが先生の作曲法の顕著な特徴だと思います。
023 次に「」を見てみたいと思います。g‒d‒a‒e という4音と、短2度と短3度の組み合わせ、それからMTLがどのように変容しているか、注意して下さい。「」の冒頭のピアノのg が、今度はヴァイオリンに変わります。短2度と短3度の組み合わせは倒置されて、旋律が変化し、a‒eが垂直と水平に分割されます。MTLラインの旋律は修飾されて現れます。
 先程聴いていただいた「」があって、次は「」ですが、冒頭、八村義夫先生の「エリキサ」の音像がいくつか引かれている、と思われた方もいらしたでしょう。「エリキサ」は「」が演奏された時に同時に演奏されたので、三善先生は「エリキサ」を聴いていらっしゃいました。この連打、ピアノの音の配置、ハーモニクス、ヴァイオリンの出だしののタイミング、ピチカート、持続など……。勿論、先程から申し上げている構造は存在していて、「」が、a、d、g で終わっていますから、その構造を引き受けながらeを置き、MTLを咬ませていきます【譜例6、7】。そして曲尾、「」の最初の音像をフルートが複調にして、変容させて終わっています【譜例8】。5年間にわたって一つの論理でヴァリアントを作り、環を閉じた、ということです。
024 CDに録音されている「オマージュ」全曲版は、この「オマージュ」5曲を、という順番で演奏したものですが、改訂版は少し複雑な構成になっています。ざっと申し上げますと、の①から③→の④→の⑤と⑥→の⑦と⑧→のD→それからの②と③→の⑨と⑩→の末尾という順番で、接合部分が新たに付け加えられています。ピアノ内部奏法やバス・フルートは、新たに書き加えられた音色です。ひとつひとつの曲の構造を個性的にしつつも、いかにしてシリーズ全体の統一を図るか、というメチエを見るのに、非常に興味深い対象でもありますが、音高、音響、音価、空間性、音色など、いろいろなパラメーターがあるなか、それをひとつひとつ徹底的に変えていって、多様なヴァリアントを作り続け、絶対元に戻らないというのは驚嘆すべき手法です。漫然と聞いていると同じことを繰り返しているように聞こえるかもしれませんが、ヴァリアントに注目し、前になかったものがどのように新しく付け加えられているか詳細に検討することは、今後、研究者にとって主要なテーマになっていくものと思います。
 最後に、先生の講義の録音がありますので、お聞きいただきましょう。
──私たち[が]「生きている」ということは、(略)非常に端的なことなのですね。けれども、実際に一人の人間、総体として生きている時には、事柄は─つまり「生きる」ということは─どんなに複雑なことなのか。(略)「祈り」という欲求にかられる、その裏に、背後には[どんなに]複雑で色濃い時間を私たちはもっているか。「作曲」ということは、そのことに、全くパラレルに結び合った仕事だと思います。