[以下の文章は、EMCA研究会Newsletter第12号 (2001年11月発行)に掲載された文章の一部です。]

プラクティスとしての文法

ぼくは7月サンタバーバラにいた。こっそり来たのに、結局いろんな人に見つかってしまった。シェグロフたちの会話分析の授業にこっそり出るのが目的だったが、じつは一番面白かったのは、チョムスキアン対機能言語学のバトルだった。ぼくの結論は、(たくさんの機能言語学者がこの文章を読まれるだろうということを承知の上で、申し訳ないのですが)「両方とも間違っている!」だ。もちろん、機能言語学がチョムスキンアンに投げかけた問題提起は重要だと思う。それは、言語の実際の使用ということをどれだけシリアスに考えるかという点でだ。しかし、言語の実際の使用をシリアスに考えることは、決して、機能言語学が主張しているように、1) 文法の「自律性」を否定することにはならないし、2)「頻度」によって文法を再構成できることにもならない。

文法を、どのような意味においても、神経系に埋め込まれたものと考えることはナンセンスだと思う。なぜなら、文法とは基本的に規範的なものだからだ。神経系に埋め込まれたものは、因果的であっても規範的ではありえない。が、まさにそれゆえに、文法は「自律的」であり、また「頻度」では捉えられないと思う。文法は、わたしたちが日ごろ行なっていること(文を実際の場面で使うこと)に対する一つの記述であるにすぎない。一方、わたしたちが行なっていること(practice)は、規範的である。つまり、間違ったやり方と正しいやり方があるけれど、何が正しいやり方かは多数決では決まらないという意味で、規範的なことがらは「頻度」とは(概念的に)独立である。また、規範的であるということは、現実のあり様(この世界がどのようになっているか、わたしたちが何を経験しているかなど)とも独立であるいう意味で、文法はやはり「自律的」である。つまり、文法的な正しさは、文法的なルールによってのみ決まるのであって、ぼくたちの経験がどうだとか、実際に地球は丸いなどということによって決まるわけではない。幾何学の例がわかりやすい。ユークリッド幾何学において三角形の内角の和が180度になるのは、実際にいろんな三角形の内角の和を実際に測ってみた結果「発見」されるわけではない。それは幾何学の体系によって決まるのだ。だから逆に、実際にいろんな三角形を紙に書いてみて、全部、内角の和が180度になるからといって、非ユークリッド幾何学が間違っていることにもならない。たしかに、現実のあり様に照らしてどちらが便利かは決定的に違うことがある。家を建てたりするときにはユークリッド幾何学が便利だし、飛行機を飛ばすときには、ユークリッド幾何学でやったりすれば、アメリカに行くはずが大気圏外に飛び出してしまう。だからといって、幾何学的命題の正しさが現実との対応によって決まるわけではない。これは、幾何学の規範性の問題だ(ヴィトゲンシュタインのZettelの572節参照)。文法も基本的に同じだと、ぼくは思う。

サンタバーバラでは、同じ寮に泊まっていた日本人の言語学者といろいろつめた議論できて楽しかった(新しい友人もたくさんできた。うれしい)。多くの方たちが機能言語学者だった。そして、ぼくの意見に心から同意してくれる人は、誰もいなかった。


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