No.13 「ニューヨークはこんな町?〜 私の印象・街中編 〜」 〜平川幸彦先生の在外便り その四〜

平川幸彦 記

ニューヨークの街中  昔、ドイツに2年住んで急に日本に帰国した時、日本人がドイツ人とは異なる人種に属するとあらためて感じ、また日本人の普通の表情が笑っているように見えて、不思議に感じた。ひとことで言えば、カルチャーショックである。

 今回、ドイツのベルリンに11ヶ月住んだ後、ニューヨークに来た時、私のカルチャーショックは2つある。第1点は、アメリカ人はヨーロッパの人と比べて、平均的に、かなり太っているように見えたこと。第2点は、女性が非常に活発でよくしゃべり、はつらつとしているように見えたことである。特に第2点については、強い印象を持った。私は、これまで無意識のうちにヨーロッパの女性もアメリカの女性と同様に活発であると思っていた。

 けれどもニューヨークの町全体の印象は、どうももう一つ明確ではない。私はこの町に3月からもう2ヶ月も住み、5月中旬には、またベルリンに戻るというのに、この町をどう表現していいのか、適当な言葉が見つからない。おそらくアメリカ独自の文化を期待しすぎるせいだと思う。

 私にとってニューヨークは、町らしくない町である。この町には、世界中から多くの人たちが、移り住んでいて、国際色豊かである。もっともその国際色は、さまざまな民族が、それぞれの風俗・習慣をかなり強く維持していて、必要に応じて他の民族の人たちと、共通語である英語で交流しているだけのように見えなくもない。こんな情況をニューヨークでは「サラダボール現象」と言うらしい。私に言わせれば、さしずめ町が完成する前の「合宿状態」といったところで、落ちつかない。ヨーロッパや日本の感覚からすると、ニューヨークは、どうも町らしくない町に見えてしまう。この町に長く住んでいる人達にしてみれば、よけいなおせっかいに違いないけれど、やはり「これでいいのかな?」と思わずにはいられない。

 ニューヨークにある各民族のコミュニティーについて見ると、それぞれ母国の文化をにかなり忠実に反映しているようで、日常生活は極めて快適である。ニューヨークに居ながらにして、世界の風俗・習慣、そして食文化を、それほど困難なく体験できる。例えば、ドイツ系の人達はニューヨークで、適当な値段で、ちゃんとドイツのソーセージを食べながらドイツの生ビールを味わえるし、中国系の人たちも、巨大なチャイナタウンで、比較的安く本格的な中華料理を食べることができる。日本の食料品店やレストランも多くて、日本人は日本と同じ「カキ氷」を、日本とほぼ同じ値段で味わうことができる。また日系のパン屋さんでは、アンパンは「こしあん」と「おぐらあん」の選択することができる。「何で日本から遠く離れた外国で、そんな選択が必要なのだろう」と思いつつ、日本人の私は ―― 半分ドイツ人かもしれない(?) ――、「こしあん」と「おぐらあん」を選択する瞬間は、やはり非常にうれしい。そして日本茶を飲みながらアンパンを食べると、幸せな気持ちになる。こんな風にそれほど苦労することなく自分の所属する民族の文化に浸りながら、他の民族の文化に触れられる快適さも、世界からニューヨークに人が集まる理由なのだろうと思う。

 私が住んでいる地区について見ると、この地区は民族色が強烈である。私は、商店街とアパートが混在した、にぎやかな下町に住んでいるが、住民はギリシャからの移民の人達が一番多く、次にメキシコ系やスペイン系あるいはスペイン語を話す人達が多い。ここにはアテネ市民が寄贈した公園があり、ギリシャ語の看板も多く、ギリシャ文字の新聞が当然のごとく新聞スタンドに並んでいる。コーヒーショップも、どことなくギリシャの雰囲気である。昨日の深夜には、ギリシャのサッカーナショナルチームの応援団が、大きな応援団旗を持って、私の住むアパートの前を騒々しく練り歩いていた。また私は、フィリピン系あるいは南米系アジア人と間違われるらしく、時々、通りやお店で、「アミーゴ(amigo)」と呼びかけられ、スペイン語で話しかけられる。正直に言って、「自分は何人(なにじん)なのだろう?」と思わないでもない。しかしそれよりも先に、「ここはアメリカのはずだけど - -」と首をかしげたくなる。

 そう言えば、テレビのニュースで、その日の野球の試合を紹介する時、毎日、ほとんどニューヨークヤンキースとメッツの試合ばかりである。特にヤンキースが勝てば、キャスターもごきげん、これで今晩も熟睡できる - - といった風で、ニュースの野球報道は、ニューヨーク自体も、独立したコミュニティーであることを確認する時間のようでもある。

 でも私は思う。アメリカンリーグとナショナルリーグのリーグ戦は、どうなっているのだろう。アメリカ全体の両リーグを総合した個人成績は、一体、どうなっているのだろう。

 私のかなり偏った見方からすれば、人々の共通の大きな関心事は、治安、経済の動向といった、ごく大まかなことのように見える。確かにそれは人々が選択した価値観だから、それで良い。けれどもそれらの価値についても、全国レベルにおいて、多様な人たちのコンセンサスを得るのは難しいだろうと、これまた余計な想像をしてしまう。

 ニューヨークの特殊な情況を、そのままアメリカ合衆国全体に一般化して考えることはできない。しかしあえてニューヨークの情況からアメリカ合衆国全体の情況を想像してみると、この国の政治家にとって、人々に迎合したり、また扇動することなく、正しい判断を貫くことは、容易ではないと思う。また政治家を批判するマスコミの役割も重要であろう。裁判所について見れば、紛争の解決という側面だけでなく、社会的・政治的な影響力も大きいだろう。そして法律学について見れば、アメリカがヨーロッパと異なり、理論の体系よりも、裁判における具体的な妥当性を大切にすることが、毎日の生活から理解できそうである。

 この国の政治家と裁判所の責任は大きいし、彼等を批判するマスコミの責任も大きい。また世界の超大国がアメリカ1国になってしまった今、世界各国もアメリカを説得し、批判する勇気を持つことが必要であろうと思う。昨年9月のニューヨークの事件のあと、アフガニスタンで戦争があっただけに、余計、そう思う。

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