No.21 「昨年のイギリス」〜菅野忠先生の在外便り その三〜
菅野忠 記
イギリスの冬は短い。え? 「イギリスの夏は短い」と言って書き出したのが初めの便りだったが、今度の冬は来たのかどうか良くわからないうちに終わりかけている。こんな冬は異常で、イギリスらしくないこと甚だしい。以前経験した冬はもっとずっと寒く長く、北国の冬は明けるのが待ち遠しいことが実感できたのだが。
話題に乏しいときに天候の話をするのがイギリス人の常だが、それだけでは面白くなかろうと思うので、趣を変えて昨年を振り返って見よう。
僕がイギリスに渡る前の二月にはエリザベス女王の妹君マーガレット王女が脳卒中で七十一年の生涯を終え、続く三月末には母君エリザベス太后が百一歳の年を享けて薨られた。女王はしたがって喪に服する年ではあったが、一方では即位五十周年(Golden
Jubilee)の祝典が六月三日に挙行された。僕はこれをテレビで見ていたが、バッキンガム宮殿を黄金色の馬車に乗って出た女王の隊列は、隣の席にエジンバラ公フィリップ殿下、チャールズ王太子とその妹君アン王女が鞍上の人となられて付き随い、モール(Mall)と呼ばれる宮殿前から東西に真っ直ぐ伸びた道を粛々と、それに続くストランド(Strand)通に向かって歩んで行った。ストランド通の東端にある英国最高法院の建物で即位五十周年の祝宴が行なわれたのである。イギリスは依然馬の国である。騎馬警官が自動車の列を縫って悠然と闊歩する国である。日本でも四十五年前の明仁皇太子(今上天皇)殿下御成婚の際は騎馬警官が皇太子御夫妻の馬車を護って東京の街を皇居から赤坂御所まで進んだのだが、徳仁皇太子殿下の時は自動車とバイクになってしまいがっかりしたのを思い出す。
女王が父王ジョージ六世の薨去に従い王位を承けたのは千九百五十二年二月六日であるが、戴冠式は翌千九百五十三年六月二日に行なわれたのである。そのため即位五十周年式典に六月三日が選ばれたのである。この日夜には、宮殿中庭で(直後に再婚した)ポール・マッカートニー卿等による野外ポップコンサートが行なわれ女王御一家も御鑑賞あらせられたのである。前日の六月二日には蹴球世界杯のイングランド戦があり、一日土曜から四日火曜まで珍しく四連休になったイギリスは天気にも恵まれて各地で大いに賑わった。この期間にオクスフォードでは城山が特別公開され、僕も登ってオクスフォードの街並みを眺めた。オクスフォード城は市中心部の南東に位置し、現在は市役所になっている。しかし城の塔の周りは少し前まで刑務所だった。一般公開の時にこの旧刑務所内部も公開され、僕は初めて刑務所の中に入った。日本でも刑務所には勿論無縁の存在だったので内部を見たことは無く、映画などで見る刑務所をやっと実感できたのである。囚人として収監されるのは一切御免蒙るが。この時、刑務所をホテルに改造する計画が進んでいる事を知り、「ホテル刑務所」に果たして御客が入るのを期待しているのかどうか些か疑問に感じた。新らし物好きのイギリス人のことだから案外流行るかもしれないが。
八月に入るとテレビと新聞は連日、ケンブリッジ近郊のソデムで起こった、ホリー・ウェルズちゃんとジェシカ・チャップマンちゃんと言う共に十歳の二人の女の子が失踪した事件の報道に明け暮れた。二人は、日本でも有名になったデビッド・ベッカムが活躍する人気蹴球チーム、マンチェスターユナイテッドの赤いユニホームを着て仲良く出かけた後失踪したのである。二週間ほど後になって、二人が通っていた学校の元用務員イアン・ハントリー被告とその恋人マキシン・カー被告が逮捕され、共に否認していたが、間もなく二人の女の子は隣のサフォーク県の雑木林で遺体となって発見され全国の涙を誘ったのである。カー被告は二人の属するクラスの指導補助員として働き馴染んでいたので、二人は疑いを持たず誘いに乗り、ハントリー被告の毒牙にかかったものと推測されるが、ハントリー被告は殺人罪でカー被告は司法妨害罪で起訴され現在裁判が進行中である。警察は密かに二人の周囲にいる不審人物を根こそぎ洗っていたのであり、その捜査力には感嘆する。が、警察による遺体発見の努力はついに実らず、遺体が腐乱した臭いで二週間後に民間人によって発見されるに至った。
ほぼ時を同じくしてイギリスでは、チャネル4の番組Big Brotherが人気を博し、視聴率上位を占め続けた。この番組はほとんど見ていないので確かではないが、対象に選ばれた数人の男女が生活する様子をテレビカメラで捉え、視聴者に提供すると言うものである。風呂に入っている所や寝室の場面まで生々しく映し出され、人々の覗き見趣味を大いに掻き立てたのである。登場人物の人気投票が行なわれ、下位の者から消えて行き、最後に残った者が栄冠を勝ち取り多額の賞金を得ると言う趣向で多分十月頃まで続いたと思う。
人気投票と言えば、Great Britonと言う番組がBBCで放送され、最後の十一月末の放送においてベストテンを決める電話と電子メールによる投票が行なわれたのを思い出す。英国人三万人を対象とするアンケート調査でGreat
Briton(偉大な英国人)と呼ぶに値する人物(故人に限る)を予め選び出し、上位十人について約一ヶ月にわたって個別に放送した。最終放送において十人をそれぞれ支持する有識者の意見を闘わせ、同時にスタジオの観衆と外部の人、都合約百六十万余票を集めたのである。堂々一位に輝いたのは御存知ウィンストン・チャーチル卿であり、二十八パーセントの票を占めた。第二次大戦においてナチスドイツの猛烈な空襲に耐え、首相として国民の士気を鼓舞し本土侵攻を未然に防いだ功績が高く評価されたのである。同じ保守党元首相でも、昨年九月に元保健相との不倫関係を暴き立てられたメージャー氏のような人もいるが。次いで十二月には労働党ブレア首相の妻が不動産購入時に過去に詐欺罪で有罪になった男が仲介に関わっていたとして非難された。チャーチル卿の生家はオクスフォードの北ウッドストックの近くにあり、広大な敷地にブレナム(Blenheim)宮殿と呼ばれる壮大な建物が残されている。
二十五パーセントの票を集め二位に続いたのはブルネル氏である。この人物は十九世紀にロンドンのテムズ河に今も残る河底トンネルを構築し、最初の大西洋横断大型汽船を設計し、ロンドンとブリストルを結ぶ鉄道建設に関わった、土木造船技術者である。科学・技術に携わる人物を高く評価するイギリスならではの結果である。因みに科学者としては、四位にダーウィン、六位にニュートンが入った。
十四パーセントの票を得て三位に入ったのはダイアナ元王太子妃である。ここまでで票の三分の二を占め、後は七パーセント以下の票に分かれて頭を並べているに過ぎないので、順位を紹介するに留める。五位はシェクスピア、七位はエリザベス一世、八位はジョン・レノン、九位はネルソン提督、十位はクロムウェルである。いずれも有名なので改めて御紹介することもなかろう。
昨年はダイアナ元妃が自動車事故で冥界に旅立たれて五周年であった。元妃の事故については僕自身ある種の思い入れがある。と言うのは五年前の八月三十一の日曜早朝五時、日本からオクスフォードに到着間もなくで時差が残り、朝早く目覚めて日本の短波放送を聞いていた時、突如ダイアナ元妃薨去のニュースが飛び込んで来たのである。イギリス人は早起きとはいえ五時ではまだほとんどの人達が夢を結んでいた時刻である。したがって僕はほとんどのイギリス人より逸早くそのニュースを耳にしたことになる。六時頃からは各放送局で報道が始まりイギリス全土に燎原の火のごとく広がっていったのである。元妃は、秀でた容姿と優しい人柄で、ウィリアムとヘンリー(愛称ハリー)二人の王子に恵まれ、将来の国母として「国民のプリンセス」と慕われていたが、夫チャールズ王太子との夫婦仲に恵まれず、離婚に至ったのは御存知の通りである。僕は事故までダイアナ元妃の出自を知らず、保母をしていたと言う経歴から平民の出だと勘違いしていたが、豈計らんや、スペンサー伯爵令嬢だったのである。因みにチャーチル卿はレオナルド・スペンサーのミドルネームを持つ。実はチャーチル卿の生家モールバラ(Marlborough)公爵家はスペンサー伯爵家から分かれた家系なのである。したがってダイアナ元妃とチャーチル卿は遠い親戚になる。始めは同じスペンサー伯爵家だったが、十七世紀半ばに起こった内乱モールバラの戦いにおける功績でモールバラ公爵に叙せられ、更に十八世紀初頭のスペイン継承戦争でモールバラ公がドイツのブレナムで活躍し、戦勝記念に宮殿が建てられたのである。一週間後の九月六土曜日に挙行された葬儀は衛星中継で全世界に放映され数億人の視聴者が見たと言われる。当日ロンドンには百万以上の人が集まり葬列を見送った。僕はその時テレビを持っていなかったのでラジオ中継に耳を傾けたが、人通りがぱたりと途絶え粛然とした静寂に包まれたことを明瞭に覚えている。この葬儀に際し、父の離婚により幼い時に生母から共に引き離され継母との関係における苦しみを分かち慰め合った弟、チャールズ・スペンサー現伯爵(当時子爵)が誄(しのびごと)を述べた。驚くことに、誄を語り終えた時、期せずして盛大な拍手がウェストミンスター寺院内部に鳴り響いたのである。葬儀に拍手など異例のことであることは言うまでも無い。しかし、それほど彼の誄は感動的だったのである。全文を控えてあるので興味のある諸君には御見せしても良いが、誄の半ば過ぎに「狩の女神の名(ダイアナ)を与えられた娘が、生涯の終わりに、現代でも最も狩られた人物になった」皮肉(元妃の乗った黒塗ベンツはパパラッチと呼ばれる写真家達の追走から逃れるためパリの街を疾走し終にセーヌ河畔のトンネルの壁に激突した)を述べると共に、元妃の愛息二人が同じ憂き目に遭わない様に守り、「血族として、この二人のかけがえのない若者を貴方(元妃)が導こうとしていた道を続けて歩ませることに全力を尽くす」と訴えた。そして最後に「ウィリアム、ハリー、私達は今日君たちを死物狂いで護る」と結んだ。この行(くだり)に至ってスペンサー伯は感極まって声は震え、聴衆の深い感動を誘い惜しみない拍手に結びついたのである。しかしこれは一面王室に対する介入にも取れる問題発言である。もとより両王子は王室の宝であり、叔父とは言え臣下である伯爵の云々できる性質のものではない。だが元妃の薨去に際し王室が弔意を目に見える形(例えば半旗を掲げること、商店や家々は一斉に半旗を掲げた)で示さなかったことに対する世論の批判はこの発言に当時積極的な支持を与えたのである。
人の噂も七十五日、翌年の一周忌こそ元妃の住まわれたケンジントン宮殿前は前年同様花に埋め尽くされたものの、次年の三回忌には比較的大きく報道したのはタブロイド紙一つのみで後はひっそりと記事の片隅を埋めただけだった。三年目、四年目はほとんど扱われず、五年目も記事は少なかったが、国民的人気がひどく衰えた訳ではない事が上記の投票結果に現れている。新聞屋は売れる記事しか取り上げないのは、商売とは言え少し悲しい気がする。
最後になるが、十一月末には消防士組合が賃上げを要求して八日間のストライキを打ち抜いた。僕が学生の頃、当時の国労が六日か七日ストを打ち抜いたのが思い起こされる。この間消防士の代わりに軍が動員され消火活動にあたった。日本では労働組合の力が殺がれて久しいが、イギリスではまだまだ健在である。なにしろ労働党が政権を維持しているのだから。国民は消防士のストに怒るどころか、街角で訴える組合有志達に通り過ぎる車がクラクションを鳴らして支持を示す光景が当たり前のように見られた。イギリスは穏やかにインフレが続き、特に不動産価格はこの十年で倍以上に跳ね上がった。空前の低金利(といっても日本よりまだかなり高い)が不動産取得意欲を底支えしているのである。インフレによる賃金の目減りを賃上げで補わなければならないのである。ポンド高と日本のデフレも手伝って僕にはイギリスの物価上昇が痛い。
さてこの記事が諸君の目に触れる頃、僕はもう日本に帰っている。拙い話に御付き合い頂いた諸君に感謝する。どこかで御目に懸かる事もあろう。

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