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No.25 「教える」ということ−最近読んだ本から−
福田清明 記皆様もすでにテレビでご覧になったでしょうが、キンチョールのコマーシャルで、俳優の大滝秀治さんと岸部一徳さんが出演して、岸部氏扮する息子が至極ご尤もなことを言いかけたときに、間髪を入れず大滝氏扮する老父が「つまらん、おまえの話はつまらん!」と大きな声で遮ります。このコマーシャル・フィルムは、名優の演技力もあってか、短いものなのに、私の記憶に残ります。それは、スポンサーまたは監督が本当に伝えようとしていることがよくわるからだけではなく、研究職と教育職である大学教員を何年か務めてきた私が、自分の授業を聴講した学生の感想を聞いているかのようだからです。 小中学生が加害者および被害者になる犯罪との関係で俎上に上がる家庭教育、学力低下が喧伝されている初等・中等・高等の学校教育、生き残りのために優秀な後継者を必要とするが企業が自前で社内教育をする余裕がなくなり注目されている職業教育、高齢化社会の到来で大きな需要が見込まれる社会人教育といった具合に、現在、教育問題は、焦眉の急です。社会の変遷に伴い、教育を受ける者も教育を行なう者も、さらに教育に対する社会的要請も変化している部分が多々あるので、以前と同じ教育制度、教育目標、教育方法は、修正を余儀なくされているのでありましょう。高所大所から教育を論ずるというのではなく、明日または来年の担当科目の授業をどうしようかという視点から、私が最近読んだ何冊かの本を紹介します。その際に、教育という社会関係の両端の一方は、教育を受ける者なので、その者から見た教育、すなわち学習に関する図書も紹介します。 私の専門領域である民法の領域で、とても参考になるのは、米倉明『民法の教え方―一つのアプローチ』(弘文堂、2001年)です。同書には、著者の35年以上にわたる研究者および教育者としての体験(どちらもすばらしい業績です)に基づいた、体系的かつ具体的なアドバイスが詰まっています。奏功するかどうかは、まずは、本書に含まれている提案を私が実践できるかどうかに係っているといえます。この著者は、読んで面白い数多くの資料を満載している『民法の聴きどころ』(成文堂、2003年)を、今年になって公刊しました。民法教育について提言をしている著者が民法学習法で何を重要であると考えているかを、図書館でもよいですから是非調べて頂きたいと思います(ここまでやれば申し分ないという法律全般の学習については、弥永真生『法律学習マニュアル』有斐閣、2001年があります)。そして、すぐに実現できる部分だけでも真似してみましょう。 大村はま『教師 大村はま96歳の仕事』(小学館、2003年)は、「単元学習」を考案し、高等女学校と新制中学校で52年間にわたり国語教師として実践され、退職後も国語教育について発言し続けている著者の96歳における1年間の仕事をまとめたものです(大村はま・苅谷 夏子・苅谷 剛彦『教えることの復権』(ちくま新書、2003年)は、対話または鼎談形式で論が展開されています)。著者による国語の授業が具体的に説明されていますが、法律科目の講義にそのまま当てはめるのは難しいかもしれません。職業としての教師にとって責任が「教えること」にあること、「教えること」は用意周到な準備と教師が身をもって教えることを必要とすることは、基本的には賛同できます。子供の自主性に初めから任せることの危うさ、子供の評価とは、試験とは異なり、指導していく指針を得るためのものであること、さらに、教師は、テストにおける設問の目的と根拠をきっちりと説明できなくてはならず、解答と解説は、不正解を答えた生徒の誤解を解くように詳細に書かれなければならないこと、子供を知るために、子供の心に響く話をして教師は、子供が心を開く雰囲気を醸し出さなければならないことが、述べられています(「忙しい」と言って、親または教師が子供の話を聞くことを拒否することは厳禁だそうです)。浴衣の畳み方を悩んでいる子供に、「きちんとたたみなさい」というのではなく「裾を持ちなさい」というように、小言を含んだ言葉ではなく、具体的に必ず成功できることを指示できることこそが、教師の「教えること」であるという説明は、正鵠を射ています。社会的使命を感じ、職業として教師を選んだ以上、「教えること」を教師はしなければならないと、大村氏は、喝破します(ここでいう「職業」とは、天職または召命という語に翻訳されるべき英語のcalling、ドイツ語のBerufであろうと私は感じました。これらの単語は、神の呼び声という意味から宗教改革後に職業という意味に転化したものだそうです。詳しくはマックス・ヴェーバー(大塚 久雄 ・翻訳)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫、1989年)、とりわけ訳者の解説を参照)。本書で紹介されている大村氏の授業は、教師が生徒を巻き込むという意味で、NHKの教育テレビ木曜夜10時25分〜50分に放送されている『わくわく授業――私の教え方――』を想起させます。 来年明治学院にも開校される法科大学院との関係で、米国のロー・スクールに関する本に目を通します。これまでにもかなりの本が日本語で出版されています(「消費情報環境法学科共同研究室」のホームページの「今月の本・最近の出来事」のNo.3でも紹介されています)。最近読んだ、ダグラス・K・フリーマン『リ一ガル・エリートたちの挑戦――コロンビア・ロースクールで学んで』(商事法務、2003年)の著者は、小学校から大学まで日本で学び、司法試験に合格し、司法修習後に外資系証券会社に就職し、その後に米国のロー・スクールで3年間学び(JD取得)、弁護士資格を取得し、現在、米国の法律事務所に勤めています。日米の法曹養成を熟知している著者が、いわば日本人の目から、ロー・スクール教育を体験して両国を比較しています。判例法国(米国)と法典法国(日本)の法律学習の違いにも興味をもちましたが(著者も書いているように米国流を「直輸入」することはできないでありましょう)、ロー・スクールの教授の「教え方」が印象的です。なぜなら、多くの教授が、答えを言わない、学生を困惑させる、そして「沈むか泳ぐか」のスパルタ式教育法(子供に泳法を教える際にいきなり水中に投げ込んで泳ぎを覚えさせる方法)を採用しているからです。前の段落で、子供を「教えること」について言われたこととは、まったく違うと思われます。学ぶ者が大人で、明確な動機をもち、学生間の競争に駆られて、短期間の間に法律家の素養をつけるロー・スクールだからこそ、妥当する教育方法なのでしょう。 何冊かの本を読み、何人かの人から話を聞き、どのように「教えること」をすればよいかを考えると、回答は一つではなく、本当に難しいのです。知識および考え方を教えすぎるのはよくないということも耳にします。多分このような言説は、20〜30年前までは日本で一般的であった大学での教育不熱心の反動として、司法試験予備校などの影響もあって登場した、「教え尽くすことが善である」という考えに異を唱えているのだと思います。学校における知識伝達については、インターネットの発達で、昔のような意味はなく、教育の目標は、学生の動機付けに価値がより置かれるようになったともいわれます。いろいろな意見を聞き戸惑いますが、様々な教育方法論に共通していることは、学ぶ者に対して個別対応すること、学ぶ者をワクワクドキドキさせながら参加させること、評価をしっかりおこなうこと、そして最後に、教師が教えることを「職業」と捉えることでしょうか。細かいことは、試行錯誤によって改良させていくしかありません。学生から「先生の話すことは、つまらん」と言われないようにしなければ。たとえ話す内容が、正しいことであったとしても。 |