No.6 「Franzのこと」〜平川幸彦先生の在外便り その一〜平川幸彦記今年の8月に、私の友人のFranzがこの世を去った。難病で長年、苦しんだ末の死だった。人は友人や知人がなくなると、心に大きな穴が開いたような虚脱感といったようなものを感じるものだが、彼は私の親友だっただけに、彼の死は私にとって、特別に重たかった。 Franzと知り合ったのは、1983年の9月ごろだったと思う。私はドイツの小さな町にある大学で法律を学ぶことになり、巨大な学生寮の5階の一室に住むことになったが、Franzも同じ5階に住んでいた。私が学生寮に入居して1週間ほどしたある日、学生寮の5階でエレベーターを待っていた彼とばったりと会った。彼は私が遠くアジアから来たこと、彼と同じ法律を学ぶ学生であること、それも国家試験とは関係のないカルテル法(日本の独禁法にあたる)という彼にとってはどうでもいいような法律を学んでいることに多少、興味を引かれたようだった。彼は私の拙いドイツ語を辛抱して聞いてくれた。その時、私は「ドイツには、こんな辛抱強い学生もいるんだ」と感心したが、その後、彼と親しくなって、彼がなぜ辛抱強いか、その理由がよくわかった。 彼は当時から難病に苦しんでいて、長時間にわたって勉強に集中することができなかった。当時、その病気を知る医者も少なかったし、彼の通常の生活ぶりは健常者とそう変わらなかったから、彼が自分が病気だと言っても、彼の言葉を信じる人は多くはなかった。しかし体調が悪くなると、一日中、ベットに横たわる生活が続くこともあるし、医者の治療も受けなければならない。付加的な治療や療養も必要になる。でも治療や療養は、彼にとって、そう簡単なことではなかった。彼は何かにつけ、自分が難病にかかっていることを証明しなければならなかった。保険会社に支払いを請求するにしても、学生寮に住み続けるにしても - - 。彼は家庭が恵まれないこともあって、自分が生きていくためには、誰よりも自分自身が頑張る必要があった。と書くと、いかにも悲壮感が漂ってくるが、彼はいつもいたって平静、その生来、無邪気で楽天的と思われる性格で、あっちこっちで何とか協力者を見つけ出してきては、その場をしのいでいた。そして私も彼の協力者、しかもおそらく、貴重な協力者の一人になった。 Franzは、知的好奇心が旺盛で、なかなかのインテリだったし、またおしゃべり好きでサービス精神があったから、彼の体調のいい時は、誰にとっても好ましい友達だった。私にもいろんなことを教えてくれた。ドイツの社会階層のこと、教育のこと、キリスト教のこと、人間関係のこと、特にドイツの家庭の親と子の関係、男女関係や恋愛は、彼の最も得意とするところで、卒業生や現役の一般学生の話しから、学生寮の特定の学生の話しまで、よくそんなに知ってるなと思うぐらい、いろんな興味深い話しをしてくれた。しかし彼の体調がよくない時は、正直に言って、厄介だった。突如、人の部屋にやってきて、強引に何やかやと頼み事をする。私は日本で育った日本人でドイツ語は第2外国語でしかなく、ドイツ語を満足に読み書きもできず、法律を勉強する以前の状況なのに、その上Franzの面倒を見るのはつらかった。でも私は、なぜか彼の依頼を、一度も断ったことがないように思う。そう言えば、Franzは体調のいい時も、寂しさからかもしれないが、何かと私のところに来た。彼は真夜中に気晴らしのドライブをするのが好きで、私もしばしば付き合った。また彼がとうとう学生寮に住み続けることができなくなった時も、彼は突然、私の部屋にやって来た。そして私は彼と一緒に、車で1時間以上も走って、彼が新居に必要だという安い家具を買いに行くことになった。私は「いくら安いからといって、こんな遠くまで来て家具を買うことはないだろう」と少々うんざりしたが、彼のばつの悪そうな、それでいて無邪気な顔を見ると、彼を責める気にはならなかった。 私はFranzがとても好きだった。彼の人を見る目は確かで、彼が「いい人だ」という人は、例外なく、いい人だった。また彼は不治の難病にもかかわらず、楽観的になろうと常に努力していた。人を喜ばせて笑顔を見るのが好きだった。ただ私には今も気になっていることが1つある。彼は自分は今の社会には満足しているといつも言っていたが、私は彼の苦労を思うと、とても彼の言葉を、そのまま受け取ることはできなかった。私には、彼が生きていくのになぜそんなに苦労しなければならないのか、法律はなぜもっと柔軟になれないのか、疑問だった。 なおFranzの彼の名誉のために言っておきたいが、彼は1985年に、苦労の末ではあるが、何とか国家試験に合格し、無事、大学を卒業することができた。当時、私もまだ学生寮にいて、学生寮のホールで行われた彼の卒業パーティーに参加した。私は彼の卒業を、ホール一杯の彼の知人や友人達と祝うことができて、大変、光栄に思った。しかし同時に、Franzの晴れがましい神妙な姿が、ほほえましくも妙におかしかったことを覚えている。 けれどもFranz のその後の人生は、気の毒だった。彼の体はもう司法修習には耐えられなかったし、まもなく車椅子の生活となった。しかし彼は、決して悲観的にはならなかった。彼が、なぜ悲観的にならなかったか、あるいは悲観的になろうとしなかったか、私には思い当たる節がある。彼とは何度か一緒に、修道院に行ったことがあるが、そこで会った修道士のことを彼はこう言っていた。「あの修道士は、入院して病院のベッドで寝ているときも、『具合はどうですか』と聞くと、いつも『元気だよ』と答えるんだ。全くたいした坊さんだよ。」Franzは、神を信じていたし、聖書が好きだった。彼にとって死は、この世の人生の終わりにすぎなかったのだと思う。 私は昨年のクリスマスに、Franzに手紙を書いた。私が今年4月から在外研究で、ドイツのベルリンに滞在することになり、ようやく10年ぶりに彼と再会できることを知らせた。私は彼がすでにベッドに寝たきりになっていることは知っていたので、彼から返事は来なくとも、私の手紙が返送されて来なければ、彼が存命だろうから、それでいいと思っていた。しかし私の手紙は、何と私が日本を発つ間際の3月下旬に、日本に返送されてきた。私は多分、彼はまだ存命だろうとは思ったものの、ドイツのベルリンに到着するとすぐに、学生寮の元管理人の奥さんに電話をした。案の定、彼は存命であり、意識もかなりはっきりしているとのことだった。いつものとおり人騒がせなFranzだとは思ったが、私はベルリンに落ち着くと、早速、彼に会いに行った。 Franzは、病院ではなく、老人ホームにいた。それは死期が近いことを意味していた。彼の部屋には、学生寮の元管理人の奥さんと一緒に入った。彼はすぐに私に気が付いた。彼女が「この人は誰?」と聞くと、Franzはすぐさま「Satchi ! Satchihiko Hirakawa! Bist Du mit dem Flugzeug gekommen ? (サチ、ヒラカワサチヒコ、飛行機で来たのかい)」と言った。私は大いに安心した。私がふざけて、彼のもう動かなくなった両手・両足の影に隠れて、また顔を出すと、彼は昔のあの笑い顔を見せて「Dein Lachen steckt mich an !(お前の笑い顔は、僕にうつるよ)」と言った。私は笑ったつもりは全然なかったが、私が日本人特有の顔をしており、何もしないでも笑ったように見えることを、この時ほどありがたいと思ったことはなかった。Franz を笑わせることができたのだから - - -。 その後、8月はじめに、学生寮の元管理人の奥さんから電話があり、Franzが7月末に亡くなり、密葬されたことを知った。私が家族を連れて彼のお見舞いに行こうと予定していた日のちょうど10日前だった。私は家族と共に、彼の老人ホームの部屋ではなく、お墓に行くことになった。彼が埋葬されていたのは、私が彼と一緒に何回か来たことのある静かでよく手入れの行き届いた墓地だった。でも彼が埋葬されている場所には、まだ仮の墓標しかなくて、寂しさが募った。私が心の中で、「正式な墓標ができたらまた来るよ。今度は日本の辛口のお酒を持って来よう」と言うと、Franzが微笑んだ。私も微笑んで言った。「Dein Laecheln stecht mich auch an !(お前の笑い顔だって、僕にうつるよ)」 Franz 私は君と知り合えて幸せだった。また君のこの世の人生の最後に、それも意識のあるうちに再会できて、幸せだった。私が君と同じ病気だったら、とても君のように明るくはできないし、人に喜びを与えることもできないと思う。君はよくやったよ。それに君は私に、ドイツの社会の良い点も悪い点も、包みかくさず教えてくれた。ありがとう、Franz! |