ゼミナールの基本的内容

 当方のゼミナールのやりかたは、いわゆる教授対学生の関係ではない、当り前の人間関係ということを基本にしている。少なくとも、おたがいに相手を、まともに人格をそなえた個人として見るようにする。たとえば食事会とか合宿とかいうときにも、よくあるように、グループとしてそこにいることだけを拠りどころにしたり、いわゆる親睦をはかったりすることはしない。戸塚や白金でたまたま出あい、知りあい、さらにつきあいをつづけたいと感じはじめた個人同士が、自発的にどこかへ出かけてゆく、その結果が夜の会合になったり旅行になったりする──というふうであったらいい。

 3年次ゼミでは、テクストとして近・現代の詩的作品をとりあげることが多い。専門とするアンドレ・ブルトンやシュルレアリスムの先駆者の系譜を追っているわけで、ボードレール、ロートレアモン、そしてとくにここ数年は、アルチュール・ランボーの詩をつづけて読んでいる。一時間に一篇、担当者に発表してもらう。まだフランス語の力が充分ではない段階だろうから、語学的な解釈をまず徹底的にやる。そのうえで作品全体を見わたし、想像力をはたらかせながら読みをひろげる。感動が生まれる。そうすると外の世界が見えてくる。現代につながるさまざまな新しい感覚の萌芽をとらえ、共有し、世界、人間、歴史、文化を各個人のなかで再構成してゆく。そして、旅をする。

  4年次ゼミのほうは、いっそう開放的で自由な方式をとっている。こちらではテクストをあらかじめ決めることをせず、シュルレアリスムとその周辺の作品を軸に、文化、芸術、文学の広い領域にわたるいくつかのテーマを参加者が見つけだし、自分で発表してゆくようにする。たとえば「夢」なら「夢」、「妖精」なら「妖精」、「廃墟」なら「廃墟」といったものについて、それぞれ歴史的・社会的・心理的・美的・文学的・体験的にアプローチを試み、たがいに意見を出しあったりする。マン・レイやガウディやニジンスキーや小泉八雲といった芸術家・文学者を個別にとりあげて研究してもいい。ジャンルは何であってもいい。そんなふうに進めてゆくと、やはり外の世界が見えてくる。参加者ひとりひとりはそれを自分の眼で、広く遠く見わたしてゆき、たとえば卒業論文のテーマや卒業後の活動の場にめぐりあうということもある。
  ここ数年についていえば、アンドレ・ブルトンの大著『魔術的芸術』をとっかかりにしている。これは芸術そのものの起源にあった魔術(人類学や民族学の専門用語では「呪術」という)なるものに注目しつつ、従来のアカデミックな(あるいは常識的な)芸術史を書きかえようとした壮大な試みであり、近代の合理主義的思考にしばられない新しい世界観・人間観を示そうとした大胆な企てである。その概略をうけとめ、先入観を捨てたうえで、参加者は一連の芸術・文学作品を見、感じとりし、必要に応じて読み解いてゆく。その過程で現代の世界と人間のさまざまな問題に立ちむかうことができるようになれば、ゼミはいちおう意味があったことになる。
 とくに「見ること」を前提とするゼミなので、時間がおわってからも、いろいろな映画をヴィデオで観る。美術館や画廊へ展覧会を見に行ったり、講演を聴きに行ったりする。そして希望者が多いようなら、年度末に海外旅行を試みることもある。作品を見ることと町々を歩くことが連続してくると、また新しい充実した体験が可能になる。といっても、これは希望者だけがすることなので、その気がなければ加わらなくてもかまわないし、計画自体を立てなくてもかまわない。
  ゼミの参加者の傾向は年度によってすこしずつちがう。ただ、シュルレアリスム周辺の現代文学や美術、映画、写真、ダンス、建築、庭園、旅、ファッション、料理など、文化一般に興味をもつ人々が集まりがちである。そのなかにはいわゆる変り者もいるかもしれない。だがここは、個性が発揮されれば発揮されるほどおもしろくなってくる場でもあるから、ひとりひとりが好きなようにやればいい。こちらはどんな参加者も大人として認め、それぞれの関心を重んじるようにするので、卒業してからもつきあいつづけるといったケースが多い。
 まあ、ざっとそんなところだろうか。これはよくあることだが、今年(1996年度)も自発的にゼミに参加してくる卒業生が何人かいたので、そのうちのお二人に体験記・印象記を書いてもらった。戸塚(旧姓・手塚)貴子さんと長谷川晶子さんである。参考までに引用させていただきます。

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