2018年4月、明治学院大学法学部にグローバル法学科が開設されます!

ここ数年間、法学部の同僚の先生方とともに、新学科設置のための準備作業に全力を投入してきました。その甲斐あって、今年(2017年)4月に文部科学省への届出が無事完了し、来年(2018年)4月から明治学院大学法学部に、法律学科・政治学科・消費情報環境法学科に続く4番目の学科として、「グローバル法学科」が開設されることになりました。

と言っても、一体どのような特色をもった学科なのか、どのようなカリキュラムが提供されるのか、卒業生はどのような職業に進むのか等々、具体的なイメージが湧かないという方も多いかと思います。そのような方はぜひグローバル法学科の特設サイトをご覧下さい。このサイトにはかなり詳しい情報が載っています。

実は、私も来年4月からグローバル法学科に移籍することになっており、上記のサイトには学科主任予定者としてメッセージを書かせていただきました。こちらもご一読いただければ幸いです。

グローバル法学科は我々教員と学生さんたちとのジョイントベンチャーだと思います。我々とともに国境を越えた知的な冒険に挑もうという志と勇気をもった高校生の皆さん、ぜひグローバル法学科にいらして下さい。一緒に前人未踏の地にチャレンジしましょう。我々の未来に乾杯!
(2017年8月4日)


私たちにできることは何か?

東日本大震災から2年が経ちました。改めて、被災された方々に対して心よりお見舞いを申し上げます。

復興の道いまだ遠しというのが、偽らざる現状ではないでしょうか。依然として多くの方が住み慣れた故郷を離れ、あるいは震災の爪痕の残る故郷に留まり、ご自分の生活の再建のために、あるいは地域の復興のために、日々並々ならぬご苦労をされていると思います。避難先でのストレスのため、健康を害された方も少なくないと聞いています。そんな報道に触れながら、日々の生活に追われ、何もできない自分に無力感を覚えているのは、私だけではないと思います。

若い人たちは頑張っています。実を言うと、私のゼミ生の何人もが、東北の被災地(大船渡、女川など)にボランティア活動に行っています。もちろん、私が何か指示したわけではありません。何かの拍子に、「実は僕も・・・」と話してくれたのです。私はそんな若者たちを誇りに思います。彼らのフットワークの軽さ、勇気、志がとても尊いものに感じられます。それに比べて、定職をもった私のようなおじさん、しかも体力も衰えがちのおじさんに、一体何ができるでしょうか?

東日本大震災の時には、今まであまり意識しなかったことを、いろいろ考えさせられました。一つは救急法の重要性です。ピースボートの短期現地派遣ボランティアの際に、被災地では被災者だけではなくボランティア自身が思わぬけがをすることが多いと聞きました。それで、早とちりの私は、早速、日本赤十字社神奈川県支部主催の救急法講習を受けて、赤十字救急法救急員の資格を取りました。といっても、正直なところ、三角巾の使い方もまだ十分にマスターしているとは言えません。しかし、何回か講習を受けているうちに、全くの無知よりは多少はましという程度の知識と技術は一応身についたように感じられます。救護活動に必要な実践的な知識や技術は一度学んだだけでは、すぐに忘れてしまいます。いざというときに少しでお役に立てるように、しっかり体が覚えたと言えるようになるまで、これからも研修に参加したり、日頃から自分自身で練習したりしようと考えています。

東日本大震災の時に考えさせられたもう一つの問題は、通信手段の確保です。ご承知のように、震災の直後は電話がつながらなくなりましたが、東北の一部地域ではアマチュア無線が非常時の通信手段として活躍したと聞きました。実際にどれくらい役に立ったのか、確認はしていませんが、早とちりの私は、さらにアマチュア無線の免許も取ろうと考えました。昨年の秋、講習会で4級(4アマ)を取ることができたので、その勢いに乗って3級(3アマ)にもチャレンジし、どうにか無事合格することができました。現時点では、アマチュア無線関係の本やウェブサイトを眺めて、にやにやしているだけで、まだ開局はしていません。役に立つかどうか分からないが、とりあえず取ったという感じで、具体的な運用方法は今後の課題です。

ところで、赤十字救急法救急員の資格を取得した後、日本赤十字社神奈川県支部の赤十字防災ボランティア(略して、「防ボラ」)に登録していただきました。これまで何度か研修や訓練に参加しましたが、そのたびに「私は何てドジなんだろう」と自分自身不甲斐ない思いをしています。ロープワークや無線の使い方が分からないというだけではありません。個別の実技やペーパー試験はともかく、総合訓練などでは、複数の事態が同時進行している複雑な状況が想定されます。そのような場合、頭が混乱してしまい、迅速な判断と行動がなかなかできないのです。情報の収集や状況の冷静な観察は正確な判断の前提ですし、適切に行動するためには指揮命令系統の把握も重要です。いずれにせよ、正確な判断と適切な行動ができるようになるためには、さらに訓練を重ねるしかないのでしょう。研修では「迷惑ボランティアにはなるな」と何度も教えられました。東日本大震災の教訓を今後の生活に生かすためにも、このことを肝に銘じて、先輩たちのご指導を受けながら、これからも頑張りたいと思います。

東北では今も多くのボランティアの方が頑張っておられます。先日テレビ(Eテレ)で曹洞宗通大寺住職の金田諦應さん(愛称:「ガンジー金田」)について初めて知りました。金田さんは被災地で「カフェ・デ・モンク(Cafe de Monk)」という「移動傾聴喫茶」を主宰され、「臨床宗教家」として宗教や宗派の壁を越えて、ひたすら被災者の方の思い(とても言葉にできないような思い)を「傾聴」するという活動をされています。ひたすら被災者の話に耳を傾け、文字通り自他を超越し、被災者の思いと一つになり、ときには一緒に涙を流す。ボランティアというと、つい体を動かす派手な活動に目がいってしまいますが、このような地道な、しかも宗教家ならではの活動があることを知り、ただただ頭の下がる思いがしました。この国には、こんな立派な人たちがいるのですね。これからは、こうした尊敬すべき方々の活動も参考にしながら、今の自分に何ができるかを考えたいと思います。

今日は、防ボラの野外訓練があったので、この2年間を振り返って、反省めいたことを書いてしまいました。駄文を読んで下さった方、有り難うございました。(2013年3月17日)


2011年 災害ボランティア活動で出会った素晴らしい若者たち・素敵な人たちのこと

まず最初に、このたびの大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々に対して心よりお見舞いを申し上げます。

3月11日の大震災発生後、現地の惨状に心を痛め、被災された方々や地域のために自分のできることを何かしたいと考えた人は少なくないと思います。私も何かしなければと思ってはいたものの、もともと行動力・実行力に欠けており、というよりも、はっきり言って、肝っ玉の小さい優柔不断な性格のため、何かと言い訳を考えて、例えば、論文の締切が迫っているとか、学会の仕事があるとか、健康診断でひっかかり再検査になったとか(幸い「異常なし」でしたが)、そもそも体力に自信がないとか、いろいろ合理化のための屁理屈を考え出しては、わずかばかりの募金以外に、ほとんど何もしないまま6月まで無為に過ごしてしまいました。すでに大震災から3か月が経過していました。

しかし、今年は8月初めからしばらく日本を離れることになっているため、出発前に何か自分にできることをしたいという気持ちが強くなってきました。ちょうどその頃、5月の連休以降以降、現地のボランティアが激減しているという報道に接しました。私の場合、7月2日までは学会関係の仕事があり、東京を離れられないけれども、その行事が終了すれば、時間が確保できる。そう考えて、ネットで情報を検索したところ、ボランティア募集のサイトがいくつかヒットしました。NGOによる募集もありましたし、旅行会社による「××ボランティアツアー」といった企画もありました。後者の場合、基本的に相部屋とはいえ、現地の旅館に泊まり、風呂付きで、食事も準備してくれることになっていました。これなら、私のような50代のおじさんでも参加できるかもしれない。これに対して、NGOの一つ「ピースボート」のサイトを見てみたところ、寝袋、作業着(安全長靴、防水ヤッケ、ヘッドライト、防塵マスク)、活動日数分の食料持参などと書いてあるではありませんか。食料や水を担いでいくのは、おじさんには、ちょっとハード。(ただし、これは2011年6月時点の参加条件です。現在は状況が若干改善されていますので、誤解のないように。詳しくは、http://pbv.or.jp/ を参照して下さい。)しかも、夜は床の上に雑魚寝です。(しかしながら、多くの被災者の方々は長期間にわたって、実際にそのようなきつい生活を余儀なくされました。そして、現在もなお・・・。)

まあ、とりあえず、説明会だけでも覗いてみようと思い、6月26日(日)に(正直に告白すれば)半分逃げ腰でピースボートの短期現地派遣ボランティア説明会に出かけました。午後2時からの説明会には、多くの若者が(しかもかなり多くの女性が)、さらには、おじさん、おばさん、そして外国人の方までもが来ていました。私は会場に入ったとたん、その気迫に打たれました。スタッフによる説明も、現地の被災者の方々に役立つような具体的な支援をしたいという熱意と気配りにあふれていました。確かに、ボランティアにできることは、とても限られていますし、また現地の作業にはいろいろな危険も伴います。しかし、スタッフの説明には、私にも何かできるかもしれないと思わせる説得力がありました。そのせいでしょう。私の心に何か前向きなものが芽生えたかと思うと、あれよあれよといううちに、そのままグループ分けの作業が始まり、なんと!このド素人かつ全くの初心者である私がチームリーダー(TL)の一人に選ばれてしまったのです。もう引っ込みがつきません(笑)。少なくとも名目上は、自分を入れて男子3名から成る第16次第6班のリーダーです。他のチームメンバー(TM)は、四捨五入すれば還暦となる人生経験豊かなFさんと、わざわざ四国から夜行バスで上京してきた27歳の好青年Aさんでした。ふたりとも高い志を抱いているとお見受けしました。

26日の説明会の夜から7月3日(日)夜の出発まで、学会関係の仕事と並行しながら、短期ボランティア出発のための準備をしました。TMとも頻繁に連絡をとりました。途中でさらにメンバーが1名追加、関西在住のMさん(彼も27歳)を加えて、我がチームは、50代のおじさん2名+27歳の青年2名=総勢4名となりました。もう出発は迫っています。時間を見つけては、個人装備として、安全長靴、作業着の上下、防水ヤッケ、防塵マスクなどを買い揃えました。食料(アルファー米、カップヌードル、カロリーメイト等)、水(2リットル)、ガスコンロとボンベも準備しました。現地では風呂もシャワーもないので、着替えもたくさん用意しました。結局、荷物が多くなりすぎて、登山用のリュックには入りきれずに、もう一つ手提げを見つけ出して、詰め込みました。かなりの重装備です。が、まあ、とにかく準備が整いました。

7月2日(土)に学会関係のイベントが無事終わり、翌3日(日)21:15新宿発のピースボートがチャーターしたバスで、2日間の支援作業を行うために、総勢約50名で石巻に向かいました。ご存じのように、石巻は津波で大きな被害を受け、多くの犠牲者を出した町です。地盤沈下も激しいです。その町で自分たちに一体何ができるのか。作業中に余震や津波が来るかもしれません。まさに身の引き締まる思いで出発しました。途中のサービスエリアで2回の休憩を取り、時間調整をしつつ、4日(月)午前7時頃に現地に到着。ほとんど寝ていない状態で、野外での説明会に参集。第15次派遣ボランティアの人たちと入れ替わる形で、宿舎で荷ほどきをし、朝食もそこそこに、8:20に再び前庭に集合。朝礼、ラジオ体操のあと、バスで作業現場に向かいました。車窓からは、半壊あるいは全壊した家屋、打ち上げられた船舶、がれきの山、亡くなった方を悼む花束などが目に入ってきました。「いま、自分がここにいるのが嘘みたい・・・。」隣で若い女性がつぶやくのが聞こえました。被災地域の信号機はまだ消えたまま、警察官が手信号で合図をしています。バスから降りて、簡単な打ち合わせの後、スコップ、シャベル、バール、土嚢などの機材や道具を手押し車(ねこ)に積んで、作業現場へ。我々第6班は第7班とともに側溝の泥(大量のヘドロを含む)の掻き出しを担当。側溝を覆う重いコンクリート蓋を上げ、大量にたまった泥・ヘドロをスコップ等で掻き出し、土嚢に詰めて、回収に来るトラックの荷台に積み込む作業です。予想以上の重労働、腰も肩も痛くなってきました。体中汗まみれ、泥まみれ。しかも、ヘドロには危険物がいっぱい、非常に臭いです。しかし、近隣住民の方から感謝の言葉をいただいたときは、今回思い切って参加して本当によかった思いました。ときどき休憩をとりながら、昼休みをはさんで、15:00過ぎまで作業。天気は不安定で、ときどき雨が降ってきました。それでも日照りよりはまし。日が出ると、熱中症の危険が高まります。この日の作業を振り返ってみると、私はTLとしてほとんどお役に立ちませんでしたが、TMをはじめとするボランティア仲間のみなさんのおかげで、とにかく無事終了。道具を洗って手入れをして、倉庫に返却し、バスで再び宿舎へ。もうへとへとです。夕方から雷雨になりました。班ごとに急いで夕食。私が持ってきたガスコンロでお湯を沸かて、インスタント味噌汁を飲みながら、各自持参の食料を食べました。まわりを大量の蝿がぶんぶん飛び回っています。19:00からは約1時間の全体ミーティング。外からは雷鳴が聞こえてきます。今から考えると、このミーティングはとても重要なコミュニケーションの場でした。みなさんの熱い思いを聞かせていただき、日本にはこんなに素晴らしい若者たちがこんなにたくさんいるのかと嬉しくなりました。22:00消灯。堅い床の上に寝袋を敷いて、まさに雑魚寝。夜中も飛び回る蝿が眠りを妨げますが、仲間たちのいびきは子守歌。なお、男女は別室ですので、どうぞご安心ください。

7月5日(火)午前5時起床、6時から朝食を準備、7時までに済ます。ちなみに、戸外の仮設トイレはいわゆるボッタン便所ですが、いつのまにか有志がきれいに掃除していました。こんなところにも、本物のボランティア精神が現れています。7:45全体集合、朝礼、ラジオ体操の後、バスで移動。前日の側溝泥掻き作業を継続する予定でしたが、住民の方の依頼で急遽変更。道路の側溝ではなく、住宅と住宅の間の排水溝の泥掻きを三つの班で担当することになりました。天気は小雨模様。ときどき激しく降ります。排水溝は側溝よりも幅は狭いが、作業空間も狭いため、幅広の角スコップがほとんど使えません。いわゆる移植ごて(小型シャベル)で作業せざる得なかったので、泥掻きは遅々として進まず。しかも、下流の5メートルほどが細いトンネル状になっていて、そこにヘドロが思いっきり詰まっていたため、作業は難航しました。私は名目的にはTLだったとはいえ、何の役にも立たず、ただおろおろと見守るだけ。ところが、そんなときにも、必ず第6班のTMのみなさんや他班のベテラン・ボランティア(特に第7班のAさんとKさん)が知恵と力をさりげなく提供して下さり、問題はみごとに解決しました。軒下の排水トンネルの上流からは長い金属棒をスコップで打ち込み、下流からは長いバールで泥を掻きだして、ついに排水が流れるようになったのです。文章で書くと簡単ですが、実際には狭い場所での大変な作業でした。私のような頼りないTLに文句も言わず、どんな困難な状況でも黙々と作業を続け、問題を次々に克服していくボランティア仲間に対して、深い敬意を覚えました。この日は、17:00発の専用バスで早めに帰路に就く人たちがいたため、14:45に作業終了、15:00に道具等の手入れと返却、作業結果を報告した後、バスで宿舎に戻りました。17:00に宿舎の前庭で当日帰宅組を見送り、それから再び蝿の飛び回るなかでTMたちと夕食を一緒に食べました。そして、19:00からのミーティングでは、残った宿泊組が車座になって、ボランティア参加の動機や今回の参加によって自分が変わった点などについて、前の晩と同様に語り合いました。

高い志をうちに秘めながら、決して驕ることなく、それぞれの思いを熱く語る素敵な人たち。ミーティングの司会をしたピースボート・スタッフの明るい青年は、キャバクラで働いた後、トラックの運転手をやっていたとのこと。4月に仕事を辞めて、石巻にやってきたそうです。今回の参加者の人生も実にさまざま。最近まで芸能人のマネージャーをやっていた快活な青年、広告代理店を辞めて転職する予定の物静かな女性、損害保険会社を休職中のスポーツマンタイプの男性、新宿のコンビニで働いている元気のよい女性、現在は都内ホテルに非正規社員として勤めている控え目な元自衛官、中学卒業後上京して美容師になりたかったという夢多きアルバイト青年、アメリカ帰りの体格のよいビジネスマン、イギリスの大学院に留学していたという話し好きのキャリアウーマン、外見はキン肉マンのような寡黙で働き者の中年男性、などなど。そして、全員に共通していたのは、目が輝いていたこと。男も女も関係ない。学籍も職歴も関係ない。茶髪も丸坊主も関係ない。無精髭もピアスも関係ない。自分の収入さえ不安定な人が多いのに、被災者のために黙々と体を動かす人たち。「結局、自分のためにやってるんすよ」と照れながら、汗まみれ・泥まみれになって働くその姿は、感動的でさえありました。こんなに素晴らしい人たちが日本にこんなにたくさんいることを、私は誇りに思います。みなさん、ありがとう。みなさんから、言葉にならないほどの元気をもらいました!

(2011年7月7日)


2009年度フィールド・ワーク・ツアー

2009年9月5日(土)から11日(金)まで、白金法学会からご支援をいただき、NGO「メコン・ウォッチ」主催のスタディ・ツアーに参加させていただきましたので、簡単にご報告します。このツアーは、メコン・ウォッチのスタッフとともに、ラオスのナムトゥン2ダム建設現場を尋ね、世界銀行やアジア開発銀行の支援を受けたナムトゥン2電力会社(NTPC)の事業が水没地域住民の生活や自然環境に与えた影響を現地で調査し、こうした開発のもたらす問題について学び考えるツアーです。確かに、ラオスは経済発展が遅れ、産業が育っていないのが現状ですので、奥地にダムを建設し、そこで発電される電力をタイなどの近隣諸国に売って、外貨を稼ぐという発想が生まれることは理解できます。しかし、このような事業のために水没地域の住民は移転を余儀なくされ、また貴重な自然(動植物や生態系そのもの)が破壊されているということも事実です。そして、このことには日本政府の政策も大きく関わっています。今回のツアーでも、参加学生とともに、移転村の住民にインタビューをしたり、そこで感じた疑問点を世界銀行、アジア開発銀行、日本大使館、国際協力機構(JICA)のスタッフに質問するなど、大変貴重な経験をさせていただきました。


9月4日(金)
11:00 成田空港からバンコク経由でビエンチャンに向けて出発。
 タイ国際航空(TG641便)出発: 11:00 東京 (成田空港)→ 到着: 15:30 バンコク
 タイ国際航空(TG692便)出発: 19:50 バンコク→ 到着: 21:00 ビエンチェン
22:00 ビエンチャンの「デイ・イン・ホテル(Day Inn Hotel)」に宿泊。

9月5日(土)
7:30 朝食。午前中はビエンチャン市内見学。
12:30 昼食
14:00頃 本学の女子学生4名到着。
18:30 「デイ・イン・ホテル」のロビーに参加者集合。一緒に夕食を取り、自己紹介。
22:00頃 残りの男子1名到着。

9月6日(日)
7:00 朝食。
9:00~11:00 国立図書館に移動して、オリエンテーションとミーティング。
12:00 ミーティング終了後、ホテルに戻って、チェックアウト。
13:00 2台の自動車に分乗して、ナカイ高原へ向けて出発。メコン河畔で昼食。
    延々と国道をタケク方面に進む。
15:00 一度休憩した後、さらに南下。
19:00頃 ナカイ高原の「ウドゥン・ゲストハウス(Wooden Guest House)」に到着。
19:30 夕食。

9月7日(月)
7:30 朝食。
8:10~10:30 「ナムトゥン電力会社(NTPC)」担当者2名による説明会。
10:30 自動車3台に分乗してダムサイトへ移動。未舗装の凸凹道を1時間半あまり走る。
12:00過ぎ ダムサイトに到着。ヘルメットをかぶって見学。野外で弁当を食べる。
    食後、再び自動車に分乗して、水没した村の住民の移転先(移転村)へ向かう。
15:30頃 最初の移転村に入り、住民にインタビューをする。
17:00頃 第二の移転村に入り、ここでも住民の意見を取材する。
18:45 ゲストハウスに戻る。
19:00 夕食。
20:00 振り返りミーティング。
23:30 就寝。

9月8日(火)
6:30 近くの市場を見学。
7:30 朝食。
8:10 自動車に分乗して出発。まずは水質監視研究所を見学する。
9:00 近くの村で住民にインタビュー。
10:30 チェックアウト。自動車に分乗して出発。
11:00 発電所や立体交差の放水路などを見学。自動車で帰路に就く。
12:45 タケク市のレストランで食事。
13:25 レストランで振り返りミーティング。NTPC担当者2名と質疑応答。
14:20 自動車に分乗してビエンチャンへ。
19:30 ビエンチャンの「デイ・イン・ホテル」到着。チェックイン。
20:00 近くのレストランで夕食。
21:30頃 ホテルに戻る。

9月9日(水)
7:00 朝食。
9:00~13:00 ホテルのロビーでミーティング。午後の質問の準備をする。
13:00 ホテルで急いで昼食。
13:20 ホテルを出発。
13:40 「世界銀行(World Bank)」ビエンチャン事務所を訪問。
     世界銀行およびアジア開発銀行(ADB)の担当者に対して質疑応答。
16:35 ホテルのロビーで振り返りミーティング。世銀訪問のまとめをする。
19:00 近くのレストランで夕食。
20:30頃 ホテルに戻る。

9月10日(木)
7:00 朝食。
8:40 マイクロバスで日本大使館へ。
9:10~10:10 日本大使館の担当者から開発援助について説明を受け、質疑応答。
  終了後、JICA(国際協力機構)の事務所へ。
10:50~12:10 JICAの担当者から説明を受け、質疑応答。
12:00 マイクロバスでフランスパンの工場へ行き、パンを焼いているところを見学。
13:20 JICAの広報施設「ジャイカフェ(JICafe)」の会議室へ移動し、昼食。
  工場から買ってきたパンを食べる。
13:40~14:20 食後、会議室で今日の振り返りミーティング。
14:20~15:30 今回のツアー全体の振り返りミーティング。
15:30~17:00 明日の報告発表についてミーティング。
17:30 ホテルに戻る。
18:00 メコン河畔のレストランで夕食。
20:30 ホテルに戻る。

9月11日(金)
6:45 朝食
7:15 チェックアウト。
7:40 マイクロバスでラオス国立大学環境学部へ。
8:10 ラオス国立大学到着。ラオス・日本学生会議を開催する。
8:30 学部長挨拶。メコン・ウォッチのスタッフ挨拶。
   まず日本側から、二つの学生グループが報告する。
   「世界環境遺産」と「川辺川ダム」について。
10:30 コーヒーブレイク。大学側が地元のお菓子とコーヒーを用意してくれる。
   続いてラオス側から、二つの報告。
12:10 学生食堂に移動して、バイキングのランチ。
   食後、日本とラオスの学生達がゲームで交流。
13:20 午後のディスカッション。
   まず、日本とラオスがそれぞれ三つの学生グループに分かれて、母国語で議論。
   次に、日ラ合同の三つにグループに統合して、通訳をまじえて議論。
14:35 コーヒーブレーク。
15:00 合同の三グループによる総括報告。
15:30 本学の女子3名が途中で空港へ。
16:00 ラオス・日本学生会議が無事終了。アドレスなどを交換。
16:30 ホテルに戻る。
    参加者全委員からメコン・ウォッチのスタッフに感謝の寄せ書きを贈呈。
17:50 近くのレストランで最後の夕食。
19:30 ホテルに戻ってから、タクシーで空港へ向かう。
21:45  ビエンチャンからバンコク経由で帰途に就く。
 タイ国際航空(TG693便)出発: 21:45 ビエンチェン→ 到着: 22:50 バンコク
 タイ国際航空(TG642便)出発: 23:50 バンコク→ 到着: 08:10 東京 (成田空港)

9月12日(土)
8:10 予定通り、成田空港に無事帰着。


明治時代の明治学院講堂

 皆さんはこの写真はいつ頃どこで撮られたものだと思いますか?実は、この写真は明治時代の絵葉書に載っているものです
 門柱には「私立明治学院」という表札が掛かっており、写真の下端には右から「明治学院講堂」と書かれています。明治学院歴史資料館HPの説明によれば、この講堂は「ミラー記念講堂」で、現在のチャペルが建築される前の礼拝堂だったそうです。
 講堂の入り口に立っているのは、明治学院の大先輩達でしょう。その凛々しい姿からは先人達の高い志が覗えます。和服で袴姿の先輩もいます。ちょっとお洒落な洋装の先輩もいます。ジベタリアンの先輩も一人います(笑)。
 この古い写真を見ていると、つい遠い時代に思いを馳せてしまいますね。先輩達はその後どのような人生を歩んだのでしょうか?どんな喜びがあり、どんな悲しみがあったでしょう?悲しみのときに先輩達を支えたものは何だったのでしょう?いろいろな思いが湧いてきます。

人の世の若き生命(いのち)のあさぼらけ
学院の鐘は響きてわれひとの胸うつところ
白金の丘に根深く記念樹の立てるを見よや
 
緑葉は香ひあふれて青年(わかもの)の思ひを伝ふ
心せよ学びの友よ新しき時代(ときよ)は待てり
もろともに遠く望みておのがじし道を開かむ
霄(そら)あらば霄を窮めむ壌(つち)あらば壌にも活きむ
 
ああ行けたたかへ雄雄しかれ
眼さめよ起てよ畏るるなかれ
                   (島崎藤村)

  この絵葉書を裏返して、消印を見てみましょう。明治45(1912)年1月5日となっています。明治天皇はこの年の7月30日に亡くなっていますから、まさに明治最後の年です。(ちなみに、このとき大先輩の島崎藤村は40歳、文豪の夏目漱石は45歳でした。)
 発信人はサクライ・シロウさんで、住所は東京芝白金となっています。明治学院が白金にキャンパスを設けたのは、明治20(1887)年ですから、既に四半世紀は過ぎていたことになります。
 この絵葉書は明治時代に海を越えて、受取人のP.ザイデルさんに届き、その後不思議な縁で、また日本に戻ってきました。


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