社会の高齢化:函館市
人口減少:-15%(1980~2005)
本州から程近い北海道の南端に位置し津軽海峡に面した函館は、18世紀末より港部が発達し始め、1869(明治2)年に開拓使出張所が置かれたことをきっかけに行政面でも北海道への玄関口として成長した。その後行政の中心は札幌へと移るが、函館は重要港湾都市、また1930年代末まで北海道最大の都市として栄華を極めた。地理的な特異性から何度も大火に見舞われ、1934(昭和9)年には2万3000軒もの家屋が焼け落ちる大火を経験したにもかかわらず、1920(大正9)年から1980(昭和55)年までに人口は2倍以上のほぼ35万人に至るまでになった。
70年代から造船業ならびに漁業に翳りが見えはじめ、次第に市の経済を減衰させていく。1988(昭和63)年には北海道と本州をつなぐ青函トンネルが函館の南西約50kmに完成し、それまで青函連絡船によって北海道への玄関口としてにぎわった函館湾を横目に函館市を通過してしまうようになった。現在新幹線の新線工事が進められているが、仮称「新函館駅」は市外に位置し、函館市を迂回するようになる。これらの主要因に郊外化の進行などが加わり、かつて栄えた中心地域が次第に周辺地と化してしまう。
郊外化と共に伝統産業の衰退等が中心地域の悪化をさらに加速し、かつて繁栄した海沿いの中心市街地の主要機関や商業施設は次々に郊外に向けて移転を決めた。1970(昭和45)年から2004(平成16)年の間に歴史地区を含む中心地域である西部地区や函館駅北東の中央部地区人口は合わせて17.2万人から8.5万人へと減少、同期間の郊外の人口は12万人から19.7万人へと増加した。函館市では総人口のうち約90%が居住している地域に該当するという人口集中地区(DID)面積は過去40年の間に2倍になり、人口密度がほぼ半減するなど、市の構造の希薄化が急激に進んでいる。
1980(昭和55)年より函館市の総人口は減少傾向に転じている。この原因として高齢化の進行と大都市や近隣市町村への人口流出が考えられ、これは農村地域で若中年層が大都市へと移ることで戦後急激に進んだ過疎現象が今日、函館のような中規模の都市でも起こりつつあることを示唆している。函館市に住む14歳以下の年少人口の割合は1970(昭和45)年に23%を占めていたが、2004(平成16)年現在では12%にも満たないまでに減少したのに対して、同期間の64歳以上の老年人口割合は7%から22%以上に増加し、全国規模で進む高齢化の傾向を反映していると言える。全国の出生率は1975(昭和50)年に2.0%を下回り、2004(平成16)年には1.29%にまで下がっている。また日本人の平均寿命は81歳を超えており、世界で有数の長寿国でもある。2050(平成62)年の全国将来推計人口は現在より20%強減、2100(平成112)年には現在の半数までに減少する見通しとなっている。札幌では、他の市町村からの人口流入を受けるなど引き続きかなりの人口増加があると見込まれているが、2015(平成27)年以降は札幌の人口も、他市町村ですでに始まっているように、減少傾向に転ずるとされている。
特異な地形と深い歴史を持つ函館市は、現在も年間約500万人の観光客数を誇る全国第3位の「魅力的な市」である。函館山からの有名な夜景は、地形を鮮やかに縁取る一方で、歴史地区はかつての繁栄を忘れ去られてしまったかのように暗く寂しげに映る。1970(昭和45)年に比べ2004(平成16)年現在は歴史地区である西部地区7町の人口は60%減少、老年人口の割合は3倍にまで増加している。函館市が西部地区7町の歴史地区120ヘクタールを「都市景観形成地域」とした1988(昭和63)年より現在までにたくさんの歴史的建造物が「景観形成指定建築物」として保存されているが、歴史地区に見つかる空き地や空き家に象徴されているように、経済的社会的変化は函館市の中心地域で今もなお進行している。
川下沙織、ヤン・ポリーフカ