7月30日
オープンキャンパスが横浜校舎であり、講義をしに行く。暑くて面倒くさいので、自動車で行く。この頃、律儀に記すのをやめてしまったのだが、時折自動車には乗っている。特に暑くなってからは、冷房が嬉しいので、自動車で大学に行ったりもしている。大変、環境に悪い行動を取っている。「サステイナブルな未来をデザインする知恵」が売れていないからいいものの、売れていたら非難囂々である。何故かって、それは本を買って読んで下さい。それはともかく、自動車で横浜校舎に行ったら、電車だと100分は余裕でみておかなくてはならないのに、なんと1時間弱で着いてしまった。早すぎる!これは、不味い。この時間短縮は、ちょっと癖になりそうな予感がする。しかも戸塚駅から校舎へはほとんど行きはタクシーを利用する私。もしかしたら金額的にもそんなに変わらないかもしれない。さすが郊外。まずいですねえ。
ということで1時間も前に着いてしまったが、ゆっくりと準備をする。一昨年も講義をしたのだが、それに比べるとはるかに人が増えている。少子化とはいうが、明学の経済学科はこの数年、上り調子である。偏差値もあがっているし、人気も出ている。この流れをしっかりとさせないと。話の内容は、まあ自分が合っている大学を探して、そこに行くことが重要ですよ、といったものであった。そして明学の経済学科は実践性を重視しているということを、フィールドスタディを例に出して説明したのである。そこそこの反応はあったと思われる。
そして、白金校舎に戻る。桜田通りに路駐をしてしまえ、としたらあっと言う間にチケットを切られた。初駐車違反である。ショックだ。さらに、帰りがけに渋滞しているので抜け道を通ろうと路線変更したら、前にいた警官につかまった。6000円の罰金である。自動車は素晴らしいではないか、と思った途端にこれだ。罰が当たったのであろう。
7月29日
隅田川の花火大会に行く。行くといっても、友人の慶應大学の佐藤助教授の自宅から優雅に鑑賞するといった具合であったので、混雑とかは無縁であり、たいへんリッチな気分が味わえた。特に第二会場の花火は本当に鼻の先というアップで、おそらく生まれて初めて、ゆったりと花火を堪能できたのではないか。佐藤先生の長女と私の次女は同じ年なので、仲良く遊んでいた。いい一日であった。
7月28日
今日は、元同朋であった原後雄太先生の一周忌であった。何か原後先生のゼミの学生達等がイベントをするかと期待したが、特に行われなかったようである(私が敬遠されただけなのかもしれないが)。しかし、私的にはシラフで過ごすのもやるせないので、ゼミ生の4年生二人と飲みに行った。といっても、原後先生の話題というよりかはゼミの話が中心の飲みではあったのだが。
原後先生は私の人生の中でも結構、強烈なインパクトを残した人であった。私は三浦展さんといい、1958年生まれとは色々と縁があるのだが、原後先生は相当、良しにつけ悪しきにつけ、私とは深い関係にあったような気もするし、しかしこう書ていると、実はそうでもないような気もしてくる。
まず、私のスタンスを明らかにするために告白しなければならないこととして、大学教員としての原後先生を私は尊敬していないことが挙げられる。というか、フィールドスタディに関しては、むしろ反面教師としていた。私は都市計画を研究するものであるから、何しろ計画が好きであるので、原後先生のような無計画で行き当たりばったり、というのは生理的に受け付けられない。また、元はサラリーマンだったので、リスクを回避しない行動などは、無謀というよりかは愚かだとさえ思っていた。しかし、原後先生は私のこういうところを小心者とあざ笑っていたこともある。肝っ玉が小さい奴と。
原後先生は就任当初は、学生達からも大人気だったが、亡くなられた年のゼミは一次の応募が4名という寂しさであった。これを、私は原後先生の方が、学生よりか遙かにお人好しであったために、学生を素直に信用し過ぎたために起きてしまったことだと捉えていた。原後先生が思っているほど、学生は純真ではなく、したたかで、ずる賢く、そして怠け者である。ただ、原後先生はずっと学生を信用していた。例えば、フィールドスタディの履修者が少ないことを、本気で金がないためだと思っていた節がある。私は、そんなことはないと言っていたが原後先生は私が間違っていると聞かなかった。今、原後先生のご遺族からの寄付で、経済学部にはフィールドスタディにかかる費用を少しでも負担させようとする原後奨学金が設立されている。一等で6万円、二等で4万円の奨学金である。しかし、例えば私のフィールドスタディ履修学生でこれに応募した学生はたったの一人である。原後奨学金制度の内容に関しては、故人の遺志を尊重するため、私が相当提案して、ほぼそういうものになったのだが、それにしてもたったA42枚程度のレポートを書くことができない学生達が金に困ってフィールドスタディを履修しないというはずはない。他に理由があるのだ。まあ、私の仮説が正しかったわけだが、これは正しくてもまったく嬉しくない。出来れば、原後先生が正しく、私が間違っていた方が救われた。そういう点で、彼は本当にお人好しであった。原後先生は以前、私の親しい女友達を何故か、私の前で猛烈に口説きはじめたことがあるのだが、彼女は原後先生は人を徹底的に信用していない人だと分析していた。ううむ、私は彼に口説かれたことがないから分からないのだが、私はむしろお坊ちゃん特有の人の良さが抜けきれないところが彼の特徴なのではないか、と今でも思っている。そして、その人の良さをあまり人が良くない私は羨ましく思っていた。出自の差なのではないか、と思っている。なんか、敢えてピカレスクを演じたがるところがあり、これはどうしてかを知るほどは親しくなれなかったし、時間も与えられなかったのだが、猛烈に強いコンプレックスが常にあの大きな体の中に内包されている印象を受けた。本当は人がいいのに、敢えて悪漢を目指していた、ような気がしないでもない。
そして、ろくでもない先生だったな、と強く思う反面、人間的には不思議と魅力溢れる人でもあった。ハチャメチャで、いい加減で、その場しのぎの、ええかっこしいではあったが、こう閉塞した状況を突破するマグマのようなエネルギーを有しているような期待を周囲に与える人でもあった。そして、色男であった。まあ、大学生にその複雑な人格を感謝するだけの度量を期待する方が無理だろうが、亡くなられたことは残念である。あの豪放磊落な男に会えないのは素直に寂しい。そして、原後先生が亡くなった今、彼の学生への甘さに批判的であった私が、それでもゼミの運営で悩まされている。私も、原後先生を批判しながら、原後先生と同様に学生に期待をしてしまう。もっとやれるのではないか、と。それは、あたかも無為に過ごした自分の大学生活の無念を晴らそうとしているかの如く。そして、自分が原後先生が亡くなった年齢に近づくにつれ、より原後的になっているような気がする。原後先生が亡くなって、明学の経済学科は平穏になったかもしれないが、予定調和的になった印象を受ける。そして、私は、私の考えと対立する意見をよく述べていた原後先生がいなくなってしまって、あまり論理的に思考しなくなったような気がする。
私のゼミ生は原後先生の講義を受けたことがあったのだが、素晴らしい講義であったと言っていた。グループ・ディスカッションを導入し、大変面白く、頭を使わなくてはいけない講義であったそうだ。こういうことは、教員は案外と知らない。しかし、その原後先生の講義履修者は30名ちょっとくらいで、彼が亡くなって非常勤の先生に代行してもらったら400名も履修者が増えた。もちろん、講義をする曜日や時限も変わっているので、簡単に比較することはできないが、教員側はむしろ、こういう数字で判断してしまうこともある。そんなにいい講義をやっていたとは知らなかった。しかし、そういう素晴らしい講義やあのハチャメチャな他人や他大学ではとても真似できないフィールドスタディを体験した学生がほんの僅かであったことに関しては、ある意味で大変もったいない話だと思わずにはいられない。
しかし、もう一年も経ったのか。光陰矢のごとしである。
7月25日
朝早くマカッサルのハサヌーディン空港へと向かう。あっという間についてしまい、空港で時間を持て余す。それにしても、インドネシアはさすが他民族国家であるだけあって、本当にいろんな顔がある。前に座っているおばあさんは、ほとんどオラウンターンのような顔をしている。スカーフをしているので顔しか見えないからかと思うが、もうほとんどオラウンターンである。オラウンターンが森の人と言われるのも納得である。白人との混血のような人も多い。それで思い出したのが、ヴァン・ヘイレン兄弟はインドネシアとオランダのハーフであったことである。弟のエドワード・ヴァン・ヘイレンは万人が認める天才ギタリストである。そういえば、マカッサルの海岸では、ぼろぼろのギターを抱えた流しがいっぱいいる。インドネシアの人はギターが結構好きなのだろうか?ヴァン・ヘイレンの天才的インスピレーションはインドネシアの血が流れていることと関係があるのだろうか?インドネシアの人は、どのくらいヴァン・ヘイレンを意識しているのだろうか。今度、聞いてみたい。
さて、バリに着き時間を持てあましたので運転手付のレンタカーを借り、いろいろと見て回った。その内容はブログを参照して下さい。
7月24日
マカッサル三日目。とはいえ、今日で最後である。9時にディアスと待ち合わせをし、フィールドスタディで講義室として使われるフォート・ロッテルダムにペテペテで行く。ペテペテに乗るのは実は初めてであるが、まあ結構快適である。しかし、高齢者や疲れているときには厳しいだろうが。フォート・ロッテルダムはゴワ王国のスルタンが築いた砦を、オランダがつくりかえたものである。マカッサルでは数少ない歴史建造物であるが、ここを講義室として使わせてもらうように交渉する。ディアスのおかげでどうにか無事に交渉は成立したそうである。一応、無料であるが、後で袖の下をここの役人に支払わなくてはならない。これは領収証がもらえないだろう。どうするべきか?
その後、タクシーでハサヌーディン大学へ向かう。ユドノ先生と会うためである。ユドノ先生は凄いにこにこ顔で私を迎え入れる。このにこにこ顔で、彼は世の中を渡ってきたんだな、と改めて思う。校舎の外には、ユドノ先生のSUVが駐車してあったのだが、ディアスがその車を指差して、これはみんなが憧れているユドノ先生の車なんだ、と言っていたことを思い出す。その車はとても大学の先生の給料では買えない代物らしい。それはともかくとして、ユドノ先生が提示したアイデアは、土曜日の夜にフィールドスタディをするというだけのものだったので、我々のニーズにマッチしない。そこで、ディアスの学生達とオールド・タウンのフィールドスタディを3日ほど入れることにした。とはいえ、ディアスがいないのに誰が学生達を管理・指導するのだろうか。この点は不安であるが、後はもうどうにかするしかない。それにしても、ニューメキシコ大学やメリーランド大学とは、失礼ながら大きな差がある。こういうプログラムを実践するうえでは、インドネシアの業務遂行能力のなさが、どうしても出てきてしまう。とはいえ、こういう事態が分かっていない訳ではなかった。ここマカッサルでは、ハサヌーディン大学の教育学部のアグネス先生や、ここ出身の都市デザイナーであるユリさんなど、非常に信頼おける優秀な女性陣がいるのだ。マカッサルでフィールドスタディをするうえでは、この二人に非常に期待をしていた。しかし、なんとも不幸なことにアグネス先生は日本に1年間留学していないし、ユリさんはジャカルタで仕事を得たので、マカッサルにいなくなってしまったのである。ユリさんが代わりにと指名したディアスは、インドネシア人とは思えないほど(失礼!)知的で信頼できるのだが、彼も残念ながら日本に来てしまう。ということで、もう本当に誰もいないマカッサルにわざわざ行くという、ついていない状況にあるのだ。そういう視点で街を改めてみると、この街なんか嫌いなんだよなあ、思わずにはおられない。この私が街を嫌いであるという意識が、つきを失わさせているのか。しかし、臭いし、汚いし、危ないし、とあまりいいことはない。とはいえ、このインドネシアから学ぶことは多い。それは、役人が駄目だと国はどうにもならないこと、どんなにしっかりとしたルールをつくってもそれを遵守しなければまったく意味がないこと、など多くの教訓を学ぶことができるからである。インドネシアの渋滞がひどく、環境が汚染していることや、スーパーマーケットの果物の多くが外国産のものであることなどは、ほとんどが人災であるのだ。インドネシアは平気で国を売る輩が蔓延している。しかも、上にいくほど、そういう人間が多いのである。例えば、法律的には立地が難しいカルフールなどの大規模ショッピングセンターもインドネシア中できているのは、規制の線引きをさっと変えてしまう役人が後を絶たないからである。そういう賄賂でこの国は汚染されつくしている。インドネシアの国だけで、そういうメカニズムを働かせていた時ならともかくとして、グローバル経済下でこれを続けていたら、大変なことになる。ということがディアスとの議論でより鮮明に理解できた。
ハサヌーディン大学でディアス達に結構、美味しい昼食を御馳走になり、その後、ディアス達と別れ、ホテルに戻る。インターネットがこのホテルでは使えないので、インターネット・カフェまで行くが、ここは日本語変換できるコンピューターは1台もなかった。しょうがないので、高級ホテルのインペリアル・ホテルに出向き、無線LANにアクセスしてメイルを読む。1時間で45000ルピアであった。その後、イスタナ・レストランで夕食を取る。ちゃんぽんと同じ起源であるミー・カントンとオタオタを注文する。この店は蚊が酷く多く、私が手をぱちぱちさせていたら、ウェイトレスが蚊取り線香を二つ、足下においてくれた。それでも、蚊は一向に減る気配もなく、私は相変わらず手をぱちぱちしていたら、今度はウェイトレスは殺虫剤をもってきて足下でブワーとまき散らした。いやあ、親切心なんだろうが、食事をする前に殺虫剤をかけるかあ、と心底驚いた。過激すぎるというか、殺虫剤が毒であるということを認識していないんだろうと推察した。先週号の週間ポストに実は、私はM大学H助教授で恥ずかしいことにイラスト付きで出ているのだが、そのイラストの記事は、アメリカ人がいかに下流であるかという内容のものであった。しかし、インドネシアに来ると、下流、上流といった階層があまり意味がないんじゃないか、という気にさせられる。賄賂や策略でのしあがった上流と、まじめにあくせくと働いている下流。上流が立派ではないことは多くの人が気づいている。上流レストランで殺虫剤ブワーである。高級ホテルでは、ひたすら冷房ガンガンかけるだけだし、なんか上流を上流として認識できない私にとっては、本当そういう階層的な意味合いが崩壊する。上流も下流も糞味噌じゃないか、という気分にさせられるのである。まあ、そういう意識はアメリカに対しても持っているけど、日本だと己の安給料が身にしみるので、あまり強気に主張ができにくいのが悲しいところである。最近は、自動車まで所有してしまっているし。
7月23日
マカッサル二日目。10時にJICAの専門家で、マカッサルで仕事をされている渡辺さんとハサヌーディン大学のアグネス先生と打ち合わせをする。アグネス先生も、フィールドスタディ中にはマカッサルにはいない。京都大学へ1年ほど行くことになったからなのだが、代わりに、島に行く際の「私の船」を貸してもらえることになった。他にも「私の村」への視察や、バリで「私の家」を休憩用に貸すことなども提案してもらった。アグネス先生は実業家でもあり、資産家なのだが、それにしても随分といろいろお持ちであることにびっくりする。ディアスとの話し合いを踏まえて、ほぼスケジュールは決まった。後は、明日のユドノ先生との話し合いだけである。
昼は渡辺さんと海沿いのレストランでゆっくりとした昼食を取る。3階のレストランから、海辺で戯れている子供達を見ながら、渡辺さんと一体全体、豊かさとは何なんでしょうね、といった話をする。世界銀行は「貧困撲滅」とか威勢のいいことを言っているが、そもそも「貧困」とは何なのか。イギリスの小学校の給食はほとんど冷凍食品で、非常に粗末なものであるらしいのだが、それを見かねたイギリスのカリスマ・シェフが代わりに給食をつくったら子供達が不味いと言って嫌ったそうだが、こういう国を目指すことが貧困撲滅なのだろうか。少なくとも、アメリカは食事という観点からいえば、世界でも相当レベルが低い貧困国である。そもそも、多くの人がもはやまともに食事をつくることすらできない。レストランでさえ、電子レンジで調理をする。日本だって、畠山鈴香のような人間が出てくる環境にある。親殺しや子殺しがこれだけ横行する国のどこが貧困ではないのだろうか。先進国がどれだけ幸せなのか。旧東ドイツはドイツが合併したことで、どれだけ幸せになれたのだろうか。すべての人が幸せになれたわけではない。「貧困」にしろ「開発」にしろ、大きなスパンでものごとを考えることが必要である。株主への利益還元というモチベーションだけで世界を回そうとしても、それは所詮大きな無理があるし、その無理は歪みをうみだし、早晩崩壊するであろう。
夕方、ものすごい悪寒がし、冷や汗と頭痛に見舞われる。これは、相当まずいと思ったが、どうにか夜には収まる。原因は不明だが、昼の食事がまずかったのか、それとも熱中症か。しかし、腹は特に異常はない。頭痛の酷さから熱中症かと思われる。帽子をバリのホテルで忘れてしまたことがいたい。気をつけなくては。
7月22日
久しぶりにマカッサルにいる。昨日、東京からバリへ渡り、バリに一泊して、マカッサルに来たのである。マカッサルのハサヌーディン空港から市内へ初めてタクシーを使ってきた。それまでは、いつも迎えがいたので、タクシーではぼったくられないよう気をつけなくてはと思っていたが杞憂に終わった。前払い制度であり、まったく安全でしっかりとしたものであった。ウィサタ・インというホテルに宿泊しているのだが、一泊20万ルピア(2500円くらい)と安い割には結構快適である。8月下旬にフィールドスタディで学生達を連れてくるのだが、このホテルで問題ないであろう。夕方にハサヌーディン大学のディアスと打ち合わせをする。彼には、フィールドスタディのコーディネートをお願いしている。随分と知的な男で、失礼な言い方だが、とてもインドネシア人とは思えない。しかし、90分くらい打ち合わせをし、ほぼフィールドスタディのスケジュールも決めかかった後、「そうそう、私はその時マカッサルにはいないから」と宣った。いやあ、驚いた。そんな重要なことは早く言えばいいのに。とはいえ、こういう気まずいことがなかなか言えないのがインドネシア人である。随分とショックを受けたが、まあお願いしている立場上、責める訳にはいかない。とはいえ、困った事態になった。
このホテルのそばで美味いレストランを紹介してくれ、とディアスに言うと、「イスタナ」か「ライライ」かな、と言う。なんだ、この二つは私がよく行っていた店である。しかし、久しぶりに「ライライ」のオタオタを食べたくなり、足を向ける。マカッサルは烏賊が何しろ美味しい。もちろん、唐津の烏賊の方が美味しいが、マカッサルの烏賊もいける。ということで、「ライライ」ではチュミチュミ(烏賊)を焼いたものとオタオタ、そして猫まんまのような料理を注文する。結構、いける。しかし、相変わらず蝿だらけであった。以前、マカッサルで蝿がついている料理を食べたらお腹を壊したので、左手で払いのけつつ、右手で食べ物を口に運ぶ。
ホテルに戻り、行き詰まっていた「エコノミスト」の原稿を仕上げる。環境が変わったせいもあり、どうにか書き上げられた。しかし、この原稿のコーナーは「学者が斬る」である。これは、どうにもこそばゆい。というのは、まだ自分が「学者」であるという自覚が不足していることと、「斬る」というのは、どうにも僭越な響きを感じるからである。まあ、とはいえ最近、執筆していることは「斬る」ような内容も多いのだが、敢えて「斬る」と言ってしまうのは、どうにも居心地がよくない。しかし、まあ編集者の立場からだと、そういう風に言い切ることが望ましいのかもしれない。
7月17日
富山のLRTの視察に行く。これは、なかなか興味深いプロジェクトである。日本初のLRTプロジェクトであるが、計画決定から実現までに何と2年しかかからなかった。これは本当に画期的で、まさに日本のクリチバではないかと思わせる電光石火の早業である。都市の問題を解決させるためには、人の病と同様に、素早くやることが極めて重要なのだが、この事業はそういう点で都市の有効な治療を成し遂げることに成功した。これは市長と助役の力に負うのだが、トップダウンでプロジェクトをサッと遂行しようとすると往々にして事業はうまくいく場合が多い(プロジェクトが正しい治療法である場合だが)。
LRTに乗り、岩瀬まで行く。ここらへんは歴史的な町並みが残っており、ライトレール開業と同時に、ちょっとした観光ブームが起きている。満寿泉の醸造元に訪れ、専務取締役の桝田さんから、いろいろと話を聞く。「戦争で日本文化は破壊つくされた」との言葉に共感する。日本は、今世紀に入って二回、文化を破壊している。一回目は、太平洋戦争でアメリカに負けた時。そして二回目はグローバル経済の荒波に屈し、大店法を改正し、地方都市の中心市街地を壊滅させ、地方文化に壊滅的なダメージを与えたまさに今である。二回目の文化破壊を先導したのが、団塊の世代である。竹中蔵相に代表される人達である。彼らはアメリカ・コンプレックスに犯され、日本のアメリカ化を先導する走狗としての役割を果たすことで、このコンプレックスを克服しようとしている。しかし、その結果、我々が受けるダメージは大きい。しかし、この桝田さんをはじめ、団塊の世代の後に続く人達はよりクリエイティブで日本文化を再生しようとする気概にあふれている。これからは、日本が歩む方向性も徐々にではあろうが、アメリカの指示する路線から外れていくような気がする。
その後、富山駅に戻り、杉山さんと別れ、栗原さんと時間を潰しに酒を飲みに駅地下の居酒屋に入る。七番という居酒屋だったのだが、ここはとんだぼったくり店であった。生ビール4本、いか刺し、甘えび、お通しの枝豆、トマトで二人で7150円であった。甘エビは貧相なものが4匹、トマトは毛が絡んでおり、ほとんど食べられなかった。お通しの枝豆がしょぼしょぼで茹でてから随分と時間が経っているものだったので、その時点で気づくべきであった。さすがに7150円というのは高いので、どうやったらそういう金額になるのか教えて下さい、と紳士的に聞くと、おばさんは逆切れした。わたしゃ、40年もここで働いていて、いい加減なことはしない!と言って、その計算根拠をなかなか言わない。私は、いやいんちきをしているとは思わないけど、金を払うのだから教えてくれ、というと、うだうだと考えつつも生ビール一本650円、いか刺し1200円、甘エビ1200円、トマト600円、お通し1200円という。あのちんけな甘エビで一匹300円とは!下高井戸のハセガワだったら、一匹30円でしかも、ここよりはるかに美味い。富山のイメージを悪くするのは、こういう人達である。金沢にしろ、富山にしろ、往々にして魚介類で東京より美味いというが、これは嘘でないか、と私は常々思っている。例えば、福岡で食べた唐津の烏賊料理のようなインパクトある料理は、例えば鍔甚でも出会えなかった。富山の岩ガキも何回か食べたことがあるが、いつでも過大評価され過ぎているというのが率直な印象である。これ以上に美味しい牡蠣は世界中にいっぱいある。これが美味い牡蠣だという人はおそらく美味しい牡蠣を食べたことがないのではないか。
はっきりいって築地のレベルは相当高いよ!と地方にくるたびに再確認している私であるが、それにしても、この富山駅の居酒屋のレベルは本当に低かった。地方の居酒屋に入ると本当に暗澹たる暗い気持ちにさせられる場合が多い。これは居酒屋文化レベルが低いからであり、民度が低いからであるが、富山といえば、結構美味しい日本酒をつくっているのに、それを供給する居酒屋のレベルが低いというのは本当に残念である。東京には、この七番のような居酒屋は一軒もないといっていい。同様にまずいものを出す居酒屋はあるが、値段は二人でせいぜい3000円くらいである。不味かろう、安かろうということでこっちも納得する。不味かろう、高かろう、不潔であろう、というもう何かの罰をくらったかのような思いをさせられる居酒屋に入ると本当に後悔させられるが、今日もそういう思いをさせられた。このような思いは彦根の駅前居酒屋でして以来である。ああ悔しい。せっかくの楽しかった北陸での会議も、これで相当台無しにさせられた。悔しい。
7月16日
JUDIのブロック会議に朝の8時から出席。その後、研究発表会があり出席する。琉球ブロックの阪井さんの発表が大変面白かった。これは、市場のCDをつくるというプロジェクトであったが、相変わらず彼女のバイタリティには感心させられる。その後、21世紀美術館と兼六園を訪れる。21世紀美術館は、市役所や城に隣接しているという好立地にあり、また四方からアクセスができるようにするなどの工夫に感心させられる。四方からアクセスできるために、この美術館がむしろ、この区域の連携を強化させることに貢献している。通常は、このような建築物により、区域の連携性は遮断されるのだが、素晴らしいアイデアである。美術館としての展示空間としては、あまり優れていない点もありそうだが、都市の公共施設としては素晴らしいと感心する。兼六園は、4度目くらいであろうか。いつ来ても落ち着く、日本的ないい庭園である。水の流れの演出が素晴らしい。この庭園に流れる水はずっと上で取水しているのである。多くの知恵と創意工夫によってつくられた我が国の誇りである。夕食は鍔甚でとる。鍔甚は1752年創業の加賀の老舗料亭である。これに関してはブログに記しているので、宜しければ参照して下さい。
7月15日
JUDIの大会が金沢にあるので、金沢に来ている。JUDIの大会自体は、つつがなく終わった。予算の報告等がひととおりあり、その後、懇親会に出席する。懇親会では多くの地酒が出たのだが、結構美味しくどんどんと飲んでしまった。二次会は、現地の造園業会のドンである徳本さんに連れられて片町のクラブに行き、飲む。こういうクラブは本当に久しぶりである。生ピアノが流れたりしていて、それなりだったが、結構安くしてもらったにも関わらず6000円取られた。大したワインを出された訳でもないので、この値段は高い!まあ、とはいえ銀座だったら遥かにこれより高いのだろうが、相場を忘れているので、どうにも高く感じる。三次会もまたクラブであった。澤とかいう名前だったのだが、ここは女性が必ず男性客に1対1でつく、というシステムらしく、まあ酒を飲むというよりかは、基本的には美人とお話をするのにお金を払う、という場所であった。確かに女性たちは美人であったが、結構若い子も多く、私は職業柄、若い女性と話をしても楽しいともわくわくともしないので、それほど楽しくはなかった。接客していた女性たちの中では、唯一30歳代の女性が好みであったが、私は残念ながら若い女性が隣に座り、しょうがなく若い女性のライフスタイル調査を行った。まあ、多少貴重なマーケット情報は入手できたかもしれない。ここは、しかし接待していただいたので出費はなかった。その後、接待をアレンジしてもらった人の贔屓の店に栗原さんと行く。四次会まで飲むというのも本当に久しぶりである。ここもクラブであった。チーママは結構な美人であったが、リアクション等はちょっと佐藤珠代に似ていた。佐藤珠代は演技だと言われているが、彼女もそうなのであろうか。そうであってほしい。ここは3人で20000円であった。相当、久しぶりにクラブなるものに行って、つくづく感じるのは、クラブは高いということである。こんなところに旦那がはまって散在したら、そりゃ女房は怒るであろう。それは、おそらく他の女性にうつつを抜かすということに腹を立つというよりかは、その金の使い方があまりにも馬鹿らしいから怒るのである。ということを理解した。ホテルに戻ると2時をまわっていた。
7月14日
ゼミ生達と戸越銀座に行く。戸越銀座は延長1.25キロメートルもの長大な商店街である。銀座となづく商店街は全国数多いが、戸越銀座は一番始めなのではないか、と言われている。戸越銀座では亀井ギャラリーの亀井さんのお話を聞く。この話が素晴らしいものであった。商店街が衰退しているのは、「買いたいものがないから」。そうか。そうなのかもしれない。要するに欲しくないから行かないのである。逆に欲しいものであれば買うのだろうか。その点は難しいが、多くの商店街が活力を得るための必要条件さえ満たしていないということを、商店街の人から言われると大変説得力がでる。ウォルマートで売っているものを人々が本当に欲しているかどうかは疑問である。欲望が創出されているというような気がしないでもない。ただ、一つ言えることは、情報化社会となり、多くの情報に満ち溢れている中、商店街レベルの商店が、新しい欲望を喚起させることは非常に難しいのに対して、ウォルマートやイオンなどは、そのようなことが可能であるということである。しかし、逆にいえば、多くの商店街がイオンのテナントとして入ったとしても現状のままでは成功しないであろうということである。一方で、本当に美味い店は商店街に入っていても成功する。下高井戸のハセガワ、東長崎のオディール等成功する店はある程度の利便性がある場所に立地していれば成功する。
その後、20時の飛行機に乗って金沢に行く。
7月11日
テンポロジー研究会が主催した「商業施設のゆくえ」のブレストに参加する。ジャパンライフデザインシステムの谷口正和さん、インテリア・デザイナーの岩倉榮利さん、インター・アクティブ市場創造研究所の川村社長、EPA代表の武松幸治さん、そして私が話をした。谷口さんは初めてお会いしたのだが、個のパワー、思い、信念が重要だと言っており、さすがカリスマ的マーケッティング・コンサルタントは、本質の本質を突くのか、ということを知り感銘を覚えた。ある意味で当たり前なのだが、その当たり前さを説得力をもって発言できる人はそうはいない。我々は些末ではあるが大量の情報に晒されており、それらの情報によって磁場が混乱し、我々の心の磁石は真っ直ぐに北をさせなくなっている。そのような状況下で、谷口さんが個のパワーが重要と説かれる、ということ自体、いかに我々が混乱しているかを物語っている。今こそ、バック・トゥ・ベーシックというか基礎固め、何を自分がしたいのかを改めて考えるべき時代なのであろう。
その後、テーマパーク・デザイナーの金澤さんとカラー・コーディネーターの杉山さん、そしてゼミ生の関口と松尾と一緒に渋谷の飲み屋に行き食事をする。杉山さんはプロの視点から、明学のスクール・カラーについてしっかりとした批評をしてくれた。スクール・カラーのアウトプットはともかく、独断的に決めてしまった、その非民主主義的なプロセスは、本来なら求心力を高めるはずのスクール・カラーがむしろ、人々の心を離散させている。これは何とも皮肉なことである。街づくりにおいて市民参加が重要である、のと同様に、人々に所属意識を高めるためには、与えられたものではなくて、自ら決めたこと、自らがその決定プロセスに参画したという気持ちにさせることが重要であることを、改めて知る。
7月9日
長女の部屋にある本棚から本が溢れはじめたので、本棚を買いに船橋のイケアに向かう。勿論、車でである。日曜の夕方ということもあり、永福町の我が家から船橋のららぽーとまで、一時間もかからずに着いてしまった。15年前より格段に自動車で早く移動できるようになっている。イケアは、まあ本当にアメリカン・スタイルのどでかい商業施設であった。というか、これはもう本当に卸売り問屋のようなものである。値段はべらぼうに安い。娘の本棚を3つ買ったが、1900円が2個、2200円が1個という破格の安さである。2200円の方は172cmもの高さがあり、結構しっかりとしたものであった。品揃えは本当に豊かで、自動車で運ばなくてはならないのが難だが(ちなみに宅配料は5500円と本棚2つ分よりも高い)、アメリカでなら当たり前の手づくりに抵抗がない私にとっては、結構有難い。もちろん自動車で行かなくてはいけないのが不便であるが、船橋近辺の人達にとっては相当、インテリアを充実させることができるのではないだろうか。ららぽーとには東急ハンズがあるのだが、確実に東急ハンズの客足は遠のくであろう。イケアの破壊力は相当凄まじいものがあると思われる。高速代が1600円。駐車場代は全日無料。
7月7日
今日のゼミは卒論の中間報告会。その後、ニーシュで納涼会をする。途中、OBの鈴木早苗が参加する。だんだん3年生と4年生もうち解けて、いい感じになっているのではないだろうか。この勢いで夏合宿を乗り越えていってもらいたい。その後、関口のいきつけの居酒屋に二次会で行く。なかなか美味しい、いい店であった。流石飲んべえは上手い店を見つけるのがうまい。
7月6日
朝の3時に目が覚める。昨晩は11時に寝たのに素晴らしい。テレビをつけると丁度フランス対ポルトガルの試合が始まるところであった。決勝トーナメントで私が応援していたチームはアルゼンチン、ブラジル、ポルトガルそしてオランダであった。ポルトガルとオランダはお互いがつぶし合ったが、それ以外はドイツ、フランスにやられた。アルゼンチン対ドイツは、アルゼンチンこそ勝者としてふさわしかったがPK戦で涙を飲んだ。ブラジル対フランスは、フランスの強固なディフェンスにブラジルの攻撃陣は封じ込められた。ということで、ポルトガルが私的に最後の望みであった。ポルトガルでは、何しろクリスティアーノ・ロナウドが素晴らしい。私的には、もうロナウドはブラジルではなくポルトガルのロナウドを指す。あのスピード、あのテクニック、今回のワールドカップで最も輝いていた選手なのではないだろうか。ルーニーを退場させた演技は、多少顰蹙を買ったむきもあるようだが、あれはあれでなかなかナイスプレイともいえる。少なくとも、私はルーニーよりロナウドを観るために金を払う。素晴らしきファンタジスタである。そのロナウドやミドル・シュートが魅力のマニシェ、球扱いの魔術師フィーゴ、疲れを知らぬサイドバックのミゲル、そしてポルトガルのジダンであるデコ、そしてイギリスとのPK戦で予言者のように相手の蹴る方向を予測したリカルド・・・。怒濤のごとく波状攻撃でゴールを陥れようとする攻撃陣、壁のごとき固い守備陣、観ていて目が離せない魅力的なチームである。是非とも、あのフランスを撃破して決勝戦に進んで欲しいと思っていたのだが、恐ろしく強いチュラムに率いられるフランスの守備陣を崩すことができず、一方でフェアプレーの権化のようなカルバーリョのアンリに対する超微妙な守備でPKを取られ、しかもリカルドはボールの方向を読んでいたにも関わらず、ジダンはもうここに蹴ったら絶対取れないといった絶妙過ぎる場所に蹴りこんで、試合に敗れた。ああ、悔しいなあ。それにしても、フランスの守備陣は本当に強い。なぜ、いきなりこんなに強くなってしまったのであろうか。これがワールドカップのマジックなのだろうか。イタリアとフランスの決勝戦はなぜか、あまり興味が持てない。アルゼンチン対ブラジル、もしくはアルゼンチン対ポルトガルだったら、とてもエキサイティングだったのであろうが。
7月3日
ゼミ生の今泉君と三浦展さんの事務所に打ち合わせに行く。その後、三浦さんと今泉君と西荻窪の一瓢家にて食事をする。相変わらず、ここの焼肉はめちゃくちゃ美味い。途中、なんか水虫研究家の妙齢な女性も現れて、楽しい時間を過ごすことができた。
7月1日
ブラジルとフランス戦を観た。ブラジルはなんかフランスに翻弄されていた。ジダンのプレイは華麗であった。すごい球の扱いのうまさである。ロナウジーニョの鋭さがあまりなかったこともあり、この試合のジダンは試合をコントロールしていた。コンダクターの名にふさわしいプレイであった。ブラジルはこのジダンにやられた。ブラジルがベスト8で消えることは、アルゼンチンとともに大変残念なことであったが、この日の試合ではフランスが勝者であった。しかし、ベンガルはフランスが勝つことを予測していた。何が彼の根拠だったのかは不明だが凄い。
6月30日
ゼミ生と三郷市に行く。三郷市の市役所で働く堀尾さんに、是非とも街歩きを三郷で実施してもらいたいとの依頼があったからである。有難いことである。三郷市には筑波エクスプレスに乗って行った。三郷中央駅という三郷市のドマン中にある新しい駅へまず行く。しかし、周辺には何もない。三郷市は中川と江戸川に挟まれているが、元々の集落はこの二つの河川沿いに発達した。三郷駅という武蔵野線の駅があるが、これもほとんど流山市の市境にあり、町外れに位置している。というか、町の中心が町外れなのである。しかし、行政的な市域の中心にいきなり、これからこの町の中心となるような駅ができてしまった。秋葉原へ20分。郊外住宅地としては優れている。しかし、駅から見えるものは、高圧線と外郭環状道路。徐々に駅の周辺も開発され始めているが、早急に都市計画的な手術をすることが求められる。ここは都市の鍼治療ではなく、まだ骨格ができていないので、筋肉がつく前に骨格づくりが求められているのだ。
三郷中央駅のそばには、三郷インターがある。20年以上前、この三郷インターをしょっちゅう使っていた。その頃は、本当に寂れていた。目を見張るほどの変化とかは言えないが、結構、周辺は大きく変わっている。しかし、流山橋などは、全然変わっておらず、その懐かしさに身体が震えた。風土や風景がその人間の人格形成に大きな影響を与えるということは、オギュスタン・ベルクなどが述べており、私も「サステイナブルな未来をデザインする知恵」で彼から、そのような内容の話を聞いているのだが、本当にある環境、ある光景に対して、特別な思いなどを人は持つものである。特に、まあこういう話は恥ずかしくて書きにくいのだが、この三郷から流山にかけての風景は、大学時代に組んでいたバンドで「かしわフリーウェイ」や「いばらぎららばい」とかいう曲にしたりしていたので、私という人間に極めて強い印象を与えているのである。まあ、ノスタルジックなものというよりかは、葬りたいような過去ではあるのだが、それでもいざ、20年ぶりに訪れると、ある意味で感情は揺さぶられる。あれから、20年以上経つが、あまり進歩していないとも言えるが、まああの時よりは、さすがに前進はしている。
さてその後、フィールドスタディでオーストラリアに行った学生達とニーシュで飲み会を行う。私が編集したビデオと星野君が編集したビデオとを鑑賞した。星野君が編集したビデオは30分以上の大作で見応えがあった。貸し切りであったので、みんなゆっくりと楽しんでくれたのではないかと思う。私も大いに楽しめた。フィールドスタディは大変なことが多く、いろいろ苦労もするが、そういう苦労がこのようなフィールドスタディ後の飲み会があると報われたと思う。君たちは私に感謝してくれているが、私も君たちに結構感謝している。
6月27日
ゼミの今泉君と朝の10時に永福町駅で待ち合わせをして太田市に行く。途中、伊勢崎の風俗街もチェックしなくてはと思い、伊勢崎に向かう。今泉君は2号線沿いにあると言うので、そこに向かうも、あまり大した集積はない。風俗案内所はあるが、閉まっているし、これのどこが太田のライバルなのだろうと二人でいぶかしがる。その後、太田市に行き、都市計画課の課長と係長代理にお話をうかがう。太田市の南一番街は、駅前の目抜き通りであるが、そのほとんどが風俗関係の店舗という、もう世紀末的なすごい状況になっているのだが、それに対して市役所はどのように考えているのかを是非とも伺いたかった。そこで分かったことは、まず市役所としては、これはどうにかしなくてはならない、と強く考えているということであった。しかし、次の二つの点から、なかなか現況を変えることが難しいことも理解できた。それは、1)テナントのオーナーが市民ではなく、栃木県、埼玉県、場合によっては外国人だったりするということ、2)テナントに貸している地主は、経済性重視なので、高く借りてくれれば後は頬被りすること。そういう中、看板だけはどうにかしたいと考えており、景観法の制定は非常に有難い援護射撃であるとのこと。確かに、私のような市外からの訪問者が、太田の風俗イメージを強烈に印象づけられるのは、看板である。まあ、そのような営業行為(これらの多くは違法ではあるのだが)の取り締まりは難しいだろうが、看板をもう少しスマートにすれば、随分と街のイメージは向上するであろう。ラスベガスも基本的には太田市と同じだろうが、そこらへんはうまくオブラートに隠している。また、お話の一環で伊勢崎の風俗街はなんと郊外化が進んで、既に中心市街地にはあまり残っていないとのこと。太田市はショッピングセンターにはできず、中心市街地に残らざるおえない業種が風俗であるので、このような事態は今後日本の地方都市に広まっていく、という分析をしたので、早くも頓挫した感じである。そうか!風俗業種も郊外立地がそんなに進んでいるのか。夕方は、夏風邪をこじらしたので、早めに帰京する。
6月25日
一音寺で父親の七七日の法要をする。無事に終わり、まあこの多忙でストレスフルな7週間も過ぎ去った。本日も自動車に乗って移動する。家族などで移動する場合は、自動車も便利である。特にお骨を持って移動しなければならない時は便利だ。
そうそう、ジーコ監督の後任がオシムに決まりそうだというではないか。なんて目出たい!というかこれは大いに期待できる。というか、オシムがやって駄目なら納得できる。そういう人材が全日本の監督をやってくれるのは嬉しい限りである。オシムの素晴らしいところは、語彙があることだ。ボキャブラリーが豊かであるということは、問題点や目標をしっかりと概念化できることであり、これは人々と考えや意見を共有化させられることでもある。これは簡単なようで大変難しいことである。オシムは語彙があるのに加えて、すごいインテリでもある。語彙があるのでインテリであることが理解できる。オシム語録は豊富な語彙があるために、素晴らしい知恵が彼の脳みそには集約されていることが我々は理解することができるのであるが、私はこのオシム語録に接して、サッカーの見方、考え方を素人なりにも学ぶことができた。川淵会長もオシム語録に感動して、是非ともこの人を監督にと思ったそうだが、それってよく考えたら、私レベルなのではないか!ちょっと、そっちの方は心配である。しかし、オシムによって我々はまたサッカーという競技の難しさと素晴らしさを知ることになるであろう。とても楽しみである。
さてさて、下手なチームがとっとと消え去って、これからは好試合が展開するのではと期待している。一日一試合と限定して、これから毎日試合を見たいと思うのだが、今日はイギリスとエクアドル戦をみた。イギリスはロングボールを多用し、ルーニーの個人プレーに賭けるといった戦法で、これが本当に優勝候補なのか、と疑うような雑なプレーに終始した。結局、ベッカムの驚異的なフリーキックとA.コールの捨て身のブロックがなければ勝てたかどうかも怪しい。とてもアルゼンチンやブラジルの敵ではないと思うのは短絡過ぎるだろうか。決勝トーナメントではあったが、イタリア対チェコのような緊迫感はなかった。
6月23日
二週間続けて合同ゼミを行う。ゼミ生達と都電に乗り、荒川車庫にて元運転手で現在、運行管理をしている新保さんにいろいろとお話を聞く。荒川線を始めとした都電のお話は大変興味深いものがあった。前から気になっていた経営状況に関して話を聞くと、案の定、シルバーパスなどの関係もあり、若干赤字も出ているが、ほとんど収支はとんとんということであった。これは、凄いことである。というか、世界的にみれば奇跡的である。ドイツのLRTでさえ、運賃収入はコストの3割にも満たない。有名なアメリカのポートランドのLRTに至っては1割にも満たないのである。そういう世界の他事例と比較すると、いかに荒川線が飛び抜けて優れているかが理解できる。しかし!ほとんどの人がその優秀さを認識していないのではないだろうか。
その後、旧原後ゼミである保谷野ゼミの学生達と保谷野先生と池袋で飲み会をする。保谷野先生は原後先生が大学に赴任される前からご存知で、いろいろ私の知らない原後先生の話を聞くことができて大変面白かった。原後先生は私の想定外というか想像力の域を超えた怪人であるのだが、改めてその怪人ぶりを知ってしまった。今でも原後先生には驚かされる!いろいろ貴重な話を聞くことができ有意義な時間を過ごせた。それにしても、服部ゼミの3年生の特に男子の停滞ぶりは目を覆うばかりである。服部ゼミは「研究」、「発信」、「交流」が活動の3つの柱である。特に「交流」は、「発信」先を開拓すること、「研究」対象をより深く知るためのネットワークづくり、など3年生においては極めて重要な基礎条件づくりの活動であることを理解していないのではないか。服部ゼミでは、単なる学力や知識を培うのではなく「人間力」を養う場である。近いうちに心を入れ替えないと、大鉈を振るう可能性もあることを、この文章を読んだ学生は肝に銘じて欲しい。
6月21日
久しぶりに自動車を運転する。3週間ぶりである。こんなに自動車に乗らないのに駐車場代が一月25000円もする。高い乗り物である。しかし、まだ3月に所有してから3回くらいしかガソリンを入れていないので、ガソリン代が高いとはあまり思わない。高いのは駐車場代である。今日は、荷物が多かったので、それを学校へ運ぶために自動車を使ったのである。重い荷物を運ぶのには、自動車は楽である。途中、目黒のHMVが安売りをしているために自動車で寄る。駐車場代が500円かかる。ジェネシスのメジャー・デビュー・アルバムである「トレスパス」と二枚目の「ナーサリー・クライム」を買う。これらは、LPで所有してはいたのだがCDでは買わずにいたので購入した。加えて、プライムスクリームの新作、ディクシー・チックスの新作を購入する。ちなみにディクシー・チックスは音楽というよりかは、政治的スタンスに興味があったので、どんな音楽を演奏しているかが気になったので購入したのであったが、全く趣味ではなかった。ブッシュ政権への反対姿勢を表明するなど、大変なインテリであり誠実な人であることは、その発言から理解できたが、音楽的なものに関しては、私の趣味とは大いに異なっていた。しかし、楽曲のクオリティが高いことは趣味ではなくても理解できた。
6月20日
徳島にせっかく来たので、法要後すぐ帰らずに、ちょっとぶらぶらしてみた。こういうことは、サラリーマン時代にはまったくできないことだったが、大学の教員になると出来る。しかし、それでも今まではサラリーマンの貧乏性からか、そんなのんびりなことは出来ないと強迫観念にとらわれていたが、今年は非常勤も春学期はすべて断り、他の仕事もあまりしていないので、定年後のおじいさんのようなこともしてみたりする。などと書きつつ、今月末の原稿〆切を抱えていることはあるので、まあ100%のんびりは決してできないのだが。徳島はなかなか素晴らしい都市であった。日本の都市で私が「素晴らしい」などと書くことは本当に滅多にないので、なかなかのものだと思うのだが、それに関してはブログに記しているので、よかったら参照してください。朝一番で、徳島市の眉山のロープウェイなどに乗り、その後、レンタカーをして吉野川河口堰を視察しに行こうと考えていたのだが、石川君が亡くなった原因が自動車の事故であったこともあり、列車でぶらぶらとすることにした。徳島駅にとりあえず向かい、一番すぐに発車する牟岐線の阿南行きに乗る。水田の美しい田園風景が広がる。埼玉などとは違って美しく見えるのはなぜだろうか。それは、道路がまだあまり整備されていなく、狭いからであることにすぐ気づく。あの広幅員のまっすぐな整備された道路は水田風景と調和しない。地方都市である阿南で降りる。駅前は大いに寂れていた。化粧品屋、自転車屋、喫茶店、おばあちゃんを対象としたと思われるアパレル屋、家具屋などは開業していたが、他はシャッターを閉めていた。まさにシャッター商店街である。この程度の都市では、マーケットも小さく、商売は本当に大変であろう。イオンなどが立地したらひとたまりもない。しかし、これらの商店が生き延びても地元の人達は喜ぶのであろうか。消費のライフスタイルが凄まじい早さで進展しているのに対して、商店はその変化について来れていない。地方都市においての人々の生き方みたいなものを今一度、再検討することが、いたずらに商店街再生とかいうより重要なのではないだろうか。地方都市でどのように人々が一生を過ごせばいいのか。若者は故郷を捨てて、都会に出ればいいのか。人生において何を求めて生きていけばいいのか。地方都市においては、経済活性策よりも哲学が必要なのではないか、と考えるのは軽薄に過ぎるだろうか。阿南の駅前のお洒落っぽい茶店に入る。コーヒーが一杯500円であった。今朝、徳島駅のそばにある喫茶店でモーニングを注文したのだが、そこではポテトサラダ、くるみパン、トースト、びわ二つに美味しいコーヒーがついて400円であった。シャッター商店街であるにも関わらず、この価格設定は解せない。いろいろと考えさせられる阿南の駅前通りであった。また、牟岐線に乗り、南下する。徳島県海部郡のあたりを走る。風光明媚な車窓が展開する。この国の風土の美しさを思い知らされる。この風景を次世代にも引き継ぐことができるのだろうか。変化するものもあれば、変化しないものもある。まずいものを変化し、よいものを大切にしていく。景観に関しても、そういう姿勢で取り組んでいければいいのだが。
などと書いているうちに日和佐駅に着く。ここで降りないと飛行機の時間に間に合う列車に乗ることができない。ということで特に目的意識もなく降りたこの日和佐という町は、なんかもうタイムスリップしたような懐かしさ溢れる町であった。私が小学校一年の時、祖母が九十九里に別荘を購入した。別荘地ではなく、なんかそこらへんの松林に土地を購入して家を建てたのだが、その当時、この九十九里の周辺が有していた日本の田園風景を今でも維持しているような町であった。祖母の別荘があったところは東金市からも近いこともあり、なんか東京都内に通勤するような人も住み着き始めたりして、まったく様変わりしてしまったが、この日和佐は、昭和40年代の日本の懐かしさ、そう「三丁目の夕日」的ロマンが街並に溢れていると感じたのである。もちろん、都市ではないので「三丁目の夕日」とは住んでいる人の生活とかは違うだろうが、あの頃の雰囲気をタイムカプセルに保全して現代に復元させたといった懐かしさを私は感じたのである。そして風景も実にいい。港まで歩いていくと、その海の美しさに感動する。ふと見上げると、お城が山のいただきに建っており、私の視界にゆっくりと旋回しているとんびが入ってくる。なぜ、この日和佐の町の景観が美しいと感じるのであろうか。ちょっと考えてみた。まず、エイジング的な効果がある。コンクリートなどもほどよく朽ちていて、侘び寂びのいい味を出している。そして、色彩が調和している。背景にある山並み、そして水田の稲、畑の野菜といった緑のグラデーションに加え、空と海の青色、それに土の茶色と灰色。そして建物の茶色から黄土色のグラデーション。それにワンポイント的に現れるレンガ色やえび茶色といった赤系統。マクドナルドの黄色、吉野屋のオレンジ色、ローソンの青色といった原色系のド派手な色は見られない。そして、ナショナル・チェーンの店がないことから感じられるローカリティ。ここの風景はファスト風土ではない。日本風土の固有のDNAを引き継いでいる。
と大いに感動していたのだが、帰りの電車に乗る前に地元スーパーに寄った。なにか、地元の産品でも買おうかと思ったのだが、オレンジや柑橘類はアメリカ製が多かった。それと鹿児島産などであり、地元の果物は見当たらなかった。魚に関しては、徳島産や地元のものも多少置いてあったが、やはりベトナム産とか、北海道産なども置いてあり、日常生活はグローバル経済に組み込まれていることを知った。ということでお土産は買えなかったのだが、隣の牟岐の港で取れたはまちの刺身と赤飯を買って、列車で駅弁代わりに食べた。このはまちの刺身は390円で10切れぐらいあったのだが、美味であった。今回の徳島行きでは、多くの知見が得られた。ここに私を呼んでくれたのは、石川君だったのだろうか。石川君は以前、「徳島などは東京のシンクタンクに仕事をして無茶苦茶にされたくない」と私に言って、私はその仕事とは無関係だったのだが、「そんなこと言っても石川君は東京の仕事をしているじゃないか」と東京っ子の私はプンプンしたことがあった。しかし、徳島は確かに素晴らしい環境を今でも保全しており、確かに東京の右も左もわからないシンクタンクにはとやかく言われたくないと彼が言ったことが理解できた。石川君、有り難う。ご冥福をお祈り申し上げます。
6月19日
日本、クロアチア戦を徳島のホテルのテレビで見た。そこで気づいたのは、真剣勝負のサッカー観戦は楽しいということである。何を当たり前な、と思う人も多いだろうが、それが率直な感想であった。日本の試合運びはフラストレーションが溜まるものであり、柳沢のシュートミスなどは、彼のシュート機会の少なさを考えれば、本当に「決めるときに決められない」奴だなという思いを新たにさせられた。玉田のパスミスも、「あそこでパスするかあ」と情けなく思ったが、実はシュートミスだったそうだ。そうか、パスも情けないが、シュートミスというのもそれはそれで情けない。そして、試合後半にサントスがディフェンダーを左サイドから突破し、素晴らしいセンタリングをしたにも関わらず、誰も飛び出さなかった。あの時のサントスの悔しそうな表情をみて、私も悔しい思いをした。サントスはポカが多く、ジーコはなぜ彼に固執するのか理解に苦しんだが、私のそのような素人意見は、彼のあのプレーで浅はかであったことを思い知らされた。でも、彼のあの必死なプレーを得点に結びつけられない玉田と大黒は情けない。しかし、どちらかというと日本よりクロアチアの方が情けなかった。PKも決められなかったし、相当シュートミスがあった。日本よりさらに「決められない」という印象を与えた。ブラジル戦でクロアチアが示したような、息をのむような豪快で鋭いシュートはほとんど見られなかったし、連携も悪かった。クロアチアのサポーターは随分と欲求不満が高まったのではないか。まあ、いろいろと考えたりするところもあるが、まあサッカー観戦は楽しい。日本チームがやはり贔屓なので、決勝トーナメントに進んでもらえれば、それはそれで嬉しいが、それより楽しいサッカーの試合が見れればそれでいいとも思える。選手や関係者にとっては勝つことが非常に重要であろうが、私はあくまで傍観者でサッカーという素晴らしい競技を鑑賞できれば幸せであるといった気分になっている。
6月18日
三菱総合研究所の後輩であった石川浩章君が先月交通事故で亡くなられた。私の課は、ほとんどの人間が会社を辞めていたので葬儀の連絡が来なかったこともあり、後輩の日高圭一郎君と四十九日に参列させてもらった。石川君は私が入った二年後に入所して、私と同じ部に配属された。仕事にはちょっと距離をおいてクールに、しかし自分の信念は曲げずに誠実に取り組んでいるという印象を受けていた。一緒に仕事をする機会はなかったが、年齢も近いせいもあり、よく仕事の話などをしていた。サッカーが大変上手で、一緒に試合をしたこともあった。イメージとしては全日本の稲本のような感じである。試合では、下手な私にパスをしてくれたことがあり、勝負を優先するならそんなパスをしなくてもいいだろうにと思いつつも、彼のその思いやりに彼の優しさを感じたことを今更ながら思い出す。
6月17日
三菱総合研究所の後輩である日高圭一郎君と徳島の飲み屋で久しぶりにぐだぐだと話す。私は三菱総合研究所では上司にはあまり恵まれなかったが、後輩には本当に恵まれた。日高君はその後輩の中でも、多くの仕事を一緒にやり、苦楽をともにした。私は当時は独身であり、また元気だったので、よく一緒に夜の二時まで仕事をして、それから目黒の権の助坂の韓国料理屋の明洞に夜食を食べにいった。この生活がたたって、私は逆流食道炎と胃潰瘍になった。当時は、バブルだったので、余った調査費で全国行脚を一緒にしたりもした。函館や大阪、岡山などのウォーターフロントの取材旅行に一緒に行ったりしたことを思い出す。日高君は現在は、九州産業大学の建築学科の助教授で、九州の都市計画学会、建築学会などで大いに活躍している。随分と忙しいようである。まあ、結構、私と日高君が飲むと、私は聞き役になる場合があるのだが、今日もそんな感じであった。おしゃべりの私が聞き役になるのは珍しいことなのである。ただし、日高君の話を聞いていると、なんか全般的に世界がつまらなくなるように感じる。しっかりと本当にソツなくいろいろと頑張っているのだが、どうも厭世的な感じになってしまっているようだ。三菱総合研究所で働いていると、人生つまらない気分になって厭世的になる。私もそうであった。私は、三菱総合研究所を辞めたらとってもハッピーになり、家庭の危機も回避することができた。しかし、日高君は三菱総合研究所を辞めても、どうも相変わらずハッピーではないようだ。これは、おそらくハッピーではないことを見つけるのに彼がとても長けているからであろう。人生、楽しいこともつまらないことも半々あるような気がする。私は、レルネルさんの薫陶を受けているので、つまらなければ、それを楽しいようにしようと心がけようとしている。まあ、日高君のように社会的な仕事をほとんどしていないから、こういうことが言えるのだろうけど、でも、ハッピーにいきましょう。大して長い人生じゃないんだから!これは大学の講義やゼミにも常に心がけていることである。うまくいっているかどうかは自信はないが。
6月16日
今日は慶応義塾大学の佐藤和ゼミと一緒に、品川宿へ街歩きを行う。品川まちづくり協議会の堀江会長のお話をうかがう。堀江会長は、話が面白く、私は時差ぼけも吹っ飛んで話に聞き入ってしまった。こんな大学のそばに面白い場所があり、人がいたなんて!その後、佐藤ゼミと一緒に荏原神社。旧東海道を歩く。佐藤ゼミは40名という大所帯であり、服部ゼミの17名を合わせて総勢60名弱の大人数で品川宿を練り歩く。大名行列のようである。品川宿は、潜在的なポテンシャルは高いが、それがうまく活かされていないという印象を受ける。
そして、お決まりの飲み会を三田で行う。佐藤先生は実は、三菱総合研究所の時の先輩である。気兼ねをしない間柄ではあるが、こういう交流会をすることを受け入れていただき、服部ゼミとしては有難い限りである。飲み会では佐藤ゼミの学生の多くが、私の話を聞きにきた。好奇心があり、前向きで好感が持てる学生達が多い。都市計画に関して、素人ではあるが、それゆえの鋭い質問を多く浴びる。時差ぼけがきつく、丁寧に答えなかったところがあり、今思うと申し訳ないこともしたが、頭が動く範囲で答えるようにした。それに引き換え、服部ゼミの3年生は一部を除くと、あまり積極的にコミュニケーションをしなかったのではないか。佐藤先生にも質問していた学生はごくわずかであった。明治学院大学はほんわかしていて、居心地がいい大学である。しかし、あたかも繭のような中でずっと過ごしている訳にはいかず、近いうちに卒業して社会に出て行かなくてはならない。そのためには、積極的に外に自発的に働きかけていくことをトレーニングしなくてはならないと考えている。そのために、服部ゼミではハビタット通信を出版し、販売したり、白金祭で店を出したりして、その社会性を獲得するための機会を与えることを大きな目的としている。引っ込み思案で内向きな気持ちに、いろいろと大変ではあるが打ち勝つような機会を与えている。他大学との交流もその一つである。それにも関わらず、ゼミ生同士で内輪で話をしているのは、どういうことなのだろうか。しっかりと自覚をして前向きに活動していって欲しい。とはいえ、今日の幹事役の山下はよくやってくれた。40名という大人数が新たに加わったという難しい状況下でも、しっかりとスケジューリングできていたことは感心である。
6月15日
ブラジルとクロアチア戦をテレビ観戦した。クロアチアのディフェンスがあまりにしっかりとしていることに愕然とした。オーストラリアにうっちゃりを喰らった我が日本代表がとても太刀打ちできる相手ではないという揺るぎない事実にショックを受ける。しかし、朝大学に行く途中、スポーツ新聞や週刊誌の表紙などは、相変わらず楽観的な「日本クロアチアに勝つぞ」的な文字が踊っている。ほとんど、第二次世界大戦中の大政翼賛会的なメディアによるマス・コントロールである。オーストラリアの敗戦で電通の株価が急落したそうである。このワールドカップによるサッカー熱をビジネスにつなげようとしている黒幕の存在が、まあ明らかにされた訳である。とはいっても、サッカーは何が起きるか分からない。日本が奇跡を起こすことは、それでも願っている自分がいる。
6月6日
朝4時30分にホテルから空港に向かう。7時のニューヨーク行きの飛行機に乗り、そこから全日空の東京行きに乗り換える。JFK空港はエアトレインというターミナルを結ぶ新交通ができており、おお便利だと思ったのもつかの間、ぼうっとして降りるべきターミナルを乗り過ごす。しかし、どうも一方通行のようでぐるっとまた一周しないともとに戻れない。しょうがないから歩いていこうと思ったら交通法規に反するらしい。なんか、効率が悪いよなあ。この旅行でつくづく思い知らされたのはアメリカの効率の悪さである。都市構造や空間のつくり方が本当に愚かというか、考えられていない。
6月5日
デンバーからミネアポリスに移動する。午後にミネソタ大学に留学している石橋君と待ち合わせをし、モールオブアメリカに連れて行ってもらう。モールオブアメリカへのコメントはブログを参照して下さい。ニコレットモールにあるハイアット・リージェンシーに予約をしていたのだが、なんとオーバーブッキングで他のホテルに移された。飛行機ならともかく、ホテルでもこんなことが起きるのか。随分と唖然とした。同じようにチェックインできない客では、烈火の如く怒っていた人もいたが、こういう時は文句を言ってもほとんどいいことはない。むしろ早めにホテルの部屋を確保しておいた方が懸命である。しかし、あてがわれたホテルはダウンタウンから離れたミネソタ大学のキャンパス内にあるラジソン・ホテルであった。絶対、ハイアット・リージェンシーを安いはずだが、差額は戻ってこない。ううむ。夕食はホテルそばの中華料理屋に行く。
6月4日
ボルダーに朝早く行き、ボルダーの都市計画部長であるピーター・ポラックさんと会い、朝食を一緒にしながら、いろいろとお話をうかがう。午後にはコロラドスプリングスまで車を飛ばし、都市計画がしっかりしているボルダーとは極めて対照的にしっかりとしていないコロラドスプリンスを見ていろいろと比較考察したかったからである。コロラドスプリングスは、コロラド州ではデンバーに次いで人口が大きな都市であり、ダウンタウンも規模が大きかった。しかし、道路幅が非常に広く、郊外スプロールも激しく、さすが「ファストフード・ネーション」の序章に登場する都市だけあると感心した。しかし、コロラドスプリングスの西端には、ガーデンオブゴッドという「神様の庭」と命名された奇勝地があり、4300メートルあるパイクス・ピークを背景にする絶景を誇る。こんな自然美があるのに、だらしなくスプロールしてしまい、本当にもったいない。ボルダーとコロラドスプリングスに関してもブログに記しているので、よかったら参照して下さい。
6月3日
アルバカーキーからデンバーに飛び、コロンバイン高校を視察し、近くのハンバーガー屋で遅い昼食を取る。コロンバイン高校へのコメントはブログを参照して下さい。
6月2日
サンタフェからアルバカーキーに行き、ニューメキシコ大学の先生であり、私のもう10年以上の友人であるスティーブン・ウィーラー氏と会い、アルバカーキーのひどいファスト風土に連れて行ってもらった。西のまさに金太郎あめのような郊外住宅地、モービルハウスなどを視察する。確かに荒涼たる砂漠地帯にこつ然と現れる住宅地群と大規模ショッピングセンターは不気味である。こんな生物も存在できないような土地になぜ人間が住めるのだろうか。そもそも水はどうするのであろうか。というか、アルバカーキーは既に水不足が深刻な事態に陥っている。それなのに、さらに開発を進めているというのはどういうことなのだろうか?その後、アルバカーキーのエッジ・シティともいえるリオランチョを訪れバーベキュー家で昼食を取る。三浦さんは、まずい!と文句を言うかと思っていたら、結構いけると言っていた。その後、市役所にて打ち合わせがあるスティーブンと別れ、ニューメキシコ大学で助手をしているクリストファー・カルテンバッハと会う。彼は日本の吉祥寺に数年住んだこともあり、今年のはじめに東京に来た時に私のゼミで講義をしてもらったりしたこともある仲である。今度はクリストファーの車でまた酷いファスト風土を訪れた。南にあるベレンというウォルマートのスーパーセンターが立地した町にいったが、ここの中心市街地は完全に衰退していた。恐ろしくすたれたボーリング場の前にたむろしていた二人のおばさんにちょっと話をすると「ウォルマートがこの町を完全に吸い尽くした」とシナリオのような回答。やはり、ウォルマートは小さな町には壊滅的なダメージを与えることを目の当たりにする。その後、クリストファーお勧めのメキシカン・レストランで食事をし、さらに彼の家で酒を御馳走になる。
ゴーストタウンのように生気をウォルマートに吸い取られたベレンの歴史的中心地区
6月1日
ラスベガスからアルバカーキーへ移動。この日はほとんど睡眠ができなかったという厳しい状況でアルバカーキーからサンタフェまで25号を北上。いやあ、凄まじい睡魔との戦いだが、どうにかサンタフェまでたどり着く。三浦さんはニューメキシコの雄大な景色に感心をしていた。サンタフェではチェスター・リーブス氏と会い、ファスト風土の問題などに関して取材をする。チェスター・リーブスは我々を非常にオーセンティックなメキシコ料理の家庭レストランに連れて行ってくれた。高級では決してないが、地元の住民が行く定食屋風のレストランを私が好むことを知っているからである。有難い。この日はサンタフェにて泊まる。