12月31日
今年も最後の日となった。今年は厄年を脱した年であったのだが、災厄に見舞われた年であるし、多くの私が敬っていた人が亡くなられた年であった。4月に上梓した「サステイナブルな未来をデザインする知恵」で取材を是非ともしたかったジェイン・ジェイコブス(そもそも出版社の企画はジェイン・ジェイコブスに取材をするというものであった)や萱野茂(これは体調を理由に断られた)が、それぞれ4月、5月に亡くなられた。萱野茂の命日となった日は奇しくも私の誕生日であった。また、ビオシティの杉田編集長との企画で「日本の良心」に是非とも登場してもらおうと話していた宇井純も11月に亡くなられた。萱野氏とは幸い、以前、お会いすることができたが、他の二人も著作等を通じて私に大きな影響を与えた人である。彼らが亡くなってしまい、これからの世界はさらに混迷していくのではないだろうか。大いなる知と良心を我々は失ってしまった。また、「サステイナブルな未来をデザインする知恵」に取材記事を載せることができた絵門ゆう子も4月に亡くなられた。彼女も多くの人々に勇気を与えてきた。と同時に都市やコミュニティに関しての非常に鋭い考えを有していた。私にとってのせめてもの慰めは、しかしその取材を本にすることができたことである。おそろしく売れていないけど。そして、都市環境デザイン会議でいろいろと私を指導してくれた川井さんも4月に亡くなられた。父親も5月に亡くなった。故人の冥福を心からお祈り申し上げる。来年は是非ともいい年にしたいものである。
12月29日
自動車で大学の研究室に置きっぱなしにしている大荷物を取りに行く。最近は、車の中ではほとんどipodを聴いている。私のipodには4000曲ぐらい入っているので、1曲当たりの平均時間を4分としてもすべて聴くのには8000分、130時間以上かかる。こうなると、曲との出会いは一期一会的である。滅多に同じ曲に出会えない。また、車を停めている間につけっぱなしにしていることもあるので、その間、流れてしまうと、下手したら、もう1年間ぐらい聴かない曲もあるかもしれない。それはともかく、今日、ipodから流れてきたある曲に強烈に惹かれた。もちろん、ほとんどの曲は自分のCDからダウンロードしているので、知っている曲であるのだが、その曲はなんかこうトンカチで頭を殴られたような衝撃を私に与えたのである。その曲は、キングクリムゾンの「レッド」に入っている「One More Red Nightmare」であった。一般的に「レッド」の名曲として捉えられているのはタイトル曲の「レッド」か「スターレス」である。「スターレス」とかは、よく泣かずに聴けない、とか言う奴が多いし、「レッド」は、もう頭でっかちのプログレファンにとってはアイデンティティ・ソングのような扱いを受けている。私にとって、キングクリムゾンの位置づけはそれほど高くない。プログレ四天王であるピンク・フロイド、イエス、エマーソン、レイク&パーマーの中でも、ELPよりかはましかな、というようなレベルで、ピンク・フロイドやイエスの方がよほど好きであるし、そもそも私の愛を最も受けたのは、四天王から外されているジェネシスである。もちろん、ブラッフォードは大変好きなドラマーであるし(赤坂のドラムクリニックに行き、直接話をしたことが密かな自慢である)、「レッド」におけるフィリップのうねうねギターに絡むブラッフォードのリズムの刻みは、おおおお!と自分の身体までうねうねさせてしまうことを避けられない。「スターレス」の最後の盛り上がりも美しいと思う。しかし、私的にはジェネシスの「シネマショー」の盛り上がりの方が遥かに美しいし、恍惚を覚える。だから「レッド」が一般的に高い評価を受けるのは理解しても、私はちょっと冷めていたのである。しかし、本当に大学卒業以来、おそらくほとんど聴くことがなかった、この「レッド」の伏兵ともいうか、7番打者のような曲に非常に惹かれてしまったのである。うねうねフィリップのギターのユークリッド幾何学のような几帳面さを、ジョン・ウエットンのドント・クライを歌ったのはやはり失敗だったよなあ的ボーカルが緩和していて、聴きやすくさせているからなのかもしれない。いやあ、滅茶苦茶格好いいじゃないか。久しぶりに「太陽の旋律」でも聴き直すか。
12月28日
今日はパリの国連で働く新谷さんが帰国したので、元いた会社の後輩の古田君と3人で麻布十番のまつ勘で忘年会を行う。まつ勘は初めてだったが、なかなかナイスないい寿司屋であった。コハダが絶品である。さて、新谷さんは、以前よりさらにポジティブ思考になっており、威勢がよかった。風貌も貫禄がでてきた印象を受け、美貌も磨きがかかったようだ。女はこうありたいものだと思わされた。逆に古田君はさらにネガティブ思考になったような印象も受けたが、これはチリの出張から帰ってきて疲れていたからかもしれない。
12月27日
都市デザインの大家である曽根さんと旅行代理店の荘さんと打合せを新宿でする。来年の5月に都市環境デザイン会議で韓国へのツアーを企画しているのだが、その行程についての詰めをしなくてはならなかったからである。その後、曽根さんも私も忘年会があったのだが、中途半端に時間が余っていたので新宿西口で焼酎を飲む。曽根さんは、その名声とは裏腹に非常に豪快で、私のようなものにも対等に接してくれる。私は生意気なようで、団塊の世代には結構、煙たがられるところがあるので、このような人に出会えると必要以上に饒舌になってしまう。もちろん、焼酎がそれを促進したことは言うまでもない。現在の日本の都市の問題などをすこぶる的確に把握しておられ、大変貴重な時間を過ごすことが出来た。
その後、大学時代の同期である川嶋、井上等と忘年会を阿佐ヶ谷のバードランドで行う。バードランドは、グルメ雑紙等を席巻している。私も以前、三浦さんと訪れたが、その時は閉店していたので、今回が初めてであった。お好みコースを頼み、ハツや焼チーズなどを注文する。ハツはそれまでの既成概念を壊されるほど旨かった。有名な親子丼も相当、旨かったがこれは想定内という感じか。しかし、その名声に違わぬ旨い店ではあった。川嶋は私のことをおそらく私の親や妻よりも、よく知っている。もし、私が死んだ後、私のことを知りたいという奇特な人間がいたら川嶋に聞くといいであろう。少なくとも、20代の私のことは、私よりよく理解しているかもしれない。
12月26日
病院で定期診断を受ける。中性脂肪が増えている。これは、明らかに運動不足の結果で、自動車に乗るようになっているからだ。医者は、自動車に乗ると確実に運動しなくなるので、毎日エレベーターに乗らないで階段を使うといいでしょう、と言う。私の研究室は8階だから、それは相当きついのだが、自動車に乗るということは、そのような罰を受けなくては健康体でいられないということなのかもしれない。階段を使うのは辛すぎるので、自動車に乗らないようにし始めようと思う。ちなみに一月ぶりにガソリンを入れる。大体、リッター8?程度の燃費である。これからは、燃費などの経費をこまめにつけていこうと思う。
12月25日
商品としてのクリスマス・ケーキに関心がある。商品としてのクリスマス・ケーキは、近年、大変な人気でデパートの食堂売り場はケーキを買い求める客で長蛇の列ができる。セブン・イレブンでさえイブの日は2500円のクリスマス・ケーキを店頭販売していた。しかし、美味しいクリスマス・ケーキを入手することは結構、大変である。というのは、ほとんどのクリスマス・ケーキは、少しでも保存できる、すなわち少しでも前もってつくれるように、生クリームを使わず、バター・クリームを使うからである。バター・クリームが好きな人はそれで問題はないのだが、私のようにバター・クリームが苦手なものにとっては、このバター・クリームを使わないケーキを探すために随分と苦労する。問題なのは、クリスマス・ケーキの売り子はほとんどがアルバイトなので、バター・クリームを使っているにも関わらず、使っていないと言うことである。別にこれは人を騙そうとしている訳ではなく、単に知らないだけなのである。また、普段は相当気合いを入れて生クリームでショートケーキをつくっている店も、クリスマス・ケーキだとバター・クリームを使用する。
今まで、多くの失敗を繰り返してきた。新宿・伊勢丹に入っているケーキ屋は結構の数、チャレンジしたが、私がチャレンジしたものに、すべてバター・クリームが入っていた。近場のパティスリー・ウーも一度試したが、案の定、バター・クリームが随分と使われていた。ある時、バター・クリームでも美味しいものならいいか、と試した時期もあったが、マキシム・ド・パリのショコラ・ノエルは大丈夫だったが、他はやはり敢えて食べようという気にさせないものであった。ショコラ・ノエルも値段が馬鹿高いことを考えると、好んで購入したいとは思えない。ということで、ここ数年は、東長崎のオディールで注文している。ここは、完全生クリームのショートケーキのクリスマス・ケーキを作っており、もう絶品である。これ以上のものはないのではないか、とも思う。オディールは全国区どころか東京レベルでもそれほど知られていないと思うが、私の家の界隈では最も有名な下高井戸のノリエットよりかは遙かに美味しく、八王子のア・ポワンに比べても遜色はない。コスト・パフォーマンスだと傑出した存在だと思う。とはいえ、この3年はオディールで済ませているので、新たな市場調査を怠っているので、新しい動きもあるのかもしれない。しかし、今年もオディールで満足したので、まあ敢えて試行錯誤をしなくても、当分はいいとも思っている。
12月24日
次女のピアノのトライアルがある。「絶対音感」の指導で有名な江口寿子さんに見てもらう。次女を始めとした子供達は、演奏をした後、江口先生のアドバイスを受けるのだが、彼女のアドバイスは、音楽家のそれよりも教育者のものであり、その内容は興味深かった。ああこの子はピアノを嫌々やらされているのだな、と分かるような子にも、ピアノをやっていることはスポーツや勉強などをするうえでも必要な度胸を培ってくれる、といったアドバイスをしていた。そのアドバイスには、彼女の子供達への愛情が満ちあふれており、私は身体を乗り出して、彼女が何を言うのかを聞いていた。そして、全般的にものになりそうだ、という可能性のある子には技術的に厳しいアドバイスをもしていた。彼女が運営している「一音会」は、エリート音楽家を育てるといったイメージがあると思われるが、実際は音楽を通じた人間教育を意図していたことを知る。音楽が技術ではなく、豊かな人間を育てる方法論であるということを知らされた。そして、勉強もおそらくそうである。しかし、矮小な自己主張のために、勉強をしているような人間が私の同僚にもいる。彼は、学生の面倒を見るのが嫌いであることを公言して憚らないが、そういう人間が教育の場にいることは本当に矛盾しているし、教育をすることをその存在理由としている大学にとっては残念なことである。
12月23日
自動車のタイヤがパンクした。ということで、修理をしに行く。パンクの経験など20年ぶりなので、どうやって修理していいかも分からないが、ディーラーで働いている叔父に手配をしてもらい、修理屋に行く。パンクしたタイヤは、もう直らないようであった。ついでに冬用のタイヤと交換してもらう。その手間代は3500円だった。安い。こんな値段で済むのか。待っている間、タイヤのことをいろいろと尋ねる。タイヤなんてどうでもいい、と思っていたが、意外にいろいろと商品によって違いがあることを知る。気になったのは、修理屋がミシュランのタイヤは最近は日本でつくられているから今ひとつだと言ったことである。私は、フランス人がつくったタイヤより日本人がつくったタイヤの方がよほど信頼できるし、高価であると思うのだが、マーケットはそう判断していないようなのである。ドイツのオートバーンで最も事故率が少ない車の上位3車は日本車である。ドイツ人はこの調査結果に凄いショックを受けており、日本車の質にどのようにしたら追いつけるかを検討している。一方、その日本車の日本での評価はドイツ車に比べるとすこぶる低い。それは、客観的ではないし経済的でもない。まあ、このような歪んだマーケット構造が自動車においてあることは興味深い。それは依然として我が国の自動車市場が成熟していないからであろう。
12月22日
今日はゼミの卒論最終発表会であった。4年生10人中9人が発表をした。卒論はゼミ生活の総決算である。2年間に渡るゼミ生活の酸いも甘いも経験した4年生が、ゼミに割いたエネルギーと時間をこの卒論に集約させる。服部ゼミは、この日を迎えるために2年間にも及ぶカリキュラムを設計している。優秀な内容のものもあった。服部ゼミでは、広く取材調査などをハビ通を通じて行っているので、一次情報の収集がしっかり行われているものが多い。教員としては嬉しい限りである。
今日は忘年会をするはずであったのだが、会場でノロウィルスが出たので急遽、中止とした。しかし、せっかくの卒論の最終発表会で打ち上げをしないのもなんなので、駄目もとでトゥインズ・バーに連絡したら大丈夫だという。16名という大人数で、忘年会たけなわの金曜日であるにも関わらず、入る事ができて非常についていた。しかし、入れてラッキーだがトゥインズ・バーは人気がなくなっているのか?心配である。ボトル・キープをしていたものを加え、バランタインを3本ほど学生に奢った。学生は、いつもビールやら酎ハイやらの軟弱なアルコールを飲んでいるらしく、ウィスキーを飲んだら、結構、皆酔っぱらってしまい大変なようだった。まあ、4年生は徹夜で臨んでいた学生もいたので、酔いが回るのも早かったのであろう。私も学生時代、六本木の防衛庁近くの飲み屋でバランタインを二人で空けたら、ほとんど潰れてしまったことを思い出す。
12月21日
2年生対象のプレゼミを行う。4冊の課題図書の輪読である。発表者を直前に決定するというスタイルでやったので、結構、厳しい内容であったと思うが、皆、しっかりとやってきてくれた。このような鍛錬の積み重ねが明日へと続くのである。その後、高輪で飲み会をする。男子学生が5名参加した。女子学生はゼロである。今まで服部ゼミは、女子学生がリードをしてきたが、2年生(5期生)は男子学生がエネルギーに溢れている。新しい展開を予感する。
12月19日
東北大学のイー・ラーニングの撮影を都内の某ホテルで行う。「都市の拡大と肥大化」というテーマである。カメラに向かって講義をするのだが、私は大変、これが下手であった。適当に出来るかと思ったが、だんだんと緊張してきたりして、60分間、落ち着いたペースで行うことは難しかった。リアクションがまったくない中、独り言のように喋っているのは難しい。これを後日、見た学生には馬鹿にされるだろうな、と思うと悔しいやら申し訳ないやらで、なかなか辛い。下手な講義は、過去へと消え去っていくが、これはビデオ撮影だから、繰り返し下手な講義が再生されるのである。失敗した。
12月18日
今日は「下流同盟」の打ち上げを西荻窪の居酒屋で行う。編著者である三浦展さんと、首都大学の鳥海先生、朝日新聞の首藤さん、さらに、阿佐ヶ谷団地研究に携わっている同潤会研究者の大月先生なども加わり、楽しい時間を過ごすことができた。鳥海先生は、大学院時代から勇名を馳せており、私も当時(おそらく7年くらい前)、凄い奴が東大の都市工にいることを伝え聞いていたのだが、お会いするのは初めてであった。思ったより、大きく、スポーツマン風であったのが意外だったが、話の内容から気骨のある方であることが察せられた。彼らと話をして気付いたのだが、世の中の政策的な流れについて、皆、敏感であるということであった。私はここらへんが結構、鈍感というか、あまりトレンディでないことに気付かされた。これはテレビを見ないことが大きな理由かもしれない。情報収集をしっかりとしていないのである。特に、今後、誰が日本の都市計画行政に大きな影響力を与えていくか、などの話は全くついていけなかった。登場人物は知っていたりするのだが、その人がそんな影響力を持っているなどとは、つゆぞ知らなかったのである。ううむ、いつのまにやら時代に取り残されているのかもしれない。
12月16日
都市環境デザイン会議の街歩きに参加する。今日は文京区の坂歩きである。「神田上水工事と松尾芭蕉」、「千川上水三百年の謎を追う」などの著者である大松騏一さんにガイドしてもらう。お茶の水から本町公園、東京都水道歴史館、文京ふるさと歴史館、などを巡りながら、文京の坂を堪能した。最終地は千石であった。私は、高校も大学も文京区であったが、本町公園や水道歴史館などは初めて訪れた。西片の住宅街も知っているようで全然知らなかった。本町公園は素晴らしいデザインの公園で、こんな魅力的な空間が文京区にあったのは驚きである。お茶の水に何故、おが付くのか。それは、徳川家に納めていたからである、などという蘊蓄も初めて知った。ということで、いろいろと勉強になったことが多い一日であった。千石の中華レストランで都市環境デザイン会議の忘年会をする。
12月15日
都市環境デザイン会議の代表幹事会に出席する。その後、須永さんや埒さん、堀口さんと中村さんと浜松町の居酒屋に夕食に行く。須永さんに深川の話を聞く。今度、是非とも学生達と街歩きをしたいものだ。チェスター・リーブスとも一緒に行ってみたい。
12月14日
本棚を整理していたら、渋谷陽一の「ロック微分法」をみつけ、パラパラとページをめくっていたら、重い言葉に出会った。「どんな批評であろうと最終的に批評されるのは自分自身なのだ」。私は、まあ雑文書きのような側面もあるが、一方で「ハビタット通信」という雑誌の編集者兼出版責任者でもある。雑誌を世に出すということは、自らが批評、批判の対象になるということだ。「ひとつの言葉は、ひとつの批判は、それが発せられた時、全ての現実を引き受ける事を発言者に強いるのだ」。ううむ、強烈である。服部ゼミの学生は、相当大変なものを背負っていることになる。しかし、それこそが「ハビ通」の真髄でもあるのだ。渋谷陽一という明学の先輩の言葉に、改めて褌を締め直さなくてはと思わされる。
12月11日
バークレイのランドスケープ学科の後輩であるキミー・チェンが東京に訪れ、拙宅に泊まった。キミーはほぼ1年に一度、我が家に泊まる。彼女は、現在、サンフランシスコでランドスケープ・デザイナーとして活躍している。フィールドスタディでサンフランシスコを学生を連れて行った時は随分と世話になった。また、ハビタット通信の2号からの表紙のデザインに使わせてもらっているスケッチは彼女のものである。次女はとてもキミーが好きで、今回も非常に張り切って家の掃除などをしていた。夕食は月曜日で鮨勘も天太呂も、永福町近辺の横綱クラスのレストランが閉まっていたので、最後の切り札ビストロ木村に行く。
彼女とは1年ぶりということでいろいろと話をしたのが、最も興味深く、このアーバン・ダイアリーに記したいことは、上海での彼女のプロジェクトにまつわる話である。最近、彼女の事務所では上海のプロジェクトが受注できたようで、事務所も大いに盛り上がっているようである。中国語がしゃべれる彼女は、ほぼこのプロジェクトの責任者的立場になってしまっているのだが、この上海のクライアントの注文が非常に興味深いのである。バークレイのランドスケープというかベイエリアのランドスケープ・デザイナーは地域性やローカル・アイデンティティ、風土の重要性を強く意識する傾向がある。これは、サンフランシスコといった地域アイデンティティが強烈であり、多くの住民がそれへの保全意識が強い地域で仕事をやるためには不可欠な要件であるからである。当然、キミーの事務所でも、中国らしさや風水的デザインを強く意識したのだが、上海のクライアントはそういうものを一切排除し、「中国ではなくてアメリカのような」プロジェクトにしてもらいたいと要望しているそうなのだ。そして、デザイナーには極力、中国人を排除して、中国的なことを顧みないようなアメリカ人にデザインしてもらいたいと強く主張しているそうである。キミーはちょっとバカらしく思っており、辞めたい気持ちもあるそうだが、所長は中国語が流暢な彼女を外したくないそうで、板挟み状態になっているようだ。どうも上海のアメリカかぶれは相当なもので、英語教室も非常にはやっているそうである。中国のように4000年の歴史を有している国が250年も歴史がないアメリカのような青二才の国にかぶれるとは、世も末である。キミーに言わせると、アメリカ人の所長達は、中国のクライアント相手に、非常に知ったかぶりをしており、もう恥ずかしい振る舞いをしているそうである。まあ、こういう知ったかぶりは若者によく見られる傾向であるから、当然とはいえ当然ではあるが、そういう若者を図に乗らして、金を与えて、プロジェクトまでやらせている中国は太っ腹である。というか、日本人は戦争に負けたので、ある意味、アメリカにおもねってしまうのは仕方ない側面もあるが、なぜ中国がそんなにアメリカ好きになっているのかは分からない。アメリカに追従して、一方で反日運動をするのだから、日本人の私からすれば、本当不思議である。しかし、中国のアイデンティティを積極的に破壊するような都市開発を続けていると、そのうち酷い目にあうであろう。我々、日本人も他山の石とすべきである。
12月10日
ボーナスが出たので家族と車で銀座に行く。銀座では文房具オタクの長女を喜ばすために伊東屋に行くのだが、結局次女の方がいろいろと買わせることに成功した.長女は優柔不断でなかなか決断が出来ないのが、またもや裏目に出た。その後、煉瓦屋で昼食をとろうとしたが日曜は休みであった。代わりに数寄屋橋阪急に入っている「はしご」でラーメンを食べる。帰りに碑文谷ダイエーに寄る。私は高校の途中まで碑文谷ダイエーから歩いて2分くらいのところに住んでおり、初めてアルバイトをしたのも碑文谷ダイエーであった。高校1年の時である。したがって、このダイエーには非常に親しみを覚えていたし、ダイエーは絶不調なのに、ここ碑文谷ダイエーはいつも絶好調なので頼もしいと思っていた。しかし、食料品を買おうとして驚いた。いや、梅が丘の美登利寿司の回転寿しが1階に入っていたことにも驚いたのだが、何よりその食料品の値段の高さに驚いたのである。明治乳業のブルガリア・ヨーグルトが248円!そして、トロピカーナの手絞りオレンジジュースが190円台で「大特価」と宣伝しているのである。ブルガリア・ヨーグルトは、私がよく使う方南町のサミットであれば普通178円、安い時なら158円である。同じく、トロピカーナの手絞りオレンジジュースは確かに198円で売っている時もあるが、「大特価」と銘打てば168円か158円ぐらいまでは安くなる。はっと思い、他のものの値段もチェックするが、もう偏見が出来上がったからか、ほとんどの食料品が方南町のサミットより高いように思える。ここで興味深いのは、このように高い店であるにも関わらず、人でごった返していることである。
碑文谷ダイエーは駐車場が充実しているために、相当商圏は広いと思われる。しかし、この商圏がカバーしている中で、ダイエーの価格設定が1番安いことはおそらくないだろう。武蔵小山のパル商店街の方がおそらく安いような気がする。私の家の近くの甲州街道と環七の大原交差点には、碑文谷ダイエーの看板が設置されているのだが、ここを通過してダイエーに行く人は、少なくとも食料品を買おうと思ったら、そこから1.5キロぐらいの距離にある方南町のサミットに行くべきである。碑文谷ダイエーの最大の売りは、これは間違いなく1階の食料品売り場である。衣料関係は、もうユニクロやイトーヨーカ堂に完膚無くまでやられているし、実際、人もあまり入っていない。食料品売り場だけが、人でごった返しているのである。しかし、肝心の値段は高いのである。それなのに人が来ている。ダイエーは相当、経営状況が厳しいと指摘されており、社長もしょっちゅう交代しているが、少なくとも碑文谷ダイエーは相当えぐく利益を出しているのではないか、ということに気付かされた。消費者は昔に比べると、随分と賢くなっていると思われるが、それでもまだまだ瀕死の状態のダイエーの方が上手であるのだな、ということを今日思い知らされた。一方で、サミットがあるために、私の住んでいる地区の食料品の物価が下がっていたのだということも知った。サミットは城西地区の小さなウォルマートであったのだ。ということで、商店街やスーパーは、ダイエーが進出することよりもサミットが進出することの方が潜在的にはるかに怖い筈だ。ダイエーより低価格の値段設定はできても、サミットより安い値段設定はなかなか厳しいのではないだろうか。
そうそう、ウォルマートで思い出したが、朝日新書から「ウォルマート」と「太田市」に関して書いた本が出ました。もう、本屋に並んでいるようです。「下流社会」の三浦展の編著になっており、タイトルは「下流同盟」です。三浦さんと私以外に3名の方が執筆しています。「太田市」の原稿は、ゼミの4年生の今泉君の卒論研究の内容がベースになっています。興味があればお手に取って下さい。ということで、詳細はこちらを参照して下さい。
12月7日
今日の事例研究で、ある学生が鋭い優秀な研究発表をした。事例研究という講義は、私の講義だけでなく、学生にも研究発表をさせている。これは、学生がお客様になってしまい、一方的に講義を受け流すという姿勢を一度破壊してやろうと思ったからなのであるが、たまに私も勉強させられることもあり、そういう研究発表があると得した気分になる。それにしても、学生のお客様意識は問題である。私の教育面での課題は、もうほとんどこの意識との戦いになってしまっているような気もする。
12月4日
次女とセサミワールドへ行く。セサミワールドはサマーランドの隣にあるのだが、サマーランドもセサミワールドも初めて訪れた。ここは、以前も長女が幼い時に連れて行こうかと考えたのだが、公共交通だとあまりにも不便だったので諦めたことがある。今では、マイカーがあるので、颯爽と行ける。ということで長年の夢を叶えるために行った。中央フリーウェイを使えばあっと言う間だ。サマーランドどころか、五日市に来たこともないことを知る。多摩の山々が近く、紅葉が美しいところであった。セサミワールドの駐車場料金1200円を払い、入場料を大人2000円、子供1000円払い、入園する。恐ろしく長いエスカレーターに乗り、セサミワールドに着く。まず、その狭さと管理の悪さに驚く。基本的にはフィールド・アスレチック場である。ただし、コンセプトにセサミストリートがあるので、なんとなく統一的なイメージでデザインがされているのが救いとなっている。空間開発におけるコンセプトの重要性を改めて認識する。しかし、次女は5歳だったので、なんか適当に楽しそうに遊んでいた。私は暇を持てあますのがとても苦手なので、苦痛になってきたので、マーケティング分析をした。すると、混血の子供と日本人の母親の二人組が非常に多いことに気付いた。また、マレーシア人やインド人のような人達も多い。明らかに統計的に東京都の平均よりも多くいる。やはり、外国人(おそらくアメリカ人)と結婚する日本人女性は、セサミストリートなどが普通の日本人女性よりも好きなのであろうか。大変、気になる。それにしても、もっとしっかりとした空間づくりをすればいいのにと思わずにはいられない。これで2000円も取るなら、ディズニーランドの5000円がとても安く思えてしまう。
12月2日
もう師走だ。年をとると時間が経つのが本当に早い。ふと気付くと棺桶か。今日はとても「丸の内サディスティック」の気分で20回以上は聴いた。今さら聴くなよ、という感じだが、新曲の「カリソメ乙女」が今ひとつなのでしょうがない。丸の内サディスティックは、とても椎名林檎っぽくない。彼女の守備範囲の広さを思い知らされ、彼女が非常に音楽的に器用で、素晴らしい語彙の持ち主であり、声質の持ち主であることが理解できる。コード進行はA♭7、G7、Cm7、E♭7でセブンスの和音でほとんど全曲通している。このコード進行はロック的でなく、ジャズっぽい印象を与える。ロック音楽ばかり聴いていたら、思いつくことがないコード進行である。彼女の父親はジャズ通であったそうだが、そういう影響があったのだろうか。他に、こういうブルージーというかジャジーな曲として思い浮かぶのは「本能」である。両方の曲ともピアノのバッキングが滅茶苦茶、格好良い。本当に椎名林檎は日本人なのだろうか?「歌舞伎町の女王」のEPに、「丸の内サディスティック」の路上ライブが入っているのだが、これは椎名林檎の天才性をもっとも分かりやすいかたちで表している。おそらく、ぞうさんギターで弾き語りしているのだが、もう圧倒的な空間の支配力であり、背筋に冷たいものが流れる。はっきり言って、「カリソメ乙女」より数倍、才能と空恐ろしさを感じる。
私ごとだが、私の人生も「丸の内」であった。高校は茗荷谷にあった。高一までは目黒の学芸大学に住んでいて、銀座から茗荷谷まで丸ノ内線を乗っていた。その後、引っ越しして、池袋から茗荷谷まで丸ノ内線を使っていた。大学は専門に進んだ後は、池袋から本郷三丁目まで丸の内線であった。就職してからは、会社が大手町にあったので大手町まで丸ノ内線であった。その後、引っ越しして方南町に住んだので、方南町から大手町までまたまた丸の内線で通っていた。あとは、もう荻窪に引っ越せば完璧かと思ったが、明学に勤めるようになって、永福町を使うようになって丸ノ内線人生も取りあえず一休みすることになった。しかし、こんなに長い間、丸ノ内線を使っていたにも関わらず私は何もつくれなかったのに、椎名林檎のような静岡と福岡で育って、ちょこっと東京に来ただけの輩に、こんな風に丸ノ内線ライフを編集されてしまうと、もう本当に凡人と天才の違いを思い知らされて嫌になってしまう。しかも、私の丸ノ内線ライフからは想像も出来ないような歌詞である。
もちろん、この歌詞の凄いところは、丸ノ内線というリアリティを基盤としつつ、言葉自体は支離滅裂なところである。しかし、ベースが丸ノ内線なので、なんか聞き手のイメジネーションを異様に広げさせる。凄いテクニックだ!彼女は他にも「伊勢丹の交差点前」とか「山手通り」とか「東西線」とか実在する場所を歌詞に用いるのが得意で、地霊というか場所に対しての感性が相当鋭いことが理解できる。現実と空想が入り乱れる言葉空間を紡ぎ出すテクニックは、まあとてつもない才能である。「ラット1つを商売道具」とか「領収書書いてちょうだい」とか「グレッチでぶって」とか、そうそう出てこない歌詞だ。そういう言葉の羅列の中に、「あおかんでいってちょうだい」とか「まいばんぜっちょうにたっしているだけ」とか、普通の人では出てこないし、おそらく思いつかない言葉が散りばめられている。まあ、ある意味では既成常識を破壊するという正統的なロック魂を継承しているのであろうが、壊しすぎだよ、林檎さんという思いをするのは、私が二人の娘の親だからか。ここまでロックされて、しかも丸ノ内線という現実社会のフレームの中に収められちゃうと、結構、やられるというか何かダメージを受けたような気がしてしまう。それなら聴かなきゃいいのだろうけど。そういう意味で、「丸の内サディスティック」は一度聴くと、ちょっと人間を変えちゃうような力を持っている。というか、椎名林檎の最初の2枚目のアルバムに入っている曲はそういう影響力が強いものが多い。「丸の内サディスティック」に私がやられるのは、あのイントロの手拍子と、その後のハーモニカかピアニカのソロである。あんな、格好良いソロを聴かされて、林檎ワールドに引き寄せられ、精神を攻撃されてしまうのである。ああ、やられたり、やられたり。それに比べて、「カリソメ乙女」は何なのだ。東京事変の「少女ロボット」の方が、まだ納得が行く。
11月29日
今日は書きたくないことを記す。それは、私の自動車ライフについてだ。私は自動車、そして道路こそ日本をダメにしている元凶であると思っており、「自動車を持たない豊かさ」を啓蒙しようとしている人間だ。アメリカから日本に戻ってきた1996年以来、自動車は所有せず、旅行では空港などでレンタカーをしても、基本的に自動車なしで暮らしをしていた。その間、子供を二人育てたので、自動車があるとおそらく家内は随分と楽をしただろうが、私の理念のために辛抱してくれていた。彼女はいつしか、公共バスのエキスパートになっていた。
しかし、父親が5月に亡くなり、私が自動車の相続者として指名された。なぜ、自動車を乗らないことを是とした私に相続させたのかははっきりと分からないが、おそらく弟がその自動車を父親に欲しいとねだったこと(ちなみに父親は相当意地悪である)、私が「自動車を持たない豊かさ」などと言っていたので嫌味で相続させたこと、私が自動車も持てないような貧乏人で不憫に思ったこと、のどれかか、それらを総合させたことだと思っているのだが、まあ亡くなる直前の父親に、お前に形見でやる、と言われて拒むほどのポリシーの強さと冷淡さを私は持っていなかったので相続した。とりあえず喪が明けるまで所有していよう、という気持ちで相続した。あと父親は晩年、株で失敗して財産を相当なくしており、自動車でも相続しなければ相続するものがないじゃないか、というあまりにも悲しい貧乏人的発想があったことを白状しておく。
相続したら、すぐお金がかかるようになった。駐車場を借りなくてはならなくなったのだが、これが月25000円である。これに、自動車税なるものがかかる。この間、請求書がきたがまだ払っていない。というか、請求書が行方不明である。たしか7万円程度だと思われる。そして、先日支払った自動車保険。これが5万3000円。そうすると、一切乗らなくても自動車を所有すると年間で42万円くらいかかることになる。高い!!。所有すると金がかかり、それが癪で乗ることになる。私は何を隠そう、「自動車を持たない豊かさ」とは言いつつ、自動車の運転自体はおそらく相当好きである。アメリカでなら一日800?くらいは運転できてしまう。スピード狂に近いものもある。他に同乗者がいると控えるが、一人で運転している時はちょっとまずい。イチローが日産のスカイラインのコマーシャルでドライブは「人生最高の喜び」と言っているのは、大袈裟な、とは思うが、ドライブの楽しさは相当理解しているつもりだ。ということで、自動車があると結構、ハンドルを握ってしまう。特に非常勤をしている関東学院大学へは自動車で行ってしまう。そこで気付いたのは、私が自動車によく乗っていた20年前と比べると、格段に道路が改善され、渋滞状況も緩和され、自動車が便利になったということである。関東学院大学の方面は昔からよく通っていた。これは、学生時代の彼女がそちらに住んでいたことと、家内も藤沢に住んでていたこともあるなど、三浦半島、湘南方面に縁があったからである。現在だと関東学院大学は一時間ちょっとで杉並の自宅から行けてしまう。昔は、もう本当に大変であった。杉田辺りや鎌倉女子大(当時は京浜女子大と言っていた)の交差点の渋滞などで酷い目にあっていた。それに比べて、現在は本当快適である。特に幸浦まで高速道路が開通したことと湾岸道路の開通が大きい。こんな便利だと「自動車を持たない豊かさ」が危ない。というか、私が所有している時点で私の信頼は地に墜ちていて私の方が危ないのだが。
さて、それではどのくらい乗っているのか。ちょっとチェックをしてみた。この一ヶ月で支払った高速道路料金は6380円である。関東学院大学へは4回のうち3回車で行ったので、これが結構効いている。ガソリンは10月と11月で5回ほど入れている。10月2日、22日、11月1日、14日、29日である。空に近くなって満タン入れるというパターンを繰り返しており、一回当たり大体52リットルくらい入れている。この二月で39981円をガソリンで使ったことになる。ざっと2で割ると一月で20000円くらいガソリン代がかかるということか。私の車はBMWの3シリーズで、燃費はあまりよくないのと、私が回転数を上げるような運転をしていることもあり、随分ガソリンを無駄に使っていることもある。しかし、それにしても125リットル(牛乳一リットルパックが125本分!)も一月でガソリンを燃やしているということになる。あと駐車場代がある。コインパーキングという奴だ。私が行く目的地のほとんどは明治学院大学と関東学院大学などの駐車場が無料のところである。もしくはイケアやデパートなど買い物をすると駐車場代が無料になるところである。したがって、あまりかからないが、それでも一月で2000円くらいは使用している。ということで、ランニングコストで一月28000円くらいかかることになる。もちろん、これらの費用はモビリティという利便性のために生じているので、自動車を利用しなくても発生する費用ではあるが、他の公共交通に比べれば相当高いことは比較するまでもないであろう。このモビリティの費用はもう少し、個別にしっかりと比較しないと何ともいえないが、自動車のモーダルスプリット(交通分担率)を下げるためには経済政策が効果的であることを実感する。
東京は、つい最近まで自動車を持つことが経済的に極めて不利であった。今でも、結構不利であると思う。私のように無料で自動車が貰えた場合は、減価償却分の費用などを一切考慮しなくてよいから安上がりだが、それでも相当高い乗り物であることは間違いない。しかし、自動車が付随するもろもろの価値や利便性が、それらの費用を上回っていると多くの人々が捉えているのである。そのため自動車の利用を抑制させるためには、さらに自動車利用が高くつくような政策を導入するしかないであろう。少なくとも、自動車のための道路整備は即刻止め、自転車用の道路や歩行環境の充実、広場をはじめとした公共的空間の充実、都市デザインの向上などに予算を振り分けるべきであろう。あと、無料の駐車場を少なくし、路上駐車をより徹底的に取り締まるべきである。今後、我が国は縮小させるためのグランドデザインを国土レベルでも検討していかなくてはならなくなるが、自動車以外の交通手段がしっかりとサービスできない地域は、今までは一生懸命道路を整備してきたが、これからはむしろ撤退するべき地域として位置づけることを検討すべきであると思う(また、相当の反感を買いそうなことを書いてしまったが、夕張の悲惨さが明るみになるにつけ、冷静に将来の状況を分析することが重要であると考える)。
自動車はまた、新たなライフスタイルを利用者に提供して、ここらへんもしっかりと整理しなくてはならないのだが、今日はここらへんで筆ならぬマウスを置く。
11月26日
自動車保険が切れたので新しいのを購入する。それまでは、父親が家族もカバーする保険に入っていたので、私は入っていなかったのである。父親は17級とかで、保険料が58%ほど割り引かれていた。私は新規になるので6級から始めることになるそうだ。以前入っていた保険会社が私に請求してきた額は8万円ちょっと。58%も割り引いてこの高さはまったく納得できない。それで、ソニー保険と相談したら、ソニー保険は6級であるにも関わらず5万円ちょっとである。てっきり、15万円くらい請求してくるかと思ったので拍子抜けである。いかに、前の保険会社がぼったくっていたかが分かる。本当にバカらしい。それにしても、1日100円以上車の保険に払っていることになる。なんて金の無駄だろう。しかし、皆、事故を起こすことの恐怖から逃れるために、この高額な保険を払っているのである。自動車を所有していて、しかも結構、乗りながらこういうことを言うのも偽善的過ぎるが、このような潜在的恐怖を感じなくてはいけない乗り物を使うこと自体、不幸なことではある。しかし、今日はリーダーを関東学院大学の生協に納めなくてはならないため、自動車で行ってしまった。往復で140キロメートルも走った。なんか、自動車に取り込まれつつありそうで情けない。
11月25日
サンフランシスコに住む叔母が従姉妹の結婚式で東京に来ているので、家族と一緒に食事に行く。根岸の香味屋である。大正14年創業の洋食屋で、このジャンルではおそらく東京一との評判の店である。アメリカでもう30年近く住んでいる日本人が、日本で何が食べたいかというと、これは意外に寿司とか天婦羅とかではなく、日本風の洋食だったりする。すなわち、オムライスとかハンバーグやマカロニグラタンなどだ。こういう、いわゆる日本人がアレンジした洋食は、洋食であって洋食ではなく、アメリカやヨーロッパではなかなかありつけない。ということで、連れて行ったのだが、案の定、叔母は喜んでくれた。オムライスを食べながら、こういうのはアメリカではなかなか食べられないわあ、と言ってくれた。まあ、このレベルのものは、普通の日本の洋食屋でもなかなか味わえない。香味屋ならではのクオリティである。私はマカロニグラタンを注文したのだが、これも美味であった。叔母は旦那であるチェコ人の叔父がつくったDVDをプレゼントにくれた。家であまり期待しないで見たら、そのあまりのクオリティの高さに驚いた。叔父が、チェコのテレビ番組などの製作も請け負っていたことは知っていたが、その作品をみたのは初めてであった。自然の美しさを見事にレンズに捉えるその腕には驚いた。
11月22日
白井先生の助教授の昇任祝いで恵比寿の料理屋「笹岡」に食事に行く。高崎先生、白井先生、私という少人数の会であったが、高崎ゼミの凄まじさを知ることができた。高崎ゼミは、白井先生が学生だった頃、おそらく20年近く前は、経済塾のような指導を行っていたことを知った。夜遅くまで経済を勉強するようなことをゼミで行っていたそうである。私の大学時代とは偉い差である。高崎ゼミでは、白井先生をはじめとして何名も逸材を東京大学などに送り出し、立派な人材を育て上げたという実績があることを知らされ、大いなる感動を受けると同時に、私ごときはもう本当に小人であることを思い知らされた。高崎先生が随分とご機嫌で二次会の店を出た時には二時近くであった。久しぶりの飲みであったが、いい酒を飲めた。とはいえ、二次会の白金のこじゃれた昭和風の居酒屋の酒は大変不味かったが、会話に救われた。
11月19日
服部ゼミでは就職活動の指導も行っている。しかし、これは内緒である。というのは、そういう情報が流れると、それを目当てにゼミに応募するとんでもない輩が増えるからである。それは本末転倒だ。だから内緒にしているが、最強の就職ゼミを実は目指している。4年生の関口が非常にいいことを先日、言っていた。「ゼミの活動と就職活動は、ほとんど同じのような気がする」。確かに、ゼミの活動は、就職での面接で、非常に強いアピールポイントになるし、大学において、ほとんどの学生は重要な勉強はゼミでしかしていないので、ゼミを一生懸命することが、最も効率がよい就職活動、というのは服部ゼミにおいては言える。もちろん、服部ゼミで相当、頑張ってきた学生でも就職活動で苦労している学生はいるし、服部ゼミでは中途半端な活動をしてても、そこそこいい会社に就職できた学生もいる(と書いていて、名前は浮かんでこないが、いるような気がする。服部ゼミでは頑張らない学生は、除籍になるのであまり覚えていない)。
しかし、自ら入ったゼミで、そのゼミの活動を頑張れないような人が、果たして就職した後、仕事はしっかりと出来るものなのであろうか。まあ、自らの判断で入ったゼミではあったが、その活動がどうにも好きになれない学生もいるだろう。しかし、私が気になるのは、頑張って努力をした後、そのような判断をするならまだしも、努力をする前から、ようするに自分の力を試すことをする前の状況で、萎えてしまっている学生がどうも多いような気がすることである。服部ゼミに入ったら就職できる訳ではない。服部ゼミに入って、服部ゼミで全力を出した、大いに頑張ったその結果として、就職の道が拓けるのである。これは、絶対ではないだろうが、確率論的には高くなることは間違いないでしょう。そして、力を一生懸命出したことは、その後の人生の財産にもなる。そして、全力を出せるような機会はあまり与えられない。学生時代までは、そういう機会も多いが、社会人になると、そういう機会がいかに貴重となるか。まあ、私からみると、そういう機会をただ面倒くさい、ただかったるい、というだけで棒に振っているのは、何とももったいない。
閑話休題。3年生のゼミ生に面接指導をする。気になる発言として、長所として「粘り強い」というのが多かったことである。「大変な仕事(お稽古)なのに、辞めずに粘り強く頑張った」的な発言が多かった。しかし、おそらく、ここでの問題は、仕事やお稽古がすぐ「大変な」ものになってしまう、その物事への捉え方にあるのではないか、と私などは思ってしまうのである。すぐ「大変だ」と思うことは、おそらく潜在的に被害者意識が強いのかもしれない。私も親なのだが、お稽古が嫌で大変なら、お金がもったいないからすぐ辞めて欲しい、というタイプである。塾でもそうである。だって「嫌だ」けどとか「大変だ」と思いながら続けていても上手くなるとは、とても思えないからである。「好きこそものの上手なれ」。30代後半、会社の仕事はあまり面白くなく、大変であった。私は研究がしたいのに、あまり研究に集中させてもらえるような環境ではなく、営業と管理に重きを置かされつつあった。転職活動もしたが、あまり芳しい成果は得られなかった。明学に奉職するまでの3年間くらいは、不本意であった。「粘り強く頑張った」訳ではないが、「大変だ」と思いながら仕事をしていた。結果、大した成果は得られなかったと思うし、仕事的には無為な時間を過ごした。人生は大変かもしれない。私の人生もよくよくつまらないものかもしれない。しかし、それでも、その人生を楽しもうと思う姿勢が重要だ。それは仕事でもお稽古でも同じである。まあ、私がこういう風に思うのは、「頑張った」という学生が、ゼミでは「頑張って」いないと見えるからである。そして、杞憂だといいのだが、そういう学生は、もしかしたら「服部ゼミはとても大変だけど、粘り強く頑張っている」と思っているのかもしれない。万が一、そう考えているとしたら、服部ゼミで本当に大変なのは卒論だけである、ということは認識しておいた方がいいでしょう。それ以外は楽しいんじゃないかな。もし、楽しく思えなかったら、あまり「粘り強く」頑張っても、後々(卒論の時)大変ですから、身の振り方を考える必要もあるかもしれません。とはいっても、卒論も楽しめるといいのですが!まあ、これらはあくまで私の仮説です。しかし、「大変な仕事(お稽古)なのに、辞めずに粘り強く頑張った」という発言から、私はむしろ、すぐ大変だ!と捉えてしまう、弱さを感じてしまったのである。少なくとも、服部を楽しむくらいの心構えが欲しいのだが。4年生は、結構、服部を楽しんでいるように思うのだが、3年生は服部を苦しんでいるように思える。それは、私としても不本意である。少なくとも、私は勝手に大変だと思って、粘り強くやったとしても、しっかりとした成果が出なければ評価しません。「ハビタット通信」の怖さを、もっとしっかりと自覚することが必要でしょう。
11月18日
従姉妹の良子の結婚式に出席する。会場は如水会館であった。相手は一橋出のハンサムな好青年で、感心した。どうも、私と同時期、ロスアンジェルスにいたようである。しかし、私は泣く子も黙るイーストロスアンジェルスの隣町に住んでいたが、彼の家族は高級住宅地の集まるウエストロスアンジェルスに住んでいたようだ。隣の席は、良子の学生時代のスキー部の女友達がいたのだが、私が大学時代バイトをしていた蔵王のスキースクールを常宿としていた。ということで、共通の知り合いの話題で多少盛り上がった。蔵王のスキースクールには、そういえばもう20年以上は行っていない。私の人生で蔵王のスキースクールほど下積んだことはなかった。良子達のスキー部の先輩達にも、そういえばしごかれたような気がする。私はスキースクールでアルバイトをしていたが、最もスキーが下手な方で、同僚の女性達に随分と鍛えられたのである。久しぶりに、あの下積み時代を思い出した。
11月17日
貧乏暇なしを実感する昨今。しかし、今日は時間がないのに、都市環境デザイン会議の後の飲み会に参加してしまった。すると、飛び入り参加があり、私と大変気が合う(と勝手に思っている)杉山さんや、都市デザインの大御所の曽根幸一さんがいらした。曽根さんとは以前、お会いしたことがあるのだが、私のような下っ端を覚えていることはなく、「はじめまして」と言われたが、そんなことは当然気にしない。曽根さんは、雲の上のような存在なのだが、飲み会ではただのがはは親爺のようであり、私も会話を大いに楽しむことができ、久しぶりに充実した飲みの時間を過ごすことができた。私も傍からみたら、なんて図々しい、というような話し方をしていたかもしれない。しかし、私も親爺だから、もう随分と傍若無人になっているのである。
昨日、目黒で新しいゼミ生の歓迎会を行った。席が二つに分かれてしまったのが非常に難であったが、まあそこそこの親交を深めることができたのではないか。新しいゼミ生は、物怖じせず、芸達者のようでもあり、これからが大いに期待できる。厳しい練習を積み重ね、多くの真剣勝負をくり返すことで、しっかりと人生の展開力を培ってもらえればと思う。私もそこそこの経験を積んだ。そろそろ成果を出すような指導をする時期に来ている。
11月16日
考えが整理されていないのに書くと墓穴を掘りそうだが、また希望についての備忘録。私が非常に好きな映画の一つにイーストウッドが監督・主演した「マディソン郡の橋」がある。この話の美しいところは、フランチェスカが我慢をするところである。それは一方で家庭を守るという強い意志でもある。これは結婚したものでないと分からないかもしれないが、自分の希望というか望みだけで行動することは、貴重なものを失うことでもあるのだ。畠山鈴香や進藤美香は、自分達の傍から見たら大したことのない、しかし本人達にとってはとてつもなく重要な希望を実現させるために、子供までをも犠牲にしてしまう。フランチェスカとはあまりにも大きな隔たりである。まあ、また殴り書きのようなものですいませんが備忘録代わりに記させておいて下さい。
11月15日
朝、テレビを観ていた。テリー伊藤がコメンテーターをしている日本テレビのニュース番組だったのだが、松坂のレッドソックス入りのニュースを報道していた。このニュースの女性のレポーターの日本語があまりにも酷いことで驚いた。ヤンキースとレッドソックスの試合を「因縁の試合」とやたら強調し、レッドソックスのファンがヤンキース戦のためにニューヨークに来る事を「ニューヨークの人々は危ないと言っています」って、表現力があまりにも乏しい。日本語のボキャブラリーが貧困すぎる。ただし、このレポーター、英語の発音はしっかりしていた。とはいえ、路上インタビューの質問もなんかちぐはくな印象は受けた。
このニュースキャスターは間違いなくバイリンガルであろう。英語も日本語もしっかりとはしゃべられる。しかし、テレビのレポーターといった高度な言語力を駆使しなくてはならない状況になると、非常に中途半端になる。彼女は日本人からすれば英語がしっかりとしゃべれて能力があると思われるであろう。ただし、日本語のレポーター、キャスターとしては不十分である。それでは、アメリカ人から見たらどう映るかというと、日本語がしっかりとしゃべれて能力があると思われるであろう。ただし、英語のレポーター、キャスターとしてはとてもやっていけない。何を言いたいかというと、英語と日本語はゼロサムとは言わないが、両方ともに高度に駆使させる能力を身につけるためには、非常にエネルギーと才能を必要とするのであって、普通の人や子供はとにかく日本語をしっかりと優先して勉強することが重要であるということだ。何回もここで繰り返しているが、我々は言葉で思考する。その思考する第一言語をしっかりと培うこともなく、いたずらに小学校からふざけたなんちゃって英語を子供達に勉強させるなどというのは論外である。ということを、今朝、テレビのレポーターを見て思ったのであった。
話は変わるが、今日の新聞で夕張から人々が流出して大変だという記事が掲載されていた。夕張は石炭業という主要産業が衰退し、人口が減少していたにも関わらず、テーマパークやメロンづくりなどで、成長志向を追求して、最終的には経済破綻をしてしまった。これは、本来は縮小計画を策定しなくてはならなかったにも関わらず、成長にしがみついてしまったための悲劇である。なぜ、成長にしがみついたのか。それは、希望を持ってしまったからである。旧東ドイツの都市は、縮小を見据えて縮小計画を策定している。そこには希望はない。しかし、破綻を避けるという知恵がある。そして、破綻させしなければ永続していくことができるかもしれない。希望を持って破綻するよりも、希望を持たずに現実的な対応策で、破綻させずに永続させる。どちらが賢明であるかは自明であろう。
希望は成長を促す。世の中が成長している時には、希望というのは非常に重要な推進力となる。しかし、世の中が成熟し、そして縮減していかなくてはならない時には、希望というのは大いなる混乱と場合によっては、破綻をもたらすのである。希望学とかいう学問を掲げて、東大の社会科学研究所は、どうも希望がないので日本の過疎地が大変だという仮説から釜石市のフィールドワークが行うようだが、釜石市が希望を持ったら大変である!希望を持たないことが、その地域を持続させるための極めて重要な要件である。それは現実を知るということである。現実的に希望を持てる状況になれれば、希望を持てばいい。しかし、その場合、それは希望を持つのではなく、将来への道筋をつくるということになる。将来をしっかりと見据えて、ベストの対策を取ることが重要であり、その時に希望的観測は、むしろ邪魔になる。冷徹な客観的な視点が何よりも求められるのである。中国の小説家魯迅は、「絶望が虚妄であるように、希望もまたそうである」と述べた。虚妄に踊らされて、将来を台無しにするな。ということである。私は、多くの希望を持つ癖があるが、すぐ軌道修正をする。私の都市デザイン系の知り合いは、私が経済学科の教員をやっていることを面白くなく思っているし、私も多少、引目を感じている。しかし、私が都市デザインの仕事へ執着したら、おそらく年収は半分以下になっていたであろう。今でも結構、貧乏なのに、年収が半分だったら大変だ。バークレイの環境デザイン学部を出た後輩などが、都市デザインの仕事一筋で頑張っているのを見ると、自分が情けないと思う時もままあるが、希望に拘泥しなかったために生き延びている。人間、生き延びることが大事である。おそらく、このような考えを持っている私は一流にはなれないであろう。しかし、本当に一流の器を持っていない人が、一流を目指す時、そこには大きな犠牲を伴う。それは破滅への道でもある。その破滅することに納得できればいいが、家族などがいる場合、その判断は難しい。そして、違った道を選んでも、それはそれなりの人生が展開するものである。希望に拘らなければ、人生それなりに、どこも都である。現状に感謝する気持ちを持つこと。それが出来れば、人間、希望がなくても生きていけるのではないのだろうか?
11月14日
昨日、記した「希望」が案の定、相当反感を買っているようだ。家でも家内が激怒して、「そんな風なことを言う人は許せない」と取りつく島もない。しっかりと整理してからでないと大いに誤解を招くようなので、あまりこのテーマについては迂闊に言わないようにしよう。しかし、そのうちちゃんと発表できるようにしたいと思うので、反感を覚えた人もちょっと待って下さい。取り急ぎ。
11月13日
別に原稿を書き終えている訳ではなく、アーバンダイアリーを書く余裕はないのだが、ちょっと備忘録的に書き記したいことがあるので失礼。それは「希望」についてである。
「この国には何でもある。ただ、『希望』だけがない」・・・・「希望の国のエクソダス」村上龍
学芸大学の山田昌広教授の「希望格差社会」が結構売れた。副題はなんと「負け組の絶望感が日本を引き裂く」である。凄い副題である。東京大学の社会科学研究所の若手研究者が「希望学プロジェクト」を実践しているそうだ。希望の有無が個人の生き方や社会のありようにどう影響するかを探ることが狙いで、責任者の玄田助教授は「どうすれば希望をもてるかを考えることが閉塞状況を破るヒントになると思った」といっているそうだ。
希望がないことが世の中を暗く、我が国の将来を暗澹とさせているという前提がこれらの考えからうかがえる。それには希望がない人間は不幸だと人々が共通に捉えているという先入観がある。果たしてそうなのであろうか。
私はむしろ希望という概念を我々人類が持っているということが、他の種と違い、我々を絶滅への道に向かわせていくのではないかと思うのである。希望は強欲と同等、もしくはそれ以上に資本主義の原動力である。強欲は倫理や道徳によって押さえることができる。しかし、希望を押さえることは難しい。むしろ、希望を持たないことがまずいといった風潮に私は危機意識を強くするのである。マーガガレット・アットウッドの近未来小説「オリックスとクレーク」で、登場人物の一人は次のように言う。「だとしたら、私たち人類という種は希望によって滅びるということ?」
昔の人々はそんなに大それた希望を持って生活していたのだろうか。大多数の人々は、希望など持たなく、生きていくのに精一杯であった筈である。社会のサステイナビリティを考えると、この希望は大きな問題である。というのは、人々が抱く希望は、往々にしてよりエネルギーを消費し、資源を使うことに直結するからである。ずばり、人々があまり希望を持たないことで世の中はよりサステイナブルになると私は考えるし、希望がなければ絶望もない。より平穏な日々を人類は送ることができるのではないかとも思うのである。そういう風に考えると宮台真司が若者達に「まったりと生きろ」と提案するのは、極めて適切であり、示唆に富んでいると思うのである。人口縮小時代を迎え、経済的に成熟している中、変な希望を持って生きるよりも「まったりと」、「昨日も今日も明日も何も起こらないけど、ただ生きていく」ための知恵が今、求められているのである。
私自身も一月ほど前だが、明治学院大学付属高校の先生から講演で「希望を持たない学生に対してどのように対処すべきだと思いますか」という質問を受けた。私の回答は、「むしろ根拠なく希望を持っている学生の方がよほど心配です」というものであった。希望は無謀につながる。希望がなくても、しっかりと生きることはできるし、立派な人生を全うすることができる。希望は多くの場合、欲望である。欲望だと持っていると肩身が狭いのに、希望は持たないと肩身が狭い。希望は自由と同様に過大評価されすぎである。希望があってもなくても、我々は日々生きていくわけであるし、希望がなければ不幸せであるとかいうこともない。今の日本社会が必要なものは、希望ではなく、希望がなくてもしっかりと社会生活を全うできるための環境づくりである。
11月12日
いくつか書き留めたいことがある。
宇井純氏が11日に亡くなられた。フィールドスタディという講義を持つ私からすれば、まさに師の中の師である。というか、私は同氏を師と仰ぐ資格もないだろうが、その活動や姿勢を尊敬していた。彼の著書「キミよ歩いて考えろ」は、ゼミ生そしてフィールドスタディ履修者には是非とも読んでもらいたい名著であると思う。そうだ!これからでもいいから教科書として指定しよう。とはいえ、私のフィールドスタディは、とても彼のフィールドスタディには及ばない、というか同じ言葉を使うことも恥じらうくらいの違いはあるのだが。以前、ビオシティの杉田編集長と飲んでいた時、「日本の良心」という本を出そうか、という話にあり、真っ先にあがったのが宇井氏であった。他にも萱野茂氏の名前も上がったがお二人とも今年逝去された。残念なことである。時代が大きく変化する時、その指針をしっかりと指し示すことができる良心溢れる知がなくなることは、国にとっても大きな損失である。心からご冥福をお祈りする。
話は変わるが、千葉県のつくった新しいロゴはひどすぎる。あかぬけたイメージ脱却を目的としたらしいが、非常にださく、格好が悪い。これは、デザインセンスの問題ではなく、良心の問題である。これをデザインした人は著名なデザイナーだそうだが、むしろなぜ、今まで有名デザイナーでいられたのか、そちらの方が不思議である。明学のロゴもスクールカラーも酷いが、さすがにここまでは酷くはない。明学の場合は賛否両論という感じであり、それなりにロゴやスクールカラーの議論ができるくらい、たたき台としては悪くはないが、千葉の場合は、明らかに酷い。これはデザインの暴力ですね。ちなみに、私が明学のロゴとスクールカラーを批判しているのは、そのファシズム的な押しつけにある。まあデザインも決して好きではないが、それは二の次だ。
次は、ちょっと問題発言になるかもしれない。ブログに書くと炎上しそうなテーマだ。その内容は最近、増えているローティーンズの自殺について。いじめによって自殺をする若い子がいるのは、誠に悲しむべきことだと思う。しかし、自殺をする原因として名指しされた友達などをマスコミが袋だたきするような報道をするのはいかがなことかと思うのである。というのは、このマスコミ叩きによる報道によっていじめっ子達を罰することは、むしろ自殺者を増やしていると思われるからである。あまり詳しく調べていないのでいい加減なことは言えないが、最近の自殺はむしろ「刺し違えてやる」という攻撃性を私は感じるのである。刺し違えるのは相手を確かにやっつけられるが、自分も死んでしまう。死んでしまうよりは、逃げるべきであるというのが私の考えである。私は小四の時にアメリカの小学校に行っていたのだが、行き始めて半年後くらいに日本人であるということで結構強烈ないじめを受けたことがある(当時は日本人は少なかった)。黒幕は白人系(ユダヤ人とアイルランド人のハーフ)だったが、実際私に暴力をふるったのはメキシコ人だった。そいつは白人に洗脳されて、私を嫌っただけという感じであったことが悔しかった。しかし、そのメキシコ人は腕力もあり、やられっぱなしだった。住んでいた街は、泣く子も黙るイーストロスアンジェルスの隣のモンテベロという街で、今ではおそらく日本人の駐在員は誰も住まないと思うが、当時は情報も少なく、そういう治安が悪いところに住んでいて、子供達も柄が悪く、バイオリンのレッスンを受けていたような温室育ちの日本人の子供が太刀打ちできることはなかった。ということで引越をした。引越をしても、結構苦労したが、幸いリトルリーグのチームで活躍するようになったら子供達の見る目がほとんど180度変わった。私が住んでいたところのリトルリーグには一軍と二軍のリーグに分かれていたのだが、私は一軍のチームに選ばれた。一軍のチームに入るのは当時の子供にとってはとても名誉なことであり、クラスでも三人もいないくらいであった。それ以降、私のアメリカ生活は快適となったのだが、まあ野球がなければなかなか大変だったなと思う(ただし、今は野球が苦手でどうしてその時、うまかったのかは謎である)。クラブとかが嫌だったら辞めればいいのである。本当に嫌だったり、自分では解決できないと思ったら、もっと、みんな辞めたり逃げればいいのである。死んだらおしまいだし、死んでまで復讐するような価値のある相手はいない。簡単に死を選ぶのは、ゲームや漫画などの影響もあると思う。マリオブラザースも何回までかは死んでも大丈夫である。多くの漫画は死んでも蘇ったりする。デスノートとかもあまりにも安易に人が死に過ぎである。バーチャルの世界では死があまりにも軽すぎる。バーチャルの世界の影響を強く受けやすい現代の子供達は、死をあまりにも安易に受け止めているのではないだろうか。そういえば、ポケモンに「自爆」をするモンスターがいて、こいつは相当手強かった気がする。ドラクエでも自爆する奴がいたと思う。要するに何が言いたいかというと、子供達は嫌な相手をやっつけるために、「自爆」攻撃をしていると思われるのである。そして、この「自爆」の爆発力を異常に高めて効果的にしているのはマスコミである。「自爆」的自殺をやめさせるためには、自爆的自殺の効果が少ないこと、そんなことをするぐらいなら生き延びた方がよっぽどいいことを教えるべきである。このまま自爆的自殺が起きるたびに、マスコミによるいじめっ子バッシングが続き、その効果を子供達が知るにつれ、より多くの自殺が行われるであろう。これは、間接的にはマスコミが、自殺をすることをためらっている子供達の背中を一押ししているようなものである。そういえば、ポケモンにもすぐ「逃げる」モンスターがいた。こちらの方法論を子供達は選ぶべきであると本当に強く思うのである。
11月11日
武蔵工業大学での市民講座で講義する。「都市と農とをつなぐ」という内容で、都市と農村がいかに乖離しているのか、その乖離を埋めて、また都市と農村とのリンクをつなぐことが重要であり、そのためには堆肥や生ゴミが使えるのではないか、というような話をクリチバやラクナウ、マカッサルを事例として紹介しつつ、してみた。それほどうまい講演ではなかったような気がする。最近、どうも変に控え目になっており、それがトーンに出るようだ。おそらく朝日新聞新書の編集とのやりとりで疲弊しているからだろう。
今日は私以外の講演者もいた。私の次に発表したのは、国際耕種株式会社の大沼さんである。大沼さんは土の専門家で、サウジアラビアやシリカなどで砂漠の緑化や国際協力の仕事を長年してきている。サウジアラビアのドバイやシリアのダマスカスのスライドなどを見せてもらった。非常に興味深い。アラブ首長国連邦は、本当に短期間で大きく変わっている。石油のお金というのは、本当に凄まじいことがうかがえる。移動砂丘を食い止めて、オアシスを守り、砂漠を開発するということが行われている。サステイナビリティの研究をしている私からすれば、砂漠の緑化や砂漠の開発とは何なんだ、という気持ちもあったが、この砂漠を人に住めるように転換するというのは相当、大変なことだという事を知る。田園を失い、都市が増殖するのとは違う。砂漠がむしろ都市を飲み込もうとしているのである。砂漠を人が住める空間へと変えていく。凄い試みである。とはいえ、このような試みをカリフォルニアの砂漠でみたら、なんて無駄なことをするのだろうと思う筈なのに、ドバイだとおお!素晴らしい、砂漠は克服すべき自然だ!と思ってしまうのは何なのだろう。おそらく、それは無知だからである。無知だと方向性を間違える。謙虚に勉強を続けることが重要であることを改めて思い知らされる。
ゼミ生が5名ほどハビ通販促で講演に参加してくれた。しかし、ハビ通は2冊しか売れなかった。講演の内容を無理矢理、ハビ通の記事と関連づけたのだが売れなかった。そもそも、私の本もほとんど売れなかったので、聴講者の関心を引きつけることに私が失敗したのかもしれないが残念である。普段は、もう少し、講演会では私の本は売れるのであるが・・。市民講座の限界か私の話がつまらなかったのか。その後、ゼミ生と「びっくりドンキー」に行って食事をする。華屋与兵衛の次はびっくりドンキーと自動車型消費社会を満喫している。びっくりドンキーはおそらく学生時代以来なので、行ったのは20年ぶりくらいであろう。ハンバーグはしかし、結構美味しいと思った私であった。
11月10日
慶応大学商学部の佐藤ゼミと合同ゼミをする。これで3回目である。春学期はうちがホスト、秋学期は佐藤ゼミがホストというスタイルが定着しつつある。服部ゼミは、明学の経済学科の中ではおそらく最もインテンスであると言ってもいいであろう。しかし、佐藤ゼミの方がはるかにインテンスである。しかも、学生のゼミへの食いつきまでも違う。私は3期生であるゼミ4年生には、誇りを抱いているくらいしっかりしていると思っているが、佐藤ゼミの中だと多少、色褪せてしまうくらいだ。佐藤ゼミは3年生と4年生のゼミの曜日が異なる。しかし、3年生は4年生のゼミ講義にも出席しなくてはならない。これだと、週に2回ゼミをすることになる。これは考えたこともなかったが、斬新なアイデアである。
合同ゼミは本当にいろいろ勉強になるので、非常に建設的である。学生も今は、それぞれの大学というフレームの中で活動しているが卒業すれば大学など関係ない。そういう庇がなくなった状態で仕事やビジネスをやっていかなくてはならない。そのために、庇があるうちに大いに自分の可能性を試したり、自分を磨く必要があるのだが、これは大学を卒業するまでは気付かない場合が多い。何を隠そう、私もそうであった。しかし、大学生の時は、君には才能がある、とかポテンシャルがあるとか言われて、将来に対してもぼんやりとした成功イメージを抱いていられるかもしれないが、実際、社会に出たら、その才能をどうにか活かそうとか考えてくれる人はほとんど皆無である。そのために社会に出たら、セルフプロデュースしかなくなるのだが、これは本当に大変だ。今でこそミリオンセラー作家になった元私の先輩である三浦展氏もサラリーマン時代は苦労して、セルフプロデュースをするしかない、とよくこぼしていたし、結果、セルフプロデュースによって成功を手にした。本当、才能が豊かなのに埋没してしまった人を数多く見てきた。そういう経験がある私からすると、明学の学生達の呑気さといい気になっている傲慢さに慌てたりもする。といっても普段は慌てないのだが、合同ゼミをやったりするとハッと気付いたりするのである。
どんなにいいゼミを運営しても(別に私のゼミがいいゼミだと主張している訳ではない)、学生が参画しなくては成り立たない。そういう事態になると、ゼミ自体が崩壊し、ゼミをやりたくない似非教員が跋扈し始め、発言力が増し始める。そうなると教育の場としての大学は、ほぼ崩壊である。ゼミの役割をも果たせない学生やゼミでの課題などを前向きに取り組めないような学生は、何をしにゼミに来ているのだろうか。今一度、よく考えるといいだろう。大学に来ているのは、世間体から親がお願いしたから、とかいろいろな不本意な理由はあるであろう。しかし、自分で何か前向きにやろうと思えないのならが、ゼミに入る必要はない。別に誰かを対象に考えている訳ではなく一般論なのだが、ゼミへ取り組むうえではそういう点を十二分に自覚することが必要であろう。
服部ゼミは佐藤ゼミや片寄ゼミなどの極めてしっかりとしたゼミと交流できる機会があるので、非常に有難いことだ。これからもうちに籠らずに、積極的に外部とコンタクトし、学生ともども私も学んでいきたい。
11月9日
私の新著(といっても4月に出たものであるが)である「サステイナブルな未来をデザインする知恵」は凄く売れていない。しかし、新しいゼミ生の2年生が読みたいから購入したいと今日、言ってきた。随分と見上げたしっかりとした若者だ。ということで、本の内容をぱらぱらと見ていたら、結構、重くていい言葉が入っているではないか。自画自賛的ではあるがちょっと紹介したいので、下記に記す。オシム語録のような重みのある言葉である。
イサオ・フジモト語録 p.153 (多少、本では文章が短くされているが、エッセンスは同じ)
「教育というのは、子供だけのものではない。人は食べるというのと同様にずっと学び続けることが重要である。一生、勉強を続けることが重要なのである。教える側として、何が教育するうえで重要かと考えているかというと、学び続けることが重要であるということを学んでもらうことである。そして、社会やコミュニティに自分はどのようにして貢献できるか、ということを考える力を持ってもらうことである。子供にばかり教育をしているが、大人が間違いを犯しているのである。大人こそが、もっと謙虚に学ぶべきであろう。これがサステイナブルな社会を構築するうえで極めて重要な要件になると考えられる」
11月8日
アメリカの中間選挙は面白く、喜ばしい結果となった。アメリカは間違いを犯すが、その後、より戻す力がある。まあ、戦争をしかけられて、やられた方はたまったもんではないが、間違いを自律的に直すことができる。この点は、どっかの国の政府とは違う。この自律的に軌道修正する力は、すなわち民度である。アメリカの民度は決して高いとは思えない。他の国に多大な迷惑を及ぼす程度の民度の低さである。しかし、自国が崩壊しそうな時は、それを是正することができるほどは高い。そして、そのような民度は考えることで醸成される。アメリカ人は自らの意見を持つことを求める。意見を持つためには、最低限は考えなくてはならない。翻って、我が国の場合は、むしろ意見を持つよりも集団の意志を尊重するよう振る舞うことを促す。思考停止に陥りやすい環境にある。その結果、第二次世界大戦での集団自決や、ワールドカップでの惨敗をもたらすのである。アメリカの批判本を執筆中の私ではあるが、まだまだアメリカから学ぶことも多い我々であるということを改めて知らされた昨日の中間選挙結果であった。
11月7日
建築学会の勉強会に出席する。ニューキャッスル大学に行っている村上佳代氏による講演である。彼女とは以前、ある雑紙の誌上座談会で一緒になったこともある。生態系の理解と視座がしっかりしている地域計画家だ。彼女の話は、最近イギリスで注目を集めている計画論の紹介であったが、大変興味深かった。イギリスはエコロジカルな考えがしっかりと都市計画、地域計画に反映されていない環境後進国であるとの指摘など私にイギリスに対しての新たなパースペクティブを提供してくれた。ハワード以来のイギリスの都市計画の展開は、昔、住都公団の委託研究をしていて、現地にも数回訪れて、よく調べていたので、田園都市論、ニュータウン、そしてサッチャーによる都市計画関連の公社の撤廃といった流れは把握していたが、エコロジカルなアプローチに対しての理解の欠如、などということには気付かなかった。イギリスはそもそも、生態学的地域計画の必要性を訴えたパトリック・ゲデスを生んだ国である(スコットランドではあるが)。私も環境自治体とかいう雑紙で、ハワードの田園都市論がサステイナブル・コミュニティの要件を満たしている、といったことを以前書いたこともある。田園都市といい、ニュータウンといい、すべてイギリスが発明したし、そもそも近代都市計画という概念を生んだのもイギリスである(近代都市計画が必要であるという考えは、エドウィン・チャディックのロンドンにおける下水道計画の必要性が大きな契機であった)。そのイギリスが、環境的には後進国だなんて。また、イギリスは随分と地域的には衰退しているところも多いのだが、相変わらず成長するために足掻いているそうだ。これは、私が今、研究に没頭している「縮小計画」を展開しているドイツとは違う。ドイツのすごいところは、縮小するのが趨勢なら、縮小する計画をつくろう、と考えられる点だ。これは、私のドイツ人の朋友であり、常に自国に批判的であるフランク・ルーストでさえも、「この点は賢い」と評価しているドイツの凄さである。そして、そのドイツ人が評価しているのが何を隠そう日本である。日本も、縮小していく。ここでイギリスのように、それでも成長という崩壊への道ではなく、賢く縮小というサステイナブルへの道へ是非とも進んでいってもらいたい。
最近、この縮小論をぼちぼちですが、発表し始めています。ご関心がある方はご参照下さい。
「縮小社会における都市政策」「週間エコノミスト」(8月15・22日合併号)
「人口縮小時代のまちづくり」月刊公明12月号
11月5日
夕方、家族と港北ニュータウンにできたイケアに行く。イケアは自動車を持つようになって、船橋のに5月頃行ったことがあるが、港北ニュータウンのものは始めてである。家内はイケアに着くと、人が変わったかのように集中して、いろいろ品物を見定め始めた。いつも貧しい思いをさせているので、そのせいかと思うと涙を誘う。船橋のイケアも混んでいたが、港北ニュータウンのものはさらに混んでいた。値段は、やはり馬鹿安である。しかし、スウェーデンを売りにしているが、ほとんどの製品は中国製とかベトナム製である。今日、私が買おうとしたものは本棚である。170センチのもので2900円。馬鹿安だ。しかも安いから軽くて運びやすい。2900円だと、すぐ壊れても悔しくない。他にも、オフィス・グッズを多少、買った。家内も台所関連の品を買っていた。それでも合計すると12000円程度。安い!安すぎる!しかし、イケアのベッド製品やソファなどの家具はみな馬鹿でかい。こんな家具を入れることのできる家は豪邸だけである。しかし、豪邸に住めるのにイケアの家具というのは、ちょっと矛盾している。イケアは日本市場では、大いなるミスマッチが起きるのではないだろうか。本棚も2900円だから買うが、棚の数など全般的にコンパクトではなく、空間を無駄に使ってしまっている。ちょっと、日本人のテイストとは違う。今でこそ、大人気であるが、早晩、安いだけじゃねえ、という空気が流れるような気がする。それに車でなくては行けない。私も、そのうち車を再び放棄するだろうが、その時にはイケアに未練がなくなっているであろう。
さて、帰りに久しぶりに外食だ!ということになったのだが、車を随分と乗っていなかったこともあり、こういう時にどこに行けばいいかが分からない。昔、駒沢通り沿いには結構、美味しいレストランがあったなあ、と20年以上も前の記憶を頼りに駒沢通りを走っていると、「華屋与兵衛」という看板が目にとまった。思わず、駐車場が完備されていることと、人がいっぱい入っていることから、引き寄せられるように入る。どんな店かは知らなかった。店は満員で待たされた。メニューをみると寿司、うどん、天ぷら、何でもあって、なんか外国の日本料理屋に入ったかのような錯覚にとらわれる。なぜ、こんなにここは人気があるのだろうか?テーブルについて箸の入っている袋をみると、この華屋与兵衛は、関東近辺に172店舗もある巨大和食レストランチェーンであることを知る。開業20周年と書いているから、随分と歴史も長い。そうか!こんな店があったのか。自動車に乗らないとまったく知らなかった世界であった。駒沢通り沿いの高級住宅街にまったく似つかわしくない料理が出てきたが、周りの客もどうも近くから来ているようであった。料理は本当、いまいちで自分がつくった方が美味いくらいのものだったのだが、値段が安かった。おそらくリーズナブルということが、このチェーンの売りなのであろう。しかし、なぜ駒沢で、この店が受けるのかは分からない。ただ、ヒントとして考えられるのは、自動車に乗っているとこの駐車場があることは大きなメリットである。自動車に乗って外食に行こうと考えた時点で、随分と選択肢は狭まってしまう。そういえば、自動車に乗らなかった時はほとんどファミレスに行くことはなかった。自動車に乗ってしまうからファミレスや華屋与兵衛にお世話になってしまうのである。ああ、なんか貧相で寂しいことである。自動車に乗ると、イケアのようなチープな家具に囲まれ、美味しくないが安い外食チェーンで食事をすることになる。それは、ばか高いガソリン代と保険代(遂に保険代の請求が来た!なんと1年で9万円だ!!)、そして自動車のローン代での出費を補うかの如く、少ない生活費で生活することを支援してくれているかのようである。華屋与兵衛を知ったことは今日の収穫であったが、二度と行きたいとは思わない。
11月3日
1日から今日まで3日間、白金祭が開催されており、私も3日間ほど大学にいた。これは3年生と4年生のゼミ生が模擬店を開いていたからである。今日は3日間のうち、唯一の休日であったこともあり、大いに人が入り、3年生も4年生もほぼ仕入れの品を完売し、利益をあげることができた。服部ゼミは、ハビタット通信という雑紙を発行するために、印刷代を稼がなくてはならず、一年前から印刷代稼ぎのための模擬店を白金祭で開店することにしたのだが、この模擬店、経済学部にとっては経済の勉強になり、非常に学生にとって意義があるのではないかと考えている。マーケティングはもちろんのこと、価格理論などの考えを実際、応用することもでき、販売している商品の価格弾力性なども知ることができる。白金祭の来訪者という極めて限定的なマーケットが相手ではあるが、コンビニのアルバイトのようにマニュアル・ロボットになるのではなく、利益を上げるためには自分で考えて工夫をしなくてはならない。そして、そのためには教室で教わっていた講義の内容が役に立つ。経営学はもちろんのこと経済学も、極めて実践的な学問なので、そのことを皮膚感覚で理解するにはいい機会だったのではないだろうか。もちろん、これをいい機会として自分達の成長の糧にするためには、やらされ感を持たずに積極的に取り組むことが必要ではあるのだが。
さて、今日は唯一の休日ということもあり、3年生が開店していた喫茶店にも多くの懐かしい人達が訪れてくれた。ゼミの一期生の増澤と鈴木(早苗)の訪問は、3年生にとっても大変嬉しい来客であったのではないだろうか。増澤は元気に社会人をしているようで何よりである。しっかりとたくましく社会で活躍している様子がうかがえた。また、二期生の内野も訪問してくれた。内野は毎日、忙しく働いているようであるが、彼女ならそのうち大きな仕事をこなせるようになるだろう。私が手掛けた最初のフィールドスタディに参加した高山君も遊びにきてくれた。彼も今年の4月に社会人デビューをしている。社会人1年目はなにしろ大変である。今までは消費者であった学生達が、いきなり会社人という立場で消費者を相手に仕事をしなくてはならない。慣れないことも多いだろう。私も振り返れば社会人1年目は、人生においても最も劇的で激しい1年であった。大変なことも多いだろうが、頑張って欲しい。状況を好転させるのは、仕事だけである、という意識をもって仕事をしっかりとやってもらえればと思う。
卒業生達以外にも、大阪大学の福田先生や元の会社の後輩である古田君と奥さんなども遊びにきてくれた。他の先生達が休暇を取っている中、私は3日間も大学に来ていてちょっと癪だなと思った私であったが、私自身も懐かしい人達と旧交を温めることができて楽しい一日を過ごすことができた。大学の教員も学生達から学ぶことが多い筈である。しかし、その価値を過小評価しているような印象を受ける。もちろん、学生側も大いに教員を過小評価しているのでお互いさまなのかもしれないが、これは大変、もったいないことかもしれない。私も大学教員として、このような機会を得られていることを感謝するべきである。ただし、慣れてしまうとその有り難さも薄れてしまう。その点はしっかりと自覚をし、日々、新たな気持ちをもって謙虚に過ごしていきたいものである。