7月31日
郡山で講演会。ゼミ生の坂井に本の販売をお願いする。なんと「人間都市クリチバ」が45冊も売れた!ハビタット通信も6冊売れるなど、坂井に来て貰った甲斐がある。さて、講演の方であるが、地方都市が抱える課題とその処方箋、ということで後者はコンパクト・シティだけでなくリニア・シティという考え方を提示したのだが、これはそこそこ評判がよかったようである。有難いことである。
午後6時頃に東京駅に着いたので、ゼミ生が数名参加していた江東区の会議に坂井を連れて出席する。服部ゼミのプレゼンスも高まってきており、仕事も随分と任されるようになった印象を受ける。頼もしい。その後、須永さん、甲斐さん、小田部さんといった方々とゼミ生達とで食事をする。
さらに、その後、ゼミ生の中とツィンズ・バーに行き、9月のオープンカフェで出そうと考えているアルコール飲料のフラッペに何を入れるといいかを試食して研究する。アイリッシュ・クリームやマリブは行けそうだと思ったが、全然美味しくなかった。私的にはカシスはイケルのではないか、と思うが、若い中は、メロン系もイケルかもしれないとの意見であった。いろいろと検討することは面白い。
7月30日
原後先生の命日が28日であったのに忘れて過ごしてしまった。なんてこったい!昨年は一周忌でもあり、学生などにも呼びかけたが、皆忙しそうだったのか、私が無視されたのか不明だが、結局、ゼミ生の関口と高輪でニイオカで飲んだだけで偲んだ。今年は、油断をしたわけではないのだが忘れてしまった。あんなにど迫力があり、存在感溢れていた原後先生でも、過ぎゆく日々は彼のことを徐々に忘れさせていくのか。それとも、私が恐ろしく薄情なのか。自己嫌悪である。
今日はゼミバンドで練習した。コピーした曲のワンダーフォーゲルの一節。「矢のように月日は過ぎて 僕が息絶えた時 渡り鳥のように何食わぬ顔で 跳び続けるのかい」。この一節が薄情な自分を非難しているようで情けない。しかし、時はただ過ぎていく。昨日も今日も明日も。
7月29日
参院選の東京選挙区の結果が出た。自民党は、現職で12年のベテランである保坂三蔵氏が6位で敗れた。そして、5位で滑り込みセーフで入ったのが、同じ自民党の丸川珠代である。まさに、結果的には保坂氏を落とすための最高の刺客としての役割を果たした格好である。保坂氏の悔しさといったらないであろう。丸川の応援をしていた平沢議員も、保坂氏が当然入って、丸川に5位に滑り込んでもらう戦略であった、と丸川の確定が出た後に述べていたくらいだから、自民党にとっても想定外の結果であったのであろう。丸川は阿部首相自らが出馬をお願いしたという話もあるくらいだから、当確だろうと言われていた保坂氏ではなく、自民党も当落線上にある丸川の選挙に力を入れたのかもしれない。しかし、その結果、自民党のベテラン議員であり、実績も多くある保坂氏を落選させる結果となってしまった。丸川は、住民登録もせず、すなわち今までの選挙で投票もしなかった、恐ろしく政治的には無責任な人間であるから、これからも大した政治活動はしないであろう。少なくとも、保坂氏とは雲泥の差があるであろう。これは、自民党支持者だけでなく、一都民としても大変残念なことである。そもそも、選挙活動中、謝罪しまくっていたのだから、出馬を辞退をすることもできたのではないだろうか。今、辞退すれば保坂氏は繰り上げ当選できるのではないか?まあ、私は自民党を支持しているものではまったくないが、今回の件は流石に酷すぎる。身から出た錆とはいえ、さすがに同情する。
あと、小泉氏は「自民党をぶっつぶす」と言って人気を博したが、阿部首相は開き直って居座ることで自民党をつぶすことになるだろう。今回の敗戦のリスク管理に対する能力の無さは、一国の首相としては大変危険なものがある。これも、私の想定外で、今、我々は大変危ないトップを抱えている。結構、まじに大変な事態であろう。
7月28日
ヤンキースのトーリ監督が5人のローテは守る、誰も飛ばすつもりはない、と言った舌の根も乾かぬ翌日に、井川はまたまたマイナー落ちが通告された。松坂を取ったレッドソックスよりも、井川を取ったヤンキースの方がいい買い物をしたと分析したスポーツ解説者もいたが、どうも損をしたのはヤンキースのようである。井川がアメリカ向きではない、と以前書いたが、ちょっと気になるのは、井川はなぜそもそもメジャーリーグを志向したか、ということである。夢を実現するというような熱意はコメント等からはうかがえないし、ちょっと不思議な印象を受ける。イチローや桑田、松井、岩村といった選手のような挑戦する気持ち、自分を試そう、というような熱意がどうも二次情報からはうかがえない。もしかして、流行りの自分探しか。
自分探しと言えば、中田ヒデである。自分探しの旅を続けているようだが、結構、美女を同伴しているらしい。自分探しの邪魔になるだろうにと余計な心配をしているが、まあ女性と付き合うことで自分を探そうとする男もいるからな。安田一平とか。
自分探しとは何だろうか。英語で言えばソール・サーチング(魂探し)か。しかし、まあヒデにしろ井川にしろ、才能は飛び抜けており、財産も持っている。なぜ、自分探しか、と思ったが、よく考えれば、才能が飛び抜けていて、金の心配もしなくてもいいから自分探しをするのか!マズローの欲求5段階説でいえば、最終ステージの「自己実現」を図るための自分探しなのであろう。才能がなくてお金もなければ、自分探しをする余裕などないからね。羨ましい気もするが、あてどない自分探しをしていることは情けない。なぜなら、自分は探すのではなく、つくっていくものであるから。自分とは生きた時間の積分の結果であるので、探すよりかはつくりあげていくものである。だから、人は勉強するのでしょう。
7月21日
ユーチューブをたまに見る。ジェネシスやリトル・フィートの昔のライブ映像が見れるからである。こんな垂涎映像が、ただで見れるなんて本当に私が高校時代には信じられないことである。それはともかく、偶然、ブルック・アリソンという天才的なユーチューバーを発見した。こういうアメリカ人を知ると、アメリカが好きになるねえ。そのユーモア・センスは随分と私のツボを突いている。これはただものではない、と幾つかの彼女の作品を観て理解したが、どうやらユーチューブが生み出した最初のスターだそうである。今ではNBCとかの番組(主に素人のビデオ作品の解説者という位置づけのようだが)に出ている有名人だそうである。私は、アメリカ研究の講義を持っているのだが、学生発表でどうして誰もこのブルック・アリソンみたいなテーマを選んでくれないのだろうか。彼女の映像を一発授業中に見せてくれたら、私は大いに喜ぶのに、学生は往々にして「アメリカ経済のサブプライム問題」とか知りもしないことを説明するんだよね。本当につまらないことの極致だ。学生は大学の講義をつまらないと考えている場合が多いが、本当につまらないのは往々にして学生の方である。とか毒づいていると、明学からもブルック・アリソンが出てくるかもしれない。くるりだって立命館出身だからねえ。
7月20日
卒業生である山本が彼氏の水島と一緒に研究室に遊びに来る。二人とも3年前にクリチバへのフィールドスタディに参加した。この二人は、フィールドスタディをきっかけに付き合い始めた訳なので、クリチバと私が仲人のようなものだ。まあ、それはともかく、山本がボーナスが出たので昼飯をご馳走すると言う。遠慮をしないで、近くの高級中華料理店である直城に行く。社会人になってまだ日が浅いが、結構、新しい環境に戸惑いつつも楽しんでいるようであった。何よりである。とはいえ、社会人の厳しさも痛感しているようだ。特に、これは男性の水島の方が強く感じているようで、厳しい、とこぼしていた。私は、社会人から大学に来たので、この厳しさは身に染みて知っている。しかも、この厳しさは、若いうちは大したことがなくて、年を取れば取るほど厳しくなるので相当準備をした方がいいのだが、多くの大学生は、無自覚でこの世界に入っていく。武器を持たずに、戦場にほわわんと入っていくようなものである。しかも、それまでは就職が厳しかったので、それなりのものしか戦場に参加する資格を有していなかったのだが、今は人手不足なので、誰でも戦場に送り込まれる。これは怖すぎるよね。この怖さゆえに、服部ゼミは厳しくしているのだが、今の二年生とかは私の大して厳しくもない事例研究をも敬遠しているような状況なので、本当に将来、やっていけるかどうか他人事ながら心配だ。多くの先生は、ずっと大学という繭の中のように守られた環境で勝手に自分の好きな研究を続けてきたので、社会人の厳しさを知らない。だから、学生達も適当をやっていても将来も大丈夫だろう、と思っている人が多い。自分達がいかに例外的に恵まれているか、ということを自覚していないのである。自分の価値観や考えを曲げることも強制されるのが会社である。まあ、どっかの大学のように、勝手にスクールカラーやロゴをトップの独断で決定してそれを押しつけるような無謀なことをする会社も今日はあまり多くないが、私のようにこういうことを自由に書けないのも会社である。(とかいって、この文章が削除されたら圧力があったと思ってください。最近は油断が出来ないからな)。
7月19日
水辺の会の会議に出席する。ゼミ生も6名ほどきた。テスト期間中なのに、凄い迫力だ。本当に大丈夫なのか、君達?しかも、明日は私の講義の試験である。心配だ!ということで、いつもは須永さん達と美味しいところに行き、食事を一緒にするのだが、今日はノンアルコールのファミレスで食事をして帰る。
7月17日
大学時代の友人である川島と目黒で飲む。彼は焼き鳥が好きなので、鳥芳に行く。先日、中性脂肪が500という凄まじい数字を出したにも関わらず、暴飲暴食をする。川島は43歳だが、今でもトライアスロンの選手であり、しかも進化し続けている。45歳の年代別だとおそらく世界選手権に出られそうだ、という話だ。彼は中高一貫教育の私立に進んだのだが、そこでは陸上部がなかった。小学校の時、市のマラソン記録を持っていた彼は陸上部ではなく軟式野球部(硬式野球部もなかった)に入る。この野球部でも高校の時は県で優勝するなど活躍するのだが、彼の現在も止まらない進化から考察できることは、もし中学、高校と陸上を彼がやっていたらおそらく、相当の選手になったであろう、ということである。このことを言うと、川島もそうかもしれない、と頷いていた。
人はどこに才能を有しているか、分からない。それがうまく顕在化できればいいが、本人も気付かずに死んでしまう場合も多々あるであろう。川島の場合は、社会人になってから、ちょこちょこと始めたトライアスロンで、彼が持っていた長距離ランナーとしての類い希な才能が顔を出し始めたのである。しかし、長距離ランナーというのは、トレーニングを続けることで初めて才能が分かる。川島の場合は、その異常なる才能が多くの陸上選手が引退する年齢を過ぎてから発覚したということである。まあ、発覚できないよりはいいが、超一流になれたかもしれないことを考えるとちょっと残念な気持ちもするし、まだ進化しているからそれは素晴らしいとの見方もある。
私も小学校の頃、ライフルを撃ったら(アメリカに住んでいたので)非常に簡単に的に当たり、いやあ随分簡単なんだなあ、と思ったら自分だけが飛び抜けていい成績だったので、これは自分には才能があると自覚したことがある。その後も、ゲーム・センターにある銃関係のゲームとかは、まずリプレイ確実であったが、目が悪くなってから駄目になった。しかし、こんな才能は偶然発見できたから気付くが、大抵、気付かないで人生終わるであろう。まあ、こんな才能があっても狙撃手くらいにしか使えなくて、狙撃手にはなりたくないので、どうでもいいのだが。
何が言いたいか、というと、才能はなかなか見つけれないから、才能があるかどうかを若い人達はいろいろと試して探すべきだと思うのである。特に語学なんかは才能が非常に重要であるので、才能がない学生は早く見切りをつけた方が金を無駄にしないで済む。麻雀とかのギャンブルも才能がないと金を搾取されるだけなので、見切りをつけることが重要だ。一方で才能がなくても楽しめることがあれば、下手の横好きではないが、やればいいのである。また、世の中には変に見切る奴がいるが、そういう人間のアドバイスはまともに受けないことも必要だ。亡き父親は長女のサッカーを見て、辞めさせろ、と断定した。父親は某大学のサッカー部の監督を死ぬ直前までしていたので、そういう点からはプロであったと思うが、私は彼の言っていることに従わなかった。というのは、彼女は動いているボールをしっかりと捉える動態視力を有していたからである。したがって、無視してサッカーチームに入れ続けた。父親が辞めさせろといったのは長女が5歳のころで、今は11歳である。それほど上手ではないが、社会人達と一緒のフットサル・チームに入っていて、そこそこ一緒にやっていけるほどは上手である。何より、本人はとてもサッカーが好きだ。まあ、父親の言うことを無視して本当によかった、と思う。まあ、父親は私にも会社を辞めるな、とかいう適当なアドバイスを言い続けていたので、本当にいい加減なことを言う人ではあったが。はっきり言って、私があの会社に居続けたら、今頃生きていないと思う。中性脂肪も1000に到達していたのではないか、と思うくらいストレスと不健康な状況に追いやられていたと推察されるからだ。
話が横道にそれたが、まあ学生で、まだ自分の道がよく分からない学生は、本当、いろいろと試すといいでしょう。ゼミを指導していると、ある程度、見えてくるものもある。全然、ロジスティックの管理ができない学生が旅行代理店希望だったり、対人恐怖症が中小企業診断士を目指したり、どちらかというと、合わない職業を目指していることに気付く方が多いが、その逆ももちろんある。特別な編集能力がある学生を見つけたり、ボーカルとしての才能にも気付いたりする場合もある。まあ、よく分からないから人生、楽しいのかもしれない。私も大学教員となってから、自分の特異性を発見している。
7月16日
交換留学生対象の講義を今日で終了する。数名の学生が私と記念写真を撮影してほしいと言ってきた。多少、照れるが内心、嬉しい。留学生が日本の学生より優秀であるといった断定的な考えを私は有していない。しかし、講義へのアプローチ、講義に対しての真剣度に関しては、ほとんどの日本の学生よりしっかりとしている。したがって、留学生のような学生へ講義をすることは、講師の私にも多くの刺激を与えてくれる。大学において期待される学生と講師との適度な緊張感が生じて、これは教員にとっては栄養のように有難いことである。
もう8月、9月には帰国をしてしまう彼らであるが、一期一会、彼らと出会ったことは私にとっても大きな財産である。彼らにとっても、私がそういう存在であれば本望である。学生と遊んでばかりいないで、もっとビッグなことをしろ、と大学時代の同窓生に揶揄されるような私であるが、留学生との交歓することの価値以上のことがあるのだろうか。むしろ、これ以上の価値あるものを私の同窓生に提示してみろ、という気分になっている今日この頃である。
7月15日
都市環境デザイン会議の大会二日目。朝、7時30分に須永さんとホテルのロビーで待ち合わせをして、喫茶店のモーニングを食べに行く。というのも、昨日、名古屋の喫茶店のモーニングは素晴らしいと数名が言っていたからだ。私は、さすがに大阪ほどではないでしょう、というと、いや大阪より素晴らしいという。そうなのか、とそれを私の傍らで会話を聞いていた須永さんも思ったらしく、一緒に行きましょうということになり、喫茶店を探して雨の中、10分くらい歩きようやく日曜の朝からやっている喫茶店をみつけて入った。喫茶店の名前はコンパンだったと思う。この喫茶店はマスター以外にもアルバイトの若い女の子が二人もいるので、随分と繁盛している店だな、というのが分かったが、案の定、我々が入った後、客がどんどんと入ってきた。皆、顔見知りのようであった。モーニングセットは510円で大阪の中州周辺の喫茶店より値段は高いが(大阪では300円台)、量がおそらく凄いのだろうと期待していたら、サンドイッチだけであった。サンドイッチは美味ではあったが、残念ながら大阪の喫茶店のモーニングの量にははるかに負ける。お得感がない。ただし、コーヒーは美味しかったが。
研究会では、いくつか興味深い発表のものがあった。とはいえ、眠気が襲う。最近、疲れているからなあ。講義中、寝る学生の気持ちがちょっと分かる。
研究会が終わった後、大須観音のそばにあるひつまぶしが美味な宮川楼に行く。9名のメンバーで行ったのだが、皆、感動していたようだ。私も感動した。21時49分ののぞみで帰路に着く。
7月14日
都市環境デザイン会議の大会で名古屋に来る。火曜日も名古屋だったので、名古屋づいている。朝6時30分に家を出て、9時30分に会場の名古屋都市センターに着く。近いなあ。この近さだと、完全に日帰り圏だ。大会の後、講演会があった。講演会は「万博は地域に何をもたらしたのか」といったテーマだったが、相当面白い話が聞けた。私は、愛知万博が環境万博と謳った時点で、もうファックという感じで、完璧に拒絶反応を示していたのだが、意外に意外、結構多くのポジティブな結果を残していたようである。地元住民がファック、と拒絶したことで、実施サイドも随分と工夫や知恵を絞って、どうやらうまく軌道に乗せることに成功したようである。私は、もう完全無視という姿勢でいたのだが、結果的には多くの成果を残すことができたようで、今日の講演会は大変勉強になった。
7月13日
リーブス先生の最終講義。学生達が研究発表をした。面白い発表もあったし、出来が今ひとつの発表もあった。総じて、リーブス先生は学生の出来にはそこそこ満足しているようで、ほっと胸をなで下ろす。学生の出来が悪いと、私の信用も落ちる。まあ、そういう意味では学生がしっかりとやってくれて本当によかった。
7月10日
名古屋の松原市長に呼ばれて、名古屋市に行く。クリチバに関する講義をして欲しいとの要望であった。翌日、名古屋市長は中村ひとしさんとお会いする予定であることを知っていたので、クリチバの概要ではなく、クリチバ的な名古屋の都市づくり、というどちらかというと提案型の内容の資料を準備したのであるが、私の講義の前の市長のお話が、クリチバの概要を私の講義で知りたい、という内容であったのと、名古屋市の局長クラスといった行政の大ベテランを前に、私案を披露するのも気が引けたので、クリチバの概要板の資料を用いて、土地利用政策、交通政策、緑地政策の話をさせていただいた。緊張をした訳ではないと思うが、滑舌があまりよくなく、ブラジルとクリチバを混合させたりしてしまった。こういうことは、なかなか上達しない、というか年とともに下手になっているような気もしないでもない。政令指定都市の市長の勉強会で講師をするなどの機会は初めてであり、身に余る光栄であると思うと同時に、これからもしっかりと勉強をしなくてはならないと改めて思わされる。
7月9日
ゼミの納涼会。ゼミ生以外に交換留学生のマルティンとビビン、そして佐々木ゼミの福岡君が参加してくれる。服部ゼミは納涼会と新年会にOBを招待する。今日は6名のOBが馳せ参じてくれた。二期生の山下は卒業して、おそらく初めてなので、1年ちょっとぶりに再会したことになる。学生時代からしっかりとしていたが、さらにしっかりとなっていて頼もしい限りだ。三期生は男性陣は全員参加した。中でも今泉君はわざわざ北九州からやってきた。そのくせに、大学時代はトラウマだったとか、相変わらず頼もしくないことを述べていた。まあ、ここらへんは癖か。
5期生が入ってからはゼミの飲み会には出し物がつきものである。私も、バンドで参加してくるりの曲を3曲、披露した。中村さんが差し入れでくれたピンガを随分と飲んだので出来上がる。椎名林檎の丸の内サディスティックやクラプトンのティア・イン・ヘブンを適当に弾いたが、酔っ払いにしか見えなかったかもしれない。しかし、個人的には久々に楽しく愉快な飲み会である。ここまで愉快になれることは滅多にない。これはやはりOBの存在が大きい。私のゼミは滅茶苦茶厳しいが、その厳しさに堪えて卒業して立派になった社会人となったゼミOBを見るのは、最高の楽しみであり、私の教員人生が報われたと思う瞬間である。だから、今日の私はすこぶる幸せであった。これを糧に、テストを乗り越えていって欲しい。
7月7日
中村ひとしさんと夕方待ち合わせをし、清澄のやよい寿司へ行く。フィールドスタディで中村さんにお世話になった学生が9名集まり、また、このやよい寿司を紹介してくれた須永さんも同席する。中村さんを中心に話に花が咲く。中村さんは本当に引っ張りだこだが、明学の学生達には特別に時間を取ってくれる。そういう意味で、非常に明学の学生は果報者である。私もとても果報者である。須永さんも楽しんでいただけたようだ。やよい寿司は、とても美味しいのに、値段が寿司屋とは思えないほど安い。ということで、大変楽しく、素敵な時間を過ごすことができた。幸せな気分で家路につく。
7月6日
東洋大学のシンポジウムに行く。ジョージ・ヘイゼルというイギリス人の交通コンサルタントの講演を聴く。新鮮なことはほとんど話さなかったが、興味を惹いたのは、彼は多くの大都市のリーダーに取材を実施したのだが、そこで気付いたのは、リーダー達の問題の解決方法が供給サイドのものに偏っていたことであるという話である。問題の解決手段としては、当然、需要サイドのものが考えられるが、行政のリーダー達は、供給サイドのものを提案したと述べた。これは、面白い。供給サイドの政策は、コストがかかる。行政の権限に繋がる。日本において、道路の需要がないような地方にも高規格な道路がつくられ続けるといった供給サイドの政策ばかりが続けられるのは、それが行政の権限につながるからである。道路をつくることで、霞ヶ関の中央官僚は権限を維持し続けることができる。そこに需要があろうがなかろうが構わない。そして、それが世界中の都市の役人に共通するということをヘイゼル氏の話は私に気付かせた。面白い。
講演にはリーブス先生も参加されていた。日本の都市の公共交通システムの方が全然、優れているのに世界の他の都市を参考にしろというのは、何とも間抜けであるといって感情的になっていた。私もまさに同感だったので、二人で盛り上がった。講演後の質問時間で、リーブス先生は仕切りに手をあげていたが、無視されていたので、最後の質問で私は大きく手を振り、指されたので、リーブス先生にふった。リーブス先生は、東京の公共交通システムとヒューマン・スケールは世界一である。この点について、どのように考えているのか、みたいな質問をした。会場では拍手をする人もいた。ほんと、なんかおかしいよね。いや、日本が他国から学ぶことはたくさんあるが、公共交通システムに関しては、他国こそ日本から学ぶべきである。自虐趣味もいい加減にした方がいい。
その後、レセプションにも参加する。レセプションで、前述したへイゼル氏と話をする。へイゼル氏は得意気に東京の問題について、とうとうと話し始めたので、流石にむかつく。ヘイゼル氏は東京も日本も今回、初めて訪れたのである。来たこともない都市のことを得意気に分析するな。意地悪な気持ちがむくむくと頭をもたげ、東京都23区の世帯当たりの自動車保有率はどのくらいか?23区の人口密度はどのくらいか?あなたの専門家の視点から、推測してみなさい。といったら困惑して、最初の質問は100%よりちょっと上くらいか、といった。何を言っているんだ!それは日本の平均だ。東京都でも57%くらいで、23区だったら42%だ(私が記憶しているデータは2000年前後なので、今はもう少し上がっているかもしれない)。ヘイゼル氏は驚いていた。23区の人口密度は数字を言うのも抵抗した。ヘイゼル氏は都市コンサルタントらしいが、東京という特異な都市において、その基礎的な数字も分からず、平気で問題点を述べる図々しさは本当に呆れる。「東京を見ないで、大都市のことを理解したと思うな」。まあ、このヘイゼル氏は人柄もよさそうで、彼にはあまり罪はなく、むしろ彼のような人間を東京までわざわざ招聘して、話を聞こうとする我々こそに問題があるのだろうが、はっきり言うと、彼が東京から学ぶことに比べて、我々が彼から都市交通といった観点から学ぶことははるかに少ない。まあ、見込みのありそうなスコットランド人の都市計画コンサルタントに、奨学金を我々が与えたと考えれば納得も行くのかもしれない。あと、日本は高齢化で将来は大変だ、みたいなアドバイスをもしてくれた。この高齢化問題、少子化問題も団塊の世代があの世にいけば、大方問題は解決する。年金の問題も大変だ、と言ったが、これは日本だけでなくドイツも大きな問題だし、イギリスはどうだ?と聞いたら、イギリスも大変だと回答した。自国のことをまず心配しろ!日本の高齢化、少子化で問題なのは、その問題をしっかりと捉えずにパニックを煽るいい加減な学者や評論家、マスコミに踊らされてしまうことである。年金システムという制度は、日本も問題だが、他の先進国でも破綻しそうな状況にある。もう、いい加減な知識で、いい加減なアドバイスをするなよな。
とはいえ、今日は会場でハビタット通信が相当数、捌けた。1号は売り切れてしまった。そういう意味では、意義が大きかった。
レセプションの後、恩人である中村ひとし氏と神田の尾張屋に行く。中村さんの大学のハンドボール部の後輩である中野さんと奥様も同席された。中村さんの周りの人達は、本当に活き活きとされていて格好がいい。中野さんもとてもダンディな方であったが、奥様は女優のように美しい人であった。元スチュワーデスということだが、現在60歳近い方でスチュワーデスをされていた、というのは特別なものを持っていたということであろう。奥様は、中村さんの妹さんの同級で、明石高校バスケットボール部だったそうだ。中村さんの妹さん(日本社会福祉学会会長で同志社大学教授)の明石高校女子バスケット部の代は、中村さんがコーチをしていたのだが、中村さんの奥様や中野さんの奥様など、なんか凄いメンバーが揃っていた。しかも、相当、いい成績をも残したそうなのだ。帰りにタクシーでそのことを凄いことですよね、と中村さんにお話すると、不思議な力があの時、働いたようだね、と返答した。そして、その不思議な「奇跡」を起こした要因の一つが、中村さんなのではないかな、とも思うのである。今日、中野さん夫妻にお会いして、またまた中村さんの魅力を知った私であった。
7月5日
ゼミ生とスタジオに入る。ラップは私の年齢だと非常に難しいことを改めて知る。
7月3日
私が最も敬愛し、ショックを受けたロック・ミュージシャンは葛城哲哉である。ということに最近、気がついた。まあ、気づいてどうした、という突っ込みもあるだろうが、彼の卓越したギターのテクニック、ロック・ミュージシャン以外の何物でもない風貌、偏差値の高い楽曲、そしてロック・スピリットを体現したかのような詩。完璧な格好良さであった。私が追っかけ的にミュージシャンを追いかけたのは葛城哲哉だけである。たまたま大学のサークルの先輩が葛城哲哉の弟であったこともあり、デビューした直後にマンションに遊びに連れて行ってもらったこともある。あんときは感動したなあ。もう、完全に憧れの人を見る目になっていたと思う。メジャー・デビュー直後のコンサートなどには頻繁に出かけていったものだ。1986年のことである。渋谷のエッグマンとかでよく演奏していたと思う。デビュー・アルバムは「ぼーん・とぅ・びー・わいどる」というタイトルで、ワイルドとアイドルを引っかけたものであった。私的にはもう、全曲しびれるくらいに素晴らしく、これは大スター誕生の暁に俺は歴史の証人としているんだ、と思ったくらいであった。特にタイトル曲やガキへの回想、ロックネス、おいらはアパシー、とかにしびれた(古語)。絶対に大ヒットすると信じたものだった。楽譜が何故か、販売されていたので、早速買って、一生懸命当時はコピーに励んだものである。ライトアンヨ奏法という裸足になって足でギターを弾く奏法はエディー・ヴァン・ヘイレンのライトハンド奏法より遙かに難しく、とても人間業とは思えず、もう楽曲といいパフォーマンスといい傑出した存在であると思えたのである。
しかし、私の予想は外れた。「ぼーん・とぅ・びー・わいどる」は大して売れることもなく、葛城哲哉が率いたバンドのT.V.はその後解散し、ソロとして活動する。その後、TMネットワークの第四番目のメンバーになり、デジタルロックの第一人者となるのだが、そういう展開になることも読めなかった。私は、もっと骨太のロックンローラーになるんじゃないか、と思っていたのである。イエロー・モンキーの吉井和哉をさらにワイルドにして、男臭くしたようなイメージである。まさかTMネットワークと息が合ってしまうなんて、意外であり残念であった。
葛城哲哉は幼少時、バイオリンをやり、埼玉県熊谷高校に進学する秀才であったが、高校時代はサッカーに精を出し、相当、活躍する(確か県のベストイレブンとかにもなったと思う)。Jリーグの解説者が少ない時には解説者の仕事もして、またどっかの国際試合でも君が代を歌ったこともある。しかし、高三の時に靱帯の怪我をして、サッカー少年からギターボーイに転身し、またたく間に上達し、筑波大学に入って、初めて組んだバンド「幼稚マンCo.Ltd.」でヤマハのイースト・ウエストを制覇する。そして、メジャーデビュー。ちょっと格好よ過ぎである。
なぜ、今更ながら彼を思い出したのか。最近、私は年甲斐もなく、ゼミ生とサッカーをやったり(フットサル)、ゼミ生とロック・バンドの練習などをしている。大学時代の知人が「学生と遊んでないで、もっと仕事をしなよ」と私に苦言を呈してから、さらに学生と同レベルの活動に勤しんでいるのだが、一昨日のサッカーでミスしたこともあり、もっとサッカーがうまかったり、ギターがうまければ学生への指導もより効果的なのになあ、などと考えていたら、葛城哲哉を思い出したのである。彼が、大学のゼミで教えていたら、滅茶苦茶刺激的であっただろう。サッカーは激うまだし、ギターはプロである。まあ、強烈過ぎて、明学の学生は卒倒してしまったかもしれないし、女子学生のハートを掴みすぎて大変な事態になってしまったかもしれない。とはいえ、しみじみ私は大学時代、どのような人間になりたかったかと言えば、葛城哲哉のようになりたかったのだという下らないことを、学生と「遊んでいたら」思い出したのである。私はもう人間としての才能といった観点からは、葛城哲哉の足下にも及ばない。社会人で下らないことをしていた時は、そういうことに気付かずに自分を騙して生きてきたが、大学の教員のように発想が自由になると、そういうことを思い出す。そういう劣った存在としての自分に自覚しつつ、生きて行かなくてはならない。それが人生だ。
この年になると、あまり自分の劣等感などを持たずに生きていく術を身につけている。しかし、大学生はもっと全然ナイーブであったりする(もちろん、根拠のない自信でつっぱしている大学生もたくさんいる)。だから、そういうことも理解しなければということを、記憶から封印していた葛城哲哉を開放することで思い出したのである。それは、不惑の年を過ぎ去った私にまたチャレンジ精神をもたらしてくれるものでもある。
7月1日
今日はゼミ対抗のフットサル大会である。服部ゼミは、ユニフォームを揃えた。ポルトガルのナショナル・チームのようなお洒落なユニフォームである。しかし、ゼミ生にはサッカー経験者がいない。その状況下で、24チームを6つのチームごとに分けた4グループの上位2位が決勝トーナメントに進出できるリーグ戦を勝ち抜かなくてはならない。はっきり言って至難の業である。しかし、こんなユニフォームを揃えて惨敗したら、さすがに恥ずかしい。我々はBグループに入った。Bグループには、高橋ゼミ、肥田ゼミ、江川ゼミ、村田ゼミ、中尾ゼミが入っている。我々が事前に入手した情報だと、高橋ゼミと肥田ゼミが圧倒的に強いとのことであった。
初戦の中尾ゼミ戦、あるゼミ生の提案で、服部ゼミでも最も運動神経があると思われ、キーパーに指名していた4年生の田中をフィールド・プレイヤーにするという戦略をとる。中尾ゼミは、我々が怖れていた静岡県出身の高藤君が参加しておらず、大いに勝てるチャンスがあったが、田中があまりその特性を活かせず、2−2の同点で引き分けた。初戦の引き分けは、その後の戦いを考えると、非常にまずい状況に我々を陥れた。しかし、次の村田ゼミと肥田ゼミを、キーパー田中が獅子奮迅の活躍をして無失点に抑え、またサッカーセンスがゼミで唯一抜群の中が連続得点を決めて、勝利をものにした。この時点で、ほぼ2位が確定したが、高橋ゼミで負ける可能性も考え、このグループ内では最弱の江川ゼミ戦も必勝の態勢で望み4−0で勝利する。これは、結果的に好采配であった。というのは、最終戦の高橋ゼミ戦に我々は惨敗するからである。中を選抜させないなど、必勝の態勢ではなかったにせよ、この敗戦は痛く、決勝トーナメントに進出はできたが、B組では肥田ゼミに次いで2位。そのため、D組1位で無敵の清水ゼミと初戦にぶつかることになった。
清水ゼミは、4年生の林君という別格のテクニシャンがいて、超強敵であったが、なんと、ここで田中がまさに鬼のようにゴールを守り、往年のオリバー・カーンのような活躍をして無失点に防ぐ。そして、中がシュートを決め、また田中の超ロングシュートも決まり、歓喜のベストフォー進出を果たす。
そして準決勝戦では董ゼミと当たるのだが、ここでは私のポカミスなどもあり、逆転を許し3−2で敗戦する。これは個人的には悔やまれる。というのは、傲慢であるかもしれないが、私が出る時はチーム的にもプラスになると考えて出ていた積もりだったので、ポジション・ミスで失点に繋がるようなことをしたのは残念無念であるし、学生にも申し訳ない気持ちである。
とはいえ、決勝トーナメント進出が大きな目標であった中で、ベストフォーは見事であった。勝つための采配に徹したので、嫌な思いをした学生もいただろうが、これも勝利のためということで許してもらいたい。私がミスしたことが本当に残念であったが。
しかし、改めて最近の私の生活を振り返ると、まさにゼミ中心である。はっきりいって、もうほとんど馬鹿である。ゼミ馬鹿教師だ。5月に大学時代の同級生と会って話をしたのだが、彼は私に「大学生と遊んでないで、もっと仕事をすれば」と、もうほとんど私の人生を大否定するような言葉を放った。大学生と遊んでいる、というのはあまり自覚がなかったが、そうかもしれない。フットサル大会でも、ほとんど唯一、本気で勝負をしていた教員であった。まあ、傍からみるとほとんど奇人変人の類かもしれないが、私は結構、楽しんでいる。生産的ではないと言われるかもしれないが、その昔、役人の尻拭いのような仕事をしていた時よりは、はるかに学生の相手をしている方が私的には意義があると思われる。それに、私の同級は、市議会議員であるが、私になんのアドバイス等も求めないが、こんな私でも名古屋市や福島県、港区からはアドバイスを求められている。本も年に1冊以上のペースで書いているので、まあ、大学生と遊んでばっかりいる訳ではない。それが100%ではない。とはいえ、その比率は圧倒的に他の大学教員よりも高いことは確かである。結果的に、ただのゼミ馬鹿教師で終わる可能性もあるが、馬鹿と呼ばれるくらい徹底できたら、それはいいことである。大学生と遊んでいる、ことが仕事であるということは、あまり世間の人からは理解されにくいかもしれないが、私は仕事であると思っている。そして、それはそれで結構、楽しいし、それなりに意義がある仕事だとも思っている。少なくとも、役所の出鱈目な政策を無理矢理裏付けるレポートを書いていた時よりは、はるかにましな仕事だと思うし、自治体に自衛隊を持ってくる経済効果を算出する仕事をするよりかは、生きている価値があると思わせてくれる仕事だと思う。まあ、大学生が私と遊んでくれている間は、遊んでいようと思っている。
6月30日
ゼミ生と夕方、フットサルの練習をする。今日は、多少は走れた。しかし、本当に久しぶりの運動である。悪いことが起きなければいいが。
6月29日
ゼミ生と神楽坂に街歩きに行く。神楽坂商店街振興組合の方々からお話を聞く。3年前にも訪問したことがある。当時は、いろいろと神楽坂にも問題があって大変だという話が中心であったが、今回は、神楽坂は絶好調で、こんなにうまくいっている商店街は麻布十番商店街くらいであろうと豪語していた。まさか、売上げが下北沢や武蔵小山より高いということはないだろうが、随分とこの3年間で状況が改善されていることはうかがわれる。
この神楽坂の商店街が成功している理由は、その地理的に有利なポテンシャル、商店主の人達の努力、この土地が持つ粋なライフスタイル、みたいなことを挙げられていたが、私的にはあまりピンとこないものばかりであった。まあ、花柳界の「もてなし」精神、ヒューマンスケールといった指摘をする方がお一人だけおり、ここらへんはそうかな、と思われたが、他は納得しにくい説明であった。地理的に有利な商店街なら、他にもたくさんある。しかし、門前仲町や中目黒、山手線内でも駒込などは、そのポテンシャルに比してうまくいっていない。地理的な有利さ、というのは後付けのような印象を受ける。そもそも、地理的な観点からだと、最近、人気が向上したことの説明ができない。
神楽坂の最も大きな魅力はヒューマンスケール溢れる、路地を中心とした都市構造にあるだろう。それは、21世紀型の街である。外国人が多く住むようになっているようだが、外国人はこの極めて日本的なヒューマンスケールの都市空間を愛する。下北沢や白金に多くの外国人が住む理由も同一である。
6月28日
ゼミ生とバンド練習をする。くるりとリップスライムのジュースをコピーしたが、ヒップホップというジャンルの音楽が極めて難しいことを思い知る。まあ、人生、すべて勉強だ。
6月27日
名古屋市の職員が研究室を訪れる。再来週、市長と勉強会をする前打合せである。名古屋市長は、クリチバに感銘を受けているようで、いろいろと都市の鍼治療をされたい意向を持っているようである。どれくらい、私が貢献できるか、多少自信がないが、うまく私の考えや意図を先方に伝えられるような説明資料を作成しなくてはならない。
6月25日
水彩フェスティバルの第一回委員会が江東区の防災センターで開催される。ゼミの清水、丸茂と参加する。服部ゼミを比較的、快く迎え入れてくれているようだ。こちらも、その期待に応える活動をしっかりとしなくては。
6月23日
ゼミでフットサルの練習をする。しかし、足が痛くてほとんどジョギングもできない。残念だ。
6月22日
ヘンリー・ソローの『森の生活』から。
「人間にとって必要なあらゆる労働を計画的に避けることによって、ほしくてしょうがない余暇を手に入れた学生は、それだけが余暇を有益なものにできる経験を自分から奪い取り、結果として、下劣で無益な余暇を手にすることになるのだ」
「社会がこの高価なゲームで学生を支えている間に、人生をはじめから終わりまで真剣に生きるべきだといいたいのだ。若者にとって、生活の実験をしてみる以上に生きることを学べるものがあるだろうか?」
「ぼくらの大学では、貧しい学生でさえただ政治経済学だけを学び、教えられるけれど、哲学と同義の生活の経済学はちゃんと教えもしない。そうして学生はアダム・スミスやリカードやセーを読む一方で、父親に取り返しのつかないほどの負債を負わせているのだ」
いろいろと含蓄深い。しかし、今日は久しぶりに講義で失敗した。パワーポイントの数式を間違えて書いていたのだが、その数式が正しいと思い、図の説明を怠った。図の数値も間違えていると思ったのだが、実は正しかったのである。その結果、極めて分かりにくい講義をしてしまった。大学の講義の内容の意義は考えるべきだが、今日はその最低限のレベルをクリアできなかった。学生にはすまないことをした。コンピューターとプロジェクターの相性が悪く、時間を随分と食ったので、急いで講義内容を終わらせたかったこともあったが、早く飛ばしてやっても学生に内容を伝えられなければ無意味である。来週もまた、正しい数式で説明を繰り返すべきであろう。急がば回れ、である。まあ、これも昨日のクリスティアナ・アギレラのコンサートでハイになったことが遠因かもしれない。
6月21日
クリスティアナ・アギレラのコンサートにゼミ生3名と行く。武道館である。クリスティアナ・アギレラは3年前に東京フォーラムでコンサートをやっていたが、その時はチケットを取らなかった。今回は、よりビッグになっての再来日である。あの驚異的な歌唱力を是非とも、生で聴いてみたかったのが、チケットを取った理由である。そして、実際、聴くクリスティナ・アギレラの歌は度肝を抜く迫力であった。少なくとも、私が生で聴いた女性ボーカリストは断トツの凄さである。多くの反論を受けることを覚悟していうと、ジャニス・ジョップリンをも上回る凄さなのではないか、と考える。人間業ではない。匹敵するのは、アレサ・フランクリンとかエラ・フィッツジェラルドぐらいではないだろうか。ビューティフルなどの歌い上げは思わず鳥肌が立つほど凄まじい。特に、しかし感銘を受けたのは、ダーティ、ビューティフル、ファイターといったストリップドの歌が多かった。この時のクリスティナ・アギレラは、アイドルとしてのイメージを払拭し、いじめられてきた過去を乗り越えるために、極めて攻撃的な曲を多く発表する。その攻撃力をまとった時のクリスティナは神々しい。
コンサートには女性客が目立った。クリスティナは、まったくか弱さを感じさせず、逞しい強い女性のオーラを発散していた。この強さ、暴力やいじめに打ち克った芯の強さ。ここらへんが女性ファンに大きくアピールするところなのではないだろうか。身体は華奢なのだが、グラマラスな雰囲気を漂わせている。そして、投影された映像でみるクリスティナは全然、美人ではなかった。これも驚きである。とはいえ、私は結構、ファンになった。ちょっと衝撃的なコンサートであり、楽曲はそれほど趣味ではない私でも大いに満足させられた。
その後、学生達を連れてトゥインズ・バーに行く。ゆっちゃんもアギレラはジャニス・ジョップリンより歌が凄い、と言っていた。さすが元ドラマーだけある。
6月17日
リーブス先生と学生20名と松戸市の常盤平にフィールドスタディへ行く。常盤平は私は初めてであった。リーブス先生は、この昭和35年から入居が開始された4835戸数の住宅公団が開発した団地を非常に高く評価している。素晴らしい都市計画の成果であると力説する。実際、訪れると、いやはや「日本に都市計画がない」などととても言えないクオリティの高い住宅団地に大いなる感銘を受ける。リーブス先生は東京大学の都市工学部でも講義を持っているのだが、西村先生を除くと、ほとんどの学生が常盤平を知らないそうである。皆、常盤台と混同するようだ。しかし、これらの学生のことを非難できない。恥ずかしいことに、私もこの団地の存在こそは知っていたが、実際に訪れたのは初めてだし、それまで訪れようと思ったこともなかったからだ。リーブス先生は、以前東京芸大にいた時に新松戸に住んでいた。そこで発作が起き、近くの病院に救急車で運ばれたことがあったのだが、その病院がこの常盤平団地のすぐそばにあった。それで、この団地のことを知ったそうである。そして、この団地を歩き、大いなる感動を受けたそうだ。常盤平団地は最近だと孤独死で知られている。一人住まいの高齢者が亡くなって、数ヶ月も知られずに放っておかれてしまうことが少なくないそうだ。しかし、一方でこの団地はモータリゼーションが進展する以前に計画されたこともあり、高齢者が住むには非常にいい環境を有している。大いなる可能性を有した団地であり、しっかりとした将来展望をもつことが望まれる。
6月16日
留学希望者の面接試験をする。非常に優秀な学生達で、わざわざ朝から戸塚に行ったがまったく苦痛を感じなかった。午後は次女をピアノのレッスンに連れて行き、帰りに新宿の伊勢丹による。デパ地下の改装が終わったのだが、私が大贔屓にしているアンデルセンが、セルフサービスでなくなった。いちいち店員にパンを注文しなくてはならないのだが、客が多くてどうやって注文すればいいか、そのタイミングを取るのが難しい。しかも品数も減っている。私が非常に愛していたクイニーアマンがなくなった!新宿の伊勢丹のアンデルセンは数多くあるアンデルセンの中でも最も美味しいと評価していたのだが、この注文の変更は耐え難い!結局、買わずに帰った。アンデルセンでは私以外にも文句を言っていたおばさんが複数いた(おじさんで文句を言うのは私くらいか。まあ、私は極めておばさん的性格の持ち主だからな)。これからは、新宿店に比べると今一つであった渋谷店で買うことにしよう。しかし、伊勢丹の改装は、非常に空間的にはお洒落になったが買い物はしにくくなっている。おそらく、デパ地下としての売上げも減るような気がする。少なくとも観光客ではない私はめったに足を運ばなくなる気がする。少なくとも新宿三丁目でわざわざ降りて買うといったことは昔はよくしていたが、これからは相当減ると思われる。
6月10日
夕張では石炭博物館や鹿鳴館を訪れた。昼食はカレーそばを食す。保育園に行く。日曜だが幸い、保育士がいたのでいろいろと話を聞くことができた。縮小都市において問題となるのは小学校や幼稚園、保育園などである。児童が少なくなるので、統廃合を図らなくてはならないのだが、子供達の通学距離が長くなるために、どのように統廃合するかは大きな問題である。誰も得しないが、誰かは絶対損をする。これはドイツの縮小都市アイゼンヒュッテンシュタットでも大きな問題となっており、悩ましい。この保育園でも児童数は減少している傾向にあるそうだ。帰りがけに夕張メロンを道路脇で売っていた店に入り、購入する。1200円と1900円のものだが、結構熟れていて強烈な匂いがする。どうも、夕張メロン農家は、今回の自治体の財政破綻問題などどこ吹く風という感じであるそうだ。夕張メロン農家はどこもしっかりと稼いでいるようで、改めて、自治体に依存しないで自立して自分の食い扶持を確保しておく重要性を知る。ちなみに千歳空港では2玉で10000円とかで販売していたが、どちらも私が購入したものよりも小さめであった。夕張メロンの値段は熟れていると安くなるそうなので、値段が高ければ美味しい訳ではないようだ。私が購入したメロンは二つとも相当美味しかった。ただし、食べるのを1日遅らせたらもうアウトだったかもしれない。
6月9日
午前中は次女の幼稚園の父親参観日に出席する。本当は夕張のシンポジウムに行くべきなのだが、次女も年長で最後の父親参観日なので、こちらを優先する。しかし、次女は友達と遊んでいて、あまり私と工作をしたりする気はなかった。それはそれで親離れができていて頼もしい。その後、自動車で羽田空港まで行く。わずか50分で着いた。早い!まあ、土曜日だということもあるが、これは電車よりは遙かに早い。空港そばの駐車場に停車させ、羽田から千歳空港まで飛ぶ。駐車場代が高いが、まあタクシーで往復するよりかは安い。もちろん、電車よりは遙かに高い。千歳空港から夕張までは電車で行く。千歳空港から一駅行った南千歳で乗り換え、そこから新夕張まで行く。新夕張では1時間近く待たされるので、周辺をぶらつく。街道沿いにあるセブン・イレブンにだけ人が集まっていた。この町で唯一、活気がみられるのは街道を往来する自動車である。しかし、すぐそばで高速道路の工事が行われていたので、この唯一活気を生み出している自動車の往来も近い、将来消えてなくなるであろう。ドライブインもおそらく失業し、この町はさらに死んだようになるのだろうか。
夕張線というローカル線に乗って夕張まで行く。なかなかこの21世紀になっても、ローカル色が多少は残っている。中学時代か高校時代にローカル線に結構、はまった。当時、花輪線や飯田線などを乗りに行ったものである。飯田線では、一人旅行であったと思うが、車窓からみる日の出に感動したことを覚えている。当時は、ローカル線を旅すると、その土地の風土に接することができて、旅情溢れていてわくわくした。このような旅情は、高速道路が整備され、イオンがあちらこちらに出来たことによって蒸発してしまった。日本の果てまでいっても、旅情を感じることはもはや不可能に近い。しかし、この夕張線ではわずかではあるが、多少、その旅情を感じさせるようなものが残っていた。と思いつつ終着駅の夕張駅に着いて愕然とした。駅前には、巨大な建造物が屹立していたからである。その建造物は、巨大な現代建築で風情も糞もない。こんなことをしているから、町が財政危機に陥るのだ!と憤怒する。
6月8日
今日は慶應大学の佐藤和ゼミとの合同ゼミを行った。佐藤ゼミとの合同ゼミはもう3年続いている。春は服部ゼミ、秋は佐藤ゼミが幹事をするようなスタイルも定着しつつある。まあ、いろいろと大学外の交流をすることは有益なのではないだろうか。川崎の花王工場へ見学に行き、その後、川崎大師に寄って、川崎の居酒屋で飲み会をする。佐藤ゼミは40名の大所帯なので、うちのゼミと合わせると総勢60名になる。60名の宴会は相当の規模だ。迫力がある。うちのゼミの笹本が仕切ったのだが、なかなかいい宴会だったと思う。二次会は学生を置いて佐藤先生と銀座のパナシェに久しぶりというか3年ぶりくらいに行く。さちさんは相変わらず元気で安心する。年をとるごとにジャズが心に染みるようになってきている。
6月6日
美術評論家の清水敏男氏のオフィスを訪ねる。いろいろと文化や芸術の大切さについてお話をうかがうということが目的だ。地方文化の継承、地方文化の多様性を維持することの重要さについて、尋ねたが、清水さんは私が考えているほど、その重要性は認識されていないようであった。むしろ、忘れっぽい日本人の強靱さ、という点を指摘された。私とは違う考えで大変、勉強になる。今回の清水さんのお話の内容は、ハビタット通信に掲載される予定である。ゼミ生も向井、笠原、清水、坂井が参加した。
6月5日
ゼミの三期生の金丸が研究室に遊びに来る。すっかり社会人になっていて頼もしい限りだ。目黒の鳥芳に食事に行く。フカキョンも来たことがあるとの噂がある焼鳥屋の名店である。7時30分だったのでちょっと嫌な予感がしたが適中して、既に満員であった。ところが、なんと鳥芳は2号店が真向かいに開業していた。ということで、2号店に行き焼き鳥を食べる。金丸といろいろとゼミのことや私の会社時代の話をする。話をしつつ、自分がろくでもない会社員であったことを思い出す。特に新人の1年目は随分と傍若無人に振る舞ったことを思い出した。しかし、ここまで無茶苦茶な経験をしたことは、大学の教員としては大いなる財産である。というのは社会人の経験としての、学生達に伝えられるネタを盛りだくさんに持っているからである。途中、ゼミの3年生の中も合流する。いろいろと有意義な話ができて、楽しい時間を過ごすことができた。
6月3日
仕事漬け。腰を痛めたので、自宅の椅子に座れないので研究室で週末は働く。研究室の椅子はハーマン・ミラーなので快適だ。退職金でバングス&オルフソンのCDプレイヤーとハーマン・ミラーの椅子を買ったのである。出版社が今度、出版予定の単行本の原稿に赤を入れて戻してくれたので終日チェックを続ける。それにしても、現在仕事をさせてもらっている出版社は実に素晴らしい。コメントや指摘が実に鋭く、プロである。大変、有難い。これに比べると、最近本を出した朝日新聞社とか鹿島出版会とかはろくでもない。温厚に仕事をしようとこちらが努力をしても怒髪天を衝くような状況に持って行く。朝日新聞社とかは期待をしていたから、本当にがっかりだ。あの編集能力で本当に天下の朝日新聞社かとつくづく呆れた。とか、この編集者はたまに私のホームページをチェックしているようなので、この文章が後日、削られたらクレームが入ったと理解してください。鹿島出版会の方は鹿島建設の出向者が担当であり、むしろ鹿島出版会の方も持てあましていたかのような人材だったようなので、これは過去のことで水に流す。彼は、私が非常に信頼する元部下の友人の紹介ということで、私も非常に脇が甘く対応したので酷い目にあった。本も売れていないし、大変だ。まあ、いい。そうそう、人生は円滑にいかない。
6月1日
リーブス先生の講義で品川宿へとフィールドスタディに出かける。リーブス先生はばしばしと、品川宿に残るヒントから昔の品川宿の姿を再現する。本当、勉強になるなあ。また、大正時代の建築物をみつけて、これは素晴らしい宝である!と断言した。そうか。リーブス先生の洞察力のある目でみると、急にうらぶれた汚い商店街が、活き活きとしたこの土地の風土を語る貴重なものへと変身する。このような洞察力がないとファスト風土化を推進させてしまうのである。ファスト風土を防ぐためにはリーブス先生が必要だ!とはいえ、先日大牟田に行ったが、こういうことをいっても、きれい事とか言われて片付けられちゃうんだよね。雇用創出が最優先ということで、皆、思考停止に陥ってしまう。その気持ちは分かるが、急がば回れ、なんだけど。しかし、まあ東京に住んでいるものが言っても説得力はないのか。
その後、リーブス先生と別れ、ゼミの学生数人と東品川の屋台村に入る。金曜の夜ということもあり多くの人で賑わっていた。まあ、そんなにもよくはないが、品川駅の港南口の飲み屋に比べれば100倍ましだ。