2004年9月29日

この頃、本当に批判ばかり書いている気がする。これでは、読んでいただいている方も多少不愉快かもしれない。今日も実は批判したいことがあったのだが、それは書かないことにして、最近快哉を叫びたくなることについて。それはイチローの年間安打記録についてである。イチローは筆舌に尽くしがたいほどの偉大な野球人であることを遅まきながら心底思い知らされた。何しろ、球聖タイコッブや史上最強の右打者であるロジャー・ホーンスビーの記録を抜いたのである。しかも、その間ピート・ローズ、トニー・グィン、テッド・ウィリアムス、ウェイド・ボッグス、ロッド・カリューなどの安打製造器が何人も超えることができなかった記録をいともたやすく抜いてしまったのである。私は、あまりの歴史的凄さに、大した野球ファンではないとこの間、このダイアリーに書いたにもかかわらず、思わずシアトルに飛んで歴史的瞬間を目撃しようかとスケジュールを確認したほど興奮しているのである。残念ながら、講義が始まった今、私にはそのような余裕がなかったのだが、これは本当に凄いことである。

この間、このダイアリーで野球を見ても退屈であるなどと書いてしまったが、イチローの偉業への挑戦で、私の心の奥底に沈殿していた野球ファン熱がまたくすぶり始めている。こんなことを書くと何だが、私は小学校4年生からロスアンジェルスの郊外のサウスパサデナというところで暮らしており、現地校で日本人ということで人種差別的いじめを受けていた。しかし小学校6年生の時にリトル・リーグで野球を始めてから状況は一変する。私の入っていたリトル・リーグは1軍と2軍とに分かれていて、その選抜試験で私は1軍のチームに入ることができた。1軍は小学校でも少数派のエリートで、そこで活躍したことによって、いきなりいじめがなくなり、女の子にも好かれるようになったという経験をしたことがある。その時、アメリカは実力社会なのだ、ということを身をもって知ったわけであるが、いじめっ子であった私を救ってくれたのが野球であった。従って、私はよくドジャース・スタジアムに行って外野席で試合を見たり、また試合に行けない時はラジオ中継に聞き入っていたほどの野球ファンであった。当時のナショナル・リーグはドジャースとレッズの2強時代であって、ナショナル・リーグのウエスタン・コンフェレンスの一位争いは本当に興奮して見ていたことをイチローの活躍が思い出させてくれた。ドジャースは一番二塁手デイビー・ロペス、二番遊撃手ビル・ラッセル、三番三塁手ロン・セイ、四番一塁手スティーブ・ガービーといった強烈な内野手カルテットが一番から四番まで並び、五番右翼手レジー・スミス、六番中堅手ダスティー・ベーカー、七番の左翼手が誰だか思い出せないのだが(あまり固定していなかったと思われる)、八番はキャッチャーのスティーブ・イエーガーというラインアップであった。ピッチャーもダン・サットンを初めとして、トミー・ジョーンズ、バート・フートンとかが先発陣を努めていた。ロン・セイ、ステイーブ・ガービー、レジー・スミス、ダスティー・ベーカーで確か30本塁打以上を4人出した史上初めてのチームになったのもこの頃だと思う(もしかしたらレジー・スミスが出てリック・マンデーで達成していたかもしれない。多少記憶が曖昧である)。ともかく、30年近く経ってもオーダーをほぼ記憶している自分に驚く。レッズもビッグ・レッズ・マシーンと呼ばれる超絶凄まじいチームで、ピート・ローズ、デーブ・コンセプシオン、ジョー・モーガン、ジョージ・フォスター、ケン・グリッフィー(ジュニアのお父さん)、ジョニー・ベンチ、トニー・ペレズ、シーザー・ジェロニモという今の巨人も驚くほどの完璧に近いオーダーを組んでいた。何しろ8人中7人がオールスターに選ばれたくらいのチームだったのである。それだけ敵方としても強烈な魅力を放っていたということであろう。74年、77年、78年はドジャースがナショナル・リーグ・チャンピオンになるがワールド・チャンピオンにはなれなかった。レッズは75年と76年にワールド・チャンピオンに輝いている。私がロスアンジェルスにいたのは丁度73年から76年である。ドジャース・ファンではあったが、レッズがとてつもなく強い時期に野球に惹かれていたのである。特にレッズとレッドソックスとのワールド・シリーズには興奮したことを今更ながら思い出した。こんな昔を回顧させてくれたのはイチローのお陰である。私と野球とが極めていい関係であった時代があったことを思い出させてくれた。イチローが大リーグの年間安打記録を更新することを切に願っている。しかし、彼のボキャ貧はどうにかならないのか。

2004年9月25日

この頃、批判が多い気がする。年をとったせいだろうか。ということで今日も苦言。ライブドアと楽天が新球団の本拠地を仙台にしようとしている。しかし、これは経営的には相当リスクを背負うことを認識していないのではないか。仙台は政令指定都市であるが、周辺の市町村を合併した底上げ政令指定都市であり、そのマーケット規模は新潟、熊本程度である。私は以前、何度か縁あって仙台の仕事をしたことがあり、マーケット調査もしたので、仙台の市場力の弱さをよく知っているのだ。既に合併できるところはしてしまったので、大都市圏の規模が極めて小さい。強いて言えば西に隣接している山形市が25万人程度いる。しかし、25万人って目黒区以下の規模である。例えば市レベルでは同程度の人口規模の福岡市に比べれば3分の1以下程度の市場しかない。従って、福岡には劇団四季の常設劇場はできるが仙台ではまず出来ない。劇団四季的に仙台に魅力があるとすれば、東京から時間距離が短いので東京圏を市場に若干取り入れることができることだが、劇団四季とプロ野球とではマーケットの広域性(ファンという観点ではなく試合、劇に足を運ぶという観点)にあまりにも違いがある。コンサートも仙台の集客力は弱く、福岡などに比べて遙かに魅力が少ない。これは人口規模の差なのである。統計上の数字でだまされてはいけない。札幌は結構頑張っているが、あれは札幌をマーケットにしたのではなく、北海道にしたことが大きな勝因である。北海道日本ハムファイターズとして、札幌日本ハムファイターズにしなかったことは賢明であった。しかし、北海道ではなくて東北をチームの冠につけてもインパクトは弱い。JRだって東北本線という名称が恥ずかしいということで宇都宮線に変更したくらいだ。地域的アイデンティティに欠けるし、江戸時代は伊達藩、盛岡藩、最上藩など独自の地域文化を築いてきた歴史もあり、仙台に本拠があるからといって、東北の人が仙台のチームを応援するとはとても思えない。盛岡の人は相変わらず巨人を応援しているような気がする。確かに仙台は東北地方の拠点都市としての位置づけを高めてはいるが、福岡のようなハブ的求心性はない。なぜなら、あと2時間電車に乗れば東京に来てしまうからである。多少近いからといって途中下車して、大した魅力もない仙台で降りようとは八戸の人や秋田の人が思うであろうか。都市ヒエラルキー的にみて仙台が都市圏として組み入れられるのは東は石巻、北は古川(といっても人口10万人にも及びませんが)、西は山形程度であり、南の方にある都市はほとんど東京の方を向いてしまっている。

以上のように、ライブドアと楽天が仙台に注目しているのは、地域マーケット戦略をしっかりと理解していないからであると推察される。もちろん、彼らがマーケット戦略に長けてない訳ではまったくない。というか極めてマーケット戦略に秀でた会社であるためにIT戦国時代を勝ち残ったのであろう。ただし、IT企業のようにネットワークで空間をユビキュタス化したビジネスを展開しているからか、地域的な地に足の着いたマーケティングはあまり分かっていないと思われるのである。私に仕事をくれれば、その点をしっかりと説明できるのだが。

2004年9月23日

三浦展氏の新著「ファスト風土化する日本」を読む。素晴らしき著書である。現代の日本社会の病巣を最も的確に鋭く指摘した、まさに名医のような見立て。何が日本をおかしく、奇妙な方向に行かせているのか。それに対して曖昧な不安を持っている人は少なくないと思うが、彼の突出した言語能力によって、その問題が理路整然と説明されている。あとは方策だけであるのだが、本当に難しいのは、今のように日本を駄目にした土木行政、建築家達、不動産業サラリーマン、土建政治家に投票する人達等に、三浦氏が指摘している問題点をきっちりと理解させることである。ここに大きな「バカの壁」が存在しており、私の経験上、東大や京大を卒業した官僚の人達にこそ高い「バカの壁」を持っている人が多く、これらの人達は私の意見とかもバカだと思って相手にしないのである。そして、そのような人達がまた日本をさらにおかしくさせていく。

2004年9月21日

今日から関東学院大学で非常勤講師の講義が始まる。「エコデザイン」という講義だが、この講義名は非常に気に入っていない。本来的にはエコロジカル・デザインであるべきであり、何かこうエコデザインというと、いかにも流行りモノというか表層的な印象を受ける。非常勤講師を受ける際に、名称を変更して欲しいとお願いしたが、その願いはかなわなかった。学生は70名ほどいて、結構多いので驚いた。関東学院大学の講師手当は実は恐ろしく安い。この講師手当で70名の学生を教えさせるのだからぼろ儲けであろう。しかも教務部の対応は、宮城大学はもちろん、明治学院大学よりもはるかにひどい。コピーを70枚依頼するだけで結構な抵抗を受けた。いろいろな大学で教えることで視野も広がる。

夕方はテンポロジー研究会に出席する。長崎市の方が参加して、長崎の観光に関しての助言をテンポロジー研究会に求めた。ソリューションX代表の片岡さんなども出席していたので、本来なら特上寿司でも出すべきような素晴らしい知恵がぽんぽんと出ていた。長崎市の作成した観光パンフレットは橋や道路、エレベーターを自慢するという、まったく観光客のニーズを把握していないような内容のものであった。あれは観光客を引き付けるためではなく、土木事業を自慢するためのものであり、おそらくそれをつくった役人は道路とか都市計画とか、何しろ土木もしくは建築出身であろうと私は推測した。

しかし、これだけ海外の観光地に人々が行くようになって、誰が道路や橋などを見にわざわざ長崎に行くものか。役所はマーケットの恐ろしさを知らないし、いくら売れないものをつくっても首にならない。下らないマーケット調査などはやっているようだが、今更ニーズに合わせるような小手先のことをしても長崎には人は来ない。長崎のコンテンツがない訳では決してない。軍艦島、浦上天主堂、原爆記念塔。長崎は強力な地霊が存在する。そこを人々に訴えればいいのだ。しかし、それらは長崎市作成のパンフレットには記されていない。ただし地霊が存在していても、それでも限りある時間、お金を費やしてまで長崎には行かない。海外にまで観光対象が広がった現在において、長崎の魅力など所詮たかが知れている。それでも、そのような長崎に引き付けられるマーケットがないわけではない。それは外国人である。そして外国人を対象とすれば、従来長崎が観光資源であると認識していた異国情緒溢れるものが観光資源ではなくなり、そうではないより日本的なものが観光資源になる。道路をつくり、金太郎飴のようなショッピング・センター、コンビニで風土的景観を喪失させて、さらに風土性のないユビキュタスな観光資源を人工的に人を呼び込もうと思ってもうまくいくはずがない。オランダを体験したければ、オランダに行く時代だ。人を呼び込もう観光地として生き延びようとするなら抜本的な意識変革が必要となるであろう。現代の海外をも含めた観光市場の中で日本人にとって長崎はほとんど魅力を有していない。その自覚をしてから観光戦略を考えるべきであろう。

2004年9月16日

ニューヨークから2週間の講義を終え、帰路に着く。今回は学生21名ということもあり、また、私があまり学生との距離を縮めることを怠ったためか、大いに疲弊した。学生達もどの程度、学ぶことができたのか。最大限の効果は出なかったような印象を覚える。しかし、一部の学生は非常に大きな刺激を得たのではと推察している。それはともかく、ニューヨークを訪れると最近はやるせない気持ちが胸でいっぱいになる。それは、ニューヨークというアメリカでも最も都市らしい都市において、将来を展望することが出来ないからである。この都市がサステイナブルであるとはどうしても思えないのだ。

ニューヨークは既にゴミをオハイオ州にまで捨てるような状況になっている。昔より治安ははるかによくなっており、活力に溢れてはいるが、どうもひたすら消費的で、周辺の環境、人材、文化、能力をひたすら吸収することで、そして不要物を外部に押しつけることで成立している。岩盤にできたマンハッタンは河川がないことなどを含めて極めて人工的である。そう思うとニューヨークで最も好きな場所の一つであるセントラル・パークでさえ、その長方形の形状等が幾何学的で辟易としてしまう。観光都市としての機能が強化されたこともあり、より消費主義的、マーケティングによって支配されている印象を以前より受ける。それは、例えばサンフランシスコのように周囲を大自然のエコシステムという揺りかごによって護られている都市と大きく異なる印象を私に与えるのである。勿論、サンフランシスコがサステイナブルかどうかは難しいところだが、その大自然の懐の大きさが、まだまだ先はあるという曖昧な希望を与えてくれる。そういった点でモハブ砂漠にまで都市域を拡張させたロスアンジェルス、ラスベガスなども暗澹たる気持ちになる。また、東京も空から見下ろすと本当に開発の余地がないほど開発尽くされてしまって将来はもうないと感じさせる。数少ない希望は三浦半島の中央にわずかに残る緑地や河川沿いなどほんのわずかである。自然と共生できない都市は、その不足分を外部から補わなくては維持できない。そして外部の資源は無尽蔵ではない。しっかりとしたエコシステムを再構築することなくして都市の将来は危うい。そういった点でニューヨークは本当、暗澹たる気持ちにさせられる。東京もひどいがまだ、自然の生命力が強い分、救われる。

2004年9月14日

今日はブルックリン・カレッジでシャロン・ズーキンの講義を学生達とともに聴講する。ワールド・トレード・センター跡地の意味に関しての講義で、私は鳥肌が立つような知的興奮を覚えたが学生の中には睡魔に負けるものもいた。もったいない話である。ワールド・トレード・センターの特徴としてシャロンはユニークさ、CBDという立地、アメリカ経済の覇権の象徴、再開発地としての利権の錯綜、といった点を挙げていた。また、我々がその場所をグランド・ゼロと言ったことに対して、ニューヨーカーは誰もがその言葉を使わないことを指摘し(使う人はもぐりである)、その理由を学生達と議論した。ニューヨーカーが使わないのは、記憶、恐れ、開発地であることの3点を挙げていた。ニューヨークの人達にとって、そこはゼロではなく、多くの記憶、恐怖が堆積されている場所であり、また、将来的には変化、成長していく場所であるからだ。学生達の闊達な議論には感銘を受けた。

ただし、我々明治学院大学の学生の異常なまでのブランド漁りが、彼女の消費的行動の研究テーマからしても強い関心を示すのではと期待したが、あまり関心をもたなかった。私も今回はじめて知ったことだが、19や20そこらの若者がヴィトンやコーチ、ティファニー、プラダを買い漁る光景は異常であり、極めて先端的な消費現象であり、分析に値する。これは若者達がマーケティング戦略の犠牲者であるといった紋切り型の分析ではなく、より深い洞察が必要であると思われ、シャロンが関心を持たないなら、これから私自身がちょっと研究したいと考えているのである。

2004年9月12日

しばらくまたご無沙汰してしまった。というのは理由がある。それは9月3日から学生21名を引き連れてアメリカ東海岸にきているからであり、そのあまりの忙しさに振り回されていたからである。9月3日から11日まではメリーランド大学に滞在し、同大学のランドスケープの学部生達と明治学院大学の学生達はともにお互いの文化を知り、そしてその知るというプロセスを通じて自分の世界を広げるために研究課題を与えられて作業をした。10日はエアゾーンという巨大な気球をお互いに協力しあい作成して、研究成果を発表したのである。その間、私はシンポジウムにて7日、8日と発表し、目が回るような忙しさであった。4日のボルティモア視察、9日のグリーンベルト・タウン視察と是非とも書きたいことがあったのだが、後手に回ってしまった。11日にはグレイハウンドにてニューヨークへ移動。ニューヨークではハビタット・ホテルにて滞在する。11日と12日は休日なので、学生と夜にはシカゴ、レントとミュージカルを見に行く。学生達は自由時間を与えると、ブランド買いに走る傾向が強い。ちょっと心配である。

2004年8月31日

ゼミ生がいいと勧めるので「ナナ」を読む。田舎から上京した若者がバンドで一旗上げるという矢沢永吉ちっくなアナログなサクセス・ストーリーであり、このようなストーリーが何故受けるのかは正直よく分からない。主人公は大崎ナナと小松奈々という二人のナナであり、大崎ナナはロック・バンドのカリスマ性溢れるボーカリストでセックス・ピストルズ系の音楽が好きという設定。もう一人の小松奈々は自己批判は厳しいが、ひたすら自己中心的にいい子を目指すという相反する性格を併せ持つ、シンデレラ・コンプレックスの強い浮気性の田舎娘であり、周囲の人々とおそらく多くの読者からは愛されている。このような漫画が受けていることを分析できない自分も情けないが、なぜ自分がこの漫画を受け付けないかということくらいは分析できる。それは、あまりにもご都合主義であり、女性漫画特有のきらびやかさの虚構性を受け付けられないほど私が親爺化したことと、昔ロックバンドでライブハウスに出演していた時、タイバンでたまに出てくる耽美系のパンクバンドを蛇蝎のごとく嫌っていたからである。私はエアロスミスとかZZトップ、オールマンブラザースなどのアメリカン・ハードロックを愛していたのである。したがって、ナナに出てくるバンドキャラはほとんど昔の私の敵であったし、今でも生理的には受け付けないからである。同じ幸せをひたすら追求するキャラでも、私はそういう点でAC/DCのような野生を有するハッピーマニアの重田加代子の方がずっと好きである。しかし、重田加代子と小松奈々が対決したら、案外小松奈々が勝つような気がする。どちらにしても、結婚してもそれでも幸せを追求しなくてはならない因果を二人とも抱えており、本当21世紀の女性は大変であると同情する。もちろん、そのような女性と生活する男性も大変である。

2004年8月28日

知床で四泊した。ロッジに二泊、民宿に二泊である。民宿は元漁師がやっているということで食事には大いに期待したが、それほど感心しなかった。むしろ、ロッジのバーベキューの方が食材としては新鮮で美味であった。まあ、日本の台所とでもいうべき築地がある東京で生活しているので、ほとんどの美味い魚介類は東京で食することができる。よほど新鮮でなければ、北海道といえども感心することはあまりないのか。それより、民宿が手を抜いているのか。民宿では牡蠣が出てきた。牡蠣はわざわざ厚岸から運んできているそうだ。その理由は「お客さんが欲しがるから」。別にそこで捕れなければ我慢すればいい。そのようなお客さんのニーズに応えることで、逆にユニークさを失っていると思われる。牡蠣は美味しかったが、どうしても食べたいという代物ではない。我々は東京の居酒屋で食事をしているのではなく、知床の羅臼で食事をしているわけなのだから、別にそこで捕れないものを食べても嬉しいとは思わないし、またそのような要望をする客は旅行下手であると思うのである。

2004年8月27日

家族旅行で知床に来ている。そこで驚いたことは、道路が非常に立派であることだ。自動車王国であるアメリカの山間部よりはるかに立派であり、高規格である。アメリカより高規格ということはおそらく世界で最も高規格であるということであろうから、日本は世界でも最も道路が立派な国になっていたということである。東京で生活していると気づかなかったのだが、いつの間にか日本は道路大国になっていたのである。

知床の羅臼側の最北端に相泊温泉という海岸に湧き出ている露天温泉がある。わくわくして訪れたのだが、湯船にたばこの吸い殻がたくさん浮いており、そのあまりの汚さに入ることを躊躇した。たいへん残念である。私はほとんど吸わないが禁煙している訳ではないので、嫌煙運動のヒステリーさには辟易している。しかし、その私でもこのスモーカーのマナーの悪さには呆れてしまった。このような行為は、私のような喫煙理解者をも敵に回すような破廉恥なものである。がっかりである。

2004年8月25日

家族旅行できた屈斜路湖からカヌーで釧路川の源流部を下る。流行りのエコ・ツアーである。それなりに楽しく、自然学習の効果はあるのだが、大自然を満喫できたかというと程遠い。それなりに自然であるのだが、人間の手垢がここでも結構ついている。ブラジルの大西洋岸のジャングルや、バージン諸島のセント・ジョーンズ島、アラスカのデナリ国立公園、イエローストーン国立公園やグレイシャー国立公園といったアメリカの国立公園などの大自然とは比較にならない。そういった点から感心はするが感動はあまりしない。

2004年8月21日

オリンピックでの日本勢の活躍が素晴らしい。なぜ、こんなに突然強くなったのか。ともかく目標をたてて、それを実現させるというプロセスは心を打たれる。大学で教えていると、学生達が将来の夢や目標意識を持っていないことが多くて寂しい気分になる。まあ、私も学生時代には大した夢とかは持っていなかったが、その私と比べても目標意識が希薄である。これは時代の雰囲気がそうさせているのかもしれないが、目標が持ちにくい時代であるからこそ、オリンピックという目標が大きな意味を持つのではないだろうか。逆にオリンピックだけでなくワールドカップや日本リーグなど他に活躍の場がある男子サッカーや女子バレーボールが今ひとつ勝てないのはそのようなことと関係があるのかもしれない。

2004年8月14日

長女とハリーポッター、アズカバンの囚人を見に行く。私は小説を読んでいたので、驚きはしなかったが、長女はあの真犯人が分かるシーンでは相当驚いたようである。あの場面は、本当にあっと驚くというか、やられたと小説を読んでいて思わされたが、映画でも結構、そこはうまく表現できていたと思う。

2004年8月13日

ニューヨーク最後の日である。昨晩、ほとんど一睡も出来なかったので、エコノミーであったのだがマイレージを使ってビジネスクラスに乗る。これが大当たりであった。全日空ではニューヨーク、ロンドン、フランクフルト便は新しい機種を導入しているのだが、ほとんどまっすぐの状況、すなわち身体を曲げなくて寝ることができる。もちろん、ブリティッシュ・エアウェイのビジネスのように水平に横になれることに比べれば居心地が悪いが従来に比べれば格段の進歩である。唯一気になる点は寝ている間に徐々にずり落ちてしまうことだが、まあ贅沢は言えまい。お陰で熟睡することができた。

2004年8月12日

ハーレムに行き、シルビアというレストランでソール・フードを食べる。私は結構、ケンタッキー・フライド・チキンをはじめとしてソール・フードが好きであるので本場で食べることを結構楽しみにしていた。まあ、驚くほど美味しくはなかったが納得ができた。ハーレムはニューヨークという都市の中で特別なエネルギーに満ちた場所であり、私のイメージするアメリカの都市とは大きく一線を画している。一つの独立都市といっていいほど独特なコミュニティ性を有している。これは中華街などとも違うエネルギーである。というか中華街は見慣れているので、私があまり感じないだけなのかもしれない。しかしアフリカ系アメリカ人の文化、価値観がはち切れんばかりに発散しており、そのパワーに圧倒される。

2004年8月11日

今日は特に打ち合わせもないので、ロング・アイランドのレビット・タウンをみるためにロングアイランド鉄道に乗り、バビロンという街へ行った。レビット・タウンが存在する場所はナソー郡とサフォーク郡であるが、どこに行けば典型的なレビット・タウンがあるかは知らなかった。地図をみてけったいな名前であったためにバビロンに向かった。ジャマイカからバビロン(こう書くと、とてもアメリカではないようだが)に向かう列車からの車窓は、まさに映画「アメリカン・ビューティ」の郊外世界であった。同じような家が立ちならび、いかにも中流家庭の生活の舞台という感じである。バビロンは駅前に商店街が続き、どちらかというとアメリカの自動車中心の郊外というよりかはイギリスの郊外の街並みのようであった。商店街は週日であるにも関わらず結構人がいて、西海岸や南部の郊外に比べれば、はるかにヒューマン・スケールのどこか懐かしさを覚える空間であった。

夕方はメッツの試合を見に行った。松井稼頭央は怪我で出場せず。隣の野球通のような夫婦と思しきカップルに松井の評判を聞くと、松井秀喜の方がはるかに評価が高いとのこと。試合は雨が降り続いていたこともあり、途中で雨天中止。しかし、久しぶりに野球の試合を見て思ったのだが、私はこのスローテンポに退屈してしまうのであった。どうもいらいらしてしょうがない。

2004年8月10日

昨日からニューヨークに来ている。クィーンのフラッシングを再び訪れる。クィーンのフラッシングは相当規模の大きい中国人街であり、レストランとかも本格的な大衆中華料理が食べられる。郊外でありながら、これだけの移民コミュニティが形成されているのはさすがニューヨークである。郊外は基本的に白人中流階級が都心に有色人種が流入したことから逃げるために形成、拡大していったのだが、有色人種も徐々に郊外にシフトしつつあるというのが、この10年間くらいの流れであるのだが、近郊であるとはいえ、ここまで移民コミュニティをしっかりとつくりあげてしまったのは他都市に先駆けて発展しているニューヨークだからであろう。そういう観点からは、他都市の郊外も白人天国から徐々に有色化していき、その中にはこのフラッシングのように有色人種がテークオーバーするようなケースも出てくると推測される。

午後は時間があまったので念願のマイケル・ムアーの華氏9/11を映画館で見る。素晴らしい作品である。戦争賛成派であった母親がイラク戦争で息子を亡くし、本当の怒りの対象はイラクやテロではなく、ブッシュ政権であることに気づきホワイトハウスに出向くシーンには心が揺さぶられた。ホワイトハウスの前で、ブッシュ支持派のような女性から「あなたの息子の他にも大勢人が死んでいる」、「ブッシュではなくアルカイダを責めろ」などと雑言を浴びるのだが、映画的にはよくぞ言ってくれた、というような絶妙な台詞であった。これはシナリオに書いたらあまりにもあからさまで興ざめになっただろうが、ルポでこのような意見を人に言わせたのは、本当のアメリカの問題が見えてきて素晴らしい効果をもたらしている。この雑言を吐いた女性には助演女優賞を差し上げたい。最後に人々の「無知」がイラク戦争のような悲劇をもたらす、と息子を戦争で亡くした女性の言っていた言葉が非常に説得力に溢れていた。二度と同じ過ちを繰り返さないためにも「無知」を克服しなくてはいけない。また、自分が「無知」であることを自覚し、それを乗り越えることが必要である。小泉首相はこの映画を見ないと言っているそうだが、それは自分が「無知」であることを自覚することが怖いからであろう。無知でなければ、あのようなメチャクチャな政策はそうそう続けられない。

夕方はニューヨークの建築家でありシティ・カレッジ・オブ・ニューヨークでアーバン・デザイン・プログラムの責任者でもあるマイケル・ソーキン氏に取材をする。

2004年8月9日

私の知り合いのアメリカ人の全員がブッシュを蛇蝎のごとく嫌っている。しかし、ブッシュの支持率は依然として高い。これは、私と知り合いになるような人はブッシュを嫌いであり、私と知り合いにならないような人はブッシュを支持しているということである。ここで、私と知り合いにならないようなアメリカ人とはどんな人であろうか。そんなことを考えながら、車を運転していたら共和党支持のパーソナリティが担当するラジオ番組にチャンネルが合わされていた。共和党支持のラジオ・パーソナリティといえばラッシュ・リンボーが有名だが、この番組もリンボーのそれのように、とにかく民主党をこき下ろす話をひたすら続けていた。視聴者参加型なので、視聴者も話をするのだが、イラク戦争の正当性をひたすら主張しているリスナーがいた。その主張は、アメリカ合衆国を攻撃しようとする悪人(Bad Guy)から我々を護るためには、戦争は当たり前である、というものであった。パーソナリティはまさに我が意を得たりという反応をしていたが、そもそも誰がテロ攻撃をしてくるかも不明で(オクラホマのように国外に敵がいる訳ではない)、テロ攻撃の可能性があるというだけでアメリカが攻撃しているイラクの被害者の中には無実の子供などもいることなど全く理解していない、そのくせに主張だけは強烈にするという、チンピラのような論理であった。パーソナリティはしきりに、民主党支持者は大学の先生やジャーナリストであり、彼らがアメリカを駄目にするとも言っていた。大学の先生やジャーナリストはいろいろと知識があり、現政府のプロパガンダにそうそう引っ掛からない。彼らが何故、引っ掛からないのかという点を考察せずに、ただ大学の先生やジャーナリストというグループを一括りにして、政府の都合のいい戦争に突き進むように世論を操作する現政府のやり方とそれに乗っかるジャーナリスト(このパーソナリティからすれば、フォックス・グループの記者等はおそらくジャーナリストではないらしい)に本当に空恐ろしい思いがする。このようなメチャクチャな国が世界一巨大な軍事力を持っているという人類の将来は本当に暗い。そして、私の知り合いは知識人しか良くも悪くもいないというか、知識人としか知り合いになっていない、ということも分かった。それはちょっと寂しい気がしないでもない。

飛行機でデンバーからニューヨークへ移動する。

2004年8月6日

ニューヨークからデンバーへと移動する。デンバーから1時間ほどいった小都市ボルダーに自宅を構えるカール・ワージントン氏に取材をするためである。彼の家に二泊ほど滞在させてもらい、彼に密着して取材をさせていただくことになっている。ワージントン氏はボルダーの有名なグリーンベルトや都心の歩行者専用モールをアメリカの他の都市に先駆けて実現させるマスタープランを策定し、また、デンバーの南部にあるデンバー・テクノロジカル・センターのマスタープランを策定したことで知られる。さらに、現在ではルワンダの首都の都市計画のプロジェクトに取り組もうとしている。今日は取りあえず、彼の事務所に行き、そこで簡単な取材をさせてもらった。

2004年8月5日

今日もシャロン・ズーキンと一緒にニューヨークを廻った。シャロンは待ち合わせの時間に40分遅れてきて、私は場所を間違えたのかと心配したが、グランド・セントラル・ステーションで間違えるわけはないと思い我慢して待っていたおかげでどうにか会うことができた。しかし40分遅れるとは、いかにもシャロンらしい。ちなみにシャロンは結構、サザエさん的なずっこけキャラで、彼女の本を読んで思い浮かべる頭脳明晰の人物とは多少ギャップがある。クィーンズ地区に臨時移転しているMOMAに訪れる。MOMAはゴッホのステイリー・ナイツもモネの睡蓮も展示されていなかったが、それでも展示の充実度に感心する。シャロンの目当てはTall Buildingの展示で、これはこれで私も興味深かった。夜はソーキン事務所で働く日本人2人と酒井詠子さんとリトル・イタリーにあるマレーシア・レストランで食事をする。

2004年8月4日

今日は私が敬愛する社会学者であるシャロン・ズーキンと一緒にニューヨークの街歩きをした。シャロン・ズーキンに説明をしてもらいながらニューヨークを歩くということは、私にとってこのうえのない贅沢である。トリニティー・チャーチで待ち合わせをし、グランド・ゼロ、ワールド・フィナンシャル・センターを視察し、フェリーに乗ってニュージャージー州の対岸にあるホボーケンに行き、ニューヨークに戻ってきて新しくつくられた交通ターミナルを訪問した。その後、シャロンの家で食事をご馳走させてもらった。シャロンは意外にも(失礼)料理が上手で驚いた。シャロンの家はさすが「ロフト・リビング」の著者だけあって、ロフトであった。それは30メートルくらいの縦長の空間であり、三面採光で非常に優れた居住空間であった。特にバスルームは12畳はあると思われ、そこからはローワー・マンハッタンが展望でき、羨ましいの一言に尽きる。

2004年8月1

シェンリンの旦那の22歳の姪のパーティに出席させてもらう。場所はキングス・ファームというニュー・アーバニズムの事例として有名なケントランドのそばにあるコミュニティのホテルであった。彼女を含めて友人達が結構、郊外の産物という感じで興味深かった。姪の友人達との話題は日本の学生とあまり変わらなかったが、皆、映画をすごく多く見ていること、ポップ・ミュージックは共通言語として共有していることなどは判明した。マーロン・ブランドの体重とか、映画俳優、ロック・スターに関してのトリビアな知識には驚かされた。また、70年代とかのクラシック・ロックについての知識も豊富で後付けで随分と勉強している若者が多いことが分かった。レッド・ツエッペリンとかは神格化されている。

その後、ワシントンDCの東側にあるスラム住宅地の再生事業の事例であるスートランド、アナスコシアを訪問する。流れ弾で子供が死亡するといった悲惨な事故が相次いだ地区である。ここは市が問題のある集合住宅を買い取って、新しく作り直すといった方向で対応しようと考えているそうだ。しかし、低所得者を一カ所に追いやるような政策を変えるといった根本的な点に手を入れなくては解決は難しいであろう。

2004年7月31

ワシントンDCの街歩きをする。シルバー・スプリング、ベセスダ、ウィートンといったメトロ沿線の駅中心を視察する。ベセスダは非常にヤッピー受けするようなお洒落な再開発事業をしたところである。休日であるということもあり、子供達も多くいた。同じようなお洒落な服を皆着ている。ヤッピーという社会の成功者であるということを認識できる貴重な空間である。シルバー・スプリングはベセスダを目指している。誇らしげに、シルバー・スプリングのダウンタウンにようこそ、という看板が掲げられている。よっぽどダウンタウンが出来たことが嬉しいのであろう。ウィートンはまだ全く手がつけられていないが、移民達が経営するレストランや店が多く立地しており、個人的には最も魅力を感じる。

その後、タコマ・パークというコミュニティを視察した後、チェン助教授の学生であり、9月に明治学院大学の学生がメリーランド大学に来たときの世話役を買って出てくれたマイク・ジョーンズと打ち合わせをする。

2004年7月30日

ワシントンDCに着き、その後、親友であるメリーランド大学のシェンリン・チェン助教授の研究室に直行する。8月3日までワシントンDCの宿泊は彼女の家でする筈だったのだが、なんと旦那が友人を泊めると約束をしてしまったらしい。ということで急遽、今晩だけは彼女の同僚のマルガリータ・ヒル助教授の家に泊まらせてもらうことになった。マルガリータの家はワシントンDCではなく、ボルティモアの都心にあり、インナー・ハーバーのすぐそばにある。いわゆるローハウスなのだが、ボルティモアはアメリカでも珍しいほど狭く、密集している。実際、その幅は11フィート(3メートルちょっと)で奥行きもサンフランシスコなどにあるのに比べるとはるかになく(15メートルくらいか)、3階建てなのだが日本とあまり変わらない狭さである。彼女の家は1853年に建てられてそうであるから、築150年以上ということか。歴史建造物に住んでいるようなものである。特に驚くのは、その階段の狭さである。私は2階の部屋を貸して貰ったのだが、トランクを運ぶのに一苦労した。庭はあるが、これも狭く、バーベキュー・グリルを置いたら、それが主人のようにドンと空間を占めてしまっている。しかし、近くには店も多く、マーケットも充実しており、カリフォルニアなどとはまったく異なるアーバン・ライフをここでなら展開できるであろう。学生や若いカップル、そしてマルガリータのような高齢の独り者の大学の先生などには打ってつけであろう。シェンリンの旦那のお陰で、このような古いローハウスに泊まることができ、得した気分である。

ボルティモアは他のアメリカの東海岸の都市がそうであるように、移民の出身地によって多様なコミュニティが形成されてきた。都心から東に向かうイースタン・アベニューは、この多様なコミュニティを串刺しにするように走っていて興味深い。都市のインナー・ハーバーのすぐ東にはリトル・イタリーがある。その東にはユダヤ人街。しかし、ここに住んでいたユダヤ人達のほとんどは郊外に移っていたそうである。その東はアフリカ系アメリカ人が多く住む地域。そして、その東はメキシコ人をはじめとしたラテン系の人のコミュニティがあり、その東は白人の労働者街。そしてさらに東に行くとギリシャ・タウンがあるといった具合に、非常に多様である。この多様さこそ、都市の特徴であり、活力の源泉であり、魅力であるということを実感する。

2004年7月29日

明日から米国に行くのでトランクを買いに長女と街に出かける。まずパスポートを発行している東京都庁にある伊勢丹の分店に行く。観光仕様のものが多く、安物が多いので購入は諦めるが、いろいろと相談に乗って貰い、自分がどのようなトランクを欲しているかを理解する。その後、大丸の東京店に行く。思ったより品揃えが悪く、しょうがないので伊勢丹の新宿店に出向く。サムソナイトを買うつもりでいたのだが、マルエム松崎という会社が出しているトランクを結局購入した。5万円ちょっとのトランクだったが、決めては頑丈さと機能であった。私は通常デザインとか色合いを重視するのだが、買ったトランクのデザインは偽ビトンのような趣の悪趣味なものであった。しかし、数多くのトランクを購入、保有してきた経験からトランクは機能が重要であるとの認識の至っていたということを今回の買い物経験から認識した。

トランクを購入するのはインドに出張した時以来であるから2000年以来か。これはサムソナイトの7万円くらいするいいトランクであった。しかし、このトランクは2002年の夏にブラジルのクリチバにアメリカン航空で出張した際、マイアミ空港で破壊される。それでクリチバで7万円くらいするトランクを探したのだが、クリチバのデパートにおいてあるトランクは皆安物で結局4万円くらいのものが最上級であり、結局これをアメリカン航空に賠償代わりに買わせたという経緯がある。このトランクは馬鹿でかいだけが取り柄のものであったが、今年2月にクリチバに行った際、またもやアメリカン航空のおそらくマイアミ空港で破壊された。サンパウロ空港でトランクを受け取った私は、さすがに相当呆れ返った。ここまでトランクを破壊されると、多少チケットが安くてもアメリカン航空でラテンアメリカには行けない。今回は一人ではなく、学生と一緒に来ていたので修理をさせてホテルに届けさせてもらうようにした。しかし、もう相当ぼろが来ていたので、今回新しいトランクを購入したのだが、購入して気づいたのは新しいトランクが非常に便利だということである。パッキングをして重くしてもキャスターがしっかりしているので機動性に優れている。いやはや、よくあれだけ重くて不便なトランクを利用していたな、と改めてトランクはしっかりとした便利なものを購入するべきであると認識させられた次第である。

2004年7月28日

この頃、東京ではうだるような暑さが続いている。夜もなかなか寝付けない暑さである。これだけ暑いと冷房がないと相当厳しい。このような状態で、停電にでもなったら熱中症で死亡する人が相当増えるであろう。冷房は都市人口を拡張させることに貢献した。アメリカ合衆国でフロリダやフィニックスに戦後、人口が急激に増加したのは、冷房が普及したおかげである。現在の東南アジアの都市の急激な膨張も冷房の普及が大きな理由となっているであろう。しかし、この冷房によってはじめて拡張できるような都市は持続的ではない。冷房というエネルギーを大量に消費するシステムに依存しているような都市は、早晩破綻を来すであろう。それは東京も同様である。東京の都市構造を変革させる必要性を感じるこの暑さである。

2004年7月26日

プロ野球の動きが気になる。今回の騒動を傍目で見ていて思うのは、それほどのプロ野球ファンでなくて本当によかったということである。今回の騒動はプロ野球ファンであったら、耐え難いであろう。とはいえ、日本シリーズとかは結果を新聞でチェックしたりするし、清原の2000本安打とかは結構気にしていたので、プロ野球が二リーグ制を廃止にするなどして、その結果、衰退していくかと思うと残念だし悲しい気持ちになる。それにしても腹立たしいのはナベツネである。なぜ、一介のオーナーがプロ野球を私物化させるようなことが許されるのであろうか。巨人ファンをはじめプロ野球ファンは今こそ、読売新聞の不買運動をしてナベツネの横暴に歯止めをかけさせるべきであろう。そもそも、原元監督のホームページを削除させるような言論の弾圧をするようなオーナーが経営している新聞を読む価値はまったくないし、買う必要はさらにない。

2004年7月24日

ゼミの卒論中間報告そして納涼会をする。納涼会は大学のそばにあるニーシェという店で行った。一人3000円で飲み放題、食べ放題、そして弾き放題。そうニーシェは通常はライブを行うお店なので楽器も多く置かれている。今月初め、三田の似たような店で我々ゼミ生と関学生とで飲み会があり、そのときもライブができる店だったのだが、置いてある楽器を我々はピアノ以外触らせて貰えなかった。それと比べるとニーシェの方が格段にいい店である。ということで、3年生と4年生の合同コンパであったのだが、皆楽しめたのではないかと思っている。二次会は銀座のパナシェに思い切って学生数名を連れて行った。小林力さんが演奏する日であったのだが、その日は電話が故障していたらしく、我々も入ることができた。通常、小林力さんが演奏される日は満員になるのでラッキーであった。今日はまた、4年生のゼミ生鈴木早苗がフランスに留学するので、その送別会も兼ねていた。しっかりと勉強してきて有意義な1年間を過ごしてもらえればと思う。

2004年7月23日

今日は明星大学で「クリチバ」に関する講演をした。明星大学は日野市にあるが、随分と中央線の日野駅より距離があり、予定より随分と遅れて着くことになった。幸い、講演の開始時間には間に合ったが危ないところであった。講演は思いの外多くの学生が聴講に来ていた。学生達がそんなに関心を持っているのは意外であったが、聞けばこの講演に関するエッセイを書けば他の講義のボーナス点が貰えるとのこと。私を呼んでくれた西浦先生が私へ配慮してくれたためであることが分かり納得。しかし、講演するたびに「クリチバ」というのは面白い都市であることを再認識する。このような素晴らしい都市の本を上梓できたことは幸いである。

2004年7月22日

テストや原稿の締め切りなどに追われていたら、いつの間にか7月も下旬になっている。アーバン・ダイアリーも全然、更新していない。申し訳ない。その間、テストの実施と原稿を書いていただけではなく、ゼミ合宿で関西学院大学の片寄ゼミに訪れるなど積極的な活動もしていたのだが、ゼミ合宿から帰った後は怒濤のような原稿執筆作業で7月16日までフル稼働状態。東京大学、慶応大学の大学院生4名と中央大学の4年生、そして服部ゼミの学生一人が朝の10時から夜も11時くらいまで研究室で作業協力してくれたお陰もあり、どうにか締め切りに間に合わせることができた。その間も、テストは実施。しかし、そのような状態でテストを作成したため、都市の経済学では誤字・脱字等のミスが問題に多かった。ここで学生にはお詫び申し上げる。いやはやすいません。

その原稿の内容を今日、麹町会館で発表報告する。財団法人計量計画研究所のフェローとして2年前に選ばれたのだが、今日がその最終報告会だったのだ。テーマは「米国大都市圏計画制度の経緯と背景にある政策意図の分析」である。この調査で4回ほど渡米し、現地でおもに取材をもとに情報を収集し、7つの事例研究を行った。7つの事例は、デンバー、アルバカーキー、ミネアポリス・セントポール、シカゴ、ロスアンジェルス、サンフランシスコ、サンディエゴである。あっという間の2年間であり、まだ調べ尽くすことも多いが、とりあえず現段階の整理ということで報告書を作成した。このテーマは今後も私の重要な研究テーマになっていくと思われる。

その後、財団法人計量計画研究所の40周年記念の講演会とパーティがあり私も出席させてもらった。講演会は新谷洋二先生が講演者であったのだが、道路空間に対する深い見識と柔軟な現実的対処法に深く感銘を受けた。素晴らしいお話とお人柄であった。私は以前、道路構造令の改訂に関する研究に携わったことがある。新谷先生はそれ以前の道路構造令作成に深く関与されていた。道路構造令はそれを用いる自治体、地方行政がその特徴を十二分に活かせるよう極めて柔軟なものとして作り上げられているにも関わらず、実際は最低何メートルといった基準が絶対的な基準のように用いられてしまっていた。新谷先生は、歴史的地区に道路を通す場合、その場所性を保全するためにいろいろと柔軟なアイデアを出されるのだが、地元の自治体が道路構造令的にはそのような道路はつくれない、と言ったりするそうだ。釈迦に説法のようなものだが、そのような場合でも新谷先生は、それじゃ建設省に訊いてみて確認して下さい、と言って対応されるそうである。当然、建設省側には問題はない。このようなお話を聞いてもつくづくと、実際の生活空間がなかなか豊かにならないのは創造的に問題に取り組めない愚鈍な行政人が多いからではないか、と考えてしまう。もちろん、中にはしっかりとした素晴らしい方もいるのだろうが。

パーティでは、私が大学卒業した新人の年に、お世話になった交通コンサルタントの方や国土交通省のクライアントの方にも12年ぶりにお会いできるなど有意義な時間を過ごすことができた。

2004年7月10日

プロ野球が大変な事態になっている。一リーグ制に移行することになったら、オールスターも日本シリーズもなくなる。二リーグ制を拙速に撤廃する前にインターリーグとか、ドラフト制度復活によるチーム力の均衡化、など取り組むべきことが多々あったにも関わらず、プロ野球をビジネスの対象にしか捉えられない心ない一人のオーナーによって野球がつまらなくなっていくのは本当に残念としかいいようがない。これでは、実力がある野球選手の多くは大リーグを目指すであろう。ますます、日本のプロ野球がつまらなくなる。しかし、面白いのは、これだけ自分勝手な人間がオーナーをやっている新聞を読む人が日本に多くいるということである。こんなオーナーが経営している新聞が公平である訳はないと気づかないのであろうか。

2004年7月9日

7月8日からゼミ合宿を行っている。関西学院大学の片寄ゼミに昨年同様訪れているのである。片寄先生そしてゼミ生に盛大に歓迎される。非常に有意義な時間を過ごすことができた。学生達も多少なりとも刺激を受けているようだ。しかし、全般的には服部ゼミの学生は内向的でその点は頭が痛いことである。関西までわざわざ来ているのだから、もっと片寄先生や関西学院の学生からどん欲に知識や情報を吸収する姿勢をみせてもらいたいものである。関西学院の学生は積極的に服部ゼミの女子学生にアプローチをしてくる者もいたり、私にも積極的にコミュニケーションを図ったりしてきたりして、能動的な印象を受ける。自発性においては、服部ゼミは片寄ゼミに大きく劣っている。奮起を促したい。しかし、片寄先生も来年退官されるので、この企画も来年で最後になってしまうと思うと残念である。なお、合宿の模様をご覧になりたい方はこちら(クリックして下さい)をご参照下さい。

2004年7月3日

鳴子温泉に行き、ゆさやという西暦1632年につくられた旅館に泊まる。隣は鳴子のシンボルともいえる滝之湯である。ゆさやは「うなぎ温泉」という何とも珍妙な名前の温泉である。うなぎの寝床のような形状の浴場なのであろうか。入る前にいろいろと妄想する。浴場はしごく普通のカタチをしていた。しかし、その理由は入ってすぐわかった。この温泉に入ると自分がうなぎのようにぬるぬるとするのである。これはアルカリ性の温泉であるためで、隣の滝之湯が酸性であるのと極めて対照的である。これは源泉が違うからで、鳴子には11の温泉のカテゴリーのうち9つが存在するという日本でも唯一の温泉地なのだ(別府温泉も9つあると主張しているが、ゆさやのご主人は疑わしいとおっしゃっていた)。

旅館ゆさや

鳴子とは縁がある。古くは1988年に鳴子駅(今の鳴子温泉)を通る陸羽東線の活性化調査をしたことがあり、数回鳴子温泉に来た。当時の駅舎はその後、改装され非常に無粋なコンクリートの建築物になっていた。この駅舎は今回、地元の人の話を聞いても皆反対していたそうで、なぜ出来てしまったのか不思議だ。この駅舎が鳴子のその後の衰退を招いた疫病神のように思える。

無粋な鳴子駅

1990年には鳴子の近くのリゾート開発の事業調査をしたため、また鳴子で泊まったりしていた。どこで泊まったか忘れたが、なんか洋風なところでとても悪い思いをしたことだけは記憶に残っているのだが、具体的には何だったのか思い出せない。ただし、同宿した会社の上司が寝ながらうなされていたことだけは覚えている。旅館の食事は不味かった記憶がある。

温泉はたいへん優れているという鳴子温泉

全般的に悪いイメージを持っている私であるが、今日宿泊するゆさやはなかなかいい旅館である。ホームページでよさげな旅館を見つけて、予約したという無計画さながら、ご主人は県会議員を3期務めたという地元の名士であり、大変いいお話を夜の11時までしてくれた(ハビタット通信2号に掲載予定)。ワインもご馳走になり、今までとは違って非常にいい気分である。ゆさやの食事も美味しくいただけた。特に山間の温泉街であるにもかかわらず、刺身がうまく、これはおそらく昔に比べて道路整備がしっかりとされたためであろう。この10年〜20年の物流改革は凄まじいモノがある。ただし、どこでも画一的になってしまっており、ここでしか食べられないというものは本当に減ってきた。勿論、マーケットを獲得できない二流品、三流品もしくはニッチ的な一流品は地元でしか手に出来ないが。鳴子も栗団子という名物があり、これは確かに鳴子温泉だけしかないようだが、栗が入った餅をみたらしで食べるそれは、まあ不味くはないが感動するというほどではない。タイのコッケン地方のローストチキンやオーストラリアのケアンズの鰐料理のような感動からはほど遠い。

久しぶりに訪れた鳴子温泉は商店だけでなく旅館も廃業しているものも多く、また現在営業している店舗も主人はほとんどが高齢者であり、その将来が案じられる。大規模な旅館は道路に面した部分をバスの駐車場スペースとして使っており、ヒューマン・スケールを逸脱しており無粋である。また自動車が狭い道を速く走り抜けるのと、スペースがないために歩くことが難しく、さらに囲い込み型旅館が多いために外に出る機会もあまりないために、歩行者のネットワークが整備されていない。この点が改善されて街中に人が繰り出すようになれば風情も出てくるのではないか、と思われる。まあいろいろと課題は多いが、東日本随一の温泉に恵まれているため、それをうまく活用しない手はない。

2004年7月2日

いつのまにか7月になっている。光陰矢のごとし。今日は半年ぶりに学生達と千住に行く。千住をぶらぶらと歩き、途中昨今売れっ子であるイラストレーターの中田えりさんの蔵にノーアポで訪れたりした。北千住の駅前はペデストリアン・デッキが完成し、柏や松戸と同じユビキュタスな光景になってしまった。千住という強烈な個性があるのに駅で降りた人はまったくそうは感じないであろう。そもそも、これは20年前に流行ったような開発である。どうしてこういう開発を行ってしまったのか。しっかりと把握することが今後のよい街づくりを図るうえでは必要であろう。