10月26日
今日も宮城大学での講義。昼頃終わり、遅い昼食をどこで食べようか、と考え、また塩釜で寿司を食べに行った。いや、塩釜の寿司は美味しいからね。今日は、亀喜寿司である。この模様もブログに記しているので、宜しければご覧下さい。
10月25日
宮城大学の講義。もう6年目である。この宮城大学の教員経験が、しかし、私の明学の仕事へと結びついているとしたら、本当に有難かった縁である。環境都市計画論、を話す。その後、宮城大学の千葉先生と塩釜の有名な寿司屋「しらはた」へ。その時の感想等は、ブログに書いているので宜しければご笑覧ください。
10月21日
山陽新聞社の取材を受ける。話したいことはたくさんあるのだが、うまく記者に伝えられたかは不明。こういう経験をすると、自分はなかなかテレビのコメンテーターとかは出来ないと思う。ずばり、要点を説明する能力に欠けているのである。なんかなあ、今ひとつな気分である。
10月18日
朝早い便でベルリンから東京への帰路に着く。鉄道でアレキサンダー・プラッツから飛行場まで移動する。アエロフロートだ。モスクワ空港で、また往路と同じく6時間ぐらい潰すことになる。しょうがなく、レストランに入ったら、サラダとコーヒーとで26ドル請求される。まじに高すぎる。こんな高いサラダとコーヒーは世界でもモスクワくらいだろう。ぼったくられているだけかもしれない。恐るべし、ロシア。
10月17日
縮小都市のシンポジウムの二日目。今日も発表がある。時間は5分。滅茶苦茶短いが、私はトップバッターだったので時間を守ったが、なんと三番手のロシア人は30分は話をした。酷いねえ、ロシア。思わず、第二次世界大戦での終戦間近での裏切りを思い出す。こういうことをするんだよな、ロシアは。質疑応答の時間で、私への質問があったので、悔しいので「制限時間は5分だと誤解していたので」と嫌味を言って、説明できなかったことを多少、説明した。しかし、私の皮肉はあまり受け入れられなかったようだ。この日も夜はパーティがあったが、翌日が早いので遠慮する。
10月16日
縮小都市のシンポジウムが開始される。私も発表をする。多少、どきどきするが、本番になったら冷静になった。多少は受けた。縮小というテーマを研究する人達には共通項があるような印象を受ける。なかなか、楽しいシンポジウムになるような予感がする。この日はパーティがあり、まあ結構、楽しめた。そして、その後は主催者であるフィリップ・オスワルトと取り巻き連中とともにフリードリッヒ・シュトラッセの駅のそばのイタメシ屋に行く。当たり前であるが、日本のイタメシ屋の方がはるかに美味い。とはいえ、楽しい時間を過ごすことはできた。
10月15日
ドルトムントからベルリンに朝一番で戻る。翌日からのシンポジウムのための資料づくりをする。ゼミ生の笹本君にいろいろと調べてもらったデータをメイルで送ってもらい、それを編集加工する。綱渡り人生である。
10月14日
ドルトムントに移動して、来年からお世話になるドルトムント工科大学の先生達と会う。夕食を一緒にし、この日は友人でドルトムント工科大学の教員をしているフランク・ルーストの家に泊まらせてもらう。
10月12日
生まれて初めてアエロフロートに乗る。先月、生まれて初めて大韓航空に乗って、今月はアエロフロート。昔は評判が悪い航空会社の代表格であった。アエロフロートがらみの冗談も結構あった。できれば乗りたくないと思っていたのだが、ドイツのシンポジウムに招聘されて無料チケットが送られてきたら、まあ案の定というか、アエロフロートであったのだ。そもそもベルリンに行くのになぜ、モスクワ経由なのか、ちょっと不思議であるが、ベルリンに行くのの最低料金がアエロフロート・ルートなのでこれは致し方ない。
しかし、実際乗ってみるとそんなにも悪くない。機内で出てきた食事は美味しくはないが、アメリカ系の航空会社よりはむしろましである。まあ、これは成田発の便だからかもしれない。スチュワーデスのサービスは無愛想だが、これもアメリカの航空会社よりかは随分とましである。ということで、アエロフロートでさえ、アメリカよりはずっとましであることが判明した。これは、市場経済主義で競争をつきつめていくと、結果、社会主義なみにサービスが悪くなるということか?
ベルリンに到着すると真夜中である。これからタクシーか、疲れるなあ、と思っていたらなんと私の名前が書いたボードを手にした男がいる。しかも私をすぐに見つけた。まあ、他にアジア人もいないからかな、と思っていたら、なんと私の名前をグーグルして、ユーチューブの映像で私の容貌をチェックしていたらしい。恐るべし、ユーチューブ。まあ、それにしても助かった。彼の車でアレキサンダー・プラッツのホテルにまで送ってもらった。長い一日が終わった。
10月7日
大津で自治体職員相手に講演。アメリカの都市政策事情について話す。最近、講演が下手だ。これは、諸先輩方の前だとプレッシャーを感じるからだと自己分析している。今日は、そういう諸先輩がいないので気楽に講演ができたこともあり、比較的うまくいったのではないか。その後、ゼミの卒業生で大津で働いている関口と京都の先斗町の居酒屋に飲みに行く。関口は凄いペースで日本酒を飲み、相変わらず、ザルだなと感心していたら、つぶれてしまった。とはいえ、ゼミの卒業生はもう怒らなくていいから、本当に楽でいいし、私も接していて楽しい。うちのゼミは厳しいが、その厳しさを乗り越えられた学生達に私は愛情を抱いている。卒論書いている時は、多くの学生は私を鬼だと思っているだろうが、卒業したら全然、鬼ではなくなる。まあ、こういうことを自分で言ってしまうと駄目なんだけどね。
10月6日
ドイツの都市計画学会が主催する日本ツアーのコーディネーターを務める。友人のヤンからの依頼である。ヤンが総合コーディネーター的な役割を果たしている。13時に六本木ヒルズで待ち合わせる。午前中から筑波大の大村先生が同行している。大村先生とは数回、お会いしたことがあるが、それほど近くなったことがないので、これは私にとってもいい機会である。都市計画学会の国際委員会に入ったのだが、同委員会の代表でもあるので、これからいろいろと仕事を一緒にさせてもらう機会も増えるかもしれないからだ。
さて30名というと結構の数だ。彼らを誘導して、麻布十番の商店街を抜けて麻布十番駅まで歩く。そこから築地市場に向かう。築地市場の場長をしている森本さんとはゼミ生が大変お世話になっている。今日は、私も図々しくもお願いをさせてもらった。築地市場は今、外国人観光客にとって非常に魅力的な観光スポットとなっている。しかも場長みずからの解説である。我ながら、なかなかいい企画だと思う。その後は、浜離宮に行き、抹茶などを茶室で飲む。抹茶は美味しい、と随分とドイツ人は感心していた。お土産に持っていきたいとも言う。これはちょっと意外だ。その後、汐留を抜けて、新橋から高輪台、そして明治学院へ。明治学院では、大村先生や建築家の長島さん、千葉大の岡部先生、東工大の中井先生も参加し、懇談会をした。結構、いろいろな質問が浴びせられ、中井先生を中心として回答した。そして、懇親会は目黒にあるトンカツ屋「とんき」。ドイツ料理であるシュバイツェン・シュニッツエルを日本人が得意の応用で、「とんかつ」をつくったのである。そのとんかつ屋の中でも、飛びきり美味しい「とんき」は、日本の料理の美味しさを理解してもらうには非常に適当だと思われたので、ここを会場にした。参加者の中にはベジタリアンもいたが、結局、食べていた。宗教ででも縛られない限り、いつどこでもベジタリアンをするのは人生の大切なものを失う。とんきのトンカツが食べられるのは、多くの人には、一生に一度の機会である。食べるべきであろう。
アメリカ人を京都に連れて行ったりすると、食事の時に、得意気にベジタリアンだから、と主張する馬鹿がいる。アメリカの極めて非健康的なアメリカ料理と日本料理を一緒にするな、と本気で思う。彼らの要望どおりにすると、出汁の多くは魚(鰹節)を使っているので、そば、うどんも食べられなくなる。毎日、湯豆腐を食べることになるのか。それはそれで健康的だが。ベジタリアンを主張するのもいいが、外国に行くのであれば訪問国の食文化に敬意を示すべきであろう。そういう自分の小さな世界観に閉じこもった考えが、捕鯨反対運動とかに結びついているのではないか、と考えられる。ちなみに、このベジタリアンを主張していたアメリカ人に、あなたの要望を満たす料理はこの食堂にないね、と言うと卵なら食べられる、と小さな声で白状した。卵が食べられるなら、鰹節で出汁を取ったものも食べられるであろう。こういう無知でいい加減なベジタリアンの要望は結構、無視するに限る。もちろん、イスラム教徒やヒンズー教徒との対応は真摯にすべきであると思うが。そういう点から、今回のドイツ人のベジタリアンは適当であって非常によかった。ちなみに、私も一応、ベジタリアンである。とはいえ、最近はちょっとあまりにもいい加減になりつつあるが。
10月5日
今日は講演者として壇上に立つ。「アメリカの広域地域計画の今後」という演題である。このテーマは5年前にはそこそこ詳しかった。論文も多少、書いたりした。しかし、その後、このテーマから離れている。であるにも関わらず、大先輩が前列で聴いている。久々に緊張したが、別に緊張してもいい講演ができるわけではない。とはいえ、結果、近年まれに出来の悪い講演をしてしまった。勉強不足に後悔する。あまり注目されないからと言って、研究を怠ると機会が来た時にこけてしまう。こけないためにも、日々研究を続けることの重要性を改めて知らされる。そういう意味では非常にいい機会を与えられた。最近は手術をしたりしたこともあり、研究者としては怠慢になっている。別に暇をしている訳ではないのだが、論文なども執筆していない。大学に奉職してから、2004年(人間都市クリチバ)、2005年(都市の鍼治療)、2006年(サステイナブルな未来をデザインする知恵)、2007年(衰退を克服したアメリカ中小都市のまちづくり)と最低一冊は本を出していたが、2008年は出せそうもない。反省する。飛行場まで日高君が送りに来てくれる。有難い後輩である。
10月4日
福岡でシンポジウム。私の出番は明日なので、今日は聴くだけ。蓑原敬先生、秋本福雄先生、出口敦先生など名前は知っていたが面識がなかった先生達と知り合いになれた。蓑原先生の都市計画に対する見識、秋本先生の都市計画論の豊富な知識には圧倒された。彼らと同じ壇上に立つのか、ということで相当、緊張感を覚える。とはいえ、緊張してどうにかなるわけでもないので、もう観念するしかない。東大の教養時代の同期の三島君とも会って話をするが、すべて敬語で返された。まあ、それほど気にしないが、随分と私も嫌われ者であるな、ということを自覚する。まあ、教養時代は三島君は優秀で、私は相当の落ちこぼれだったので、なんで服部がこんなところにいるんだ、という思いなのかもしれない。それはそれで責められない。私もなぜ、ここにいるのか、ちょっと不思議であるからだ。
10月3日
翌日から開催される国際シンポジウムに講師として招待されたので、夕方に福岡に入る。福岡には会社時代の後輩の日高君がいる。日高君とホテルのロビーで8時頃に待ち合わせて、その後、中州へ。呼子の烏賊が食いたいとの要望を出したので、烏賊の活け作りをしている店に行く。呼子の烏賊は、本当に烏賊という魚が美味しいことを知らしめてくれる。他にも胡麻鯖など美味しいつまみをつまみつつ、生ビール2杯と日本酒3杯。日高君はもうちょっとハイペースで飲んでいたかもしれない。結構、楽しい時間を過ごせたのだが、請求は1万7000円。滅茶苦茶高いなあ。麻布十番の一(はじめ)よりも高い。恐るべし、中州。その後、日高君行きつけの中州のパブ「ぴあ」に行く。日高君との締めはいつも「ぴあ」。私は女性が隣に座るような店にはまったく行かない。そういう飲み文化があるのは知っているが、悲しいほど行かない。まあ、そもそも最近は飲みに行くこともほとんどないのであるが。そういう飲みスタイルを持っているために、女性が隣に座る飲み屋に行くのは日高君と飲みに行って「ぴあ」に連れられていくときくらいである。こういうところに行かないのは、それほど好きでないのと、お金が高いからである。とはいえ、ここの「ぴあ」のホステスは結構、話が面白いので、私も楽しい時間が過ごせた。とはいえ、明日からシンポジウムがあるのにホテルに戻ったら4時近くである。明日しっかりと起きるか不安になったので、目覚ましを二つほどセットして寝る。
9月30日
午前に港区景観検討委員会。大学に戻り、雑事。夕方には慶應の外国語学校。
9月29日
チェコ人の友人であるヤンが日本に来ている。私の研究室で待ち合わせをした。彼との待ち合わせの時間に、経済学部の事務の方から来客がある、と連絡が入る。「ホリツカ」さんという方です、と言う。約束している、と言う。しまった、ダブル・ブッキングか、と思って事務室に行くとヤンが待っていた。ヤンの名字はポリフカである。ヤンはしかし、日本人に名前を覚えてもらうのが難しいので、これから「ホリツカ」にしようか、と言う。それは、結構、いいアイデアかもしれない。
その後、キャロルで打合せ。1週間後にドイツ都市計画学会の人達を30名ほどガイドしなくてはならないからだ。ルートや懇談会、懇親会に関して、最後の詰めを行う。
今日から慶應大学外国語学校でドイツ語の授業が始まる。7名ほどしか学生がいない。6年前にスペイン語を受講した。その時は25名程度はいたと思う。その後、どんどんと脱落していったが、最初に7名というと最後まで何名残るのであろうか。スペイン語の人気とドイツ語の不人気を知る。
9月28日
リーブス先生と、彼の研究室のある東京大学生産研究所で打合せ。その後、下北沢の居酒屋で食事。リーブス先生は日本が大好きなのだが、彼の好きな日本を、現在の行政は壊そうとしている。本当に、我々はどこに行こうとしているのであろうか。
9月27日
次女の運動会。次女の通っている杉並区立和泉小学校はモデル校で芝生の校庭となっている。運動会は芝生の上でやる。芝生はいいのだが、モデル校のせいなのか、運動会で滅茶苦茶変な英語の歌を歌わされていた。ネイティブだったら、まず恥ずかしくて小学生に歌わせないような変な英語の歌詞の歌だ。セサミ・ストリートでは絶対、ながさないようなセンスの無さである。バーニーでもながさないであろう。ナンなんだ、これは。そもそも小学校で英語を教えるのは無駄なので反対していたが、こんな変な英語の歌を歌わせるくらいなら、これは教えない方がまだましである。何を考えているのだ。
ところで、この和泉小学校は私が以前、働いていた某シンクタンクがコンサルタントをした。担当したのは、私の4つ下の後輩である。芝生はともかく、なんかろくなことを提案していないような気がする。これじゃ、税金の無駄遣いだ。
9月26日
今日から講義が始まる。「都市の経済学」である。もう6年目だ。昨年は随分とラディカルな内容にしたが、今年はまた固いものにしている。午後は東京都のオリンピック環境アセス委員会。
9月21日
広島の蒲刈島を訪れる。すごく立派な橋、安芸灘大橋によって本土と結ばれている島である。上蒲刈島と下蒲刈島の二つの島から構成される。上蒲刈島の人口は2400人、下蒲刈島の人口は2000人である(2008年)。1980年においてはそれぞれ4350人、4000人であったので、この25年で大幅に人口が減少している。安芸灘大橋は2000年に開通した。開通した後も人口はそれぞれ200人、350人と減少した。橋が開通しても人口の減少は留まらない。興味深い。
9月19日
広島県福山市の鞆の浦を訪れる。鞆の浦まちづくり工房の松居さんに取材をする。たいへん、面白いお話を伺うことができた。新聞やテレビだけでは分からなかった鞆の浦の実情が相当、理解できたような気がする。鞆の浦は、今、絶滅の危機に瀕している。どうにかしなくてはならないが、難しいところは、絶滅の危機にあることの理解を共有させることである。これは、分からない人にはなかなか分からない。ここが、鞆の浦の存亡の分岐点になると思われる。広島の叔母の家に泊まる。
9月18日
お茶の水の総評会館で講演会。三浦展さんの現代社会講座の講師として呼ばれたためである。テーマは、「持続可能な都市づくり」。30名くらいが参加していた。話はそこそこ受けたと思われるのだが、本はまったく売れなかった。その後、お茶の水のイタメシ屋で食事をする。
9月17日
人間環境大学の島崎先生のお話を聞く。たいへん、面白い話を聞くことができた。その後、品川で懇親会。
9月16日
東京都のオリンピック・アセスの担当者と打合せ。昼は大学に行き、いろいろと事務手続きをする。夕方は、友人のクリストファー・カルテンバックと麻布十番のはじめで飲み。クリストファーは7月から東京に来て、仕事を探している。日本が大好きなアメリカ人だ。はじめの居酒屋のクオリティに感動していた。アメリカとは違うよねえ、と言うと、「本当、本当」と目を輝かせていた。違いが分かるアメリカ人である。その後、非常に久しぶりに青山のトゥインズ・バーに行く。
9月13日
五反田のユーポートで東京バレイ団の「ジゼル」を家族で観る。そこそこ面白かった。日本人のバレイというのは、しかしイギリス人の歌舞伎のようなものだよなあ、とちょっと違和感は覚える。なぜ、日本人はバレイをやるのにイギリス人は歌舞伎をやらないのだろうか。と書いて、昔、イギリス女性の相撲クラブの映画を観たことを思い出した。邦題は「恋ははっけよい」。この映画はなかなかよかった。
9月12日
フィールドスタディから帰国。今回のフィールドスタディはなかなか、将来に通じるかもしれない、と勇気づけられるものであった。15人の参加中5人くらいが、海外留学を結構、真剣に考えることとなった。明学は留学制度が充実している。カリフォルニア大学に留学できる私立大学は、東京では上智、ICU,明学である。だから、上智、ICUの受験で失敗したら明学を受けるべきなのである。カリフォルニア大学への留学を考えていたら間違っても、法政とか立教を受けてはいけない。カリフォルニア大学はアメリカでも最も素晴らしい大学システムである。自分の母校であるから言うわけではないが、私もMITとかペンシルベニア大学、コロンビア大学とかを蹴って、まったく疑いもなくカリフォルニア大学へ進学した。それほどいい大学であるのだ。そういう大学と交換留学制度をもっている明学は、いい大学である。とはいえ、残念ながらそういうことを学生達の多くは知っていない。まさに豚になんとかである。そういうことから、もったいないなあ、と思っていたのだが、このアドバンテージを今回、フィールドスタディに参加した学生の一部は使おうと考えている。素晴らしいことだ。こういう意識をもった学生が増えると明学もいい大学になると思う。残念なことは、この学年のゼミを担当しないこと。もし、担当していたら、複数の留学生をうちのゼミから出すことができたかもしれない。
帰りも大韓航空なのでソウル経由。大韓航空ははじめてであったが、そんなに悪くない。というか、価格を考えるとそうとういいともいえる。ソウル経由というのが、非常に難だが。
9月10日
デービスのホテルをチェックアウトして、サンフランシスコへ。サンフランシスコの空港そばのホテルにチェックインして、その後、町に繰り出す。野球の試合をみにいくグループと観光グループとに分かれる。私は観光グループの学生達を引率した。フェリービルディングで昼食を取り、その後、ピア39、ギラデリー・スクエアに行き、ケーブルカーでユニオンスクエアに。そして、チャイナタウンに夕食を取りに行く。
9月8日
ヨセミテ・バレーを自転車でめぐる。ミラー・レークからブライダルベイル滝まで、ほぼ5時間くらい。そして、4時頃自転車を返し、バスでデービスに戻る。夜、バークレイの時の後輩であったマイカル・リオスと会う。彼とは7年ぶりくらいか。1年前からデービスで教鞭を執ることになっている。いろいろと話ていると、マイカルに「もっとずっと協調的な人間かと思っていた」と言われた。また、勝手にアジア人だから、いい人だと思われていたな、とちょっとだけ不愉快に思う。アジア人が協調性のあるいい人というのは、白人側が勝手に抱く幻想だ。まあ、協調的でない、というイメージよりかはいいかもしれないが、そういう先入観で見られるのはちょっと嫌だね。私は自慢ではないが、協調性がないのは個性に近い。いや、そんな自慢するほど協調性がないわけではないが、まあ、どちらかといえばない。アメリカ人と比べても、ない方だと思う。こういう先入観に打ち勝たなくてはいけないことは大変だ。
9月7日
朝ホテルを発ち、まだ早いうちにヨセミテに着く。グレイシャー・ポイントからパノラマ・トレイルを行く。その詳細はブログに記しているので、宜しければご参照ください。学生達は、自分で責任を取れない奴は来るな、と言ったら全員が来た。面白い。これを、素晴らしい経験ができるから皆で参加しよう、とか言うと、半分くらいしか来ない。消費者として選択させると、そういうことになる。消費者ではなく、自発的な参画者として位置づけを捉え直すと、結構参加するんだよねえ。同じ事は卒論でもいえる。卒論書くと、ためになるからやるといいよ、というとほとんどの学生はやらない。しかし、どうせ書けないからやらない方がいいよ、というと皆、やりたがる。面白い。
9月6日
セントラル・バレーのメルセド郡にあるコダ・ファームを訪れる。「ライス・キング」と呼ばれたコダ・ケイサブロウが開拓した農場である。今はケイサブロウの孫であるロス、ロビンなどが経営している。ロスとロビンに説明をしてもらった。説明はおもに、有機農業についてのものであった。ロスはスタンフォード大学の経営学修士を取得している。超エリートだ。しかし、春、秋は農作業が忙しくて休む暇もなく、朝の5時から夜の7時まで働くそうだ。凄い働き者である。コクホウ・ライスはバークレイに留学していた時、食べていた。その話をしたら、それまで興味がなさそうに説明していたロスが喜んでくれた。東京に行ったら連絡するよ、と言ってきた。もしかしたら農家の人と友達になれるかもしれない。
9月5日
ウィーラー教授によるアメリカの行政制度、そしてロンドン教授によるサステイナビリティと社会的公正性という講義を午前中にしてもらう。二人とも私の大学院の同期である。同期に頼り切ってのフィールドスタディだ。しかも、この二人、出世している。バークレイでの人的資源を十二分に活用してこそ、そこそこ成り立つ私のフィールドスタディである。午後は市役所に行く。市長による説明が為される。その後、なんとうちの学生達がデービス市の名誉市民を授与された。そんな名誉市民を乱発していいのか、と大いに突っ込みたくなった私であったが、学生達は意味も分からずとも嬉しそうであった。私も名誉市民にさせてもらった。私はデービスのことを本で紹介したので、少しは理由があるかもしれないが学生達は何で名誉市民なんだろう。不可解ではあるが気前がいいのかもしれない。その後、ストローベルの家の設計で有名なジョン・ハモンド氏の事務所を訪れて解散。洗濯をする。
9月1日
フィールドスタディの初日、サクラメント近郊にあるカリフォルニア州のステート・フェアを訪れる。なんとイサオ・フジモト教授も同行してくれた。交通費を少しでも安くするために、アムトラック、ライトレール、バスを乗り継ぐ。こういう公共利用での移動は、アメリカに住んでいるときもほとんどしなかったことに気付く。しっかりとした公共交通がある日本は、アメリカよりも低所得者層に優しいことを改めて理解する。しかし、その社会的基盤である公共交通をないがしろにして、自動車交通ばかりを優遇させようとする政策を展開させていることは本当にもったいないことである。