2004年12月31日

年もいよいよ差し迫ってきた。2004年は私は本厄であったのだが、それほどひどい年ではなかった。というか単著は出せたし、まあ結構いい年だったのではないかと思ったりする。ただし、世間は大変だった。新潟、福井の洪水、豊岡の洪水、中越地震、そして最後にスマトラの大地震といった天災に見舞われ、また人の命の大切さをみじんも感じさせない子供殺しが佐世保、奈良で起きた。佐世保などは加害者も小学生という特異な事件であった。さらには茨城の連続親殺し事件、埼玉の妹殺人事件、茨城の祖母の孫殺人未遂、福岡の妻による夫、前夫殺し、あまたの若い両親による子供の虐待殺人などが非常に多く記憶に残った年でもあった。今日も親による子殺しが新聞の社会面に出ていた。悲惨である

さて、ここで1年を振り返って何か印象的なことを個人的に整理していみたいと思う。ベストアルバム:と書き出してみて、そんなベストアルバムとかを評論できるほど聴いていないことにはたと気付いた。ということで、現時点での私のベストアルバムに代えさせてもらうことにする。

ベストアルバム(2004年12月時点)

Laura Nyro (Smile)、Oasis (What's the Stroy, Morning Glory) 、Radioheads(Bend)、Peter Gabriel (First)、Gensis (Seconds Out)、Pink Floyd (The Wall)、Bill Evans(Alone)、Everything but Girl (Language of Life)、Little Feat (Waiting for Columbus)、Rickie Lee Jones (Pirates)、Who (Who's Next)、Beatles(Abbey Road)、Basia(Time and Tide)、Yes(A Tales from Topographic Ocean)、 Paul Simon(Still Crazy After All These Years)、The Allman Brothers Band (Live at Fillmore East)、The Band (Music From Big Pink)、Eric Clapton (Unplugged)、U2(Joshua Tree)、ZZ Top (Eliminator)、Joni Mitchell (Shadow and Light)・・・とつれづれに書いていくうちにもはや10を越えている。これらに順序をつけることも難しいので、まあこれが2004年12月31日時点のベスト10の候補の一部ということにさせてもらう。いや、ちょっといい加減ですいません。批評の難しさに気がつきました。また勉強しなくては。ということで数少ない読者の皆様、よいお年をお迎え下さい。

2004年12月27日

今日は大学時代の同期と四谷の寿司屋「纏寿司」で忘年会を行った。「纏寿司」は前から来たかった寿司屋であった。刺身とかはさすがに結構いけたが、この頃、食べ慣れたこともあり、それほど大きな驚きはなかった。同じ四谷なら、すし匠はな家与兵衛の方がいいかな。値段は3人で日本酒を7合程度飲んでビール3本で28600円。良心的であった。まあ、しかし忘年会の一連の飲み食い比べからの一押しは築地のつかさ寿司ですね。これを凌ぐ店に今後出会えるかどうか、というよりか他の店に行くことがあるのか?出来れば寿司はあそこでしか食べたくないような気分である。

2004年12月25日

昨日は結局、伊勢丹でシェ・シーマのモンブランのクリスマス・ケーキを買った。イブの伊勢丹のケーキ売り場は身動きも出来ないほど混んでいた。しかし、どうもほとんどの人がホールのケーキが目当てではなく、単品を購入していることが分かった。私は満員電車と列は嫌いなので、あとそもそもホールで買おうと思っていたので、列がそれほど長くなく、しかも少しでもバタークリームでは食べやすいかもしれないということでモンブラン系のケーキにしたのである。4200円と高額であったが、まあ昨年のフローの「偽」ショートケーキ系よりは味はいけた。しかし、やはりオディールには敵わない。

2004年12月24日

今日はクリスマスイブである。クリスマスイブが特別な意味を持つことは、もはや全くないが、クリスマスイブにはクリスマス・ケーキを購入する習慣がある。毎年1回しか食べないので、そうそう比較は出来ないが個人的には東長崎のオディールのクリスマス・ケーキが私の限られた経験の中では最高のケーキであった。ここは生クリーム100%で、まさに絶品であると思う。最低は方南町のパステリー・ミューのクリスマス・ケーキである。ここはバタークリームでつくっているのに加えて、腕も悪いのでまあ食べるのが辛いほど美味しくなかった。去年はフローのケーキを注文して、それなりに期待したのだが、やはりバタークリーム率がそこそこ高くて、美味しいとは言えなかった。バタークリームを使ってもいけるかなと思わせたのはマキシムのノエル・ケーキであるが、これは値段も高かった。今年はオディールのクリスマス・ケーキを予約しようとしたが、遅かったので注文を受け付けてもらえなかった。非常に残念である。ということで今日、伊勢丹の地下1階で迷うことになるが、デパートに入っているところは保存の関係からバタークリームを使わざるおえないので、イマイチなんだよね。ところでヤマザキパンとかもクリスマス・ケーキを売っていて、それも3000円くらいの値段をつけている。これはちょっと消費者を馬鹿にし過ぎているんじゃないでしょうか。と書いていて、私も高校時代ダイエーでバイトしていた時、クリスマス・ケーキを売っていたことを思い出した。30万円くらい売り捌いて特別にボーナスをもらったことがあった。当時は嬉しかったですな。

2004年12月23日

昨日は実は忘年会7連荘目を岩崎敬環境計画事務所で行っていた。といっても店ではなく、酒持ちよりの会なので、緩やかな時間を過ごした。岩崎さんの事務所で私は大学時代にアルバイトをしていたので、もうかれこれ20年くらいのお付き合いになる。おそらく初めてお会いしたのは、蔵王のスキー場で高校時代の頃だと思うので、随分長い。まあ、それはともかく、この忘年会に参加していた人の中にとてつもないエネルギーを持っている人がいた。この人はおそらく50代くらいの女性なのだが、自分の興味本位だけの雑誌を創刊させ、そこで編集長をやっている。島田晴彦などのビッグネーム相手に取材をしているのだが、一体全体何がターゲットか、誰が読むのか、何を目的としているのかが不明な雑誌であった。しかし、その雑誌の内容の是非はともかく、それを実際発行しているという事実が凄まじい。と同時に雑誌の持つ底知れぬ可能性をも感じさせられる。私もゼミ生とともに「ハビタット通信」という雑誌を発行しており、常に学生達には雑誌の可能性を言ってきているが、それをこの人ほどうまく使っている人はいないのではないか。刺激的な出会いであった。

2004年12月22日

このところ、よく飲んでいる。胃が悪いのに無謀である。それはともかくとして、飲むと音楽談義になってしまうことが多い。その中でいろいろと発見することもある。私的には椎名林檎は、ピカソやゴッホが天才であるのと同様に天才であることは明瞭であり、議論の余地もないのだが、中には、うるさいから嫌い、とか言う人がいることに気がついた。この人はロック音楽に一家言を持っている人と私は思っていたので大いなる驚きであった。ゴッホの色使いが派手すぎる、とかでろくに見もしないし、評価もしないのと同然のこの態度に、私は愕然とすると同時に、彼の音楽話は今後聞き流そうと思ったのである。

また、私と同年代の人でスティックスやジャーニーズ、ボストン、トト、REOスピードワゴンなどのDVDを買っている人がいることを知ったのも新鮮であった。私も高校時代には、これらのアメリカンお元気系産業ロックに結構はまって、レコードを買ったり、コンサートにも行ったものである。しかし、その後、まったく聞かなくなった。ノスタルジーも覚えない。そういう点ではモー娘にはまった高校生が、その後まったく聞かなくなって大人になったこととかに似ているかもしれない。はしかのような一過性の病気のようなものである。このように書いていると、そういえばスティックスとかGreat White HopeとかRenegadeとか好きだったし、ジャーニーズもAnyway You Want Itとか好きだったなあ、とか懐かしく思い出されるのだが、だからといって新しくCDを買い揃えようとは思わない。しかし、最近でも相変わらず70年代とかの80年代の音楽は聴いているのである。どこらへんを聴くかというとDavid BowieとかAllman BrothersとかThe Band、Led Zeppelin、ZZ Top、Little Feat、Pink Floyd、Yes、もちろん Peter Gabriel、Duke 以前のGenesis、Aerosmith、the Who、Rickie Lee Jones、Eric Clapton、Joni Mitchell などである。この違いは何なのか。また積極的に聴かなくても、まあ聴いてもいいかなと思うものにはFleetwood Mac、 Eagles、 The Doobie Brothers、Paul Simon、Tom Petty などが含まれる。

これは一つは私の年齢と関係があって、おそらくジャーニーズやスティックスなどは、ターゲットが10代だったのである。すなわち10代の感性、理解力に最も強く訴えかける音楽をつくり市場に提供したのであろう。そのためか、非常に詩が浅はか(特にジャーニーズ)である。まあスティックスは多少哲学的だが、これも無教養の10代でも理解できる範囲に収まっている。ボストンはリーダーのトム・ショルツがMIT出身なので騙されそうになるが、基本的には単純な馬鹿馬鹿ロックンロールであり、詩にも思想的奥行きはほとんど感じられない。まあロック音楽はマス消費されることを前提にこの時代にはつくられたので、それはデニーズに味を求めることが愚かなのと同様に、そのような思想的なものを求めることは無理があるのだが、ちょっとやはりこの年齢になると聴くのはきつい。まあ、そんなことを書きつつも私は相変わらずZZ Topという非常に馬鹿で、女と酒と車とけんかで脳みその99%を占めているようなトリオの音楽を聴いているので、この違いを説明することは難しいのだが、ZZ Topは徹底的に馬鹿を演じ切っているところ、そしてあのBilly Gibbonsのギターは40を過ぎたオヤジをも今でも唸らせる。こういうのは、ジャーニーズのニール・ショーンやトトのスティーブ・ルカサーには出来ないことなんだよね。テクはあっても。ちょっと分析がまったく出来ていないので申し訳ないのだが、トトやスティックス、ジャーニーズはデニーズのハンバーグのような音楽で、若い時にはとても美味しく思われるのだが、年齢を重ねると、もっと違うものが食べたくなるのと同じように私には忘れ去られたのではないだろうか。もちろん、私の年齢でもハンバーグが大好きな人はいるし、それはそれでまったく問題はないのだが、私は胃が悪いし、ちょっとお茶漬けが欲しいという感じなのでしょうな。というとZZ Topは吉野家の牛丼ですか?

2004年12月21日

忘年会6連荘。今日は私が知り合いにお誘いして、私が幹事で忘年会を行った。渋谷の「佐賀」という居酒屋が会場である。大学のサークルの先輩である日経ホーム出版で元日経大人のオフ編集長であった空閑さん、空閑さんの知り合いのライターの木全さん、あと元会社の先輩、後輩である遠山さん、川口さん、佐藤さん、原君に参加いただいた。初対面の人もいたりして、何の忘年会か分かりにくいのであるが、とりあえず旨い飲み屋で楽しく飲んで食す、というのがコンセプトでこれは去年に引き続いて行われたものである。「佐賀」は相当うまい刺身と、牡蠣鍋などが出て一人7200円であった。悪くないが、「まつもと」の方が美味い(しつこいか。しかし、この時期まつもとの予約は不可能に近い)。でも渋谷のチトセ会館の前の居酒屋というベタなロケーションの割にはなかなかいい居酒屋であり、参加した人達も比較的満足していただけたようだ。来年も是非とも続けたいと思う。

2004年12月20日

神田のアフタヌーン・ソサイティに呼ばれてクリチバの講義をする。比較的、好評であったようだ。クリチバの話は素材がいいため、話す方も楽である。本も持参した冊数がほぼ売れた。嬉しい限りである。その後、7時に中野でマーケッターの三浦展さんと待ち合わせをし、忘年会に行く。週末を除けば5連荘である。中野駅北口にある居酒屋「らんまん」に入り、平目などの刺身盛り合わせ、穴子の白焼き、太刀魚の焼き魚、カワハギの煮付け、おでんなどを注文する。ビール大瓶一本、日本酒は5合で二人で13900円であった。この居酒屋は佇まいも雰囲気もあって、「東京人」とか「散歩の達人」とかの街歩き雑誌系には人気のある店でよく紹介されている。なんせ大正11年創業の老舗である。その後、二軒目は同じく中野駅北口の「サントリー・パブ・ブリック」に入る。ここは私が生まれた年の次の年にオープンしたパブである。懐かしさが漂う。シェリル・ラッドの若い頃の写真が店内に貼ってあるのだが、これは私が中学時代の頃のものであろう。ハイボールを3杯ほど飲んだら急に腹痛に襲われた。結構、まずい痛みである。まだ、明日、明後日と忘年会は続くが身体の状態が心配である。年を取ったものである。

2004年12月19日

家族と新国立劇場にクルミ割り人形のバレイを観に行った。3歳になったばかりの娘に「4歳以上ですよね」と確認され、その場で4歳です、と答えたのだが、3歳で入れないことは知らなかった。娘はすぐ3歳という癖があるので危なかった。バレイの方は王子役はよかったが、第三幕の踊り子達はリズムがずれていて酷かった。しかし3歳の娘を連れて行くには丁度よかったかもしれない。チケットも安かったし。3歳の娘は、第二幕でネズミが出てきた時に「あれ犬」と確認したこと以外はお行儀よく観劇していた。よかった。

2004年12月18日

午前中に下高井戸の駅前市場まで魚介類を買いに行った。家から下高井戸までは神田川沿いの遊歩道を行くのであるが、途中カワセミを目撃した。カワセミの鳴き声を直接聞いたのは初めてだと思うが、なかなかの美声に感心する。

年の瀬を迎えて、いろいろここ1年を顧みる。転職して大学に奉職して1年と9ヶ月経った。大学の存在意義、大学の教員という仕事などいろいろと考えさせられる。大学は教育を提供する場所そして機会である。教育をなぜ必要とするのか。それは、学生の可能性を引き出し、発見させ、そしてそれを育て、社会人として仕事に就く条件を整えさせることにあると思う。すなわち、それは自分を知ることである。それを既存のカリキュラムで行えるかどうか、それはまた別問題であるが、私はそのような目的意識を持って、この仕事にアプローチをしていきたいと考えている。ただし、私にも能力の限界があるので、自らこの自分の可能性を引き出すという行為に真摯に対峙しない学生は、例え授業料を支払っていても相手をすることは無理である。ただし、その自分を知ろうとするための機会と時間は与える。その機会を活かさず、時間内にやるべきことをやれない学生には私の存在、そして大学自体も本質的には無駄であろう。まあ、卒業証書が必要ならそれなりに頑張れば達成できる。しかし、本当に大学を活用するなら、自分と真っ正面から向き合うことである。そして、そのこと自体は偏差値など全く関係ない。大学は、そのように真っ正面から向き合う学生には多くの機会を提供できる器を有している。少なくとも、明治学院大学は学生よりは遙かに器はでかい。

ところで大学の教員という仕事は素晴らしいと私は考えている。自分が好きな研究をやるには相当恵まれた環境にあるし、時間等も自由である。やる気のある学生を指導するのは、やりがいのある仕事である。前の仕事では、予算を消化するために、また無駄な公共事業を無理矢理正当化するような作文書きのようなことをやらされていたので、今の仕事の方がはるかにやりがいもあるし、自分が社会に貢献できているような印象を受ける。私の大学教員としての恩師である関西学院大学教授の片寄先生は、「大学の教員ほど素晴らしい仕事はない」と仰っていたことがあるのだが、私も2年弱務めて同感である。大学生の面倒を見ているようで、その実、大学生に面倒を見てもらっている。そして、多くの刺激を受けている。私が椎名林檎にはまっているのも、学生の影響がおそらく大きいと思われる。映画もよく観るようになった。経済学科3年の映画監督をしているある学生が勧める映画は、私はもはやレンタルしないでDVDで即買いしている。彼女は私にとって最も信頼できる映画評論家であるのだ。ということで刺激も多い。30〜50のおじさん達、おばさん達と囲まれて仕事をする環境もそれほど嫌ではなかったが、今の方が人間的な視野も広がるような気がする。まあ、一部幼稚化しているという指摘もあるが。ただし、学生との付き合いは難しい面も多い。期待をするとすぐ裏切られ、期待しないと思わず驚くようなこともしてくれる。片寄先生は私が奉職した時に言ってくれたアドバイスがあるのだが、それは「うまくやっていくには、学生に期待しすぎないことである」。これは非常に的確なアドバイスであると思われるが、私は、期待と裏切られの狭間で、まあ日々楽しんで学生達を教育し、学生達から教わっていきたいと思っている訳である。ということで、あまり読んでいる学生はいないだろうが、これからも宜しくお願いします。

2004年12月17日

忘年会4連荘目。今日はゼミの忘年会で渋谷の円山町の方にある居酒屋に行った。まったく期待をせずに行ったのだが、結構いい店であった。ゼミ生ではないが、経済学科3年生の安永君の知人が経営している店だそうだ。なかなか学生の飲み文化のレベルも高いことを知らされた。飲み会は4年生が2名、3年生が9名、2年生も9名ほど参加し、なかなか和気藹々と楽しい忘年会になったのではないか、と思われる。その後、ゼミ生の石堂君と途中で合流した安永君と安永君がバイトをしている立ち飲み屋に行く。タワーレコードの裏側当たりにある店である。ここのもつ煮は相当美味い。多いに感心する。しかも、何故か無料であった。1次会は一人3300円。この4日間で画期的に安い日となったが、多いに楽しめた日でもあった。

2004年12月16日

忘年会3連荘目。今日は築地の寿司屋つかさに行く。ここの寿司は書きたくないが、絶品である。今日も最上の平貝、赤貝、エンガワ、ぶり、しま鰺、ウニ等を食す。至福の気分である。分かりにくい場所に立地しているためか、あまり混んでいない。だから、こんな所で公表することも実は憚れる(といっても私のホームページを読む人は10人もいないような気がするが)。ただし、値段もそこそこである。焼酎6杯とおまかせ+たこで二人で29500円。日々値段が高くなっていくことが危険である。

2004年12月15日

忘年会2連荘目。今日は渋谷の日本料理屋大漁に行く。ここは大当たりであった。お通しで出たアオリイカの塩辛、鮟鱇の肝、白子のホイル焼き、刺身の盛り合わせ、いくら、アオリイカのげそ焼き、平貝の磯辺焼き、すべて驚くべき味であった。マスターは、仕切りに「食べたことないでしょ」と確認していたが、確かに「食べたことある」とは言えない迫力の美味さであった。特に鮟鱇の肝は、私のアンキモのイメージを大きく更新させてもらった。大正解である。ただし、日本酒の揃えは悪く、ここら辺はおそらく昔からの仕入れルートで納入しているからなのではないだろうか。日本酒を揃えれば、ほとんど無敵の美味さである。昨日の目黒のうしやまも食べた時は美味いと思ったが、大漁を知ってしまったら二度と行かないだろうなあ。私にはしっぽりするための演出は必要ないし。味最優先である。二人でビール2本、日本酒2本で27800円であった。まあ、昨日よりはるかに高くついた。そうか、金額が違うのか。しかし、ちょっとここで食べると他では行けなくなる美味さであることを改めて記しておきたい。

2004年12月14日

金沢シーサイドラインに乗る。火曜日には関東学院大学の非常勤の仕事をしているので、前から乗ろうと思っていたのだがいつも忙しくてその機会を逸していた。シーサイドラインは非常に展望がいい。特に海の公園辺りでは、はるか千葉の山々も見え、いい展望が開ける。ただし、駅のエスカレーターとかも停止されており、相当経営は厳しそうだ。私は、以前多摩都市モノレールの仕事をしたことがあり、日本全国のモノレールの経営状況を分析したことがある。最悪は名古屋都市圏の桃花台モノレールであったが、他も多かれ少なかれよくない。ただし、そのような中、金沢シーサイドラインはそれほど悪い数字ではなかったので、乗客があまり多くないことなどちょっと意外であった。それにしても、モノレールは車窓は楽しい。高いところから眼下を一望できる。桃花台モノレールなどの平地を走っているものはあまり面白くはないが、この金沢シーサイドラインのように海あり山ありと車窓からの景観がダイナミックだと大変楽しい乗り物となる。モノレールによる空中散歩という観点からは金沢シーサイドラインは相当、優れていると思われる。

今日から忘年会6連荘である。今日は同僚の原後先生、明日は元会社の同僚、明後日は元会社の後輩、その次の日はゼミの忘年会、来週の月曜は元会社の先輩、そして火曜は私が幹事をする私の知人達との忘年会である。今日は目黒川沿いの日本料理屋うしやまに行った。コース料理にこんにゃく芥子和え、鳥焼きを食べる。コース料理は年のせいかあまり覚えていないが、途中で蕎麦が出てきて、これはイマイチであった。大根饅頭のようなものは非常に美味しく感じられた。締めは蒸し鰻のご飯であったが、これは結構いけた。全般的に厨房に入っている人達も若く、それなりに評価できるが、一押しではない。ビール1本、日本酒二合で二人で13480円であった。

2004年12月13日

台湾、台北市都市デザイン施策について聞く会が都市環境研究所で開催されているので出席する。台北市政府都市発展局の専門委員である林崇傑氏による講演会である。現役の台北市職員による話ということで、台湾の都市デザイン事情を知るにはもってこいの会であった。台湾は今、台北マフィアとも形容すべき、台北の都市デザイナー達が台湾中の都市デザイン施策を遂行していることが分かった。都市デザインはそもそも、その土地から湧き出てくるものであって、都市デザイナーはその土地の「声」を聞き取り、翻訳し、表現することが重要であると理解するので、中央指導的なものはあまり馴染まないのではないか、という考えを個人的には持っているのだが、しかし、方法論や都市デザインが何かがしっかりと理解されていない段階では、そのようなアプローチも有意義なのではないか、という印象を林氏の話を聞きながら思うに至った。台湾では多くのコミュニティ・プランニングが市民参加で為されている。しかし、市民だけではなかなかいいデザイン、計画が出来ないので、コミュニティ・プランナーという専門家を市が派遣しているそうだ。ただし、このコミュニティ・プランナーは無償である。他に大学の先生、建築家といった仕事があるので特に無料でも問題がないとの話である。日本でもそうだが、台湾でも都市計画、都市デザインは職能として成立できないのか。何か、非常に大きな問題を感じた講演でもあった。

2004年12月11日

中目黒の病院に午前中行ったのだが、その帰りに自転車屋に展示されていたプジョーの折りたたみ自転車に目が奪われた。なかなか格好良いデザインであった。じっと眺めていると、店の人が声をかけてきた。いろいろと自転車の説明を受けていると、非常に買いたくなった。私はかれこれ2年ほど自転車を持っていない。説明を聞いているうちに、折りたたみは折りたたみ部分が脆弱であることが分かった。また、小さければ特に折りたたみでなくても研究室にて保管できそうなことも分かってきた。ということで極めて衝動買いであるのだが、ルイガノの自転車(MV2-Pro)を6万円で買った。カラフル好みの私には珍しく白色の自転車であった。そのまま大学に行き、その後、自宅まで自転車で帰った。帰宅途中に、恵比寿ラーメンに入ろうとしたが、客が一人もいないので辞めて、代わりに東大裏のそばにある砦ラーメンに入った。砦ラーメンはとんこつ系であったが、非常に美味であった。この頃、本当に東京のラーメンの質は上がっている。なんでんかんでんの行列がなくなる訳である。恵比寿ラーメンも、その昔は、恵比寿ラーメンの名を世に広めることに貢献した名店であった筈だが(ただし、学生時代に食べた時、どうしてここが有名なのか理解できなかった記憶がある)、こんなうまいラーメン屋がどんどん開店するような時代には閑古鳥が鳴くのもやむおえないであろう。久しぶりに自転車に乗り、家まで乗ったら流石に太ももがパンパンになっていた。

2004年12月6日

家探しレポート第3弾。今日は、調布の野川にあるエコビレッジをコーディネイトしている都市システムを訪れた。都市システムはコーポレイト・ハウジングを大々的に手がけている建築会社である。野川エコビレッジは戸建てのコーポレイト・ハウジングが売りということで、戸建てなのに自由設計ができ、しかも共有空間もゆたかにつくられ、しかもそれが5000万円前後という広告上は良いことずくめの案件である。場合によっては買ってもいいぞ、という気分で話をうかがいに渋谷の事務所に赴いたのである。都市システムの事務所に着いて驚いたのは、オフィスが非常に贅沢であるということだ。ソファとか椅子とかが高級品である。これは臭う。どの建築設計事務所も経営状況が逼迫している中で、これだけ利益を上げているのは何か怪しい。案件の説明をしてくれた人は、全部電化住宅という。え!全部電化?私は電化住宅ではなくてガスが好きなのですと主張すると、ガス線が引かれていないのでプロパンを買うしかないですね、という。どうもこの敷地は東京電力のもので、その他の東京電力の敷地と同様に電化住宅をつくるという条件で格安で売ってもらっているそうである。しかも敷地に接して西側には広大な駐車場。この駐車場は私の娘達がストーカーに狙われたら(その確率は低そうだが)、相当危険だね、と指摘すると、一生懸命そんなことはないと説明していたが、こちらはそういう点においては営業マンよりはるかに詳しい。結局、いい話はそんなにないということを改めて認識した日となった。

2004年12月3日

最近、住宅を探している。昨日は世田谷赤堤に計画されているコーポラティブ・ハウジングの説明を受けた。コーポラティブはとても自由に自分の好みの空間を創り上げることができます、と設計事務所の所長は力説していた。いくつかマスコミなどにも取り上げられたコーポラティブ・ハウジングを設計した実績のある設計事務所である。以前は、積み上げると50センチくらいの洋物の建築雑誌をもってきた顧客もいました、と得意気に話す。え!そんなに住宅に拘りがあるなら、コーポラティブ・ハウジングじゃなくて絶対戸建てでしょう。なんでそんな拘る人が集合住宅に住もうとするのだろうか。私の突っ込みに対して、それはお金がないからでしょうとの回答。そうか、お金か。しかし、そんなに拘るなら、大月くらいまでいっても戸建て住宅を建てるべきであろう。そんな拘った人が隣人だと、迷惑だな。集合住宅に住むなら、やはりある程度の妥協が必要なことは理解しておくべきである。それがいくらコーポラティブ・ハウジングであっても。逆にコーポラティブ・ハウジングもこの点をセールス・トークにし過ぎている。例えば、水廻りの位置も自由に設置できるというけど、そんなのはむしろ設計業者がしっかりと指導してあげるべきであろう。水廻りは北西の角に全フロアします、とか。そうした方が全体の効率ははるかにいいだろうし、音洩れの問題も少なくなると思われる。勝手に便所の位置が変わったりすると、水を流す傾きをとるのに苦労する。高さも削らなくてはならないかもしれない。そういう建築上の制限とか、構造上の問題とかは、むしろ設計業者がしっかりと説明すべきであろう。コーポラティブ・ハウジングでも、この住宅大量供給状況下ではあまり売れていないようだ。だけど、そこでしっかりと説明しないで馬鹿な消費者に売ってしまおう、という姿勢はむしろ私とかは購買意欲に冷や水を浴びさせられたような気分である。1週間前に訪問した鎌倉と同様、住宅を購入しようとして浮き彫りになってくる事実は、東京の住宅事情の貧しさである。ちょっと環境がいい住宅街だと、たかが60〜70平米のマンションに5000万円払わなくてはならない。なんでこんなに我々の住環境は貧しいのか。本当に嫌になる。

2004年12月1日

先週、松陰神社のうまい居酒屋に行った話を書いたが、そこで隣に座った20代後半くらいの女性と音楽談義をした。私が椎名林檎の天才性を語っていたら、「先生、いいセンスしてるじゃん」とか言われて、それなら「エゴ・ラッピン」を絶対聞くべきであると言われた。いいセンスとか言われると悪い気がしないので、こいつは信用できるかなと思って、早速超お勧め曲である「くちばしにチェリー」が入っている「ナイトフード」を買った。そしたら、これが駄目駄目だった。椎名林檎と全然違うじゃん。このエゴ・ラッピンはエブリシング・バット・ガールやシャーディ、アンテナの延長線上にあるパクリ系音楽でオリジナリティはまったく感じられない。そもそも、こういうのを聴くくらいならビル・エバンスとかジョー・パスとか、もちろんアンテナとかを聴いていた方がよっぽどましである。築地で寿司を食べにいけない田舎の住民がしょうがなく地元の回転寿司を食べているのならまだ理解できるが、今、このグローバル化されている時代においては、このような音楽を聴くこと自体が、東京に住んでいるにも関わらず、築地の寿司屋と同じ料金を支払って不味い回転寿司を食べにいくようなものである。比喩が遠回しで申し訳ないが、この「エゴ・ラッピン」と椎名林檎とは、天と地ほどの差がある。それは、ポップ音楽がグローバル化した状態において問われるオリジナリティ、アイデンティティといった点において比較できないような格差があるということである。「エゴ・ラッピン」はすべての局面においてアンテナやエブリシング・バット・ガールやシャーディに劣っている。そのような状態で何故、このような音楽を敢えて聴く必要があるのか。椎名林檎は彼女を代替するアーティストが世界中で不在である。戸川純と似ていると指摘する意見もあり、私も戸川純は好きだが、全然モノが違う。イチローと村松(現オリックス)とを比較するようなものである。村松も良い選手なのだろうが、大リーグで記録をつくるイチローとは才能が違う。椎名林檎の音楽がこの世からなくなったら、何を代わりに聴けばいいのだろうか。ない!エゴ・ラッピンの音楽がなくなったら、私はアンテナを聴いて満足する。逆にアンテナの音楽がなくなった場合、エゴ・ラッピンでは代替できない。もちろん、そこら辺で私が暇な時にコンサートをやっていたら行くかも知れない。しかし、そのようなレベルでしかない。ということで、松陰神社の居酒屋で知り合った女性はあまり信用できないことが判明した訳である。まあ、私に「センスがある」と言ったことで怪しいと思うべきであったのかもしれない。

2004年12月1日

ハイハイ・パフィー・アミユミ・ショーというパフィーをフィアチャーしたアニメ番組がアメリカで大受けだそうである。何と一回目は開局以来、デビュー番組としては最高の視聴率を取ったそうだ。素晴らしい快挙である。なぜ宇多田ひかるが受け入れられず、パフィーが受け入れられたのか。アメリカのサブカル的文化背景を探るうえでは、非常に参考になるいいケーススタディになると思われる。それは結論からいえば、パフィーが日本的なコンテンツを持っているからだ。パフィーはアメリカ人が極めて理解しやすい、受け入れやすいフォーマットで、しかしアメリカ人とは異なる日本的要素も有しているアーティストである。すなわち、アメリカ人が好ましく、しかも格好いいと思えるような日本サブカルチャーのパッケージングがされているのである。それは、アメリカ人の舌にも合う日本料理のようなものである。照り焼きチキンのようなものだ。それでは宇多田は何故、駄目なのか。それはあまりにもアメリカンしちゃっているからであろう。別に宇多田ひかる的な音楽を聴こうと思ったら、本家のアーティストで滅茶苦茶に歌がうまいのがたくさんいるからね。楽曲は結構いいけど、アメリカでヒットするほどは優れてはいない。例えれば、日本人がステーキ料理でアメリカで勝負するようなものかな。まあ、日本人のステーキ料理は結構、いけそうですが、宇多田ひかるの場合は、調理の仕方もアメリカ風だからね。そこがやっぱ受けない理由なのではないだろうか。そのような例えだと、松田聖子が受けないのは、彼女があまりにも日本人然としていて、アメリカ人が受け入れるようなフォーマットではないからであろう。映画ロスト・イン・トランスレーションに出てくる外国人にとって奇妙な日本人と松田聖子は同類だからね。そういった点でパフィーは遙かにコスモポリタンだ。ジャパニーズ・バット・コスモポリタン。パフィーみたいな日本人ばっかしだったらロスト・イン・トランスレーションのけったいな雰囲気は出ないでしょう。しかし、パフィーは間違いなく日本人の若い女性の良好なイメージをアメリカで形成することに貢献したと思われる。日本女性の代表とかはヨーコ・オノだったから、随分とイメージは改善されたのではないかな。素晴らしいパフィー。

それじゃ、他にアメリカで通用すると思われるアーティストは誰だろうか。アメリカではちょっと自信はないが、イギリスだったら椎名林檎は間違いなく受け入れられるだろう。彼女はもう日本人のエキゾチックさを、我々日本人にまで教えてくれる大天才だから。イギリス人のように耳が肥えている人達なら椎名林檎の音楽が傑出していることは理解できる筈だ。なんか、烏賊の活き作りみたいな料理かもしれないが(体が刺身になっているのに目だけをぎらつかせているような料理ですね)。

2004年11月30日

何人の学生がこのホームページを見ているか疑問だが、今日は学生達にメッセージを記したい。そろそろ3年生の就活が始まる。皆、そわそわして活動を始めているが、多くの学生は「やりたいことが分からない」という。要するにまだ就職する準備が出来ていないのである。しかし、大学というのは、「やりたいことを探すために」来るようなところなので、この段階でまだやりたいことが分からないのは問題である。というか、そういう学生はあと10年間大学にいてもやりたいことを探すことは出来ないであろう。まあ、そういう学生は基本的には「やりたいことがない」のである。だから、「やりたいことがある筈だ」と自分探しをし続けて、途方に暮れる心の旅に行くよりかは、自分が「やりたいことがない」ということを自覚した方がまだ建設的だと思えるのである。まあ、「やりたいことがない」人を採用するような会社というのは非常に稀だが、自分が「やりたいことがない」なら、逆に何でもやれるとも考えられる。全部やりたくない、なら就職しなければいい。まあ、そもそも職に過大なやり甲斐を求め過ぎている。これは、消費者意識で職も探しているからである。本当は学生の方が消費の対象になっているのだが、その点をなかなか気づかない。だって、何で会社は「やりたいことがない」ような無気力な人間を雇ってお金を払わなくてはならないの。生産してこそ初めてその対価として報酬を得られるわけでしょう。ううむ、メッセージを書くつもりが文句になってしまっている。これは、また後日考えを整理するようにするが、自覚して欲しい点は、自分がなぜ給料を貰えるのに値するのか。これを是非とも自問して欲しい。これへの回答ができた時点で、就職への心構えは以前に比べれば相当しっかりしたものになるであろう。私の場合は、最初から「やりたいこと」があって、それを実現させるために職を選んだり、留学してきた。なかなか、やりたいことが出来てはいないが、やりたいことは変わっていない。でも「やりたいことがない」ということも贅沢な悩みではある。

2004年11月29日

清原は巨人にどうも残るらしい。この判断を私は大変残念に思う。私が以前いた会社はいろいろと問題が多い会社であったが、その中でも人を大切にしないという点を私は非常に気に入らなかった。その会社は新卒社員の倍率が50倍程度の人気企業であったため(これは会社がしっかりしている訳ではなく、学生が無知で愚かであるからなのであるが)、しかも学部卒をほとんど採らなく、逆指名のように東大や京大、早稲田、慶応、一橋、東工大とかの大学院の人間ばかり採る読売ジャイアンツのような驕った会社であった。そのような人気企業であるために、人材をまったく大切にしない。だから早く辞めるのが賢明なのであるが、実力・能力があるにも関わらず酷い目にあっていても辞めなかった先輩達に共通していた点は、東大の博士卒や修士卒などの超エリートであったということである。彼らは会社という土俵で、自分を過小評価した上司を見返してやろうと考えるわけである。超エリートの傷ついたプライドは、自分を見下した奴を同じ会社という土俵でやっつけない限りは癒せない。なんか清原の姿勢をみていると、前の会社の超エリートの先輩達を思い出してしまう。

しかし、これはすごく外している。というのは、会社の上司は圧倒的に強いから。例え、その上司の能力が自分より遙かに劣っていたとしても、その力関係を逆転させるのは相当難しい。それが組織の秩序を維持するための上下関係、ヒエラルキーに基づいているらだ。このヒエラルキーを覆すのは、まあ本当に無理です。しかも私の以前いた会社のように、同僚もそこそこ出来るような場合、例え通算ホームラン数が500本に近いといった輝かしい過去を持っていても自分通りにはならない。まあ、清原が日本ハムとか横浜ベイスターズとかにいたら状況は違うかもしれないけれど、巨人には他にもいい選手がいるからね。選手の無駄使いとかは、大して痛くないのであろう。以前の会社の先輩達も、敵対している上司のさらに上の連中と仲良くなろうとしたりと、いろいろと姑息な手を使い頑張ったのだが、50歳を越えて会社を追い出されてしまった。若いうちに他の会社や組織に移っていれば、ずっとその優れた才能を発揮できたと思えるのに残念である。清原がユニフォームを脱ぐときに、ファンも残念に思わないといいのだが。諸先輩と違い、それほど才能のない私は、ただしそのような状況を理解する能力があったために会社を辞めたのである。まあ、清原があのような態度を取るのもずば抜けた才能があるし、その才能ゆえのプライドがあるからであろう。しかし、そのような才能でも克服できない組織の壁は確実に存在するのである。

2004年11月27日

今日は鎌倉に行ってコーポラティブ住宅の説明会に参加する。鎌倉は紅葉が見事であった。観光客が路地にまで溢れている。鎌倉に住む、というのは一つの憧れである。しかし、私が訪れた鎌倉は私を感心させるような住環境ではなかった。もちろん、雪の下や小町といった駅周辺の超高級住宅街はそれなりの風情があって好ましい。しかし、私が訪れた二階堂の周辺は、自動車が我が物顔で走り抜ける人に優しくない環境であった。残念だが、あまり積極的に住みたいと思うような場所ではなかった。鎌倉という場所ですらこの程度である。日本の住環境の貧相さを改めて思い知らされた。

2004年11月26日

今日はビオシティの編集長であり友人でもある杉田さんにゼミにて講演をしてもらった。雑誌づくりは映画、音楽、ソウルであるとの話をしてもらった。学生達は、世界観が広がったようで、特に就職活動を始めたこともあり、大いに刺激と励ましを得たようであった。喜ばしいことである。その後、新ゼミ生の歓迎会を高輪台のニーシェで行った。新ゼミ生はなかなかしっかりとしており頼もしい。是非とも、大いに若さと好奇心にもとづいた積極的なゼミ活動を行ってもらいない。

その後、青山のツィンズ・バーに行き、さらに松陰神社の居酒屋「まつもと」に杉田さんと行く。ここのつくねは東京一という杉田さんの意見は嘘ではなかった。非常に美味しいつくねに感動する。しかし、3時過ぎまで飲むと流石にこたえる。久しぶりの深酒であった。

2004年11月23日

風邪で体調を崩す。その後、どうも鬱状態になったようで、このダイアリーも更新する気力もないような状況であった。15日〜17日とバークレイの友人のキミー・チェンが家に泊まっており、彼女が興味を持つことが非常に興味深くレポートしたい気持ちもあったのだが、風邪でダウンしていたので忘れてしまっていた。まあ、彼女が見に行きたいところが外苑前の銀杏並木であったことなどが興味深かったのだが今、書こうとすると大して重要ではないような気がする。

夜、長女のピアノの発表があったので、家族で外食に出かける。地元のラーメン屋に入ろうとしたが休みだったので、近くにある以前回転寿司、今は居酒屋風寿司屋に入る。ネタは特に問題はなかったのだが、お茶とガリが回転寿司をやっていた時と同じもので不味かった。そこではたと気付いたのだが、私は美味しいお茶と美味いガリに非常に拘る質であったのだ。いくら値段が安かろうが、ネタがそこそこ新鮮であろうが、美味しくないお茶と美味しくないガリとでは寿司はいただけない。ということに気付いたのであった。まあ、これも大したことがないような内容で恐縮だが。

清原はどうも巨人に留まるらしい。会社がいらないというのに、去らないと言い張るのは悲しい。しかも他の会社は欲しいといっているのであるから尚更である。清原がサラリーマンであったら悲惨である。いやプロ野球選手でも非常に悲惨である。思うに、会社だろうと国であろうと、組織に執着を持つことは悲劇しかもたらさないのではないだろうか。

改めて椎名林檎の凄さを感じる昨今である。しかし、もう明かなのかもしれないが、椎名林檎の創作エネルギーの根源は性欲をベースにした生命力である。これは、もう壮絶なレベルなのではないかと推察される。よい子は近づかない方がいいでしょうが、その凄さが感動を与えるのであろう。音楽というメディアの凄さを改めて思い知らされる。彼女の前じゃビョークも霞むね。2枚目とか、アラニスのデビュー・アルバムに勝るとも劣らない。

2004年11月10日

シンポジウムに参加する。内藤正明氏が基調講演を行った。氏の話は久しぶりに聞いたが、相変わらず強い説得力を持っていた。それなのに押しつけがましくない。素晴らしい基調講演であった。分科会の発表では、尼崎の森の発表に感銘を受けた。私は最近、気になっている縮小都市の話を行った。

2004年11月9日

神戸に来ている。明日、兵庫県が主宰するシンポジウムのパネリストとして呼ばれているからである。遅い夕食を食べに街に出かける。ホテルは神戸駅のそばであり、ホテルに食事をするのにいいところを訪ねるとハーバータウンのお洒落なレストランを紹介してくれた。いや、そんな所ではなくて居酒屋がいいと言ったら、JR の駅の北側にあるいくつかの居酒屋マップを渡してくれた。おそらく、私のようなニーズが多いのであろう。ということで、ニューオータニ推薦の居酒屋の前までいったのだが、イマイチそうであった。どうもメニューがお洒落過ぎる嫌いがある。どっかの大手資本が入っているような嫌らしさが漂う。結果的に、駅前の立ち食いかつ屋に入ったら、これが非常によかった。レルネルさんが言うところのアーバン・カインドネス(都市の思いやり)を感じるいい食事ができた。牡蠣以外はすべて100円のかつ屋なのだが、店は結構繁盛しており、ほぼ満席であった。客は全員男で、皆、串カツとともに少しの幸福感をも胃袋に入れ込んでいるような感じであった。店はおばさんとおばあさんとで切り盛りされており、関西弁を喋れなくて浮いている私にも、比較的親切であったのが嬉しかった。こんな店に入るよそ者は少ないであろうのに、邪険にされなかったことは有難い(大阪では難しい)。かつは下品なソースをつけて食べるのだが、これが妙にうまく、合成着色料がたっぷり入ったウィンナー揚げとかを、このソースをたっぷりとつけて食べると相当いける。ううむ、レルネルさんを連れてきたい。ビール大瓶、小瓶を頼んで、腹一杯串揚げを食べて会計は2050円だった。私もレルネルさんの本を訳してから、都市の楽しみ方が以前より上手くなったような気がする。

話は変わるが、今日はゼミの二次募集の締め切り日である。私は経営の学生を取りたいと考えているので、二次募集を行うことをポリシーとしている。経営の学生の方がゼミに対して熱心である。しかし、経営のゼミは経済学科より少ない。そういうこともあり、慈善的な意味合いを含めて二次募集で経営(一次では経済しか募集できない)の学生を取るようにしている。そして、経営学科出身の私のゼミ生は優秀である。しかし、今回は去年と違って、応募者が極めて少なかった。これは経営の学生の私に対してのニーズがなくなったということであろうか。まあ、原因は不明だが、学生のビヘイビアにはたびたび驚かされる。しかし、このビヘイビアには必ず理由があるというのが私の仮説であり、きっと何か私のゼミを敬遠させるような理由があったのだろう。

2004年11月8日

バークレイの後輩であるキミー・チェンが東京に来た。キミーは台湾人だがもう10年以上サンフランシスコに住んでいる。ランドスケープ・アーキテクトとして向こうで働いているのだ。彼女が日本を代表するランドスケープ・アーキテクトでバークレイの先輩である上山良子さんと会うというので、私も一緒についていった。彼女のオフィスには2回ほど行ったことがあるが、バークレイに私が行く前であるから、もう12年ぶりくらいである。彼女は多忙にもかかわらず、我々のために2時間ほど時間を割いてくれて、ローレンス・ハルプリンの事務所で働いていたこと、最近グッド・デザイン賞を受賞した長崎のプロジェクトのことなど大変興味深い話をしてくれた。キミーも多いに感銘を受けていたようだ。彼女は今でも夜の11時30分まで仕事をしているそうである。素晴らしいエネルギーである。

2004年11月4日

大変なことになった。勿論、ブッシュが再選されたことである。私は7年ほどアメリカで生活をしていたが、ブッシュを再選させるアメリカを知らない。しかし、ケリーが勝った州はカリフォルニア、オレゴン、ワシントン、イリノイ、ニューヨーク、マサチューセッツと私が知っているアメリカであり、ブッシュが勝ったところは行ったことがなかったり、あまり知らない州である。アメリカという国がいかに危ういかを今回の選挙は知らしめてくれた訳であるが、知ってどうするという大変な状況に我々は追い込まれているのだ。と杞憂していたら、私の親友であるカート・ワージングトンからメイルが来た。他ならぬ良識あるアメリカ人も今回の結果には大いにショックを受けているようである。

Hello all,

I just wanted to send a message to you over there in Europe and Japan. And
that message is an apology. An apology of the ignorance and myopic view
that 51% of the Americans voting yesterday have regarding our country and
our country's place in the world. I just saw a report on the news which
showed a stunned Europe. I saw a French politician who said, I do not think
that we know America, I do not think we know middle America, I do not think
we know the religious America. All that is true. I must admit that I am
stunned, genuinely surprised and disgusted with the outcome of this election
and I too do not think that I know America because this is not my America.

It truly does not make sense. The majority of Americans felt that John
Kerry won all three debates, the majority of Americans feel that the country
is going in the wrong direction, the majority of Americans feel that the war
in Iraq is going poorly and its planning was poor and its reasoning was
wrong. Yet we re-elected a born again Christian who had rarely traveled as a
president and had not even been to Europe before he was elected. This is
the same man that takes pride in the fact that he does not read and jokes
without embarrassment that he can't speak the English language very well.
This is the same man that says that he answers to a higher power (God) when
making his decisions.

I truly apologize that this man was elected by my countryman. I could not
disagree with them any more. If you get a chance though, take a look at the
map that shows where people voted for Kerry and where they voted for Bush.
It is in middle America where Bush won. Along the coasts and in major urban
areas, where I think more educated people live, Kerry won in huge margins.
But it was in those areas where people never travel, have no desire to
travel and therefore are unable to put a face on that "foreigner" where Bush
won. The most frustrating thing for me is the fact that Bush's actions are
actually helping the factions he is trying to defeat. There was a news
report just recently that quoted an insurgent in Iraq, where he said that
"we hope Bush wins because he helps with our recruitment due to the hatred
that he fosters". It baffles me that my countrymen cannot see that.

I just want to let you know that there are many (48% of people who voted
yesterday) who feel like you do and that we will be a voice of dissention
against this man and his policies. It is true that we need to find common
ground with him but it is also true that we must stand up for what we feel
is right.

I write this letter so that you see that not all of America agrees with this
man and his policies but rather you see that millions and millions of us
could not feel more strongly and are quite upset by the outcome of the
election yesterday.

It will be an interesting 4 more years, one that I see as quite challenging.

Kurt Worthington

2004年10月29日

成城学園に行く。なかなか落ち着いたいい住宅地である。ニューアーバニズムを先取りした桜の木が道に植えられているのは、前からのお気に入りである。ただし、驚いたことに、高圧線が真上を通っている。高級住宅地に高圧線が通っているのは日本だけの現象ではないだろうか。ブラジルのクリチバでさえ、高圧線の下にはファベラもできない。これは、いかに金持ちが貧乏人と公平に扱われているかの証拠でもあるが、ある意味では金持ちでも高圧線から逃れられないという惨めさを象徴しているともいえよう。

2004年10月28日

日本は今、大きな変動期、パラダイム転換ともいうべき転換期にあるのではないかと最近、強く感じている。ナベツネの球界追放、堤コクド会長の退陣、三菱自動車をはじめとした三菱グループの転落、NHKへの不払い運動の普及、橋本元総理の派閥崩壊、そして紳助の涙の謝罪。紳助の謝罪会見をテレビで見て私は愕然とした。紳助は吉本興業の超売れっ子であり、利益を生み出す商品である。ファンやそこらへんのおばはんが暴行を受けて、訴えるならいざ知らず、吉本の社員が会社ではなく警察に訴えるとは驚愕である。紳助は、失礼な人やなあと思った人が吉本興業の社員であることを知って怒り沸騰したそうだが、これはやはり相当失礼な社員であったのではないかと推察される。暴行をふるったのは問題であるが、警察に訴えるって、その人の給料の相当分を紳助が稼いでいるのではないだろうか。というか、吉本の社員教育はどうなっているのか。こちらの方が気になる。紳助は吉本内で権力を持っていたのではないだろうか。紳助も紳助で涙を流しながら全面謝罪しなくてはならなかったのか。歪んだ正義とはいえ、私はやはり正義なのではないかと推察している。この事件は、吉本というヒエラルキーがしっかりしているお笑いの世界でも、そのような縦のシステムが崩壊していることを我々にまざまざと見せつけた。

そして、そのようなヒエラルキーが日本中で崩壊しているのである。ナベツネ、堤はまさか彼らの目が黒いうちに自分たちが退陣に追い込まれることがあるなどとは夢にも思っていなかったであろう。三菱グループもそうである。まさか、スリーダイヤモンドが悪の象徴のように人々から思われるとは想像もしていなかったと思われる。そしてNHK。NHKが人々から税金のようにお金を取って番組をつくるという封建社会のようなシステムは最早通用しなくなっている。これら現象に通底しているのは、ヒエラルキーの崩壊、権威に対する不服従である。1960年代の学生運動でも成し遂げられなかったような成果を社会の多くの場面で人々は得つつあるのだ。そして、それに対して私は快哉を叫ぶのではなく、むしろ暗澹たる不安を覚えてしまっている。ナベツネ、堤が退陣されるのは素直に喜ばしいし、NHKなどは私は20年前から一切、お金をびた一文払ったことはない。見ないのに勝手に受信料を請求するその傲慢さが心底気に入らないし、技術的には視聴した者からだけ受信料を請求するシステムなんて簡単につくれるのに、それをしないのは怠慢の極地である。それに、なぜ番組の広告までを地下鉄の駅などにするのか。そんな金をどこから工面しているのか。だから人々がNHKに受信料を払わない運動が広がるのは大変喜ばしいと思っている。しかし、それらの動きに通底している権威の否定には漠然とした不安を覚える。権威を否定した後、人々はどこに向かっていこうとしているのだろうか。私は、経済の大きなシステムからは抜け出した大学教員という恵まれた職についているので、勝手が言えるし、私のまわりにあるヒエラルキーに組み込まれることをかわして適当に生活できている。しかし、大方の人々はそのようないい加減な自由を得ることは難しいであろう。そういう時に、ヒエラルキーが崩壊された社会システムのもとで何を指針として、規範として生きていくのであろうか。それに自由さを感じて、能力を発揮できる人はそれほど多くはないであろう。私の学生も自由課題を与えると、お願いだから課題を指定してくれ、と言ってくる学生がいる。またゼミというヒエラルキーからも少なからず学生は脱却していく。しかし、このような学生はただ流浪していくだけなのではないか、と心配である。そして、その不安定さが、また新たなつまらないヒエラルキーを生み出す原動力になってしまうのではないか、という不安もある。オウムの麻原のようなヒエラルキーを。

2004年10月26日

今日はテンポロジー研究会のミーティングに出席した。東京電力のオール電化住宅に関して議論するためであった。私はアメリカに延べ7年間住んでいたのだが、その間オール電化住宅に住んでいて不便な思いをしていた。一番、腹立たしいのはチャーハンをつくる時である。あの火力の弱さでは、うまいチャーハンは絶対につくれない。日本に帰った時、あのガスの強火でチャーハンをつくった時の感動は忘れられない。ラーメンもガスでつくった方がうまい。料理に関しては、電化は絶対ガスには勝てないと思う。だから、他の人はどう考えようとも、私はオール電化住宅には住みたくない。一時は、流行りで売れるかも知れないが、長期的には売れなくなるであろう。ここに予言しておく。

2004年10月25日

今日は吉野家について。大学に奉職して、吉野家の牛丼が大学生に大変人気があることがわかった。ニューヨークに学生を9月に連れて行った時も、ニューヨークの吉野家の牛丼が学生達がニューヨークで食べた食事で一番美味しかったと宣っていた。昨年、カリフォルニアに学生を連れて行った時も、早く日本に戻ってヨシギューを食べたいと連呼していた学生がいた。ふうむ。アメリカのように牛を食べまくる国にやってきて、日本の牛丼を欲しがるというのは、いかにアメリカの牛料理が不味いか、もしくは日本の若者が牛料理の味を判断できないのかのどちらかであろう。しかし、吉野家の牛丼の牛はアメリカ産であるからなあ。

私はアメリカ文化に最も毒されたジェネレーションに属するものであるから、デートでは吉野家に行ったことがない。大学時代の女友達が、彼氏がデートで彼女を吉野家に連れて行く、と私に話した時、彼女は感極まって泣き始めた。もちろん、うれし泣きではなく、自分がとても不憫に思えたからである。私も深く同情して、別れた方がいいかもしれない、などというアドバイスをしたような気がする。結局、この二人は結婚することになるのだが、まあ吉野家に彼女を連れて行くのは、焼き肉屋に連れて行くのとは全く違うコンテクストで私の世代は捉えていたのである。それは、親しき仲にも礼儀ありにもとる非人道的な行為であったのである。そのような吉野家が違うコンテクストで捉えられるようになったのは、トモチャンこと華原朋美が「つゆだく」が好きとか言い始めてからではないだろうか。彼女が、吉野家の牛丼が若者に広く受け入れられる一つのきっかけをつくったと私は考えている。まあ、もう一つはバブルが崩壊して、肩肘張らなくてもいいじゃん、とかいう空気が若者を中心に漂い始めたからであろう。

とはいえ、私は学生を連れてヨシギューに依然として連れて行けない不自由ものである。男子学生とかでもプラチナ通りのラボエムに連れて行ってしまう。まあ、バブルという見栄っ張りな時代に学生だったから、ある意味で窮屈である。しかし、私はやはりヨシギューとかよりラボエムでビールでも飲んでピザでも頬張っている方に幸せを感じてしまうものなのである。

2004年10月24日

昨日は、上智大学でSALA(Salon of Latin America)の会の会員を対象として「クリチバ」に関する講演を行った。上智大学の学生、専修大学の学生も出席していた。同時間にレルネル元クリチバ市長が横浜で講演をしていることを考えると、なんかレルネル氏ではなく私の講演を聞いているのは、ずれている気もしない訳でもなかったが、私としてはいろいろご指摘等をいただき、大変勉強になった。SALAの会員の方々はブラジルに関しては私など足下にも及ばない専門家である。私はまったくブラジルの専門家ではない。ただし、レルネル氏に関しては、そしてレルネル氏のクリチバに関してはそれなりに詳しいと考える。クリチバがドイツであっても中国であっても同じように研究したであろう。クリチバの本は概ね御陰様で好評であるが、ブラジリアのファンには極めて不愉快な印象を与えるようだ。しかし、ここでまた主張させてもらうが、ブラジリアの都市が好きだとか宣う人は人間としての感性が壊れているとしか思えない。それは、ショッピングモールのイオンが好きだと言っているのと私から見れば同じで、本当の都市を知らないからだと思われる。私は最近、学生に無知が失敗の原因である、とよく言っているのだが、ブラジリアが好きな人は都市とか都市生活を知らないのである。

また面白いことに、私にブラジリアが好きだという人は皆(といってもそれほど多くはないが)田園調布に住んでいる。これは、まさにブラジリアというのが特権階級的な人のためにつくられた都市であることを示唆しているように思える。確かに歩く必要がない特権階級の人達は、あの都市を平面ではなく点で捉えるために、快適に思えるのであろう。ケビン・リンチのグッド・シティ・フォームでは、都市の評価指標として、バイタリティ、センス、適応、アクセス、コントロールを挙げているが、ブラジリアとクリチバを比較して、ブラジリアがクリチバより優れているものはどこにあるのだろうか。コントロールに関しては、金持ちはブラジリアの方がクリチバより優れているかもしれない。それは圧倒的に官僚的な都市であるからだ。もしかしたら、金持ちだとアクセスも悪くないのかもしれない。私はブラジリアを歩いていて、そのあまりの人間軽視のつくりに本当に心底腹が立った。あれは人間という存在に対しての冒涜以外の何物でもない。ブラジリアを愛する人達は、その都市を歩いたことがないのであろう。環境共生住宅の甲斐さんは、住宅が環境から孤立するテクノロジーを獲得した現代のシステムを「第二パラダイム」と定義して、それは力のある者、金のある者に都合がよく、社会的弱者には極めて厳しいシステムであると指摘している。ブラジリアもそうである。田園調布に住んでいる力ある者の、下らない嗜好に毛頭合わせる積もりはない。しかも、このような輩が私の意見を見下そうとするための売り言葉が、何年住んだことがあるのか?とか言う恐ろしく下らないものであった。何年住んだかが論理的根拠であるとしたら、よほどの馬鹿である。私はアメリカに延べ7年間くらいしか住んでいないが、ほとんどのアメリカ人よりアメリカの国立公園システムに詳しいし、都市行政に詳しい。私のように包括的にアメリカの都市を調べたことがあるものは、本当に少数である。クリチバのことも1970年代以降に関しては、生まれてこの方サンパウロに50年くらい住んでいる人より詳しい。そして、私は東京に32年くらい生活しているが、残念ながら大学に来るまで東京に住んだことがない三浦展氏ほど東京には詳しくはない。住んだ年数を問題にするような学者がいるとは、本当に驚きである。こういう学者がいるから、世間の学者に対する評判が悪くなるのだ。

閑話休題。昨日のSALAの会に出席した岸和田仁さんが私の書評を、ある雑誌で書いてくれていた。その中で私がサンパウロ・リオデジャネイロに関して「非効率」であると記したことに対して、「文化効率」ではどうだろうか、との指摘をされていたが、これは大変面白い考え方で参考になった。クリチバはカーニバルのランキングでは相当下である。文化効率といった点で、ブラジルの他の地域に比べては悪いということは、おそらく的確な指摘であろう。ただし、レルネル元市長の改革がなくても、クリチバは今と同じようにカーニバルはつまらなかったであろう。クリチバの都市計画の成功は、文化効率とは相関関係があまりないか、むしろ、その成功によって文化的に触発される若者なども出てくる可能性は高まったのではないだろうか。しかし、文化という点ではクリチバはリオデジャネイロなどの足下にも及ばないことは岸和田さんの指摘の通りである。

2004年10月23日

今日はゼミについて。学生を読者と想定して記す。私は理系なのでゼミはなくて研究室であった。大学に奉職して、ゼミを担当することになり、何がゼミなのか当初は戸惑った。しかし、試行錯誤を繰り返し、今ではゼミとは何であるか。そして、ゼミを取る意味は。私なりに答えが出来つつあるので、それをここで紹介したい。

ゼミはある意味で大学そのものである。サークルとかも大学の重要な要素ではあるが、サークルは学生が勝手にやっているものであり、大学から独立してもやっていこうと思えば大丈夫であろう。しかし、ゼミは大学と学生とをつなぐ、特に卒業後ではおそらく唯一の結節点なのである。卒業後、大学を訪れる場合は、誰を訪れるかというとゼミの先生である。そういう意味で、大学生と大学をつなぐほとんど唯一の窓口。これがゼミの持っている極めて重要な役割であろう。大学を出るということは、社会的においても重要なアイデンティティとなる。就職、転職、人生の転機において相談する、もしくは推薦状を書いてもらう、といった人(ゼミの先生)を大学において有していることは重要だ。私は出来の悪い学生であり、研究室の担当教官には結婚式にも出席してもらえなかったが(他の学生と重なり、彼が優先された)、それでも大学院の留学時には推薦状を書いてもらったりしたし、知り合いの先生を紹介してもらったこともある。今でも、学部時における唯一の接点である。アメリカの大学院は、日本の時とは異なり、変貌して真面目になったので、今でも懇意にしてもらっている先生が数多くいる。しかし、絶対的な信頼関係が構築できているのは修論の担当教官である。私は、実は最初に修論の担当教官をお願いしたのが、日本でも有名なアラン・ジェイコブスであった。彼は、私が最も敬愛するジャイメ・レルネルの親友でもあるのだが、私は数ヶ月で彼を「くび」にして他の先生(ルイース・モジンゴ)に担当教官をお願いしたことがある。神をも畏れぬ暴挙といわれるかもしれないが、私としてはこの判断は本当に成功であった。アランとルイースの決定的な違いは、学生に対する情であり、多少の専門知識より学生をしっかりと指導しようという情を私は優先したのである。また、ルイースの方がアランよりはるかに論理的でしっかりとした文章を書く能力があったので、留学生の私としてはルイースのこの能力は必要不可欠だったのである。結果的に、私は大学の教員として職を得られるきっかけとなるような論文を書き上げることができた。そして、ルイースとは今でも私の師であり、友でもあり、彼女に合うことはバークレイを訪問する大きな楽しみの一つでもある。学生からみると大学の教員は遠い存在かもしれない。しかし、その大学教員との人間的関係を構築できることは、人生の財産になると考えられる(まあ、私と知り合うことがどれほどの財産かは疑わしいが)

あとゼミの重要なポイントは、それが少人数講義であることだ。その道の専門家である大学教員による少人数講義こそ大学が提供できる最高の教育サービスであり、まあゼミに入らなければ大学での教育サービスの半分も受けられないことになる。教員と学生との距離は極めて近いので、単に学問的なことだけでなく、場合によっては就職面や人生問題に関しても相談に乗ることができる。それは社会人になる直前での最後の自己分析の貴重な機会なのである。そしてゼミの指導を通じて、卒業論文を書くうえでの様々なサポートを受けられる。よい卒業論文を完成させるためには、多くの努力と指導が必要とされる。自分一人だけではまず書くことができない。その指導は懇切丁寧さが求められ、ゼミ形式でないとそのような指導をとても行うことはできない。そして、卒論を書くということはしっかりとした思考を要求させられ、これは大変効率のよいトレーニングとなる。このトレーニングを受けることで、将来は必ず役に立つと私は考えている。私は卒業論文はともかく、修士論文は私のその後の将来の方向性を規定する重要な役割を果たしてくれた。

最後にゼミを通じて知り合う仲間は、将来的にも貴重な友人となるであろう。転職時、何か人生の困難に遭遇したとき、ゼミの仲間は大きな力になるのではないだろうか。私の場合も、フィールドスタディで訪問する大学は大学院の友人が働く大学ばかりであるし、大学院でのネットワークがまたさらなるネットワークを構築してくれている。人は一人で生きている訳ではない。ただし、マンモス私立大学だと、その巨大さに学生という個は呑み込まれてしまう。個としての学生を取り戻すことができるのがゼミなのである。そこは、学籍番号ではなく名前で学生は認識される。

3年生というと20〜22歳くらいか。極めて人生においても貴重な期間であり、だからこそこの年齢の時に大学に行くように教育システムは設定されているのである。私は自分が希望していた研究室に入れなかった。その選考はじゃんけんであった。ちなみに、自分のことを譲らない仲間にじゃんけんで決めようと提案したのは私であった。私は言い出しっぺの多くがそうであるように負けた。その結果、まったく興味がない研究室に所属し、先生が提示した卒業論文をただロボットのようにやった。卒論を主体的に出来なかったことを補うために、私は随分と人生を遠回りしているし、今でもその遠回りの過程にあると思うことがある。そういう自分の学部時代と比較すると明治学院大学の学生達は本当に恵まれていると思う。しかし、卒論を必修にしなくなってからか、それを書くことができない学生が多い。きつい言い方をすると、それは「いい加減」であるからだ。人生に対しても、仕事に対しても、自分に対しても「いい加減」なのである。そして、「いい加減」の恋愛をして、「いい加減」に子供をつくり結婚し、「いい加減」に仕事に就き、「いい加減」に子育てし、「いい加減」に年を重ね、「いい加減」に死んでいく。今までもおそらくそこそこ「いい加減」であった人生を大きく変換するきっかけが、ゼミそして卒論を書くという機会であるにも関わらず、ここも「いい加減」に辞めていく。卒論を書くことがかったるいと言うかもしれない。ゼミ活動が無意味であるというかもしれない。しかし、それは自分の「いい加減さ」を正当化するいい訳にしか私には映らない。まあ、いい加減に生きることはもしかしたら快適なのかもしれない。ただし、人生一度きりで、学生生活最後に何も残さないような情けないことでいいのか、と余計なお世話であるが思ってしまう。ここで余計なお世話で思うことは、しかし、おそらく私が大学教員として適している証拠であるとも考える。だから、専門学校とかが理由でゼミに来ない学生がいると、本当にがっかりする。私のゼミの3年生でもそういう学生がいたが、途中で税理士の専門学校を辞めてゼミに集中することにした。彼女が充実したゼミ生活を送って卒業できるように支援したいと思う。大学は専門学校と比較できるほど、過小評価されるところではない。

こういうことを私のゼミに応募してくれた学生を落とした後で書くのは極めて気が引ける。しかし、そのような学生も是非とも他の先生のゼミを二次募集で受けてもらいたい。私は、卒論を書かせるということをゼミにおいて絶対条件にしている。この卒論を書くことはとても大変な作業なので、街歩きレポート、ハビタット通信という作業を通じて、徐々に学生達の力をつけさせ、卒論を書き上げられるようにしているのだが、ゼミに入る時点で文章力、分析力が不足していると途中で挫折してしまう確率が極めて高い。なるべく挫折しないでやり遂げられる学生を選抜させてもらったということで、その点はご容赦いただきたい。また、そのような能力があると私が思っても、先輩の学生が問題があると考えた学生も残念ながら落としてしまった。これは、学生はコミュニティとしての服部ゼミの運営という観点からうまくやっていけそうな学生を選んでいるので、私とは違った評価指標を有しているためである。

今この時点は、何名かの学生を落としたことで、大きく疲れている。しかし、そのような学生を情で入れた去年は、まったくもって裏切られた。落とした学生と先輩は違うかもしれない。しかし、そのようなチャンスに賭ける気力を今年は失っている。申し訳ない。他のゼミで頑張ってもらいたい。そして、服部ゼミに通った学生も落ちた学生も残り2年半の大学生活を本当に有意義に過ごしてもらいたいと切に思っている。

2004年10月22日

今日はゼミ生、そして今年2月にクリチバに行った学生達とレルネル氏の講演を聞きにいった。東京国際フォーラムのCホールで行われたが、会場はほぼ満席であった。1500名程度は入っていたと思う。凄いことだ。私も20名以上を引き連れていたが、他の先生達も学生を相当動員していたようでもあった。レルネル市長の話は、流石に私は何回か聞いたこともある話であったので、特に新鮮味がなかったが、その後の伊藤滋、山本理顕と国土交通省のお役人達とのパネル・ディスカッションは面白かった。というか、パネラーはまったくレルネル市長と関係ない話をしており、そのギャップは興味深かった。隣に座っていた知人の都市デザイナーである川井さんは、これが日本の都市デザインの問題の背景だ、と仰っていたがまさにその通りである。国土交通省のお役人の方は、環境共生とかで得意気に森ビルの屋上庭園を見せていたが、こういう非連続的で、オープンにされていないものこそ、レルネル氏が最も軽蔑し嫌っていることである。伊藤滋先生は、意識的なのか無意識なのか不明であるが、まったくクリチバそしてレルネルさんと関係ない話をしていた。都市計画の仕事がなくなっている、という指摘はまさにその通りであるが、そのような流れをつくってしまったのは諸先輩方なのではないか、と私は多少恨めしく思いながら聞いていた。山本先生は東雲のプロジェクトの話をされて、結構、そのミックス・ユースの考えは面白かったが、同時にこのプロジェクトはレルネルさんでは絶対手がけないであろうと思った。そこには、根元的に人の幸せを考えている設計家の姿は思い浮かべられない。結局、ミックス・ユースにしろ、写真写りのいい意匠にしろ、そこに住む人の幸せそうな姿が浮かんでこない。私は一昨日、レルネルさんと一緒に東京の街を歩いてつくづく感じたのであるが、レルネルさんは人生、そして都市での生活を本当に楽しもうとしている。このレルネルさんの人間賛歌、都市賛歌がクリチバをつくり出していることを切に感じ取った。そのような人間賛歌、都市賛歌という根元的な情熱を持つ人がそれほどいないことが、日本の都市の悲劇なのではないだろうか。皆、働き過ぎでローンに追われて、ストレスを溜め込んで、せっかくの都市を楽しむ余裕がない。だから機能的なイオンばっかしがつくられるのである(そういう意味で東雲にイオンができたことはなんか示唆的である)。私は、パネラーの人達にはレルネルさんほどの情熱は感じ取れなかった。

講演後、フィールドスタディEのビデオを収めたDVDを渡すためにレルネルさんの控え室を訪れた。ブラジルからもわざわざテレビが来ていたのには驚いた。レルネルさんが取材で私の本のことを言ってくれ、岩村和夫さんが学芸出版社に連絡して会場に拙著「人間都市クリチバ」を持ってくるように言ったために会場で本が売られていたようだ。学芸出版社の前田さんに会場で偶然会うと、50冊程度売れたとのこと。レルネルさんと岩村さんには感謝の意を表したい。

2004年10月21日

今日は新しいゼミ生の選考を行った。応募してきた学生数は14名と去年よりも少ないが、教務課に応募書提出時に3つの課題を提出しなくてはならないようにしたので、結構精鋭が集まったと思っている。3つの課題とは、「ハビタット通信に対するあなたの意見・感想(1000字以上)」、 「あなたが取材をしたい人を一人挙げて、その理由を記せ」、「好きな空間、嫌いな空間を挙げて、その理由を記せ」である。選考方法は、3年生の選考委員3名による面接と私の面接を行い、その結果協議の上判断する。この方法が結構、私的には新しい発見をさせた。というのは、3年生と私とで意見の相違があったからである。3年生の方が私より厳しい。去年のように私一人で判断したなら、間違いなく入れていた学生に関して、3年生は3人で「入れるべきではない」と主張してきた。その学生は私の講義を以前履修していて、課題の出来とかはトップクラスである。しっかりやれば卒論もかけるし、問題を捉える視点もしっかりしていると思う。しかし、駄目だと自信をもっていう。私もその判断を受け入れなければ、3年生に面接をやってもらった意味がなくなるので、そのようにしたが、正直辛いものもある

私は基本的には大学生(特にホームグランドの明治学院生)の、勉強したいという意欲に応えたいという気持ちを強く持っている。したがって、ゼミに応募してくる学生を断るのは非常に辛い。落とすことは本意ではない。ただし、3年生の3人は私の厳しい課題等をこなして、私の信頼を勝ち得た学生である。ゼミを生き抜くために不可欠な要素等をある意味では私より知っているのかもしれない。私自身、「絶対頑張ります」というから本来的には問題があるにも関わらず、情でゼミに入れた学生が、その後全然頑張らないことに頭を悩ましているし、非常に信頼していた学生にゼミを極めて理解不能な理由(他のゼミ生と一緒に課題をすることが堪えられない)から辞められた経験をしている。私自身、自分の判断力に絶対的な自信を持てないことを自覚している。それゆえに3年生にも面接をしてもらっているのである。そして、3年生は私より、より服部ゼミに適合するかどうか、という観点から学生を分析する能力を有している。私と付き合うことの術を知っているのは、私より彼ら達であるからだ。

しかし、私のゼミを落ちた学生は、それを絶対的な能力の不足であるとは考えないでもらいたい。そして、是非とも他のゼミに二次募集で応募してもらいたい。落ちた理由は、服部ゼミに入る熱意、自覚が他の学生に比べて欠けていたことや、服部ゼミとはあまり合わないと思われただけである。それは能力的な評価ではない。

ということで、今回の選考によって服部ゼミとはいえ、私だけがつくっている訳ではないことをよく自覚させられた。服部ゼミは名前こそ冠に私の名前がついているが、徐々に私の占める割合が少なくなり、学生のものになりつつある。それは嬉しいことだ。そして、また新たに学生が入ってくる。ゼミはコミュニティである。私は教員であるから、そのコミュニティの司祭のような存在かもしれないが、その運営は基本的には学生がやる方がいいものをつくりだすであろう。そして、そのトレンドはこれからも連綿と続き、そのうち伝統みたいなものが形成されていくのであろう。それは、素晴らしいことのように思える。

2004年10月20日

今日は元クリチバ市長のジャイメ・レルネル氏と昼食を一緒にした。11時に彼が泊まっている帝国ホテルに迎えに行き、その後、雨が降っていたが有楽町まで歩き、神田まで電車に乗り、神田薮そばに行った。神田薮そばは決して美味しい訳ではない。個人的には松屋の方が数倍好きである。神保町の松翁や一茶の方がはるかに美味いと思っている。しかし、あの蕎麦屋風情はレルネルさんにとってより印象が強いのではないかと考えての選択である。日本酒を飲みつつ、つまみを頼み、天ぷらそばを食べた。途中で岩波書店の森光さんも合流してくれた。レルネル氏はすごい大食漢で、なかなか感動的でさえあった。とろろなども美味しそうに食べていた。薮そばが創立125年という話を聞いてレルネル氏は感心してくれたようであった。

その後、竹むらに行き、杏あんみつを食べた。森光さんはぜんざいを注文されており、ぜんざいがいいかなとは思ったが、まあ無難にあんみつにした。レルネル氏は桜湯も一気飲みされ、あんみつも美味しそうに平らげられた。流石である。竹むらは昭和5年からの歴史がある。建築も楽しめるという点で非常にいい喫茶である。その後、淡路町から地下鉄で帝国ホテルにお送りした。

ジャイメ・レルネル氏は私が考えるに、都市のことを最もよく知り尽くしている現存の人物でベスト5に間違いなく入る。私的にはナンバー1であるが、私の知識はたかが知れているのでまあ、ベスト5といっておけば間違いはないであろう。その彼の貴重な時間をいただき、東京をガイドするというのは身に余る光栄であると同時に、大変緊張するというか、私の東京への理解度が極めて問われる大仕事であった。と随分と身構えたのだが、結局、雨が酷かったということもあるが、それほど強烈な印象は与えられなかったかもしれない。勿論、打ち合わせという半分以上は仕事であったので、あまり気にしなくてもいいのだが、ううむ。なかなか、ここが東京の特徴であるということを短時間で示すことは難しい。神田須田町は結構面白いとは思うが、やはり街並みの印象度では神楽坂に行くべきであったか。夜だったら間違いなく四谷荒木町がいいのだろうが。とはいえ、店は店で難しいところもある。神楽坂のぶっきらぼうな親爺がやる日本酒店もワンポイントとしてはいいのかもしれない。いやはや、なかなか勉強不足を思い知らされた一日ではあった。

2004年10月15日

今日はゼミ生と恵比寿を歩き回った。恵比寿というのはなかなか掴み所がない所である。ゼミ生の中には恵比寿がはじめて!とかいう学生もいて驚いた。私は恵比寿というのは、飲みスポットとして極めてよくいく場所、というか青山に次いで多い場所であるので知っている筈だったが、多くの発見があった。特にカルピスのある一画は、あまり足を踏み入れたことがなく、あんなにラブホテルが建っていることは知らなかった。他にも風俗店やカラオケ、ボーリング場などが建っており、あの土地の地主は恵比寿に対しての愛着がなかったのであろう。よそ者のための土地利用ばかりがされており、恵比寿の闇的空間を形成している。これは恵比寿神社のある一画とは明らかに異なり、同じ繁華街でも恵比寿神社の周辺とは趣を異にしている。恵比寿神社も基本的にはよそ者のための空間なんだろうけど、恵比寿で店を構えることにプライドを持っている人達が多いと思われる。居酒屋とかも、この道40年とかいう親爺がいる。私が恵比寿で最も気に入っていた居酒屋はラブホテルのあるブロックにあった「いらっしゃいませ」であったが、最近沖縄居酒屋に変わってしまった。これが恵比寿神社のブロックであったら、もう少し頑張れたのではないか、と勝手に残念がっている。恵比寿神社の一画は、やはり昔からここを見守っているランドマークがあるために、空間とか場所に対してのロイヤルティが高くなるのではないだろうか。

あともう一つ、ほとんど足を踏み入れたことがなかったのは渋谷川が流れるブロックである。恵比寿生まれ、恵比寿育ち、広尾小、広尾中で今も恵比寿で生活しているという生粋の恵比寿っ子である私の友人新谷敦子嬢によれば、この一画に生えるJR線沿いの樹木をめぐり、植物論争でコミュニティが盛り上がっているような場所であるそうだ。渋谷川のそばは、羽虫のような小さな虫がイナゴの大群のように飛び回っていた。まったく安らぎ的なものは感じないが、恵比寿にも自然有りという印象を与える一画であった。しかし、三面ブロックの渋谷川を見ると、これが「春の小川」のインスピレーションを与えた川とは到底思えない。まあ、春の小川のインスピレーションは代々木八幡の周辺だそうだから、まああまり関係がないかもしれない。

服部ゼミの応募者数が今日、判明した。13名と公開ゼミの出席者18名より少ない!そのうち、12名程度は甲斐さんの講演を一緒に聞いていたので、これは正直驚きである。あのような素晴らしい講演を聞いて、それでもうちのゼミに入るのを辞めた学生は、正直大学を辞めた方がいいのではと思ってしまう。大学に何をしに来ているのか。まあ私が大学生の時もよく分からなかったが、今の学生も私がそうしたように将来、後悔をするのであろう。私の場合、その後、大学院に進学し、こうやって教職に就くことができたが、自分でも大変、幸運に助けられたと思っている。非常に運良く留学のための奨学金をもらうことができ、また非常に運良く、明治学院大学に奉職することができた。これは私の努力も多少あったかもしれないが、基本的にはついていたためである。しかし、ついていたけれどもやはり相当の遠回りをしたし、今でも大学時代に不真面目だったために、遠回りをしなくてはいけないことがたくさんある。やり直せるなら、やり直したい。だからねえ、本当、悔いはもたないように頑張ってもらいたいんだよね。

2004年10月14日

昨日のオマーン戦は素晴らしい戦いであった。フランスW杯予選のジョホール・バルでの対イランとの死闘で私はテレビに向かって、カズと岡野に罵詈雑言を吐いていた。日本でのW杯決勝ラウンドの対トルコ戦でも、トルシェや西沢を罵倒していた。私の一番情がこもった声援は、後方の列に座った藤原紀香へ対するものであった。何がいいたいかというと、今まで私は日本代表のチームに対して、勝った場合においても大いなるフラストレーションを抱いていたのであった。結果が伴ったことによる安心感はあっても、何かW杯のロシア戦とかも実力的には負けていたな、と思ったりしていたし、どうにも爽快感がなかったのだが、昨日のオマーン戦はそのような気持ちを抱くことはなかった。もちろん、オマーンはトルコでもロシアでもない。しかし、絶対落とせない試合をしっかりと戦える日本代表はジョホールバルから大きく成長したと感ぜずにはおられない。

2004年10月11日

昨日から今日まで鳴子に1泊旅行に行った。私が所属するブハハ(ブナ、ハンノキ、ハルニレ)の会主催の旅行である。私は昨日の夜から鳴子に入ったが、晩飯の後は「ブナの森を楽しむ」(岩波新書)、「アマチュア森林学のすすめ」(八坂書房)、「森の命の物語」(新思索社)などの著書のある西口親雄氏の講演を聞き、西口先生の豊かな知識と考察力に大いなる感銘を受けた。ジャポニカ物語という講演内容でササの話と鹿の話をされたのだが、なぜササと鹿が日本列島にて大いに繁栄したかを科学的証拠そして豊かな想像力とから説明され、私の知的好奇心は鋭く刺激された。

その後、西口先生とお酒の席でいろいろとお話をしたのだが、特に感銘を受けたのはビオトープの話であった。日本中にビオトープができているが、そのほとんどはトンボ池のような池ものである。しかし、先生であったら「蛾」を中心としたビオトープをつくると仰っていた。蛾を中心にするとそれを餌にする鳥もやってくるし、豊かな生態系をつくることが出来るとのことであった。「蛾」というのは、極めて意外であったが、森の生態系をよく理解している先生ならではの卓見であろう。

そして今日は昼まで西口先生と一緒に鳴子の裏にある森に入って散策をした。数多くのキノコ、ブナ林の生態、ブナの木にできた熊の冬眠のための穴をはじめとした興味深いものを多く観察し、知ることができた。大変有意義な旅行であった。

2004年10月8日

今日はゼミ生達とチームネットの甲斐さんのお話を伺いにいった。経堂の杜にある甲斐さんの事務所ではなく、松陰神社のそばにある欅ハウスのコモンハウスにてお話を伺った。欅ハウスは、その企画説明会の時に伺った以来だったので、既に完成されたその建物には大いに感銘を受けた。オープンな空間をしっかりと確保できており、コミュニティが協同することによってコミュニティの共有する資源を保全し、その結果、個々人の生活も豊かにさせていく、といった甲斐さんの考え方が見事に発露していると感じた。

今日は公開ゼミということもあり2年生も12名くらいは参加していたので、総勢25名くらいの学生がコモンハウスの中で座布団を敷きながら話を聞くことになった。甲斐さんはとても話し上手で、また話の内容も極めてオリジナリティに富んでおり、学生達の知的好奇心を大いに刺激したためか、学生は物音一つ立てずに聞き入っていた。私もサステイナブル・デザインというコンセプトに関して多くの人に話を聞いてきているが、このテーマに関して、甲斐さんの話が私に与えるのと同様の知的興奮を与えてくれる人はオーギュスタン・ベルク、滋賀の環境生協の藤井絢子さんくらいである。特に建築家がサステイナブルを考えてもまったく発展がないのは、単に建築のスペックを変えるだけだからだ、という指摘には正鵠を得ていると強く頷いた。最近、建築学会の地球環境研究部会に所属したのだが、そこでの議論とかに常にもやもやした居心地の悪さを感じていた。これは建築家がサステイナブルと主張しているものは、環境への負荷を低減させる建設材料を導入したりして、スペックを変えているだけで、その全体のシステムを改変させるという意図やビジョンがまったく見て取られないからであることに甲斐さんの話を聞いて気づかされた。8月にニューヨークを代表する建築家の一人であるマイケル・ソーキン氏に取材した時も非常に欲求不満に陥ったのだが、これも甲斐さんの指摘する建築家の思考の限界を突破させるような意見や考えが全くソーキン氏から出てこなかったからであろう。学生にとっても私にとっても非常に力づけられるいい話を聞くことが出来たと思う。甲斐さんには本当に貴重な時間を取って頂き、感謝の気持ちでいっぱいである。この時のお話は、ハビタット通信2号にて掲載予定であるので、是非とも購入して一読していただければと思う。12月頃に発売予定である(発売に関しての問い合わせはhattori@eco.meijigakuin.ac.jpまで)。

2年生も雨の中であるにも関わらず、公開ゼミに来ただけの甲斐があった内容であったと思う。大学での説明だけで甲斐さんの話を聞き損なった学生達は残念であったが、まあ服部ゼミに入れば、そのような機会がまたあるだろう。ゼミ生の選考も来週当たりから始まる。熱心に主体的に研究、勉強ができ、社会性に富んだ学生、そして明治学院大学を卒業した後、大いに社会にて活躍できるような可能性を有した人材が入ってくれることを切に願う。

2004年10月7日

マットビアンコのニューアルバム(といっても結構前に発売されたものだが)を購入した。バーシアが久々にその歌声を聴かせてくれるということで大いに期待をしたのだが、これはマット・ビアンコのアルバムであった。まあマット・ビアンコのアルバムなので当たり前なのだが、私はバーシアの新譜のような思いこみで買ってしまっていたのである。ということにアルバムを聴いて気がついた。マット・ビアンコも1枚目から3枚目まではたいへん好んでいたアーティストであったのだが、その後、結構どうでもよくなった。ということで、私にとっては期待外れであったのだが、これは当然、マット・ビアンコのせいではなく誤解をした私が悪いのである。それにしても思うのは、バーシアの正式なる復活である。もう40歳半ばくらいだろうと思うが、またアルバムを出してもらいたいところである。ミック・ジャガーだってそろそろ還暦なのに、あれだけ仕事をしているのであるから。

2004年10月6日

久々にバーシアを聞いた。バーシアがデビューした時は、本当にはまった。丁度、大学を卒業して就職したばかりの年にファーストが出たと思う。一枚目は非常にお気に入りのアルバムで、相当聞き込んだと思う。すぐ、マット・ビアンコのファーストを購入して、これも相当聞き込んだ。しかし、二枚目は一枚目に比べると相当パワーダウンしていてがっかりしたことを覚えている。埼玉の浦和のそばのコンサートにも行った。声が思ったほどパワーがなく意外であった。帰りがけに大学時代からつきあっていた彼女と些細なことでケンカをしたことも、今思い出した。まあ、私の20代前半を彩ったのがバーシアだったわけである。ということで、相当ご無沙汰していたバーシアを久しぶりに聴いてみたら、これがやっぱりいいんですわ。一番聞き込んでいない三枚目だったにも関わらず感動した。思わず、グーグルしたら、なんとバーシアは長い沈黙を破って、マット・ビアンコのアルバムに参加したらしい。おお!これはバーシアが私にテレパシーを送ったのか。と一人で盛り上がってしまって、しかもこのダイアリーに書いてしまったわけである。ということで、マット・ビアンコの新譜を早速買いに行かなくては。

2004年10月5日

JUDIが日仏会館と共催した会議に出席して司会をした。リヨンの都市デザインに携わり、都市を革命させた人物ともいえるシャルボノさんが来日をしており、日本の都市デザイナーと話をしたいということで企画されたものである。シャルボノさんの基本方針は自動車の空間を人間に取り戻すということで一貫している。人間のための公共広場をつくる術は、技術者というものでもなく、都市計画家というものでもなく、アーティストのものであった。したがって、広場も土木的な臭いがしなく、情感に溢れているような印象をスライドによるプレゼンテーションからは受けた。興味深いのは、大学生を含めて、多くの日本人が開発利益の還元はどうしているのか、とか公共広場を整備することの投資効果はどうなのか、と尋ねていたことであった。私も司会者として流石に、アーティストに聞いても答えられないのでは、と揶揄してしまったが、いかに日本で仕事をしている都市デザイナー達がお金のことや経済効果のことで日々悩んでいることが図らずも露呈されてしまった。

経済は重要である。しかし、それが人間より重要になることはあり得ない。ベルリンは確かにバブルから州立銀行まで破綻した。ワールドトレードセンターは70年代につくられてからテナントが埋まる90年代まで20年近く立っている。パリはオースマンにより財政が破綻した。勿論、これらのことが問題でないと指摘するつもりは全くない。しかし、金、金、金に支配されてはいいものはつくれない。というか、本当に必要なものは金より知恵である。経済評価は結構説得力があるが、決して社会現象を説明する言葉としては万能ではない、というよりかは欠陥だらけである。シャルボノさんが手がけられた公共空間の人間化という偉大な事業は数年単位で計測できるような限定的な効果しかもたらさないものではない。それは経済という尺度で決して測ることができない効果を都市にもたらした、と私は思う。というか、私の研究室の隣にある高層マンションのマイナスの外部経済効果をしっかりと考えてくれ!。プラスにしろマイナスにしろ、外部経済効果をしっかりと考えるべである。経済が捕捉できないところにこそ、人間の豊かさがあるのだ。そして、都市デザインとかは、人間の豊かさのためにあるメソドロジーではなかったのであろうか。経済的側面を無視することは確かに問題であるし、無責任であるが、それに囚われすぎるのは最適な都市デザインをするという観点からは間違っているのではないか。私はコルビジェとか原広司とかの建築家のエゴイズムを恐ろしく嫌っているし、軽蔑しているが、それは人間性を軽視しているからである。社会的責任という言葉に囚われて、経済効果を考えすぎることも、それはそれで人間性を軽視していると私は思うのである。

2004年10月4日

明治学院大学の学生に「都市のレポート」を先学期に書かせたのだが、中目黒は何故おしゃれなのか?中目黒に何故若者が集まるのか?といったテーマを選んだ学生が多かった。なかめぐろお?どこがお洒落なのか。私の感覚では、上目黒、下目黒、中目黒と並べても中目黒が一番低級というイメージである。これは勿論住宅地としてのイメージだが、東横線でも渋谷、代官山、中目黒、祐天寺、学芸大学、都立大学、自由が丘、田園調布と並ぶ駅の中でも中目黒はダントツでいけていない。なんかキャバレーとか安い風俗店とか、ホルモン系の安い焼鳥屋とかがあって、そこで飲んでいる親爺も安っぽい入れ墨をしているようなチープで東横線らしからぬ下品な駅というイメージがあったからだ。私は東山中学という中学校に電車通学で通っており、学芸大学から中目黒まで毎日通っていたのだが、中目黒の駅で乗り降りするのが嫌になって途中から40分かけて徒歩通学に変えたという経緯がある。40分歩くのは大変なので走っていたら、いつの間にか足が速くなってしまった。それはともかく、丘の上に位置する東山からすれば、中目黒や目黒川はどちらかというと迷惑というか敬遠すべき存在であった。もっとストレートな言い方をすれば、貧乏な人達が住む場所、というイメージであった(もちろん、そこからまた坂をあがる青葉台は当時から高級住宅地ではあった)。夏の目黒川といったらその臭さは尋常ではなく、春の桜は確かに綺麗であったが、普段はとても近づきたいというものではなかった。

中目黒もなんかパチンコばっかりやっているような、しっかりとしていない大人がお金がないけど居酒屋でくだを巻いていて、またそういう大人からでも毟ってやろうという蛭のような人達がうじゃうじゃいるというイメージであったのである。そのくせ、新宿の歌舞伎町や池袋、渋谷のようなターミナルの繁華街のような存在感もなく、どうにも格好悪いイメージが強かった。

中目黒を私に徹底的に嫌わせる原因の一つは山手通りの存在である。この通りは不快指数がめちゃくちゃ高い。歩道は狭いし、しかもその狭い歩道を凄いスピードで自転車がかっ飛ばしてくる。神風タクシーなみの怖さである。容積率制限めいっぱいに壁のように道沿いに立っているオフィスビルも威圧感があって不快になる。これは、中学の時の印象から現在もほとんど変わっていない。ただし、沿道のレストランはお洒落なものが増えてはいる。しかし、この山手通りに不快な要素を押しやって一歩、路地に入った道にお洒落な店が立地しているようになっている。昔の目黒川とは違って、アイビーなんかが護岸用のコンクリートを這っていたりして、雰囲気はいい。しかし、ここら辺の路地もタクシーをはじめとした自動車が疾走してくる。快適な歩行環境がなかなかつくれない。ただし、逆にここら辺を歩行者を重視したような都市デザインを行えば見違えてよくなる可能性はある。安普請なアパート、オールドファッションのカラオケスナックとシックなアジア料理屋、アパレル・ショップが隣接して並んでいる空間は東南アジアの表参道のような雰囲気がしなくもなく、あと10年くらいで恵比寿のようになるかもしれないという予感はする。

恵比寿だって、ちょっと昔までは垢抜けないサラリーマンの街だったのである。ウェスティン・ホテルや恵比寿ガーデンプレイスが出来る前までは、確かに恵比寿ビアガーデンは当時の学生であった私には魅力的なスポットであったし、古着屋なんかもあって多少お洒落であったが、それでもスノビッシュな感じはまったくなく、美味いラーメン屋とビアガーデンの街だったのである。しかし、段々と代官山ヒルスのオッシャレエみたいな雰囲気が恵比寿の方にまで押し寄せてきて、松任谷由実御用達のイタメシ屋フラッグスなどに人気が出来たりして、またその後、雑誌HANAKOなどの情報誌が創刊されてどんどん、恵比寿周辺にお洒落を消費したがる人達が押し寄せてきて、よりお洒落度と観光地度が増したのであった。というのが私の恵比寿解釈だが、代官山ヒルスのオッシャレエなエキスはついに中目黒を越え始めたのか、というのが最近の大学生の中目黒に対する良好なイメージから理解できた。しかし、まあそれにしても中目黒ねえ。といいつつも、私が非常に好きなショットバーは中目黒の「ひらさわ」である。ここのドライ・マーティニはどこよりもドライである。美味である。