2005年4月30日

ハサヌーディン大学で講演をした。世界の都市からみた都市問題といったテーマで、都市は問題ではなくて解決であるという内容で講演を行った。予想を上回る盛況で200人以上の学生が集まっていた。大きな横断幕が張られており、なんか大先生と誤解されているような感じも受けたが、過大評価されていることをうまく使わない手はない。こちらも自信をもって講演をした。1時間30分ほど話をし、後半の15分くらいは、マカッサルの都市を患者と見立て、我々は医者であったらどのように診断するかという課題を与えて、議論した。大学の教員よりかは学生の方が本質を突いた鋭い質問をしてきて、非常に刺激的で楽しかった。自動車の問題、ペテペテの問題、ベチャックの問題などは、この場での議論から解決方法が見いだせたような気もする。講演終了後は多くの学生が私の名刺を欲しがってやってきた。まだ専任講師の古い名刺がたくさんあるので、欲しい人には気前よく渡した。スターのような気分に一瞬なる。しかし、学会賞受賞といい今日の講演といいどうも過大評価されることが最近多い。しかし、今日は我ながら頭がよく回転し、大先生のような講義内容であったのではないかと思ったりしないわけでもない。犬もおだてりゃ木に登るである。

2005年4月29日

今日はマカッサル市のGIS課に訪れた。GISのデータがどの程度整備されているのかを調べようとしたら、現在データを更新中なのでコンサルタントが持っていると言っている。古いデータでいいと言ったら、いろいろと言い訳を言って結局出せないという。よく聞いてみたら古いデータもデジタルでは有していないことが明かとなった。しょうがないので、コンサルタント会社に職員と一緒に訪れる。コンサルタント会社には極めて優れたGISデータがある。これらのデータは市の発注によって整備されているのだが、市側はデジタルデータで所有することが出来ないという。データが必要なら我々にもコンサルタントに金を払えと市の職員が言う。すごい癒着の構造があることが推察される。都市計画はパブリック・セクターの仕事である。しかし、パブリック・セクターが本来やるべき仕事をしないで、外注にひたすら依存している状況にマカッサルはある。そんな役所ならない方がましである。公僕という意識がまったくない。むしろ特権階級である。この構造を抜本的に変えない限りは何を提案しても無駄である。呆然とさせられた一日であった。

マカッサルの満月

2005年4月28日

マカッサルのオーシャンフロント通りにあるプロムナードでは、日が沈むとカップルやピーナッツ売り、そしてギター小僧がどこからともなく現れてくる。ギター小僧はどうもカップルをみつけると、その傍らに来て弾き語りをして金を請求しているようだが、これはとんでもないお邪魔虫である。そもそもカップルは二人の世界をつくることに懸命である。とはいえ、こんな人だかりのするプロムナードに来るカップルもカップルだが、それはこの際考えないことにしよう。その二人の世界に図々しくも入ってきて、しかもギターを弾く。さらに、このギターがとてつもなく下手ときている。私の数少ないサンプルではあるが、誰一人としてうまくない。コードも三つぐらいしかないような曲を雑に弾いている。インドネシアは駄目だなあと思っていたら、史上最高のギタリストとして誉れ高い天才ギタリストであるエディ・バンヘイレンは母親がインドネシア人であることを思い出した。ううむ。その昔、彼の凄さ、天才性はなんか通常ではないDNAの核融合でもあったのではないかと考え、もしかしたらインドネシア人の血が入っていたためなのかもしれないと勝手に推測したことがあったのだが、私の推測が正しいと思わせるような証拠はここマカッサルではまったく見いだせない。

2005年4月27日

今日はマカッサルの住宅地をカメラをもって訪れた。「フォートミ」と子供達に声をかけられる。私のカメラは一眼レフでごついので、どうもカメラマンと誤解されているのかもしれない。何しろ、非常に人なつこくせがまれるので、バシバシ撮っていたら喜んで、子供達がずっと私の後を追いかけてくる事態になってしまった。まるでブレーメンの笛吹男のような気分である。しかし、おかげでいい写真がたくさんとれた。ジャカルタに来る前に一眼レフカメラと超広角レンズを購入したのだが、なかなかの優れものである。

2005年4月26日

今日はマカッサルのインペリアル・ホテルで1時間の講演を行った。対象はインドネシアの役人を中心としたマミナサタ地域計画のステーキホルダー達100人程度である。講演は英語で行ったが、インドネシア語に同時通訳されたので、比較的好評であった。内容は「都市は問題ではなく解決である。しかし、そのためには計画をしなくてはならない」というものであった。好評であったのはよかったのだが、終わったら私のプレゼン資料を多くの人がハードディスクからコピーをさせろと言ってきた。さすがに南スラワシ州の副知事が出席してくれたために、州関係者には一部渡したが、NGOとかには断った。何をされるか分からないが、それにしても図々しいのに呆れる。NGOは私が断ったのに対して「何故だ」と憤慨していたが、知的財産とかに対しての認識のなさに絶句する。

マカッサルは多くの問題を抱えた都市である。しかし、解決法がなさそうで途方に暮れる時には私はケビン・リンチの5つのディメンションを思い出すようにしている。バイタリティ、センス、アクセス、フィット、コントロールである。まず、アクセスを高めよう。歩くための動線が遮断されている。動線を復活させよう。公共交通がシステム化されていない。フィーダー交通は相乗りタクシーとサイクルリクシャーが普及しているようなので、トランク交通をしっかりと整備し都市軸をつくろう。バイタリティは公共広場が貧相なので都市のシンボルとなるような広場をつくろう。海岸はごみが散乱しているが美しい。ここを活かした公共の広場が欲しい。センスは地霊である。地霊はあまりまだ感じない。マカッサルのセンス・オブ・プレイスはどこにあるのだろうか。フィットは、適切な場所に適切な土地利用である。海辺の土地利用はフィットしない。アメニティを高めなくては。商店街を自動車が結構のスピードで走っているのもフィットしない。どうにか自動車交通を他に移さなくては。コントロールはどうも現時点ではノーコントロールのような印象を受ける。これは難しい問題であるが、今後検討していなくては。

マカッサルの問題は自動車、ごみを始めとした環境か。都市は問題ではなく解決。これを理念として、思考をフルに回転させることが必要である。そのためには、やはり都市をもっと知らなくては。知らなくて何が出来るのであろうか。ということを改めて認識する。

2005年4月25日

マカッサル2日目。今日は朝から事務所に行き、翌日の講演の準備をする。6時頃にホテルに戻り、同宿の木村さんと近くのレイレイというシーフード・レストランに行く。地元ばかりの客で英語はビール以外通用しなかった。グリルで海老と鯛のような魚をやいてもらい、私の好物にすでになっているかまぼこを注文する。結構、いける。ビール大瓶を3本頼んで二人で1200円程度であった。まあまあ満足である。

帰りに路傍の店でファンタ・ストロベリーという缶ジュースを興味本位で買ったら、これが超絶不味かった。昔、かき氷にのっかっていたイチゴ・シロップを炭酸で飲んでいるようなものであった。いやはや、大抵のものが大丈夫の私もこれはさすがに一口でギブアップした。

2005年4月24日

今日も飛行機に乗った。ジャカルタからマカッサルへ2時間のフライトである。マカッサルは初めてである。マカッサルはセラワシ島の南西に位置する。島が機内からみえてくるとすぐ飛行機は着陸態勢をとった。のどかな懐かしい田園風景が眼前に広がる。このような風景は30年前なら日本でもみられていたものである。ここもあっという間に変化していくであろうか。インドのウッタラプラデッシュ州の州都であるラクナウを訪れた時と似たような光景である。まだモータリゼーションがそれほど進んでいないことがオートバイの多さからうかがえる。港のそばには漁師が多く住んでいるトタン屋根の家々が肩を寄せ合うように建てられている。これから展開するであろうモータリゼーションにどのように対応するのか。北京と同じような道を歩んでは駄目である。いかに多様な交通モードを提供できるようにすればいいのか。自転車はまったく走っていないかと思ったら比較的多い。先入観で問題の解決法を考えてはならない。人々の意見を聞きつつも、専門家としての分析力が問われる。

海岸沿いのクオリティ・ホテルに宿泊する。これはクオリティ・イン系のチェーンであった。明日から10日ほどここマカッサルに滞在することになる。夕食はコウエイ総研の小泉社長を始めとした今回のチーム・メンバー達とともにする。マカッサルはシーフードが美味しいということであったが、確かにその通りであった。特に笹のようなものに包まれたカマボコが気に入った。洗練はされていないが、3週間ほど前に食べたフランス料理よりもある意味で美味しいとも思う。マカッサルは私のイメージとしての熱き東南アジアそのもので、結構わくわくする。ここの都市の将来像がまだ思い浮かばないが、この10日間ほどで方向性を見出したいと思う。

2005年4月23日

また飛行機に乗っている。日本航空で成田からビジネスでジャカルタに飛んでいるのだが、全日空と比較した場合、日本航空のサービスの悪さが気になる。最近は事故も多いし、パイロットが淫行で捕まるなどろくなことがない日本航空であるが、何が起きてしまっているのであろうか。スチュワーデスのサービスもどことなくおざなりな印象を受ける。ラップトップのバッテリーを借りようとしたのだが、面倒くさそうな対応をされて驚きであった。以前にも書いたが、日本航空のエコノミーの食事はアメリカの航空会社に追随するかのごとくまずくなっている。スチュワーデスのサービスもアメリカの航空会社を目指しているのであろうか。日本航空の何かがおかしくなっている印象を受ける。もはや日本のフラッグ・キャリアーとしては全日空の方がふさわしいのではないだろうか。両航空会社に乗るたびにそのような印象が強くなる。

さて、久しぶりにジャカルタを訪れる。私はあまり親友と呼べるような友達がいないのだが、ジャカルタにはその数少ない友人がいる。彼は高級官僚で、私の友達でめずらしく出世もしている。ホテルに着くと早速連絡をして、迎えに来てもらい、近くのレストランで彼の家族と一緒に食事をした。彼は私と同じく2人の娘がいるのだが、長女は宿題があるので来られなかった。この2人の娘は極めて優秀なのだが、次女は物理の小学生オリンピックのインドネシア代表で今度の11月の大会に出るそうだ。ジャカルタ予選では一番だったそうである。長女が優秀なのは知っていたが、次女もとびきり優秀である。奥さんも弁護士として去年、事務所を立ち上げたそうである。私の友人もインドネシアの交通学会の会長をしており、まあ飛びきり優秀な一家である。すでに一軒家を構えているのだが、さらに隣の家も購入して現在、拡張工事をしているらしい。羨ましい限りである。彼はたびたび日本に来るのだが、最近、某コンサルタント会社の重役によって彼は接待されたらしい。彼はひたすら市場とかラーメン屋のようなところに行きたがったのだが、先方はそれでは失礼と思ってパレス・ホテルの上のバーに連れていったらしい。彼は全然真意が伝わらなくて残念だったと笑いながら言っていたが、本当にここらへんは誤解がある。今でも外国人を接待するのは西洋風の高級レストランや高級バーがいいと思っている人が多くいるが、都市計画関係者はそんなところはまったく有り難がらない(なかには私の前の会社の先輩のようにそういうことを有り難がる人もいたが、彼は都市計画家としては三流であるのでそういう嗜好があるのだ)。彼にとっては私が連れて行った庶民的なラーメン屋や天ぷら屋に行くことが日本に来る多いなる楽しみで、ジャカルタの高級ホテルにあるのと同じような東京の高級ホテルのバーに連れて行ってもらっても全然嬉しくないのだ。高いものを払えば喜ばれると思うのは、ブランド品を有り難がるのと同じ構造で情けない。朝早く築地市場に行って、市場内の寿司屋でご馳走するとか、大久保の韓国街に連れて行くとか、神楽坂を歩かせて怪しげなバーに連れて行ったり、神田須田町でそばを食べさせたりしてあげればいいのだ。このような発想ができない人が都市計画に従事したりするから、お台場とか品川駅とかの下らない、日本の恥となるような都市開発が行われ続けるのである。私も学会賞を受賞した責任もあるので、ここらへんは根本的に取り組まないといけないことを、ジャカルタでも思った次第である。

2005年4月22日

国際交通安全学会賞を受賞したので経団連の授賞式に出席する。主賓は警視総監であった。結構、しっかりとした賞であるらしく、仰々しい式が執り行われた。もちろん受賞は身に余る光栄であるのだが、私の受賞理由などを聞く限り、私の本の本質的なところが理解されていないような違和感を覚えた。というのは、受賞理由がクリチバの交通計画の素晴らしさを紹介すると同時に、都市計画、環境計画といった包括的な視点で整理し、とあるのだが、受賞対象著書の「人間都市クリチバ」は、都市計画、しかも土地利用計画という大きな傘の下に、交通計画、環境計画などを策定することが特徴であると紹介してあるのであって、交通計画はあくまで都市計画の一要素にしか過ぎないようにしたことが、成功の大きな要因であると述べているからである。交通計画が都市計画と並列に置かれることが問題であると述べているのだが、この点はうまく理解されていないような印象を受けた。まあ、うまく理解されなかったために受賞できたのなら、これも怪我の功名か。ともかく身に余る光栄であるが、逆に、私の本はどうも都市計画関係者以外の評判がよく、都市計画関係者からの評判があまりよくないような気がしてならない。これは日本の都市計画の問題点を最後の章で記述しているので、都市計画関係者は自分達が批判されているような印象を覚えてしまっているからであろうか。しかし、実際日本の都市計画はどうにも酷い状況にあり、自己弁護がしにくい。勿論、少しずつ改善されている面もあるが、一方で都市計画不在のような乱暴な開発も相変わらず行われている。その責任の一端は私にもあるのだろう。学会賞受賞ということで、私もより社会的責任を自覚して少しでも都市環境が改善されるように努めなくてはならないと思う次第である。

今日は私にとっては下手すれば一生で一度の学会賞受賞日であったので、家族と磯勘に寿司を食べに行った。平貝、アイナメ、赤貝、鮑、烏賊、トリガイ、初鰹、わさびたらこ、ウニ、と私の寿司の常識を変えるような美味しい食事ができた。こんな美味い寿司屋が歩いていけるところにあることに感謝する。ただし、唯一感心しなかったのが中トロであった。他のネタがあまりにも美味しいので普通の中トロごときでは感動しないのだろうか。どちらにしろ、家族で行けるという条件下では、磯勘は私の知っている寿司屋では極めて高いレベルにある。幸せな夕食であった。

2005年4月20日

シアムメディア研究所が主催したテンポロジー・ミーティングで服部ゼミの学生と早稲田のフリーDVDを作成している学生などが、その活動内容を発表した。このような機会をセッティングしてくれる人達が現れることが、ハビタット通信のようなメディアを出すメリットである。メディアを出すことで社会が反応する。早稲田の学生の発表で、メディアを舞台のようなものであるとの発言があったのだが、それはメディアの性格を適切に把握した意見である。服部ゼミの学生の発表はまだ、そのようなメディアの性格を認識したものではなかったが、いろいろと勉強して、向上してもらえればいいと思う。

2005年4月19日

今日は長女とノラ・ジョーンズのコンサートを東京国際フォーラムに見に行った。ノラ・ジョーンズは2001年にデビューした「カム・アウエィ・ウィズ・ミー」が1800万枚も売れるベストセラーになったミュージシャンであるが、なんとお父さんがラヴィ・シャンカールであるということを、先日ラヴィ・シャンカールのCDを買って初めて知ったのである。ラヴィ・シャンカールといえば世界的に有名なシタール奏者である。すると、ノラ・ジョーンズはインド人の血が少なくとも半分流れているということである。エキゾチックな容貌だったのとニューヨーク出身なので、勝手にアフリカ系アメリカ人の血が入ったコーカソイドかと思っていたので、本当に意外であった。しかもあのラヴィ・シャンカールである。生まれた時にはどうも離婚していたそうなので、父親とはどの程度会っているのかも不明だが、天才はやはり遺伝するのだろうか。しかし、インド系でこんなにブレークしたアーティストも珍しいのではないだろうか。

というようなことを考えながらコンサートを鑑賞していたのだが、非常に質の高いコンサートであった。ギタリストがあのクリッシー・ハインド率いるプリテンダースのギタリストであったという驚きもあったが、まあバックのミュージシャンも渋めのプレイヤーを集めており、洗練された時間を過ごせた。なぜか長女は汗をかきまくっていたのが不思議であったが、寝ないで見ていた。寝られたら、コンサート代がもったいなかったのでとりあえずはよかった。アンコール前の最後の曲はザ・バンドのライフ・イズ・カーニバルでこれも意外であった。ザ・バンドのファンである私にとっては嬉しい驚きであったが、他の客はほとんど知らないようであり、私のような昭和30年代生まれでアメリカン・ロックを聞き込んでいた観客以外は、その流れについてこれないようであった。これは面白い現象である。というのは、ザ・バンドのようにアメリカのロック文化の教科書的なものを、ノラ・ジョーンズのコンサートにくる観客達は知識として共有していないことが判明したからである。アメリカでのコンサートでは、ここらへんの基礎知識が全く違う。まあ、アメリカの大学でも私はジェネシスやピーター・ガブリエルなどのブリティッシュ系に関しては断トツで詳しかったが、イーグルスとかドゥービー・ブラザースとかザ・バンドとかトム・ペティとかは、やはりアメリカ人の聞き込み度の違いに感服したりしたものである。このようなロック文化の文脈に通底していないと、ノラ・ジョーンズのコンサートも楽しめないとは、結構、教養は必要であることが判明した。

ライフ・イズ・カーニバルで私は立ってノリノリであったが、長女は座ったまま、私のことを不安げな眼差しで見つめていた。全般的に大人のカップルが多く、まあ社会人のデート向けとしては相当良い線いっているコンサートであったのではないだろうか。しかし、そのような期待をザ・バンドの曲を演奏することでぶち壊してもくれたので、私は少しだけ爽快な気分である。

2005年4月16日

中国の反日運動は収束に向かうどころか、むしろ激化している。日本の歴史教科書の問題は確かに中国人や韓国人からみると甚だ不快であることは理解できる。侵略を進出と書き直すなど、まさに強姦した男が後であれは和姦と言っているような図々しさである。しかし、これはずっと昔から日本は性懲りもなくやってきたことであり、昨日今日に始まったことではない。この事実は、私でさえ大学時代頃から困ったものだと不愉快に感じていたようなことである。小泉さんだって、急に今年から靖国神社に行くと言い始めた訳ではないし、中曽根さんが総理大臣の時にだって訪問をしている。それなのに、なぜ21世紀になって、中国もオリンピックを開催できるように発展してきた今になって、このような運動を展開するようになったのであろうか。特にきっかけが見えない。東シナ海の油田問題で、ここまでの運動を市民レベルが起こそうとするとは思えない。

しかし、今回の事件でつくづく思わされるのは愛国精神だとか、「国」という訳の分からない概念に振り回される愚かしさである。中国人が日本を嫌っている背景となる事件も、日本の「愛国忠心」といったくだらない国家的コンセンサスによって起こされたのである。したがって、中国が攻撃するべきは日本人というよりかは、日本の「愛国」といったメンタリティであるべきである。その中国が、「愛国の気持ちなら許されるべきだ」と上部も本気で考えているようなら、それこそ目くそ鼻くそを笑うの愚かしさであり、嘆かわしい限りである。1940年代ならまだしも、21世紀にもなって「愛国」といった前近代的な概念で自己の破壊活動、暴力活動を容認するような幼稚なメンタリティの国がグローバル化社会でやっていけると思っているのだろうか。もちろん、世界のリーダーを自任するアメリカ合衆国が「神の国」といったオウム真理教なみの稚拙な発言を大統領自らが行っている現状では、中国だけを批判することは難しいが、現在の中国の反日運動をみると、それこそ批判対象である日本が陥った愚かしい集団心理と同様のものに陥っているように思えるのである。

2005年4月15日

あっという間に新学期が始まり、あたふたしている。中国での反日運動はなかなかショッキングな事件である。このような反日運動の高まりと改憲の国民投票の議案を通そうとする動きがシンクロニックに起きていることに非常に嫌な予感がする。まさか日本の陰謀ではないだろうが、なんか気になる。このような反日の背景としては、もちろん中国政府の戦略があるのだろうが、小泉さんの靖国参拝、そして国歌斉唱・国旗掲揚の高校等での強制、差別的政治家石原都知事の異常な人気、などこの10年ほどの日本政府や役所の傲慢が背景にあったことは確かであろう。アメリカを盲目的に敬愛するアメリカかぶれ、そして日本蔑視の日本人(ほとんどが女性)も毛嫌いしている私であるが、歴史的認識がないために国旗や国家が包含する問題を理解していない日本人は私でも恥ずかしいし、不愉快であるぐらいだから韓国人や中国人ならなおさらであろう。都立高校とかはとても子供を入れられない。英語などを勉強する前に、国際人として必要とするバランス感覚を育てることが必要である。都立高校なんかを卒業して、その後そのような国際的バランスを養ったら、得意気になって国歌を歌っている自分の無知さに嫌になって、本当に愛国心がなくなると思われるのだが、どうだろうか。ちなみに私は絶対「君が代」は歌わない。というか、あまりにも嫌いだったら歌詞も本当に忘れてしまって歌えなくなってしまった。カズとかが昔、得意気にワールドカップの予選で君が代を歌っているのを見て、本当にバカな奴だと思ったことがあるが、いつの間にか国歌になってしまった。恐ろしいことだ。国歌があることはいいことだと思うが、なぜ君が代なのか。私はまだアンパンマンのテーマソングの方がよほど国歌にふさわしいと思っている。少なくともメロディーははるかに美しい。オリンピックの表彰台で君が代のあの陰鬱きわまりないメロディーがながれるより、アンパンマンのテーマソングの晴れがましいメロディーを聞きたいと思うのは私だけではないはずである。

それにしても、在日の中国人が感じている不安は尋常ではないだろう。アメリカ発の日本人が在日の中国人に乱暴をはたらいたといった、いい加減なニュースが流布している中、しっかりと対応することが何より求められる。

今日は二つほど講演の依頼がきた。名古屋市と多摩市である。もちろん人間都市クリチバに関してである。基本的にお受けすることとした。

ゼミ生3年生と大西隆先生の「逆都市化の時代」を輪読する。学生達は、陣内秀信氏の「東京の空間人類学」より楽しいという。ここらへんは私とはちょっと違うセンスである。さすが経済学部の学生であると感心するのと同時に、少し感性教育も必要なのではないかと思ったりする。

2005年4月11日

飛行機にははらはらさせられ、血圧も随分と上がったがどうにか搭乗することができ、日本に着くことが出来た。TGVは20分ほど遅れてパリのリヨン駅に到着。相当ぎりぎりなので空港バスでは間に合わない可能性が大きい。タクシーに乗ろうとしたら、シャルル・ド・ゴールへの相乗り客を捜して、相乗りとなった。まあ料金が安くなってラッキーと思っていたら、これがとんでもない罠。運転手にどのくらいで着くと聞いたら、あと15分という。これなら大丈夫だ。ほっと一息をつく。しかし、なんと、相乗り客は空港のそばの駐車場が目的地であり空港ではなかった。しかもその客を先に降ろす。すぐだから大丈夫、と運転手は言うので怒りをこらえて我慢する。しかし、高速を降りた後、目的地までは結構時間がかかった。しかも有料駐車場であったために、相客を降ろした後、そこから出られない。入口から出ろ、と言って車を蹴飛ばして、日本語で「ふざけるんじゃない」と怒鳴った。タクシーの運転手はこれで豹変し、急にエクスキューズ・ミーと片言の英語を言いながら猛スピードで飛ばし始めた。ダイアナ妃が死んだのもパリの高速道路であることがふと脳裏をよぎったが、怒りはおさまらない。15分と言ったのに結局45分かかって着いた。しかもデパーチャーとアライバルを間違えて最後のだめ押しである。しかし、この運転手からは一刻も早く別れたいので、アライバルで降りる。罵詈雑言を日本語、英語で浴びせ、端から見たら大変野蛮なアジア人に見えただろうが、怒りで理性を失った。案の定、エレベーターは滅茶苦茶混んでおり、乗れない。階段を捜しても見つからない。いらいらするが、エレベーターを待ち、どうにかカウンターにたどり着く。遅かったこともあり、カウンターには誰も並んでおらず、またどうにかチェックインもできた。これがアメリカやアメリカの航空会社だったら絶対アウトの時間である。パリであり、バッゲージ・チェックがえらくいい加減であること、全日空であることなどでどうにか助かったが、それでもあのタクシーの運転手に対しての怒りはおさまらない。

とまあ、また東京で仕事が明日から始まる訳であるが、結構ホッとしている。フランスは昔からあまりいいイメージがなかったが、今回の旅行でむしろ長年の仮説がむしろ実証できたとの印象を持った。特にパリは駄目だ。なぜ、この都市がそんなに多くの日本人を惹きつけるかが分からない。プロヴァンスや地中海方面のイメージは私は結構いいのだが、パリは駄目である。なぜ、駄目か簡単に整理する。
まず、第一に、ルーブルにしろベルサイユ宮殿にしろ、まったく品性お下劣である。ルーブルなどは、ほとんど墓荒らし、泥棒の盗品自慢展である。あのような美術館を得意満面でご開帳するフランス人が盗っ人猛々しくなるのは当然であろう。そしてベルサイユ宮殿。あれから類推されるのは、人間の肥大化した醜い欲望である。あの欲望の果てにあるのは人類が資源を使い切っての絶滅の道だけである。ギロチンされるのは当然であるが、またそれを恥じるならまだしも、得意気に観光地にしているフランス人の感性は大いに疑われる。

第二は前から思っていたことだが、フランス料理は大して美味しくない。今回はゼミ生の鈴木のおかげで家庭料理までご馳走していただき、非常に貴重な経験をして有難かったし、ご馳走になってこんなことを言うのは大変失礼だが、美味しくなかった。相当、美味しくない。美味いのはワインとチーズだけである。ワインもパリのレストランのものは不味かった。まあ、レストランはアメリカのと比較するのはあまりにも失礼だが、決してドイツ、オーストリア、ハンガリーといった一般的に美味しくないと言われる欧州の国と大きく差別化できるようなレベルには決してない。確実にイタリアやスペインに劣る。まあ、ニースなどの地中海方面は結構いけるが、パリはまったく大したことがない。これは、高い金を出してもそうで、そのコスト・パフォーマンスは相当低い。確かにフォーションやフロなどの総菜のレベルは決して低くはないが、そんなに胸を張れるようなレベルではない。多くのクロワッサンやタルトを食べたが、私的には新宿の伊勢丹のアンデルセン(アンデルセンは店舗によって出来不出来の差が大きい)の方が美味しいと思う。クロワッサンなどは絶対、アンデルセンの方が丁寧でデリケートである。肉料理もアルゼンチンやブラジルといった国々にも劣る。フォアグラは美味しいとは思うが、磯勘のうにやトコブシとかの方がずっと美味しい。まあ、タルトはまあ美味しいが、タルトはよく考えればどこでも結構うまい。パンのオリンピックでフランスが優勝できないのは、ある意味当然である(金メダルは我が日本)。美食の都パリというのは、大きな勘違いであると私は考えるのである。

第三は何しろ自動車が我がもの顔で地上を支配しすぎている。これはバルセロナのような都市とは決定的に違う点である。せっかく素晴らしい広場などを有していても、自動車が台無しにしている。

第四は前述したタクシーの運転手をはじめ、全般的にレルネル氏が言うところの「都市の親切」(アーバン・カインドネス)に欠けている。このアーバン・カインドネスの欠如がダイアナ妃の死地となってしまった遠因であろうと私は考えている。勿論、暗殺説も捨ててはいないが、もしそうでなければ、それはこの協調性のない自己主張で押し合いへし合うこの都市で必然的に起きてしまった悲劇なのであろう。ゴダールの映画でも「勝手にしやがれ」、「きちがいピエロ」などでは主人公はある意味、極めてパリ的なもので殺されたともいえる。パリ的なものによって正常から逸脱し、そしてパリ的なものによって抹殺される。「都市の親切」がない街での悲劇である。

とは言っても、いい点も少しはある。小空間の公共広場をつくるのはヴォージュ広場にみられるように相当上手い。あと、狂気に溢れていながら、アメリ(まあ、彼女も相当変だが)の舞台装置としてはパリ以外のところは考えにくい。それとピアフやイザベラ・アンテナを育てたのはパリであり、私はこの二人の音楽を敬愛している。このように完全否定をしている訳ではないが、日本人は全般的にあまりにもパリを過大評価しているのではないか、と強く今回の旅行で感じたわけである。

2005年4月10日

朝8時頃にバルセロナのセンツ駅からモンペリエ行きの特急タルゴに乗る。バルセロナには2泊する予定であったのだが夜行列車がこの年になると異様に応えることが分かったので3泊して昼に移動することにしたのである。しかし、シャルル・ドゴールまでは9時間はかかる長旅である。タルゴは思ったよりはるかにぼろかった。フランスやドイツの特急に比べるとぐっとオールドスタイルという感じで、昔のディーゼル特急に乗っているような印象を受ける。スピードも遅くて、これではモンペリエまで5時間以上かかることも納得である。ただし、車窓に展開するカタルーニャ地方のランドスケープは素晴らしい。時間がかかるのが苦痛にならなそうである。カリフォルニアと風土が似ているのに驚く。カリフォルニアを発見した時のスペイン人の驚きは相当のものがあったであろう。長い旅路の果てに、自分達の故郷と似た土地が見つかったのであるから。

さて、疲労困憊のためにアーバン・ダイアリーも書かなかったのであるが、バルセロナは非常に楽しめたし、勉強になった。そして、レルネル氏が何を考えて文章を書いたのかがよく理解できた。バルセロナの特徴は5階から6階程度の集合住宅を基本として都市構造を形成させたことである。道が4メートルもあるかないかの旧市街地にしろ、ダイアゴナル通りを始めとした素晴らしいブルバードを整備した新市街地にしろ、それが基本である。このため、極めて高密度の都市構造が実現できている。その結果、人に溢れた活力ある都市になるのである。東京のように狭い2階建ての戸建て住宅の隣に40階建ての超高層マンションが建つような空間的イマジネーションがまったくない都市をつくりあげてしまう都市とはまったく異なる。あと、ガウディ、ドメネクなどに代表される建築家達によって、極めて質の高いファサード、タウンスケープが実現できていることである。勿論、ランブラスやボケイリョ市場のようなアメニティに富んだ公共空間を作り得た都市だからこそ、ガウディやドメネクなどが生まれてきたとも言える。すなわちガウディによってバルセロナは特別な都市になっている訳だが、その天才ガウディを育んだのもバルセロナなのである。優れた建築家によって、その意匠やアイデンティティが確立できた極めて幸運な都市なのである。東京はアメリカ人によってほとんど焼き尽くされてしまったので、そのような歴史的建築物がほとんどないのはしょうがないが、それにしてもバルセロナから我々が学ぶことは極めて多いと感じた次第である。少なくとも、高密度であるという点では共通するし、ボケイリョ市場に匹敵する築地市場もあるわけだし、ロスアンジェルスよりは遙かに望みが残っている。

と書いていて思い出したのだが、最近日本で評価の高いサンフランシスコの都市計画家のアラン・ジェイコブスは東京のことを「高密度のロスアンジェルス」と、私が聞いた幾つかの東京批評の中でも、最悪の形容をしていた。勿論、アラン・ジェイコブスはロスアンジェルスを蛇蝎の如く嫌っているので、高密度のロスアンジェルスは彼のボキャブラリーの中でも地獄のような都市ということになるのだが、道路面積が50%近くを占める都市と20%にも満たない都市との違い、通勤・通学での公共交通利用率が90%近い都市と1%にも満たない都市の違いも分からない極めて愚かでかつ無責任な発言である。ロスアンジェルスを東京なみに高密度に出来たらむしろ天才である。そして、それは東京とは全く異なるバルセロナの新市街地のような空間になるであろう。意外なことに、このような場所がロスアンジェルスにまったくない訳ではない。UCLAのそばのサンセット通り沿いは、アメリカの都市の中では相当高密度地域となっている。勿論、東京にはこのような箇所に類似している場所は驚くほどない。これは、道路が圧倒的に狭いためである。それはともかくとして、東京はいろいろと問題はあるが、世界で最も人口が多い都市で、とりあえず機能しているという、この人類史的にみても偉業を把握できない程度の洞察力しかないのに、日本の多くの都市計画家は彼をカリスマのように見立てている。まあ、アラン・ジェイコブスの批判はあまりしない方が私のためであるという忠告をしてくれる人もいるのだが、別に私がメイン・ストリームに乗ることもないと思うので、しっかりと言っておこうと思う。ついでに言うと、彼は私が受講していた講義で彼はよく日本人を馬鹿にしていた。例えば現地調査で空き地とかがあると、「日本人ならここに何をつくると思う。俺はゴルフ練習場にかけるね」といかにも馬鹿にした口調でいったり、「友人の日系人の歯医者がイタリアに行ったら、日本人と思われふっかけられた」とか、そういうことを私や他の日本人の留学生がいる前で言ったりしていた。悪口に関しては他の日本人の留学生はよく分からないようで笑っていたりしたが、私の目は彼を睨んでいた。確かにサンフランシスコの都市デザインを実行した実績は高く評価できる。ただし、それが都市を鋭く見抜く洞察力があるかどうかは別問題である。「Looking at Cities」は彼の唯一か唯二の読める本であり、そこに書かれている「都市の観察法」は参考になる点が多い。ただし、街路的なミクロ空間ではなく、マクロな都市に関しての分析力はそれほど優れていない。少なくともレルネル氏の足下にはとてもではないが及ばない。しかし、私が非常に尊敬するレルネル氏とアラン・ジェイコブスは友人であるのだ。また、彼の新しい奥さんは私の同期であるのだが、彼女も素晴らしい人格者で伝道師の娘である。不思議である。というか、ここら辺の押さえるとこを押さえている点が元役人でもある強面の彼の長所なのであろう。すけこましという点でも人後に落ちない。なんせ70歳近いのに新婚だからね。

モンペリエに着いた。なんと接続線のTGVがまったく出発しない。シャルル・ドゴールには時間通りに行っても2時間半前に着くというぎりぎりのスケジュールなのではらはらするが、もう慌ててもどうにもならない。やはり新幹線とTGVだと非常に大きな差がある。こんな信頼性の低いシステムを新幹線を差し置いて導入しようと考えている中国は勝手にしたらいい。全然、システムがなっていなく、むしろフランスは日本の知恵と技術を借りるべきであろう。乗り降りの段差も厳しくて、まったくバリアフリーではない。というか、日本はバリアフリーとかあまりにもお金と労力をかけすぎているのではないか。もう少し、表層的な景観整備とかに力を入れた方がイメージ戦略としては賢明なような気がする。

と暫く経ってまた他にすることもないので書き足している訳だが、TGVは結局30分程度の遅刻で出発できた。これならまだ間に合う見込みがある。やれやれ。ところでモンペリエ・パリ線の車窓は雪化粧の山あり、谷あり、お城あり、岩山あり、川ありとめくるめくように光景が変化していき、相当面白いことを知った。思わず見いてしまって昼寝ができないくらいである。街はずれを走っていることもあり、雄大な展望が開けることも一因かもしれないがなかなか素晴らしい。新幹線の車窓と比べても、看板がない、ラブホテルも見えない、とりあえずカルフールも見えずに、ファスト風土ではなく、フランスらしい風土が展開しており、大いに楽しめている。このような田園風景を維持できているから、リモージュの助役は日本の都市景観の酷さを痛烈に批判したのであろう。いろいろと勉強になる。

2005年4月7日

朝8時頃にバルセロナのセンツ駅につく。夜行列車は散々であった。50ユーロと寝台料金が安かったので怪しいとは思っていたが、4人相部屋のベッドでしかもカーテンがない。カーテンさえあればいいのだが、ないとプライバシーもほとんどない。私以外の客はパキスタン人とオランダ人の男二人組であった。オランダ人二人組は2時頃まで騒いで起きており、なかなか迷惑であった。お陰で疲れがどっと出てしまった。

しかし、ホテルに荷物を置くと最後の力を振り絞り、朝のラ・ボテキリョ市場に食事をとりに行く。レルネル氏が素晴らしい都市的体験であると記していた市場の朝食をとらなくてはならない。ボテキン市場は活力に溢れており、商品を照らす光がとても美しいフォトジェニックな空間であった。キッシュとアーティチョークもカウンターに座って食べたが、大変美味であった。ここは確かに素晴らしく刺激的で楽しい空間である。ただしホテルに戻ったらもったいないと思いつつも疲れて寝付く。

起きたら既に3時頃である。しかし疲れは取れていない。そこを力を振り絞ってランブランスを歩きに行く。私は商業系の街路が修論のテーマでもあり、ランブランスを見ていないことに強烈な引け目を感じていたので、今回は念願かなっての訪問である。確かに側面の建物の高さ、幅、溢れるように人々が歩いていること等、都市を祝祭しているかのような素晴らしい公共広場であった。

2005年4月6日

朝10時にゼミ生の鈴木とロビーで待ち合わせをし、リモージュの街並みを視察しに行く。彼女はリモージュの旧市街地の3つの街路を選び、それらの空間イメージ調査を研究している。ケビン・リンチ的手法であり、私が非常に好きな研究手法である。ただし3つの街路のうち1つは恐ろしく人通りが少ない。これじゃ誰もイメージを持っていないのではないかと指摘するとそうだと言う。私の卒論では、この一つを除外して二つの街路のデータをしっかりと整理すように指導する。既にイメージ・マップを同級生や知り合いに描いてもらっている。結構いいデータだが属性分析をするアンケートが今ひとつであった。この点は残念であるが、それなりの立派な研究成果が得られるのではないか。

昼食は鈴木のホストファミリーの家に招待されていった。このホストファミリーの父親は元高校の歴史・地理の教師であり、現在市の助役をやっており、大変興味深い話をしてくれた。まず、フランス人はイタリアに憧れているということを言っていた。これは、私にとっては我が意を得たりで、以前からフランス料理とかフランス文化とか日本が憧れているが、所詮ルイ14世あたりからの成金趣味の貴族文化に過ぎないのではないか。イタリアの方が文化的に進んでいたのではないか、との印象をもっていたからである。したがって、今回フランス文化のルーツはイタリアにある、とかイタリアに憧れているということをフランス人自身から恥ずかしげもなく言われて、やはりそうだったのかと思った次第であった。

また、このホストファミリーの父親は日本にも行ったことがあるのだが、日本の都市デザインを非常にけなしていた。特に浜離宮と広島の平和通りは最低であり、空間への尊敬の念を持っていなくてフランスでは考えられないと強く批判していた。浜離宮は素晴らしい庭園の周りを高速道路と超高層ビルが建っていること、平和通りは巨大なネオン広告が置かれていることなどが素晴らしい公共空間を台無しにしていると嘆いていた。あのような公共空間への侮辱はフランスでは許されないとも言っていた。

彼のこの意見は私にとっては大変興味深かった。まず彼の指摘は反駁できない正論である。というか、日本橋の例や私の大学の前の超高層ビル開発、リゾート法で貴重な自然景観を台無しにした開発等に比べれば、まだ浜離宮や平和通りなど可愛い方だと思う。しかし私の興味をひいたのは、この強い批判が他ならぬフランス人からされたことである。フランスは都市デザインに関してヨーロッパでは相当駄目な国であり、ヨーロッパの素晴らしい都市デザインに圧倒され、強烈な民族的コンプレックスを持ってしまった後、フランスにくると、ああヨーロッパでも比較的駄目な国もあるのだなあと私は安堵感を覚えていたからである。例えばリモージュ・クラスの地方都市だとイギリスなどではキングストン・アポン・ハルやバース、チェスター、カーライル、プリマス、エジンバラ、シュルースベリー、ケンブリッジなど素晴らしい都市デザインを誇っている。もちろんレスターのような今ひとつの都市もあるが、日本とは公共空間に対する意識が違うことを思い知らされる。ドイツなどもドレスデン、フライブルグ、ハイデルベルグ、北欧の都市やオーストラリア、スイスの都市も素晴らしい公共空間づくりが為されている。そのような国に比べるとフランスはさすがコルビジェが活躍した国であることもあり、中心市街地への自動車への対応もイギリス、ドイツに比べて今ひとつであり、自動車の人口当たり交通事故も高かったりして、どうも感心することが少ない国だったのである。そのフランス人にこうも日本の都市デザインが酷過ぎると批判されたのは、ある意味ショックであったが、改めてその酷さに対してほとんど反論できないことを自覚したのである。もちろん、日本には日本らしい素晴らしい準公共的空間である商店街などがある。下高井戸や吉祥寺北口、高円寺、下高井戸などは景観デザインなどは無いに等しいが、素晴らしく機能しており、ショッピング・センターなどより遙かに刺激的で都市的な空間であると思う。神楽坂もパリのパサージュに匹敵する空間である(とはいえ、超高層マンションを建ててしまうなどの愚行を犯しているので、やはり批判の対象になるのではあるが)。しかし、やはり彼の意見に対して何も説得力のある説明ができないほど日本の景観デザインはしっかりしていないことを改めて認識させられのである。というか虚しいので考えることを放棄していたのだが、やはりどうにかしなくてはならない課題であることを思い知らされたのである。

昼食は豚料理であった。ワインは赤であったが、非常に美味しかった。チーズが食後に出たのだが、出されたゴート・チーズは私が食べた中で最も美味しいものであった。ゴート・チーズは苦手だったのだが少し認識が変わった。しかし、全般的な食事自体はご馳走してもらって言うのも何だが、あまり美味しいとは言えなかった。というかイギリス並みであるように感じた。それはともかく、フランスの地方都市の家庭料理を食べられたことは素晴らしい経験であった。

その後、リモージュの川沿いの歴史地区を観光ルート化しようと整備している場所を見に行く。川沿いの散策路はしっかりと整備されており、アメニティ溢れていた。川を大切にしているところは感心する。

夕食は昨日と違うレストランで食べる。ここも豚料理を食べた。フランス中央部はどうも豚ばかり食べているようで、日本のフランス・レストランとはイメージが違う。豚、じゃがいもが多く、私のドイツ料理のイメージに近い印象を受ける。しかし、ここのレストランも値段の割には美味しくて感心する。ワインも美味しかった。

鈴木はフランス語で会話が出来るようになっており、今回は大変助かった。リモージュくらいの都市だと英語はほとんど通じないので、彼女がいてよかった。ゼミ生に助けられることはあまりないのだが、今回はめずらしく助けられた。有難いことである。

夜行列車に乗りリモージュからバルセロナに向かう。

2005年4月5日

朝食を食べずにブッシェ通りとセーヌ通りの交差点にある市場を見に行く。レルネル氏の本で絶賛されている青空市場である。しかし、残念ながら今日はやっていないようである。私の手元の資料では月曜日が休みとあったのだが、何かの手違いかもしれない。その後、今まで一度も行ったことのないノートルダム大聖堂に行き、そこの上からパリ市内を一望しようとしたら何とカメラが突然、壊れた。壊れたことも気付かなかったのだが、採った画像を確認使用としたら写っていない。最初はレンズのせいかと思ったがレンズを交換しても写らなかった。カメラが壊れることは想定していなかったので大いに慌てる。今回の旅でカメラがなければ何をしに来たかが分からない。今回の旅行はいろいろと行く前からトラブル続きであるが、この出来事はショックである。仕方がないのでカメラを買いに行くことにした。しかし、何が悲しくてパリでデジカメを買わなくてはいけないのだろうか。コンパクト・フラッシュ対応で、それなりの質の写真が撮れそうな日本円で4万円程度のキャノンのカメラを購入する。当然、説明書はフランス語で悲しさが増す。おそらく壊れたカメラは使い過ぎがその原因であろう。なんせ既に3万枚近く撮影している。買ったのも3年半前だ。寿命が来たのだと思われる。どちらにしても帰国してから買い直すなどをしなくてはならない。また出費が嵩む。

ガールドステルリッツから14時の列車に乗りリモージュに向かう。二等だが日本のグリーン車より快適である。ヨーロッパの場合、1等と2等の差を個人的にはほとんど感じない。座席が多い分、むしろ2等の方が座りやすくていいのではないだろうか。以前、ユーロパスで1等を買って後悔していたので今回2等にしたのだが、改めてそれが正解であることを認識する。

パリからリモージュまではひたすら平らであった。パリ周辺は水平線まで農地が広がっており、これは北海道でも太刀打ちできないことを知る。全般的に農地と市街地とがしっかりと区別されており、強いコントラストがみられる。農地は農地、市街地は市街地。この点において土地利用がしっかりとされており日本のような曖昧さはない。列車はリモージュまでノンストップで2時間40分ほど走る。新幹線より時間的には停車しない。

リモージュはそれほど強烈な個性がない地方都市であった。例えばイギリスだったらチェスター、カーディフ、バース、ケンブリッジといった都市は強烈な個性を放っている。ドイツでもフライブルグやハイデルベルグなどがそうである。そのような個性は感じない。フランスでもアンティーブなどは強烈な印象を私に与えているが、リモージュはどうにもそういうものが感じられない。中心市街地に行ってもとりたてて印象を新たにすることはなかった。しかし、この野球でいえば七番打者のような位置づけのフランスの地方都市ではあるが、ゼミ生の鈴木といったレストランでのワイン、フォアグラ、豚のメインディッシュは美味しかった。昨日、新谷さんと行ったレストランと値段はほぼ同じであったが遙かに美味しかった。特にワインは昨日のものとは格段に違って美味しかった。私はそもそもパリで高級レストランに入った時以外にはうまいワインを飲めた試しがないのだが、リモージュのような地方に行くと日常的にうまいワインを飲み、うまい食事をしていることを改めて確認させられた。フランスの底力を感じた。

2005年4月4日

地下鉄の一日券を購入して、パリを歩き回る。現在、手掛けているジャイメ・レルネルの翻訳本の脚注を書くための事実確認、そして写真撮影をするためである。まずはホテルのそばのモンマルトルを歩く。モンマルトルは初めてである。サクレ・クール聖堂に行き、テラスからパリを一望に見渡す。ここらへんは映画「アメリ」に出てくるのでちょっと感慨深い。「アメリ」は非常に好きな映画なので当然、彼女が働いていた「レ・ドゥー・ムーラン」にも寄る。しかし、日本人の中年男が「アメリ」ファンであることを悟られるのに抵抗を覚え、店に入るのは断念した。写真は撮影したのだが。パッサージュ・デ・パノラマに行くがまだ時間が早すぎて人がほとんどいない。

途中、レルネル氏が本で書いていたパリのタバク系のカフェでコーヒーを一杯飲む。2.5ユーロであった。「アメリ」が石切をし、レルネルさんの本にも出てくるサンマルタン運河に行く。ウォーターフロントを見事に街並みづくりに活かしている。ボージュ広場に行く。このボージュ広場は素晴らしかった。極めて幾何学的につくられているが、周辺の家々に囲まれた素晴らしい広場である。このような広場がある都市は幸せである。バスティーユ広場のカフェに入りサンドイッチとタルト、カフェオレを飲む。タルトは林檎と葡萄によってつくられた美味しいものであったが5ユーロもした。

その後、ジャン・ヌーヴェル設計のアラブ世界研究所に行く。セーヌ川からのファサードは私はそれほど素晴らしいとは思えなかった。カメラの絞りのようなダイヤフラムを用いた南側のファサードは圧巻だが、そのファサードをしっかりと正面から視覚に捉えられる場所がない。もったいない話である。パレ・ロワイヤルに行く。パレ・ロワイヤルのギャラリーには勲章屋があるとレルネルさんの本に書いてある。確かに3軒もあった。勲章屋のショーケースに人が覗き込んでいる。勲章屋とは面白い商売である。パッサージュ・ビビエンヌとパッサージュ・コルバートに行く。パッサージュ・ビビエンヌは私好みの商業空間であった。ただし、それほど人がいなく、このようなヒューマン・スケールの商空間に集客力がないのは残念である。お洒落で洗練されてはいるが人々の位置づけは東京の駅前商店街のアーケードのようなものなのだろうか。パッサージュ・コルバートはなんと大学のキャンパスになっているようで、ギャラリーから講義風景がのぞける。しかし、これは何を意図してこのようなデザインにしたのか理解に苦しむ。というのは学生の気が散るからである。勉強に集中させようとしたら、まったく百害あって一利なしのデザインである。このような状況で勉強に集中できる人がいたら凄い才能の持ち主である。人間の行動パターンを完全に無視した設計であろう。

雨が降ってきたので、ルーブル美術館に雨宿りする。残念なことに6日まではモナリザは展示中止だそうである。しかし、ミロのビーナスやキューピッド・アンド・サイケなどを鑑賞できて満足である。それにしても、これだけの美術品を世界中からかき集められたというのは、ほとんど泥棒のように強奪したからであろう。エジプトのミイラの棺が多く展示されていたが、これなどは墓荒らしをしなければ入手は困難だったのではないか。ミイラも酷い目にあったものである。これじゃ、祟りたくもなるであろう。神をも畏れぬ蛮行である。このルーブル美術館にしろ、以前訪れたベルサイユ宮殿にしろ、私が感じるのは狂気である。人が持てる欲望の強さに本当にくらくらして嘔吐すら覚える。ベルサイユ宮殿なんかに行くと、サステイナブルな社会システムなどを考えても所詮無駄なのではないかという諦観を覚えてしまうのだ。似たような気持ちをルーブル美術館を訪れても思ってしまう。

雨が止んだので、ルレ・クリスティヌ・ホテルに向かう。ここの中庭をレルネル氏は本で絶賛している。翻訳者としては見ないわけにはいかない。確かに素晴らしい小空間が展開していた。日本の庭づくりとも共通点が多いようなプライベートで落ち着く小空間である。ホテルの近くに造幣局があり、そこで何と宮崎駿の展示をしていたので入る。結構、人が入っておりフランスにおける宮崎人気が本当であることを知る。コンパクト・フラッシュのメモリがなくなったので一度宿に戻り、その後、モンマルトルの地下鉄駅アベシスに向かう。ここはアール・デコの入口で有名である。地下鉄に乗り、ヴァンドーム広場に行く。リッツ・ホテルの写真を撮影し、オペラ座、ギャラリー・ラファイエットと訪問する。午前中訪れたパッサージュ・デ・パノラマを再訪する。今度は店もオープンしており、活気がある。しかし、それと隣接しているパッサージュ・ジュフロワの方が空間的にもテナント的にも魅力があると感じられた。特に映画関係の資料が多い店には感銘を受けた。ウマ・サーマンの魅力的な生写真などがあり購買意欲に駆られたが、結局買わなかった。これは後悔するかもしれない。相当、疲れてきたのでそばのカフェに入り、コーヒーと苺タルトを注文する。3.6ユーロであり午前中のカフェより遙かに安い。しかし、午前中のカフェのタルトのように美味しくはなかった。

待ち合わせの約束をしているポンピドー・センターに向かう。ポンピドー・センターの本屋などで時間を過ごし、8時に元同僚の新谷敦子さんと会い、近くのフランス料理屋に食事に行く。彼女はユネスコのパリ本部で働いており、非常に充実した日々を過ごしているようであった。パリがとても気に入っていると言っていた。私が以前いた部署の人間はほとんどが辞めている。そして皆、辞めた後ハッピーになっている。会社で私が働いていた時、よくエンデの小説の「モモ」の時間泥棒のことを思い出していた。私が働いていた会社は時間泥棒に支配されていたのである。私の20代後半、30代の時間は会社に盗まれて二度と戻ってこない。この事実を考えると暗澹たる気持ちになるが、今は泥棒から解放されて、自分の納得いくように人生を歩めている。この事実に感謝できることが、唯一会社にいたメリットではないだろうか。少なくとも修行的意味合いがあった30代前半はまだしも、それ以降の時間は本当に無駄であったと新谷さんの活躍を目の当たりにして改めて思わされるのである。彼女はまだ32なので、いいタイミングで転職できたと思う。33を過ぎている会社ではない。最近は成果主義というコスト・カットによって給料もとんと上がらなくなっているようだし。

フランス料理屋では豚のテンダーロインを食べ、ワインを飲む。ワインはすごく期待していたのだが、それほど美味しくはなかった。安かったからか。豚は美味しかったが、目黒のトンキのトンカツの方がはるかに美味しいと思う。帰りにはどしゃ降りでずぶ濡れになった。

非常に充実した一日であった。しかし、パリは自動車に蹂躙されている。運転マナーも悪いし、どうにかならないのか。ヴァンドーム広場などは自動車に支配されてしまっている。もちろんパッサージュをはじめ、自動車フリーの空間も多いのだが、それにしても東京並みに自動車が我が物顔でいい気になっている。東京にしろパリにしろ、世界に冠たる大都市であり、公共交通が充実しているのに情けない。

2005年4月3日

二日ほど東京に滞在したかと思ったら、またパリ行きの飛行機に乗っている。相当疲れているようでほとんど寝ていた。ちょっと、ここでJALとANAとの比較を記したい。私はJALのグローバル・クラブの会員であるので、JALを使っていれば例えエコノミーでもカウンターはファースト・クラスのものを使えるし、サクラ・ラウンジも使えるなど極めて使い勝手がいい。しかし、最近ではANAをもっぱら使っており、今回の二回の旅行でもマイレージを使ったカナダ旅行はJALであったが、パリ行きはANAである。ANAを使う大きな理由は、提携している他の航空会社とのマイレージの融通がJALの所属しているワンワールドよりANAの所属しているスター・アライアンスの方が優れていることが主である。ワンワールドはアメリカン航空やブリティッシュ航空が入っているのだが、これらの割引航空券のマイレージはJALのマイレージとしてカウントされない。仕方がないので、私はアメリカン航空とブリティッシュ航空のマイレージにも入っているが、どうにも使い勝手がよくない。それに比して、スター・アライアンスは例え割引航空券であっても、ユナイテッド航空のマイレージはANAにスムーズに移行できる。これは大きな差である。

しかし、今回JALとANAを乗り比べて、以前から感じたのであるが、さらに強く感じたのは食事の差である。ANAはおそらく全世界の航空会社でも最も機内食が美味しいと思われる。ファーストには乗ったことがないがビジネスでは断トツに美味しい。参考までに最も不味いのはアメリカの航空会社で、パキスタン航空やアルゼンチン航空、マレーシア航空、バリグ航空などよりもはるかに下である。アメリカン航空のビジネスの料理はANAのエコノミー以下の味である。そしてANAには及ばないがJALもそれほど悪くはなかった。少なくともエア・フランスやブリティッシュ航空よりは食事という観点でははるかに優れているとの印象をもっていた(といってもブリティッシュ航空が最初にビジネスクラスで導入したオール・フラット・シートに勝るサービスはないのだが)。しかし、今回はエコノミーでの比較になるのだが、JALのエコノミーの食事はアメリカの航空会社並みの不味さになっていた。ほとんど食べられないほど不味い。ここまで不味くするには相当の経営努力が必要であろうと思われるほど不味い。私が初めて機内食を食べを食べたのは9歳の時に、父親の転勤で羽田からロスアンジェルスに行くJAL便のものであったが、その時大いに感動したステーキの美味しさはそこには微塵も感じられなかった。もちろん、当時と今とでは料金がまったく違うので、内容が違うのは当然ではあるのだが、今回ANAのエコノミーの食事と比較するとそのあまりの差に愕然とするのである。JALの機内食はお金を出して食べたいというものでは全くない。というか、生ゴミになるだけなので出して欲しくないというような代物であった。ANAも以前に比べると多少内容的には落ちるような印象も受けるが、それでもJALと比較することが失礼なほどまだしっかりとしている。ANAとJALの料金が同じであれば、この機内食の差でANAに乗るべきであると痛感したのである。確かにカウンターで待たされるのも苦痛であるが、それでもあの不味い食事はいただけない。

夕方にパリに着く。今回は荷物がバックパックである。大学の教員になってからスタイルが若くなっていることに気付く。会社員であれば例え休暇であっても、あり得ない格好である。格好がそうなので、当然市内に行くのも電車である。パリに初めて訪れたのは仕事の取材のためで、おそらく28歳くらいの時だったと思う。その時はビジネスクラスに乗って、空港からは当然のようにタクシーを使っていたことを考えると、同じ自分ではないようである。勿論、今の自分にまったく不満はない。

しかし、シャルル・ドゴールからパリ市内に電車で行くのは一苦労であった。まず、空港から駅までの距離が離れているのでシャトル・バスに乗らなくてはならない。さらに駅がバリアフリーではないために階段を下りなくてはいけない。しかもパリ方面の列車が途中で停車し、乗り換えなくてはならなかったのだが、この乗換駅でもエレベーターやエスカレーターはなく階段で上り下りしなくてはならなかった。北駅で降りたのだが、当然、地下鉄の駅も階段である。いやはや本当にバックパックでよかった。というかトランクであったら確実に死んでいたというか身動きができなくなっていたであろう。トランクだとタクシーを拾うしかないことを知る。それにしても、このパリの公共交通の不便さと比較すると成田空港は便利になったものである。勿論、距離が遠いという問題はあるが、成田エクスプレスにしろ京成スカイライナーにしろ、シャルル・ドゴールのRERに比較すれば遙かに優れている。というか、ロンドンのヒースロー・エキスプレスの方が全然便利じゃないか。というかフランクフルト空港だって便利である。というように考えると、シャルル・ドゴールはまったく鉄道によるアクセスという観点からは不便であることに気付いた。TGVが泣くね。

2005年4月1日

昨日カナダから戻ってきた。今日は入学式であり、ヴォーリスの設計した講堂に私も出席する。学院長はこれが建築的価値があるのは、戦災を免れたからであるとの説明をしていたが、それだけではなくヴォーリスの設計した建築であるということに価値があるということを説明しないと新入生には本質が理解できないのではと危惧をした。少なくとも、そのように誤解されるような話し方であった。それはともかく、入学式はいいものである。卒業式は後悔の念が個人的に湧いてきてしまいそれほどよくないが、入学式は将来に期待が持てる。充実した4年間を過ごしてもらいたいと切に願う。

今日はゼミ生の高野、石堂、田中の3名が新入生相手に出来たばかりの「ハビタット通信2号」を販売していた。なかなか感心である。3名で4冊ほど売れた。4名とも文学部の学生ということがちょっと気になるが、それでも素晴らしい。