2005年5月30日
浦沢直樹の新作「プルートウ」1巻と2巻を読む。スリル溢れる展開に時間が過ぎるのも忘れる。私は、浦沢直樹の作品では「20世紀少年」が好きなのだが、「20世紀少年」が二つの時間軸を平行に話を進めるために、はらはら度がそれほどないのに比べて、「プルートウ」はどちらかと言えば「モンスター」に近いような緊迫感が溢れ、希代なストーリーテラー浦沢直樹の才能が見事に発揮された作品である。「モンスター」のような中途半端な終わり方をしないように祈るばかりである。どうでもいい話ではあるが、私は浦沢氏の「YAWARA」がどうしても好きになれなかった。同じコメディ・タッチでもまだ「HAPPY」の方が好感が持てた。この「YAWARA」が何故、今でも代表作として紹介されるのか、私は納得できない。納得できないと言えば、谷亮子と「YAWARA」の柔ちゃんは顔も性格(といっても直接は知らないが)はまったく似てなく、似ている点は柔道が強いことだけである。これに関しては私は常々納得していなかったことを、ちょっとここで記しておく。
2005年5月29日
岩波書店の森光氏率いる「ブハハの会」とともに長野の飯山市の「森の家」に来た。写真家の増村征夫さんも一緒で、昨夜は彼のスライドショーも行われた。信州の自然が演出した驚嘆すべき光の美しき瞬間を見事に捉えた写真を鑑賞した。今日は近くの池でカヌーをした。私は以前というか、本当20代頃からカヌーをしたくてしょうがなかったのでようやく念願が叶ったわけだ。なかなか楽しめた。次は川下りに是非とも挑戦したい。
帰りに長野駅で駅弁を買う。長野駅は、国鉄がJR になった時、プロジェクトを担当していたのでしょっちゅう来ていた。駅はもちろん当時とはまったく変わってしまったのだが、駅弁もメニューが増えている。鳥ロースト弁当と川中島合戦弁当と二つを食べた。前者は相当の高いレベルにあり、大いに感心した。後者はそれほどでもなかった。仕事をしていた頃は、あさまに乗って3時間かけて上野から長野まで来ていた。駅弁は馬鹿の一つ覚えに近く、横川の釜飯であった。いまは碓氷峠を越えることもなく、1時間ちょっとで大宮に着いてしまう。旅情とそして地域の風情がこの20年間で大きく失われたと感じてしまう。
2005年5月28日
長野の小布施に立ち寄る。栗羊羹で有名な小布施である。都市デザインに非常に力を入れ、快適な観光地となっている。自動車の交通マネジメントも比較的しっかりとできている印象を受ける。ちょっと、アメリカの田舎観光地であるモントレーやカーメルのような雰囲気と共通点もあり、ある意味でのグローバルなアプローチを感じない訳ではないが、これから観光地として生き残るためにはこのようなセンスのよさ、マーケティング的な感覚が求められるのであろう。
2005年5月27日
大学が始まると忙しいのと、また仕事に追われて書くことがあまりないので、どうも更新のペースが遅くなる。今日はゼミがある日で、ゼミでは街歩きをしているので、書くネタが出てくるので金曜日にようやく更新するといったペースになってしまう。さて、今日の街歩きは板橋宿であった。板橋宿は4宿の一つであるが、千住、品川と比べても地味で、またあまり史跡なども残っていない。千住と比較しても、そのコンテンツの少なさが気になる。コンテンツはどこに消えたかというとマンションになってしまっている場合が多いのである。板橋区の名前の由来となった「板橋」と幾つかの寺社、そして石碑がその名残を今に伝えるが、4宿の中でも最も江戸時代の宿場町が感じられなくなってしまっている。残念である。
しかし、それとは別に仲宿の商店街は素晴らしかった。店舗密度、連続性、人の混み具合、自動車の通過交通の少なさ(歩行者天国の時間は当たり前だがゼロ)など賑わいを持つ商店街の条件を満たしている。砂町銀座とまではいかないが、都内でも珍しい空間的な質の高い商店街である。特に、1キロメートル近く、その連続性を遮断する道路がないところは素晴らしい。そのような素晴らしい商店街においても、10階以上の高層マンションがつくられたりして、貴重な連続性が途切れる場所ができた。このマンションを建築したものは、非常に愚かにもセットバックまでして、用途だけでなく空間的な連続性までぶった切ってしまっているのである。空間の豊かさなどをまったく理解していない愚かで、また罰当たりな設計である。このような設計のマンションは下北沢でもみられた。イタズラに無駄な空地をつくっても、そこの空間は豊かになるどころか、より貧相になるのである。商店街の外れに誰もいない「ふれあい広場」といった空間があった。これなども、人の行動パターンがまったく分からない役人的な発想のもとにつくられた無駄な空間である。こういうイマジネーションが欠落した設計者による、空間の豊かさを殺す公共空間がいかに多いことか。
などと相変わらず口が悪いことを書いているのだが、今日は私の隔3の連載エッセイが掲載されている「商店建築」の6月号が発売された日である。「都市の魅力を喪失させる最も簡単な方法」というタイトルのエッセイである。関心のある方は是非ともご一読下さい。
今日は新宿のHMVで6つのCDを購入した。オアシスの新譜「Don't Believe the Truth」、ベックの新譜「グエロ」、ナイン・インチ・ネイルズの新譜「ウィズ・ティース」、ナイン・インチ・ネイルズのセカンド「ザ・ダウンワード・スパイラル」、コールドプレイの「静寂の世界」、ベン・フォールズの「Rockin' the Suburbs」である。どれも素晴らしいアルバム達であるが、一番イマイチであったのは、私の購入時においてはまったく想定外であったオアシスの新譜であった。オアシスの新譜は発売前からノエルが今までで最高傑作であると宣っていたので、そうなのだろう、と大いに期待していたのだ。だってオアシスの最高傑作ってことは、90年代で最も偉大なアルバムの一つである「モーニング・グローリー」より素晴らしいってことなのだから。「ビー・ヒア・ナウ」と「マスタープラン」よりは出来がいいかもしれないが、それでも現時点では確信を持ってはいえない。個人的にはバブル時に日本人が土地神話の崩壊を体験したかのような、オアシス神話の崩壊を感じるようなショックを受けた。とはいっても、高校時代からマイブームであったジェネシスが「アバカブ」を出した時のような、まさに城が瓦解していくような大ショックに比べれば大したことはないのだが。しかし、話がそれるがジェネシスは「アバカブ」の後は、必ず前作より酷いアルバムを出すということを見事に繰り返し、「ジェネシス」、「インビジブル・タッチ」とまさに下落する株をただ指をくわえながら見続けるような放心状態にあった私であった。そのショックに比べれば、私も年齢を重ねているし、大したことではないのだが、しかし、まだ一度しか聴いていないが、ちょっとオアシスの新譜はショックが大きいかもしれない。
街歩きで買い食いした板橋駅そばの大学いも
2005年5月24日
フィールドスタディDでカリフォルニアに一緒に行った学生達と大森のピザ屋に夕食を食べに行く。4年生で3分の2はもう内定をもらっていた。今年は就職の成績がいい。マルゲリータが美味しいなかなかいいピザ屋であった。
2005年5月23日
長女が代休なので、ジブリの森美術館を訪れる。ごみを持っていたので入ろうとしたら、館内にはないので持ち帰って欲しいという。そこらへんにないのですか、と聞いたら「ファミリーマート」のゴミ箱を使って下さい、と言ってきた。いくらなんでもこれは非常識過ぎる。三鷹市もその設立に対して、随分と関与してきた準公共施設ともいえる場所において、一民間企業のファミリーマートのゴミ箱を使え、とはどういう考えをしているのか。ファミリーマートはごみ置き場ではない。そもそも、日本はごみ箱がないのにごみを捨てないでいる、と世界から驚嘆されるほどごみに関してはマナーのある行動をとっている。海外ではごみ箱をあちらこちら置いてもポイ捨てがなくならなくて頭を悩ましているのとは雲泥の差である。しかし、ごみ箱を設置もしなくて、その対応策が「ファミリーマート」のゴミ箱とは人、そして民間企業をバカにしているのもほどがある。ちなみに、館内にはごみ箱がしっかりと置いてあった。その事実をなぜ伝えないのか。美術館自体は面白かったが、入館に際して不愉快な思いをしたので、全体の印象が悪くなってしまった。
夜はビオシティの杉田さんに誘われてトゥインズ・バーそしてマツモトと月曜日なのに梯子する。最近、胃の調子がよくないので、結構しんどかったが、相変わらずマツモトのつくねは美味しかった。
2005年5月22日
元会社の後輩の太田美保(旧姓伊藤美保)の結婚披露宴に参加する。今日で披露宴は3日目だそうで、まるでインド人のようである。ご両親などは当然3日間出ずっぱりであろう。新郎も多少疲れているようにも見受けられたが、美保さんは元気で相変わらず笑っていた。四川飯店で行われたのだが、ここは料理の鉄人に麻婆豆腐の鉄人として出たシェフがいることで有名な店だそうだ。食事は美味しかったが、しかし麻婆豆腐は感動するほど美味いかというとそうでもなかった。司会は美保さんの友人である日経新聞の記者が務めたのだが、非常にくだけていたが場を盛り上げることに成功していた。私も話をした。和やかで楽しい時間を皆と共有することができた。素晴らしい結婚披露宴であった。
2005年5月21日
友人の新谷さんの御尊父のお通夜があり出向く。突然のことであり、家族のショックはさぞかし大きなものであったとお察しする。一年くらい前に新谷さんの誕生パーティでお会いしたが、その時は非常にお元気であった。まだお若かったのに、残念である。ここにご冥福をお祈り申し上げる。
2005年5月20日
ゼミ生達と神保町に行く。神保町では江戸時代の図書を扱う古書店を営む纐纈さんにお話をうかがった。面白いお話がたくさん聞けたが、私が講義で最近話をした「地域特化の経済」や「都市の経済」といった概念が適用できる事例も多く、特に古書の価格の決め方といった話などは学生達の刺激となったようであった。その後、いもやで天ぷらを食べ、さぼうるでお茶(私はビール)をして帰った。
2005年5月19日
慶應大学の山本ゼミに講義をしに行き、クリチバの話をする。私のゼミ生も多くが参加した。山本ゼミの学生は勉強をする目的をしっかりと持っていて、知的好奇心に溢れ、その後の飲み会などでも私にいろいろと質問をしてきて、私は楽しく有意義な時間が過ごせた。山本ゼミの学生と比べると私のゼミ生は見劣る点が多かったが、これはどうしてだろうか。単なる偏差値の差だけではない、何か大きな壁があるような気がしてならない。もし明学と慶應とのカリキュラムの差であれば是非とも改善したいと思う。山本先生は私と比較するとはるかに学生を突き放していて、それは私にとっては新鮮であった。私が同様に突き放したら、ゼミ生のほとんどは辞めてしまうだろう。私は今の服部ゼミの学生は経済学科の中では優秀な学生が集まっているのではないかと考えているのだが、それでも何故ゼミにいるのか、何故大学にいるのか、といったことが見えない学生もいる。山本ゼミの学生はその目的がしっかりとしている。ううむ。ただし、今日の山本ゼミとの交流で私のゼミ生も多くのことを学んだと思う。是非とも残りの2年少しの期間を有意義に過ごして、悔いのない学生生活を過ごしてもらいたい。しかし、私が何を目的としているか不明だと言った学生は、こういう交流会をも欠席したりする。したがって、そういう問題点が自分にあることも知らないままに時間を過ごしてしまうのである。残念なことである。そしてそのような学生はアーバン・ダイアリーも読まないので、結局私の考えは全然伝わらないのである。
2005年5月16日
今日は雑誌FOREの座談会に出席した。私とチームネットの甲斐さん、早稲田大学の村上さんの三人である。皆、私は面識がある人達なのである意味で気軽ではあったが、テーマは「環境と都市・住宅」といった難しいものであった。甲斐さんが、彼の哲学を披露して、これが座談会の一貫したトーンとなった。私は甲斐さんと考えを同じにするものであるので、そういう意味では私の意見も全体の流れに乗ったものになったと思う。「環境問題」はすなわち「人間問題」であり、「繋がり」が重要であるということで意見がまとまり、侃々諤々とした議論がなかった点はもしかしたら企画的には面白くはなかったかもしれないが、話は面白かったのではないかと勝手に思ったりする。司会をした不動産経済研究所の高橋さんも指揮役お疲れ様でした。
2005年5月14日
倉田真由美と山崎元の「ダメだ!この会社」を読む。舌鋒鋭い批判と分析が爽やかな読後感を与えてくれる名著である。学生達には是非とも一読してもらいたい。ほとんどの会社はろくなところではない。この点が非常によく理解できる。私も会社に勤めていたことがあるから分かるのだが、よく上司が「会社のために頑張れ」とか「顧客より会社の利益を優先しろ」とか言っているのを、「会社」って誰、どこにいるの?と不思議に思ってきいていた。会社とは法人という法律上の実態であり、観念上の存在である。その観念に踊らされて、得意気に訓示を垂れている上司を私は入社1年目ですぐ見限り、「私には上司はいない。いたとしたらそれは顧客である」という基本理念のもとにその後、仕事を続けることになる。その結果、後輩とは仕事をしても、先輩とはほとんど仕事をしないで、3年目からはほとんど自分がプロジェクト・リーダーのような形で仕事をしてきた。そういうことであるから、そのうち自分の興味のある仕事しかしなくなり、留学して戻った後は、都市計画関連のプロジェクトが縮小していたこと、会社にいた専門が似た人達との醜い仕事の奪い合い、そして成果主義が導入されたこともあり、成果の奪い合いなどに巻き込まれてほとほど嫌になって辞めることになる。私のいた会社は山崎さんの挙げられたダメ会社達と比較してもまったく遜色がない酷さであるが、山崎さんが会社を選ぶ一つの判断材料である「自分を育ててくれる」という点においては、私が今のようなポジションにいることから悪くはなかったと思われる。何人かの優秀な人達(彼らの多くは会社内での評価が低かったが)と出会い、私も大きく成長できたこともある。ただし、このように評価できるのは、会社を辞めて今、自分が満足できる仕事に携われているからでる。ハビタットデザイン研究所も比較的順調である。まだ会社に居続けたら本当に悲惨だろうな、と私は遠い目で回想するのである。という個人的な経験からも山崎さんも本で指摘していたように、会社がダメなら即刻、辞めるべきなのである。そして、辞められるだけの実力を早くつけることが重要なのである。私は企業派遣で留学したので5年間辞められなかったのだが、この5年間は本当に失われた5年間であった。今でもたまにこの時間の喪失を悔いている。
2005年5月13日
日本にいると忙しい。これはアーバン・ダイアリーの更新のインターバルが長くなることから分かる。今日は下北沢にゼミ生と行く。下北沢フォーラムの二塀さんに案内をしてもらう。すずなり劇場、怪しげな教会、など刺激的な出会いが多くあった。下北沢駅前に幅員26メートルの道路をつくる計画地もみた。既に当たり前だが建物もたっており、これだけのコミュニティが形成されているところに道路を通すというのは、おそろしく酷い冗談である。こんなことは、インドネシアのマカッサルでも出来ないのではないか。というか土地を買うお金がどこにあるのか。不要で高価なものを税金から捻出して整備するほどの余裕があるはずもない。日本がいかに狂っているのかを知る非常にいい事例である。
2005年5月7日
日本に戻ると、JR西日本の事故が相当の衝撃を世間に与えていることを改めて認識した。JR西日本の社員達が事故が起きていたにも関わらず、ボーリングやゴルフ、飲み会をしていたり、事故車両に乗っていたにも拘わらず救助活動を手伝わなかったと世間から非難囂々である。これは、JR西日本のような大企業、大組織においては、内の論理(掟)と外の論理(常識)とに大きな乖離があったことが要因であろう。ボーリングやゴルフ、飲み会がどの程度大切なのかは分からないが、他の機関車区の事故を自分達のものとして認識できないようなセクショナリズム、無責任主義がまかり通っていたのではないだろうか。しかし、これは非難するのは簡単だが、我が身を振り返ってもそういう点が全くないとはいえない。同じ会社であっても、他の部署の失敗を自分のものと捉えることはあまりない。特に成果主義や原点主義であったりすると、自分の失敗をフォローしてくれる人はほとんどいないし、自分もあまりフォローする気持ちになれない。稲作文化が長い年月築き上げてきた、皆で協力して成果を得て、それを分配する、といった共同性は企業からは急速に失われつつある。しかも、経済も成熟化してきた現在、企業活動も従来の拡大志向だけを目指せばうまくいく時代はとうに終わっている。そのような状況下で、企業の利益拡大といったような目的だけを絶対視していっては、人々が企業の将来性に合意形成ができず、早晩、立ちゆかなくなっていくのは明らかなのだが、企業は惰性で動いているので、急激に方向転換することは難しい。そういう中、何を重視するように人が意識的、無意識的に考えるかというと、部署の人間関係であろう。隣の部署の大惨事を助けるよりかは、自分の部署の懇親会を優先してしまうのである。JR西日本の社員が特別に人非人であるとは思えない。しかし、長年そこにいると、そのような部署最優先のメンタリティが形成されてしまうのであろう。情けないといえば本当に情けないが、企業が巨大であったり、経営不振で歪んできたりすると、人々は社会常識を失い、いびつな会社の掟に身を委ねるものだと私は思う。東京電力や三菱自動車、日本航空などの問題の背景にあるのも同様のメンタリティではないのだろうか。平気な顔をして軍需産業関連の仕事や兵器関連のプログラミングをしている人間に限って、家族思いの穏やかな人だったりするのはよくあることである。そういう人は、またカンボジアとかに行って地雷を踏んで片足をなくした子供に会ったりすると、本当に悲惨だよね、とかいったりするのである。って、おまえの会社がつくってんじゃねいか、と流石にこの時は突っ込みましたけど。
2005年5月6日
今日でインドネシアの出張も終わりである。夜行便で東京に発つ。さて、私は1996年の秋から1997年の、ほぼ1年間をマレーシアに滞在して、そこでマルチ・メディア・コリドールというプロジェクトに参画していた。マルチ・メディア・コリドールの計画をマハティールが宣言してから、ほとんど直後に私は現地入りをして、そのマスタープランのチームに入り、マレーシアの建設省のオフィスで作業を行っていた。それから9年ぶりの東南アジアの都市計画業務である。まあ、業務といっても私はアドバイザー的位置づけであるので、マレーシアの時のように自らが図面を相手に奮闘している訳ではまったくないが、いくつかの会議に出席して、現地の人達と議論していて、ふと日本人はやはり相当アジア的であり、インドネシアと共通項が極めて多いことに気付いた。人との関係の持ち方、相互扶助の考え方等、おそらく農耕民族であるゆえに形成された価値観、生活観が類似しているのではないだろうか。そして、これからよりグローバル化が進み、国境を越えた地域経済圏が形成されていく中、日本はインドネシアとの関係をより強化させていくことが望ましいのではないだろうかと考えた。イスラム教という宗教の違いがあるが、私はなぜか同じイスラム教であっても、マレーシアよりインドネシアの方が日本と共通点が多いように感じてしょうがない。外見的には似ていても私は中国よりインドネシアの方が日本に近いものを感じてしまうのである。おそらく、日本人の先祖も結構ここらへんからも来ているのではないだろうか。当然、韓国ほどの共通性は感じないのであるが、インドネシア、台湾(華僑ではない台湾人)と日本は世界の国をクラスター分析したら同じグループに入るような気がするのである。フィリピンがちょっと違うのは、やはりスペイン、アメリカの植民地であったからだろう。マレーシアはやはり華僑の影響が強すぎる。などというと、インドネシアやマレーシアのマレー人からは、日本が中国の影響を受けすぎてしまったというのかもしれないが。同じ漢字を用いるが、私はむしろ中国人よりインドネシア人とのより近しいものを感じていることに今回の出張で気付いたのである。今回の仕事をきっかけに私とインドネシアとの繋がりは太くなっていくような予感がする。
この出張中に4つのDVDを鑑賞した。「美しき諍い女」、「ホテル・ハイビスカス」、「エドワード・シザーハンズ」、「戦艦ポチョムキン」。どれも名画の誉れ高い作品であるが、私は今更ながら恥ずかしくも初めてみた訳である。「戦艦ポチョムキン」は圧倒的な映像芸術に感心した。サイレント映画ではあるが、凄まじい迫力である。有名な乳母車が階段を落ちるシーンは、DVDであるにも関わらず緊張した。共産主義もその昔は、この映画のようなロマンに溢れていたのかと思うと、考えさせられる。キム・ヨンジュルの北朝鮮に、「戦艦ポチョムキン」的な同胞意識があるとはとても思えない。「エドワード・シザーハンズ」は、若きジョニー・デップの名演が光る。私はティム・バートンの作品は「ビートルジュース」、「バットマン」、「ロッキーホラーショー」、「マースアタック」など皆非常に好きなので、この「シザーハンズ」も多いに楽しめたのだが、超絶美少女であり万引き女優でもあるウィノア・ライダーは、「シザーハンズ」ではあまりにも健康的な正統派的美少女であり、個人的には「ビートルジュース」のオカルト少女の方が好感が持てた。それにしても、この映画はアメリカの郊外の異常さを結構、面白おかしく表していて、郊外映画としても傑出している。「美しき諍い女」は正直退屈した。私が最も好きな女優の一人であるエマニュエル・ベアールのまさに身体を張った演技はDVDを買うのに値するとは思うが、なんか物語の展開はだるく、フランス人特有の自意識過剰が映画を通して鼻についた。同じフランス映画の自意識過剰でも「髪結いの亭主」の方がよほどましである。この映画を唯一救っているのはエマニュエル・ベアールであり、彼女以外の女優であったら私は最後まで見られなかったのではないか(なんせ長すぎる)。この映画に感心するためには、よほどの自意識がないと無理ではないだろうか。私では謙虚すぎて厳しい。そして「ホテル・ハイビスカス」。今回の名画の中でも間違いなく個人的には最も楽しめた。素晴らしき傑作である。「美しき諍い女」の自意識過剰に対して、「ホテル・ハイビスカス」の基底にあるのはアジア的農耕民族の持つ死者をも含む他者への情である。そこには自分の自意識のためには他人の感情も踏みにじるフランス的なものとは極めて対照的な、他者も自分の延長であるという、自意識の境界が身体を超克し、周辺の人々や先祖、霊までにも及んでいる沖縄の人達の環境観が見事に表現されており、大いなる感動を覚えた。特に同じ農耕民族であるインドネシアで見たからかも知れない。髪の毛が赤いわけの分からないバックパッカー、父親の肌の色がすべて異なる3色アイスクリームのような子供達、ご先祖様、霊など、すべてを受け入れる大らかさ(同じ霊が出てきてもフランス映画だと、例えばエマニュエル・ベアール主演の「Mの物語」のように、男側が事実を受け入れられずに自殺しようとする。そして、最後はお化けが生き返るという何とも無理なエンディングで収拾をつけようとする。お化けのままでは人間と共存することができないという偏狭さ。これはさすがデカルトを生み出した国だけある。「我思う故に我アリ」はおそろしい自意識過剰さであり、逆に我思わなくても存在するものがあることを認めたがらないのだ)。「ホテル・ハイビスカス」は間違いなく大名作であり、大いなる人間愛が溢れた作品である。「美しき諍い女」のお尻の絵より、私は「ホテル・ハイビスカス」のラストシーンでの美恵子の書いた垂れ幕の方がはるかに感動した。美恵子もいいが、あの母ちゃんのキャラクターが素晴らしい。そして、私は「美しき諍い女」より「ホテル・ハイビスカス」を好む自分が結構気に入っていることに気付いた。今日はそういえば私の誕生日である。42歳になってこのように考えるようになったのは、遠回りをしつつも私も成長しているのではないかと思ったりする。
2005年5月5日
今日はインドネシアも休日であった。大学院時代の友人のバンバンとホテルで待ち合わせをし、昨年開通したばかりの専用レーンのバス、トランスジャカルタに乗る。このトランスジャカルタ、オレンジ色のボディで相当ごつい車体である。すりが多いので、警備員が一人乗っている。ラッシュアワーには二人乗るそうである。料金は2500ルピア。ほぼ30円くらいか。通常のバスはこの半分くらいの値段なので、結構割高だが、冷房が効いており、スピードも時速70キロくらい出ている。快適であり、渋滞に巻き込まれて遅く、定時性もないバスに比べて、こちらの方が全然優れている。バンバンはインドネシアの交通計画学会の会長であり、このバスを導入するうえで非常に重要な役割を果たした。他の人達が、ヨーロッパやアメリカを参考にしようという中、ジャカルタが導入すべきは、よりプリミティブで人口が1000万人近くあり、公共交通が整備されていなかったボゴタしかないと主張し、ボゴタとキト(キトはバスの運行管理が優れているらしい)へ視察に行き、ボゴタの市長をジャカルタに呼び講演してもらうことに成功する。このバスの導入は地下鉄の100分の1の費用でできたそうで、概ね満足しているそうだが、バスが連節バスにできなかったことは悔いていた。これは、バスの納入業者の決定が直前で変更されたためだそうで、おそらく業者が賄賂を役人に渡したからだろうと苦々しげに言っていた。連節バスかそうでないかだと交通容量が全然違う。今は3分間隔で運行しているが、休日でも結構混んでいた。最適な判断ができないのは経済システムが賄賂で歪められているからである。私も、もし将来に少し余裕ができれば「賄賂の経済学」でも研究したいものだ。トランスジャカルタはまだ一路線しか開通していないのだが、次の計画も策定されているそうである。これからどんどんネットワークが充実していけば、さらに利用者は増えるであろう。しかし、この専用レーンバスは定時性を確保できた初めての公共交通だそうだ。なんでそんなに交通アクセスが確保できない状態でジャカルタは人口が1000万人も越えられたのだろうか。まったく私では理解できない。しかし、これは理解できない私が無知だからである。都市を分析するうえでアメリカ、ヨーロッパでの都市計画的考えに囚われている。そのような知識もなくていい加減なことを言う人達が、特に私が以前いた会社には多くいたりして、それは困りものだし辟易とするが、そのような知識を持っていても理解できないこともある。まだ勉強が足りないということか。それとも分析力が欠けているのであろうか。どちらにしろまだ修行の身である。人間老いやすく学成り難し。
バスはチャイナタウンを抜けて終点のコタ駅に着いた。我々もそこで降り、オールドタウンのレストランで昼食をとった。その後、バンバンの運転手の車でスハルトがつくったインドネシア・テーマパークに行った。ここは、インドネシアの各島の伝統的建築が展示されている。バンバンの携帯がやたらに鳴るので気になっていたら、テレビ局がどうしてもバンバンのコメントをもらいたがって、バンバンが断っているにも拘わらず、我々についてきたらしい。そして、このテーマパークで彼をつかまえると取材を始めた。バンバンは私に申し訳ないと言って謝ったが、私としてはもちろん問題ない。なんでも鉄道事業を再構築するうえでの問題点を提起する番組を作成しているそうで、交通計画学会の会長である彼の意見が是非とも欲しいということであった。確かに、彼は極めて知的で穏やかなので、マスコミにも気に入られるであろう。聞けばよく取材を受けているそうである。どうも私が考えているより、さらに私の友人はビッグになっているようだ。とふと見れば時計もロレックスではないか!運転手も二人雇っているし、奥さんは弁護士事務所を立ち上げ、ダウンタウンの凄い立派なビルにオフィスを構え、従業員も10人雇っているし、娘は物理オリンピックの選手として強化合宿に行っているそうだし、隣の家を買って自宅を拡張しているなど、なんか同じ大学院を出た同い年なのに凄い差がついてしまったものだ。そういえば、大学院時代、彼と一緒に課題をやったが彼はあまりやらなかったので私が相当やったこともあったなあ、と昔の出来事が懐かしく思い出された。しかし、今では凄い差である。人生を考えさせられる。とはいっても、お金のことを除けば私は今、結構自分の人生が嫌いでないからいいのだけれど。
しかし、同じ大学院を出てもこんなに差がでているのに、私の母国は一所懸命に彼の国に援助をしており、援助だけならまだしも、バンバンなんかよりはるかに交通計画や都市計画を分かっていないお役人を専門官としてこちらに送り込んでいるのである。これはまさに釈迦に説法であり、余計なお節介である。エリート役人に関していえば、インドネシアと日本とではほとんど差がなく、インドネシアの土俵で勝負しようとしても勝てる訳がない。しかし、インドネシア人より日本人の方が優秀であるといった根拠のない先入観から、自分達が教える側で、インドネシアは教わる側であると思っている人が少なくないように感じる。そして、高級住宅地に住んで、自分の国でも出来てもいない事業をこちらで行おうとしたりしているのである。それは、当然、多くの歪みを生じた事業になる。しかも現場はほとんどコンサルタント任せなので、コンサルタントは前線でいろいろと情報収集ができるが、後方部隊としてジャカルタでカラオケ行っている役人はそのような自分の置かれている状況も客観視できないまま、帰国して、なんか充実したことをしたような気分になるのである。もちろん、全員がそうではないだろうし、私も現地で奮闘していた日本のパブリック・セクター出身者を数名知っている(中央官庁出身者では残念ながら知らないが)。日本はそれでも、一所懸命に働くプロのコンサルタントが彼らの不出来さ加減をフォローするからまだいいが、世界銀行とかは地方分権化とか民営化とか民主主義とかイデオロギーを押しつけ、文化とローカル経済を破壊することまでやってのけて、しかも反省することさえしない。というか、反省すべきことであったことも自覚していないのではないだろうか。などと書いていたら、我々の大学院の同期で世界銀行に就職した中国人はマニラ事務所にいることをバンバンに教えてもらったことを思い出した。彼は見事中国から脱出できた訳である。勉強すると救われるのである。彼も非常に優秀だったが、世界銀行の手先として働いているのであろうか。是非とも、再会したいものである。それにしても、日本が援助している国の出の友人達の方が私よりはるかに豊かである。日本政府は大学教員にもっと援助をすることを考えてもいいのかもしれない、と下らないことを考えたりした日であった。
2005年5月4日
ジャカルタの居住地域インフラストラクチャー省にて、簡単なプレゼンテーションを行う。マミナサタが参考にするような都市圏はどこか?とのディレクター・ジェネラルの質問に対して、人口規模、港湾都市、背後にある程度の都市が発展する土地があること、地域拠点性を有していること、などからサンディエゴ、バンクーバー、クリチバ(パラナグア)、パース、ボルティモアなどを挙げた。ディレクター・ジェネラルは広域計画で難しいのは制度である、と的を得た指摘をした。どうしたらいいのか?と聞いてきたのだが、これは答えがない。ポートランドのメトロのような広域行政組織ができればいいのだが、このような組織はそう簡単にはできない。悩ましい問題点だ。
ジャカルタは本当に都市構造が分からない。これは、自動車で移動をしているからで、都市構造を理解しないで点から点へと移動してしまうからである。ネットワーク、面的な理解ができていない。しかし、道路は本当に幅広である。どうして、このような広い道路を整備することが可能だったのであろうか?
2005年5月3日
インペリアルホテルでマミナサタ広域圏計画のステークホルダー達とワークショップを行う。会議場は結構広く、おそらく70人以上はいたのではないだろうか。マカッサル市のマスタープランの説明、ワーキンググループの説明などの後、議論を行った。なかなか積極的で建設的な議論が行われたが、終了間際になって、タカラール市の人が、我々には既にマスタープランがある。我々の意向が通らない広域圏計画ならそれは無視するまでだ、と冷静ながらも強い口調で言った。広域圏計画を策定することは、非常に難しい。というのは、広域圏を構成する自治体がなかなか合意形成できないためである。タカラール市の意見は、マミナサタ広域圏といった視点からはあまり筋が通らないのだが、そこらへんはしっかりと調整を図らないと空中分解してしまう。機械的に考えると、タカラール市のある南方面には開発軸を設置するのは非効率である。しかし、タカラール市の視点に立つと、そのような計画が面白くないのは非常によく理解できる。広域圏計画は市町村といった行政範囲よりさらに高い視点にたって、包括的な地域を計画することである。しかし、現状のシステムではなかなか策定することが難しいということを痛感する。アメリカでも広域圏計画がまともに実施できているのはポートランド大都市圏とミネアポリス大都市圏だけで、他はまったく手つかずの状態のところが多い。成功例として紹介されるデンバー大都市圏でも、広域行政委員会に所属していない人が全広域圏の18%弱はいる。メンバーである自治体がメリットを享受できるような工夫が必要であろう。
16時頃の飛行機でマカッサルからジャカルタへ向かう。あっという間に10日間が過ぎた。一番の発見はマカッサルの人達がごみをあまり汚いと思っていないということであった。日本人も昔、煙突から排煙が出ているのを誇らしげに思っていた時代がある。ごみというもののイメージが我々とは違うということは、なかなか自分では気付くことができなかった。先入観で物事を判断すると見誤ることを改めて知った。多くの人と知り合いになり、大いに勉強することができた貴重な10日間であった。
2005年5月2日
今日は1日オフィスで働いた。明日のワークショップでとりあえず私はお役ご免となるので、この1週間ちょっとで得た知見、情報等でマカッサルを中心とするマミナサタ広域圏の在り方を整理した。マミナサタ広域圏はマカッサルを中心に北にマロス、南にタカラール、そして東にゴアがある。マロス、タカラールの距離が結構あるので、広域圏は南北に長くなるのだが、開発軸は南北よりも東に伸ばし、山に伸びていく方が正解であると考察される。これは、海岸沿いは常に洪水に悩まされるため、農業、漁業はともかく都市開発をすることが難しい、もしくはコストがかかること。それに対して東はそのような心配があまりないのと、ゴア地方の方が相対的に付加価値が高い商品作物などに恵まれているためである。マミナサタ広域圏といっても都市化はそれほど将来的にも進まないと思われる。現在でも既にマカッサルの人口増加率は2%以下である。しかもマミナサタにおけるマカッサルの人口比率は既に6割近い。流入してくる人口も限られている。したがって、それほど都市圏は広がらないので、東の開発軸だけで将来的な開発需要を吸収できると推測される。私が行った二つの講演の出席者へのアンケート調査からは、「緑を保全したい」という要望が最も多かった。緑を保全するには、グリーンベルトを整備することが考えられるが、ここでは東の山のエッセンスをむしろ都市に取り込むという考えから、開発軸の間を楔状に緑地とするコペンハーゲンのフィンガープランのようなコンセプトの方が合っているのではないかと考える。東の山には棚田など、このマミナサタ地方の風土が今でも残されている。その地域的アイデンティティが未だ色濃く残る地域を都市と連結させることで、マミナサタの風土性も強化されるのではないだろうか。交通に関しては、一番の課題は地域間交通ではなく、マカッサルの都心交通である。私は、公共交通をおそらく連節バスを中心としたトランク交通に、ペテペテをフィーダー交通、さらにペテペテを補完するかたちでベチャックを活かすような公共交通システムを構築することを提案したい。ここでペテペテ、ベチャックが分からない人も多いだろうから、簡単に説明すると、ペテペテとは乗り合いタクシーのようなもので、ベチャックはサイクリクシャー、すなわち人力車の自転車版である。ハサヌーディン大学の講演でもベチャックはお年寄りと女子高生(なぜかマカッサルでは女子高生が自転車を乗ることははしたないと思われている)には大変重宝する乗り物であると思うと講義したら、講義後、あの指摘はとても鋭く感心した、との意見をもらったりしたので、一部役所では全廃を考えているらしいが、是非とも残すことを前向きに検討すべきであろう。そして、一番気になるのはオーシャン・フロントを自動車から人々のものに戻すという事業である。まず、海岸沿いの道路を歩行者専用道路にして自動車を追放する。そして、オーシャン・フロント周辺の歴史保全地区の区画をマイカー禁止ゾーンとし、さらにその区画を囲う形の2キロ×4キロ程度の区画を公共交通優先ゾーンとし、不必要な通過交通やマイカーの都心流入を削減することを提案したい。そして、これらのゾーンにはペテペテ専用道路を整備し、また充実したトランク交通を整備するなどして、代替交通機関のサービスをしっかりとすることが肝要である。また、マカッサルのミクロな都市構造を調査したら、幹線道路から一本のアクセス道路があり、しばらく行くと住宅地がバッとあじさいの花のように広がっているパターンが多いことが分かった。この場合、アクセス道路は茎にあたるのだが、このような構造は交通ネットワーク的には問題も多いが、極めてエンクローズドされた住空間となっており、防犯、コミュニティのアイデンティティの醸成などにおいてはたいへん優れた構造であると感心した。地図上でみたネットワークの非効率性などから区画整理などをすることは慎んでもらいたい。コミュニティ内はペテペテでもアクセスするのが難しいほど路地も狭いが、そこはベチャックに活躍させればいい。距離、交通目的によって既存の2つの公共交通手段、そしてそれに加えて新たに大量輸送が可能な連節バス、もしくは路面電車を整備することによって、アクセスは格段によくなるのではないかと考えられる。あともう一点気になるのがごみである。ごみはどこにでも捨てられており、海なども非常に美しいにも拘わらずごみだらけで風情も何もない。皆がうらやむような美女なのに鼻くそをほじくって、痰を人前で吐いているようなものだ(と書いて、バークレイ時代にそのような友人がいたことを思い出した。まあ、それほどの美人ではなかったが)。これはどうも、ごみが無造作に捨てられていても、それが汚いとか不潔であるという感覚がないためらしいことが判明した。汚いと思わなければ、そりゃ捨てるわ。ヘドロのようなどびで嬉々として子供達が遊んでいるのを見て、ギョッとしたが、これも別に汚いという意識がないためなのかと分かり、納得した。ともかく、そういうことで、ごみ問題は想像していたより難しいことが分かったが、これはもう教えるしかない。しかも大人ではなく子供に教えるべきであろう。分別などは、どのようにしたらいいのかちょっと今の時点では不明だが、私はこのように都市の課題を考える時に、レルネルさんと中村さんのクリチバでの経験、そしてケビン・リンチのグッド・アーバン・フォームの5つのクライテリアを視座に据えていることが判明した。この二つとも人間を中心に置いたうえで都市の在り方を検討する。非常に有益な指標であると思う。
明日の夕方ジャカルタに飛ぶ。私は1000円も余計にするオーシャンビューのホテルに泊まっていたのだが、一度も夕焼けをみることができなかった。悔しいので、隣の部屋に泊まられている木村さんの夕日の写真をここに載させていただく。アーバン・ダイアリーで初めての私以外の写真の掲載である。
マカッサルの東にあるビリビリダムとさらに奥に入ったマリノという街に日本工営の渡辺さんと高田さんと行く。マリノは標高1000メートルあり、軽井沢のように涼しく快適な避暑地であった。幅が3メートルくらいしかない棚田がつくられており、農耕民族であった先祖から引き継いだ記憶からか、非常に懐かしさを覚える光景であった。日東紅茶のプランテーションもここにつくられている。我々のチームメンバーであるアグネス先生の昔の別荘というところを訪れる。今では、もう他の人に売ってしまっているのだが、勝手に入って自動車を駐車しても怪しまれず、むしろ歓待してくれた。ここらへんのインドネシアの他人を受け入れる寛容性、優しさを私は未だとまどいをもって受け止めてしまう。アメリカで同じ事をやったらホールドアップと拳銃を突きつけられているところである。性善説か性悪説かという違いだが、今のアメリカそしてアメリカ文化の隆盛を考えると性善説では征服されてしまうのではないかと心配であるが、性悪説も最終的には自滅するであろうから、いろいろと難しい。すべての人種がインドネシア的寛容性を持っていれば、おそらくうまくいくのであろうが、アメリカ菌はもはや世界中に流布している。しかし、このアメリカ菌の問題は、弱者を多く生み出すことである。アメリカの貧乏人とインドネシアの貧乏人とを比較すれば、前者の方がはるかに悲惨である。経済的な指標を比較すれば前者の方が豊かということになるが、それは物価が高いか低いかという違いだけであって、自立性、社会への帰属性、日々の食事の豊かさ、などにおいてアメリカの貧乏人はインドネシアの貧乏人よりはるかに劣っている。このような点を理解せずに、アメリカの貧乏人のほうがインドネシアの貧乏人より豊かであるといったコンサルタントがいたが、こういう人はアメリカの実態を知らず、ただ統計上の数字だけからこのような滑稽な結論を導きだすのであろう。もちろん、こういう愚かしいことを言うコンサルタントは年配者である。