2005年7月29日

訃報。私の朋友であり、同僚である原後雄太氏が昨日、出張先のイスタンブールで逝去された。まだ、とても心の整理ができていなく、茫漠とした喪失感に包まれており、現実を受け入れることができない。今、このように記録していても、夢なのではないかと思いたい自分がいることに気付く。大学の研究棟の8階のバルコニーやエレベーター・ホールで出会う時に見せる豪快な笑いと笑顔が思い出される。もう、あの豪放磊落で傍若無人、猪突猛進の原後先生と会えないかと思うと胸は張り裂けそうになる。空爆を受けてもまず死にそうにもない原後先生がどうしてこの世からいなくなってしまえるのだろうか。今日は昨日とまったく世界が展開しているということに、愕然とする。

個人的な喪失だけでなく、原後先生は経済学科、明治学院大学、そして日本にとっても大きな喪失である。このポッカリと空いてしまった穴を埋めることは不可能であろう。しかし、残された我々は生き続けなくてはならない。原後先生とともにフィールドスタディ、事例研究といった講義を受け持っていた私はいきなり、彼のロードを受け止めなくてはならなくなった訳だが、私がやらなくて誰がするといった心境である。フィールドスタディという講義に正直、それほど思い入れを持っていなかった。しかし、もはやこれからは私だけが決める訳にはいかない。原後先生の分まで私がやっていかなくてはならないだろう。それがせめてもの供養である。

それにしても、あまりにも突然の出来事である。一寸先は闇という言葉が思い浮かぶ。原後先生も亡くなる直前は、え?っと思われたのではないだろうか。それを思うと、彼の無念さが心に広がり、悔しい限りである。心底、ご冥福をお祈り申し上げる。これから私は喪に服します。

2005年7月21日

午前、星川淳さんに会ってお話を聞く。日本を代表するエコロジストであり、私は勝手に日本のヘンリー・ソローなのではないかと思っていたので、今回は非常に期するものがあったのである。そして、星川さんとの話は私の期待を上回る素晴らしいものであった。エコロジーということを非常に理解しており、大いに勉強になった。このエコロジーを理解するうえで、星川さんは北カリフォルニアのクリア・レイクのコミューンで生活をしたことが大きく役立ったとおっしゃっていた。地に根っこを持った生命力を感じる。そして、過剰さに依存しなくてはいけない現代人の無駄を指摘された。本当にそうである。我々が生存に必要なものは大して多くない。あまりにも過剰な無意味な欲望に我々は踊らされている。

2005年7月18日 

7月15日の夜から今日の昼まで大阪にいた。都市環境デザイン会議の大会がこちらで開催されたからである。私は、この代表幹事の一人なので多くの仕事をしなくてはならない。大会自体は16日と17日だけであったが、準備などがあるため前泊入りをしたのである。泊まったのはアメリカ村の中のホテルであった。ここは、東京でいえば新宿の歌舞伎町と渋谷と六本木が合体したようなところで、凄まじいエネルギーを発散している。夏であることもあり、多くの若者が深夜までたむろして溢れるエネルギーをどのように放出していいか分からなくビリビリ言わせている。その蓄積されたエネルギーが街に充満しているのだ。

会議は大阪市の中央公会堂で行われた。その後、場所を移すのに水上バスを貸し切って移動した。現在、道頓堀の河川敷が歩道整備されているのだが、その設計は都市環境デザイン会議のメンバーが中心となっている。なかなか、素晴らしい出来映えでこのような都市河川のリバーフロントの活用はこれからも随分と積極的に行われることになるだろう。その先陣を切ったということで、道頓堀のプロジェクトはモデル・ケースとして広く紹介されていくと思われる。東京にも多くの再生すべき都市河川がある。それもウォーターフロントはほとんど手つかずである。大きな可能性を感じさせられた。

17日は全国に広がるブロックの活動の発表と公募プロジェクトの発表が行われた。公募プロジェクトは沖縄と九州ブロックが昨年と同じ顔ぶれである。九州ブロックはチョンゲチョンのケース・スタディであった。環境復元のケースとして捉え、いろいろと問題が多いと指摘していた。これは、物事をマクロな視点で捉えておらず的はずれである。というのは、そもそもチョンゲチョンは環境復元ではなく、都市の記憶を復元したプロジェクトであるからだ。したがって、発表者は何も川として水を無理して流さなくてもいいのではと提案していたが、これは物事の本質を外した意見である。チョンゲチョンを高速道路を撤去してまで再生させなくてはいけないのは、一度埋め立てた川の記憶を再び現在に呼び戻すことが必要であったからである。環境なんて下らないものではない。まあ、九州の発表者はまだまだ若く、将来性もすこぶるあるのでこれからも勉強を大いにしてもらいたい。8月に刊行する小輩が訳した「都市の鍼治療」を是非とも読むといいであろう。

無事、二日間の大会は終わり、打ち上げで「鯛よし100番」に行く。あの飛田新地である。飛田新地は2回目である。以前、大学時代の友人が連れて行ってくれた。しかし、彼はすごいびびり症だったので、車からの見学であり、私は大いに不満であったので、今回は歩き回れて楽しかった。注目すべきは都市デザインで、電燈のデザインが統一されていたのをはじめ、店の看板もサイズ、フォント、字体の大きさが統一されて清々しい統一感があった。これは、北千住や池袋、歌舞伎町、中州、なんば、そして先日行った太田市の風俗街とは全然違う。なんか、まさに異界に入ったような特別な空間であった。時代も飛び越えたような、風情のある都市空間である。昔、ここはあたかも監獄のようにコンクリートで下界と隔たれ、唯一の出入り口は大門と呼ばれるところだけだったそうである。大正時代につくられ、最盛期は松島につぐ赤線地帯であったそうだ。とはいえ、現在でも店は恐ろしい数あり、おばさんとおばさんよりは若くて綺麗な女性がペアで道行く人達に顔見せしている。おばさんよりは若くて綺麗な女性は、綺麗に着飾って座椅子に座っている。大抵がおばさんの厚化粧であるが、中には若くて綺麗な女性もいて驚いた。どんな凄まじい人生を歩んだら、若くて綺麗なのに飛田新地で働くのであろうか。写真の撮影は禁止らしく、私はごついカメラを持っていることもあり、おばさん達から注意を受けた。大阪のおばさんは怒ると迫力がある。店にも撮影禁止とある。これは法律的にはどのような根拠があるのだろうか。しかし、おばさんが怖いから少ししか撮影しなかった。こんなところに誰が来るのか、と興味津々だったが、時間が早いせいか、二十歳にもならない若い男の子達がグループでうろちょろしていた。なんか、凄いねというか、その若さでこんなところに来たらまっとうな恋愛ができるんだろうか、と余計なお世話だが心配したりもする。「鯛よし100番」は、もと遊郭を料亭にリニューアルしたところである。中庭にはごっつい大きな石がごろごろしていて、凄い迫力だ。建築は和風豪華絢爛で、千と千尋の湯殿の世界である。ううむ。ジャパネスクである。とはいえ、料理は恐ろしく不味かった。大阪には以前、市役所の仕事を4年くらい続けてしていたこともありよく来ていたので、その料理の旨さには感服していた私であったが、ほとんど初めてというほど不味い食事を食べてしまった。しかも、料亭で。しかも、刺身とか蛸の酢の物とか鰻が不味かった。私は関西の蒸し鰻がすごい好きなのだが、ここのは不味かった。ショック!しかし、二軒目は通天閣下のジャンジャン横丁に行き、串カツ屋に入って串カツを頬張ったら旨かった。C級グルメの絶品である。飛田新地の後だとちょっとインパクトが薄れるがジャンジャン横丁の空間も密度が濃くて超強烈である。もう、これは素晴らしき地域アイデンティティ。楽しい打ち上げであった。

2005年7月15日 

ゼミ生と朝、築地市場にごっつい美味しい朝食を食べに行く。築地市場で何を食べるかというと、やはり寿司である。個人的には、築地に寿司ということでは、あまり開陳したくないが、「決める」時は鮨つかさに行く。といっても、もう「決める」ことはほとんどない生活を送っているのではあるのだが。ここの鮨はネタの美味さ、新鮮さ、オリジナリティ溢れる工夫、サービスのよさ、店の清潔感、どこをとっても大変素晴らしい。板前さんが結構、若いのにこの水準に達しているのはひとえに感心である。ただし、ここは築地王も大推薦しており、彼の「築地を食べ尽くせ」(光文社新書)もどうも相当売れているそうなので、この店が紹介されているかどうかは確認していないが、今後、随分と人気が出るようになるかもしれない。心配である。また、「決めなくてもいい」か「金がない」などで、とりあえずつかさじゃない時は、江戸銀に行く。江戸銀は、もうこれは、私的には築地の寿司屋の「モスバーガー」的存在である。ネタも味も優れていて、そしてそんなに高くない。何号館もあるので、まあどこかには入れる。特別ではないが、まったくもって満足できる水準である。

じゃあ、場内ではどこか。というと、どこだろうか。とりあえず、有名なところは寿司大と大和寿司と岩佐寿司か。実は、私は場内では寿司を食べたことがない。というのは、これら3軒は昼には店仕舞いをしてしまうからである。比較的時間のある大学教員でもさすがに昼に築地場内に食事に行くほどは暇ではない。ということで、今日は、街歩きで朝食を築地市場で取るという非常に貴重な機会が得られたので、私はこの3つのうちのどこかに入ろうと心に決めていた。貧乏な学生と一緒だが、例え一人でも寿司を食べようと密かなる決意をしていたのである。さて、寿司大は知り合いの岩波書店の編集者が大のお勧めで、なんかもう築地一と豪語していたので前から気になっていた。まあ、築地一と言われたならば、それを試さないといけない。大和寿司は有名で、何故有名か忘れたが、よくテレビや雑誌で紹介されている筈である。岩佐寿司は貝がめちゃくちゃうまいというのを築地王が以前推薦していたので覚えていたのである。まあ、どこも一度は行くべきであるとは思っていたが、今日は朝の9時ということであまりまだ客がいない。それでは、おそらく一番並ぶであろうと思われる寿司大(なんかのホームページで1時間待つのは普通とか書いてあったように覚えている)に入った。貧乏学生はついてこないであろうと思っていたが、渡邉と4年生コンビである石堂、谷藤も一緒に来た。「金がない」が口癖の学生も、価値があると思うものには本当は金を払うことが今回の行動でも確認された。

ということで、寿司大の寿司である。料金は2100円と3100円、そしておまかせ。ここは、学生もいるし2100円コース。トップバッターはいきなり「中トロ」である。いきなりセンターヒットである。これは相当旨い!贔屓の下高井戸の寿司勘より旨い!ううむ、イチローのバッティングを見ているような爽快感を覚える。二つ目は、しま鯛である。これも旨い!二番バッターも綺麗に繋ぐ。その次は、烏賊飯である。これは、ちょっと小休止という感じか。その後は、卵焼き、締め鯖と続く。途中、お椀も中途半端に出るが気にしない。そして見たこともないゲソのようでいて何ともいえないグロテスクな代物が。なんと、ホッキ貝の紐だという。紐はホタテと赤貝くらいしか知らない私は、すし飯から溢れんばかりのこの巨大な紐に多少躊躇しつつも口に入れる。ううむ、それほどうまくはなかった。私は赤貝の紐の方が好きだ。しかし2100円であるから贅沢はいえない。その後、赤身が出て、カッパと鉄火でおしまいという感じか。改めて振り返ると1番と2番が最も強烈な印象を残したといえなくもないが、満足のいく朝食であった。意外なことに、板前さんのサービスがすこぶるいい。全然、お客を見下した感じがしなくて、ここらへんは銀座の寿司屋とかとはちょっと違う。寿司勘もちょっと板前さんによっては、客を小馬鹿にしているところもあったりするが、場内の寿司屋でそういう感じでなかったのはとても意外であった。まあ、全般的には相当美味しいことは確かではあるが、ここに昼に1時間以上というのはちょっと並び過ぎかもしれない。

2005年7月10日 

今日はピアフィルムフェスティバルに行った。経済学科の4年生の岨手由貴子の作品「コスプレイヤー」を観るためである。岨手からは、招待状をもらっていたし、是非とも機会があれば観なくてはと思っていたので、夜遅かったが渋谷の会場に向かった。岨手の作品は20分の小作品であり、明らかに低予算でつくったことが分かる出来映えであり、また俳優の質は酷いものであった。しかし、そのようなハンディをものともしない緊張した時空間を創出することに成功しており、類い希な才能を感じさせる佳作であった。また、音楽を担当した青年も非常にセンスのよさと才能を感じさせた。彼女に優れた俳優ともう少し性能のよいカメラを与えれば、相当いい作品ができるのではないだろうか。いつも講義で会う岨手(といっても彼女は3分の1も出席していなかったと思うが)は眠そうな目をしていたが、今日、会場で会った彼女は非常に溌剌として才気溢れる存在感を発揮していた。会場での司会とのやりとりもとてもしっかりとしており、他のオタク監督とは極めて対照的であった。明治学院大学は、あまり才気溢れる学生がいないようなイメージがあるが、才能ある学生はしっかりといるのである。そのような才能を発揮させる環境を維持させることが重要であると思うのだが、大抵の場合、才能をつぶしている最大の要因は学生自身の怠け心やお客様意識にある。今日だって、もう少し明治学院大学の学生がいてもよかったであろうに、2〜3人くらいしか見かけなかった。もったいない。岨手が大映画監督になった後に、彼女とは同期であったと飲み会で自慢でもするのであろうか。はばたく時にまったく無視していたにも拘わらず。

2005年7月9日

今日は非常に調子が出ない日であった。仕事は山のようにあるのだが、まったくやる気がでない。家からも雨が降っていたこともあるが一歩も出る気がしない。鬱である。ということで、DVDを二本観てすごした。スパイダーマン2と邦画の「OUT」である。スパイダーマン2は名作の誉れが高い。確かに、このようなティーネージのガキ向けのアクション物としては相当傑出した出来映えであり、見応えがあった。最後は、ハッピーエンディングであり、まあそこら辺は予定調和的過ぎるが、ハリウッド映画だから、そこが限界であろう。まあ、所詮おとぎ話だからそこら辺は目くじらを立てることもあるまい。1週間ほど前に、郊外研究の参考に若きニコラス・ケイジが主演をしている「バレー・ガール」を観て、本当に金と時間を無駄にした(といっても郊外研究の参考にはなったが)と後悔したことを考えれば、スパイダーマン2は相当ストーリーもしっかりしているし、観る価値があった。さらに感動したのは「OUT」である。郊外問題を含む現代の日本社会が抱える狂気と非人間性を見事に描ききっている。そして、主演の原田美枝子が素晴らしい。その圧倒的存在感は、さすが日本アカデミー賞を何度も受賞するだけある。しかし、本当におじさん達もそうだが、おばさん達のおかれている状況は相当非人間的である。特に郊外は乾いており、たまらない。そのたまらなさが見事に映画では描かれている。これだけ乾いた状況では、人をバラバラにしてしまうことさえ、ちょっとした一押しでやれてしまうのが納得できる。主人公の原田演じる香取雅子が、すべての事件の元凶である山本と別れる時に、「けっこう楽しかったよ」と言うのだが、そうなのであろう。家庭崩壊しても、けなげに家族を維持しようとして空しくも続かせている日常から解放されたことによって、香取の人生は開かれたのである。それは、刹那的な解放感であるかもしれないが、あの虚しい崩壊家族から脱出できたことで、香取は救われたように私は思うのである。しかし、この映画が描いている狂気の世界は、実際の日本の現代社会そのものであろう。94年に発表された天才岡崎京子の「リバースエッジ」から10年、益々、何かがおかしい方向に向かっている。というよりかは、我々はそもそもおかしい存在であり、それがただ隠せなくなってきただけなのだろうか。

2005年7月3日

HMVの大バーゲンにゴールド・カード所有者であり、大人である私は、必殺大人買いを炸裂させたのであった。とりあえず、ベン・フォールズやコールドプレイの作品で持っていないものを全て購入し、LPやテープで持っていたようなアーティスト、例えばジョニ・ミッチェル、グランド・ファンク・レイルロード、ドクター・フィールグッド、REM、ケイト・ブッシュ、ジャコ・パストリアス、ジャミロクワイ、シャーディなどを買いまくった。私は中学生の時、ほとんどの小遣いをレコードに費やしていたのだが、よく買った後、一度聴いて気に入らないとレコード屋に戻して他の新譜と交換してもらっていた。これはなけなしのお金がもったいなかったからであるが、今思うと、よくそんなことをあのレコード屋は許してくれたものだ。今はとても恥ずかしくて出来ない。大人買いが出来る今となっては、よく考えれば、あの中学時代の時にレコードを交換をしてくれたレコード屋でこそ大人買いをやるべきである。学芸大学の東横線のガード下の小さなレコード屋。今でもやっているのであろうか?やっているのならば、今度、大人買いはあそこでするべきである。

2005年7月1日 

吉祥寺の商店街振興組合に話をゼミ生達と聞きにいく。ここは、視察が結構多いので一人当たり1000円を取るそうだが、今回は学生ということで無料にしてもらった。昨年設置したアーケードがグッドデザイン賞を受賞するなど、相変わらず吉祥寺は注目を浴びている。この日も2件ほどテレビの取材が入っていたそうだ。テナントの空き店舗率は0%。これだけ人気があるのでテナント賃貸料も高い。組合費も場所や業種によって値段は異なるそうだが、40?で6万円前後が相場らしい。吉祥寺は何故、こんなに商店街が強いのか。大きなポイントは幾つかある大型店舗が駅から離れて立地していることである。東急、伊勢丹、三越など、皆駅から商店街を歩いていかないとアクセスできない。結果、いわゆるショッピング・センターのアンカーテナントのようにデパートが機能しているのである。もう一点は井の頭通り、五日市街道、吉祥寺通りの道路幅が街を分断するほど広くなく、かつ信号等が多く、自動車がゆっくり走ることを余儀なくされているため(というか渋滞しているので)、自動車の街に対するマイナス効果があまり大きくないからであろう。駅の北部などほとんど自動車フリーゾーンになっており、全般的にショッピング・センターと同様な歩行者の自由空間が形成されている。加えて、ハーモニア横丁のような極めて猥雑とした迷路のようなごちゃごちゃとした空間は、ドンキホーテ的楽しさがある。また、自動車は遠く成蹊大学のそばに駐車させ、そこからバスによって商店街に来てもらうなどの工夫もしている。
ということで他の商店街は何を吉祥寺から学べるかというと、駅前はロータリー部分を除いて自動車を排除した自動車フリーゾーンを設け、デパートは駅から直結させずに、多少離れたところに位置させ、アンカーとして機能させ、人々を回遊させるようにするべきということだ。駐車場は商店街の外に設け、バスで商店街まで来てもらうという案も非常に優れており、検討に値すると考える。

2005年6月29日 

今日は二つのイベントをこなした。一つは、「がんとゆっくり日記」の絵門ゆう子さんに取材したことである。私は朝日新聞の連載記事を読んで彼女に大いなる感銘を受けたのであり、某出版社から「サステイナブル・デザイン」に関して有識者に取材する企画を持ちかけられた時、真っ先に絵門さんに会いたいと思ったのであった。日本橋の事務所で会った彼女は私が想像していたより、はるかに筋肉質ながっちりとした体つきをしていた強そうな女性であった。以前、アナウンサー、女優をしていたこともあることからも分かるようにそのオーラ、カリスマ性、存在感は圧倒的なものがあり、私は取材の最初、結構怯んでしまい、距離感がうまく縮めることができずに困惑した。ピンクのタンクトップというラフな格好をしていた彼女はがんが全身転移しているとはとても思えないほどの生命力を周辺に放っていた。あまりうまく取材できなかったが、彼女は3時間以上も話してくれて、その話の量から結果的にはいい取材になったのではないかと思っている。3時間の話を要約したら、相当密度は濃くなるであろう。

二つめは下北沢で市民を対象に「都市の魅力をなくす方法」といったテーマで講演したことである。都道54号の話である。こんなバカげた公共事業は世界中どこを捜してもない。これの費用便益分析をしたのはトウニチ・コンサルタントであるそうだが、その内容は相当杜撰でいい加減らしい。レポートをみなくても、昔その方面で仕事をしていたことから、悪魔に魂を売ったろくでもないレポートであるだろうことが想像できる。トウニチ・コンサルタントのたいして高くもない月給をもらうために、下北沢の街をぶちこわすレポートがまとめられるコンサルタントの顔がみたい。その存在自体が、既に社会悪になっているこのようなコンサルタントの将来はないだろう。私はコンサルタントは将来性がないと思って会社を辞めたのであるが、本当に正解であると思う今日この頃である。私が以前所属したコンサルタント会社のコピーは「よりよい情報で、輝く未来」みたいなものであったが、輝く未来とはほど遠い、お役所のための仕事を増やす未来をえせ情報で誘導するような御用コンサルタントに成り下がっている。情けない。

2005年6月24日 

今日はゼミ生と群馬県の太田市に行く。太田市は浜松市、豊田市などとともにブラジル人が多く住んでいるところである。そこにはブラジル人学校があり、まず、そこを訪問した。フランシスコ校長による説明を受ける。ここは生後三ヶ月から18歳までのブラジル人の生徒を受け入れている。月謝は4万円。これにバス代が1万円加わる。校長先生のフランシスコさんと事務の末松さんのお話を聞く。日系ブラジル人が現在、日本には28万人もいるそうである。日系ブラジル人といっても多くはとても日本人の血が混じっていると思えないハンサムな子も学校にはいた。私が知らないところで大きな変化が起きていたのである。グローバル化は東京より地方においてより大きなインパクトをもって展開していたことを知る。

2005年6月22日 

ゼミ生の今泉君と田中さんとで東日暮里のカンカン森を訪れる。カンカン森はコレクティブ・ハウジングの日本における先駆的事例である。コーディネーターの宮前真理子さんからレクチャーを受ける。有料であるが、極めて密度の濃いレクチャーであった。ここに住んでいる知り合いの早稲田大学の村上さんにも同席してもらった。百聞は一見にしかずの例え通り、実際にみるコレクティブ・ハウジングでの住まい方は非常に興味深いものがあった。コモン・ルームは162?の広さを持ち、共有することで豊かさが増すということがよく理解できる。個人的にはみみず利用の生ゴミコンポストの実践が大変興味深かった。日本は随分と生活レベルでのリサイクル運動が進んでいるという印象を新たにした。大いに感心する。

2005年6月17日

ゼミ生と鎌倉に行く。小町通りを歩き、その後、鎌倉市役所に行く。商店街事情や景観事情などの話をうかがう。鎌倉駅の西側の山々の緑が美しい。これらが保全されているのは古都保存法のおかげである。古都であるとこのような豊かな緑が保全できる。しかし、古都でないとこのような緑はどんどん宅地化されて失われる。その結果、住宅地としての良好な環境も喪失するのである。古都としての価値を保全するための緑地保全であるが、その結果、宅地としての価値をすこぶる高めているのが鎌倉市である。この点、すなわち緑が宅地価値を著しく向上させるという点にもう少し着目すべきではないか。

2005年6月13日

最近、不眠症である。そのため、本を読んでいるのだが、今日読んだ岡崎京子の「リバーズ・エッジ」はとてつもない傑作であった。随分前に書かれているので、今頃読むのは私の不勉強のせいであるのだが、岡崎京子の感性が天才的レベルにあることがよく理解できた。東京の下町の閉塞感、行き詰まりを鋭く残酷に、そして詩情溢れて描いている。漫画というメディアの凄さを思い知る。登場人物はほとんど救われない。最も脳天気な女の子が狂気に走り、主人公の家を放火して自らも命を絶つところなどは、鳥肌立つものがあるが、そういうことってあるよね、と思わせる説得力に溢れている。主人公の若草ハルナが最もまともであり、読者をこの狂気溢れる東京のティーンライフに安心感を持たせて入り込ませるナビゲーター的役割を果たしているのだが、最後の方でモデルをしている吉川こずえが「あの人は何でも関係ないんだもん」とホモの山田に言うところは、凄い。というのは、このような狂気的な東京ライフにおいて真っ当に生きていくためには「関係ない」関係性を築かなくてはならないことを鋭く指摘しているからだ。そして、おそらくそうなのであろう。私のゼミ生をはじめとした学生達の特徴は「関係ない」である。それはやる気のなさとかそういう浅いものではなく、そうしていかないと生きていくことが難しいから自然と身に付いたものなのであろう。しかし、その「関係ない」はどこにも向かうことはせず、一方で市場経済によってそのような意識を持つものは淘汰されるのである。関係性を築こうとすると不愉快な現実に直面し、しかし築こうとしないと大学までは生き延びられるが、そこからは駆逐される。

だから大学で鍛えるしかないんだよね。知力と精神力を。「関係性」を築こうとする意志を。そのうちどうせくたばる訳だが、そのくたばる直前まで努力をするのが人間だけでなく生物の見えない、というかDNAの意志であろう。それ以外に道はあるのか?まあ、私は俗物ですから引退して仙人のような暮らしはできないでしょうが。それにしても、この10年以上も前に書かれた漫画、今読むとまさに現在の日本の都市の現実をまざまざと描いているようにも思えて、まるで予言の書のようである。まさにリバース・エッジのような事件が今、日本中で頻発している。岡崎京子の社会を見る洞察力の凄さに深く感銘する。

2005年6月10日

蒲田の商店街にゼミ生と行く。蒲蒲線の話、エイトライナーの話などを聞けて興味深かった。商店街は空きテナントがほとんどない。物販は少なくなっているが、それを飲食が埋めている。比率が問題であるとしていたが、それでも埋まるという事実は素晴らしい。蒲蒲線は相変わらず商店街は反対しているそうであった。このような短絡的な発想が大きな流れから取り残されることが、商店街の人達は理解できていない。小倉駅にモノレールを接続させることを阻止した(今ではつながっている)小倉の商店街もそうだし、今回もそのような森を見ないで目の前の木のことだけに囚われてしまう愚かさを感じた。しかし、そのような失敗事例は世界中に多くある。事例研究の必要性を切に感じた日であった。

2005年6月3日

自由が丘にゼミ生と行く。自由が丘商店街振興組合の理事長である平井さんのお話を聞く。ごみを組合が夜間回収するお話などに感銘を受ける。通常、これだけの商業集積があると組合も複数に分かれ、なかなか意見等が一致しないのだが、自由が丘は一枚岩だそうである。感心する。しかし、自由が丘は本当に汚いというか、統一がとれていない酷い都市空間である。マリ・クレール通りなどは、道路舗装に多額のお金がかかっていることが一目瞭然だが、その景観はどうも落ち着きがなく、美的感覚を疑う。まあ放置自転車がいけないのだろう。放置自転車を撤去すると、フランス人も「フランスにそっくりです」と感心するとの話を聞いたが、そもそも何でフランスにそっくりな街にしなくちゃいけないの。ってファサードとかはフランスとは違うでしょう。それにしても地震国であるのに、本当建物はヨーロッパに比べて安普請でチープな感覚が漂い貧乏くさい。このような貧乏臭さも下北沢とか吉祥寺だとしっくりくるのだが、自由が丘は違和感を感じる。これは、変にお金をかけているからだと思われるが、滑稽である。マリ・クレール通りは地区計画でつくられたそうだが、これが地区計画で努力した結果であるなら、何か根本的に景観を捉える資質を欠落しているのではないか、我々日本人は。一昨日、景観法は施行されたが、法律がつくられても景観は全然よくならないな、と思う。しかし、逆にいえば何故ヒルサイド・テラスのような素晴らしい道路景観が日本においても実現できたのだろう、とマリ・クレール通りを歩きつつ疑問を感じた。

その後、建築学会の委員会に大幅な遅刻ながら顔を出す。その後、居酒屋に行くのだが、この委員会の委員の一人に北九州市立大学のバートさんがいる。バートさんはベルギー人で奥さんは韓国人、そして日本で働いているという国際人であるが、彼は今まで私が怪しいと思っていた話を確認するのに打ってつけの人物であったので、いろいろと質問をさせていただいた。私が怪しいと思っていた話とは、このアーバン・ダイアリーを読んでくれている人なら予測できるかもしれないが、フランス料理はそんなにたいそうなものなのか、という疑問である。バートさんは私の質問に対して、彼も同様の不可解さを感じていると回答してきた。「なぜ、日本人はフランス料理やフランスをこんなにも有り難がるのかまったく理解できません」。いやあ、私がこの回答に喜んだのなんのって、まさに我が意を得たりであった。私は、フランス料理は不味いとは言わないが、ドイツ料理と美味さはあまり変わらない。地中海地方は美味いと思うが、これはスペインもイタリアも同じように美味い、どちらかといえばスパインやイタリアの方が美味いと思う、と言ったら、バートさんも「それはヨーロッパ人の多くが思っていることです」と言ってきた。すなわち、ヨーロッパ人はそんなにフランスを有り難がっていない訳である。ゲーテもフランス人も有り難がっているのはイタリアである。フランスではない。

私は漫画はもう「週間モーニング」しか読まないのであるが、その連載に「神の雫」というソムリエの話がある。話自体は結構面白いのだが、これはフランス人からすれば、日本酒の利き酒をするフランス人の話である。このように置き換えると、これは普通相当滑稽でしょう?まあ、このような滑稽な話を立派な漫画にしてしまう日本人の想像力には舌を巻くが、やはりこのフランスかぶれは第三者からみれば滑稽である。バートさんも「なぜ、こんなにフランスがいいと日本人は思うのでしょうか」と本当、不思議でしょうがない、という感じで話していたが、そうだよねえ。本当、変だよ。ワインとチーズだけは美味い、と言ったらバートさんは「でも日本の気候ではワインはうまくない。日本で美味しいのはお酒です」と回答した。流石だよね。私もそう思う。日本で美味しいのはお酒です。しかし、美味いワインを飲めたのは、リモージュであり、パリで飲んだワインは不味かったな。リモージュのワインは家に呼ばれて飲んだので、相当いいものを振る舞ってくれたんだと思う。久保田の碧寿みたいな。バートさんとは山手線の中でフランス料理の悪口だけでなく、フランス映画の悪口でも盛り上がった。彼は「予算がないから冗長になるのはしょうがないけど、やたら女性の裸で誤魔化すんだよね」と言っていた。確かに。エマニュエル・ベアールのヌードが頻繁に出てくるので、金を返せ、と言わない自分がいるかもしれない。しかし、バートさんにこのフランスかぶれの愚かしさを本にしてくださいよ、と言ったら殺されるかもしれないから嫌だと言ってきた。そうか、フランスにケンカをあまり売ると身に危険が及ぶのかもしれないのか。