3.ファッション 私にとってはラベルのようなものだ。切るものひとつで見た目なんていくらでも変わるし、人が持つ先入観も出来上がってしまう。だからと言って私はメイクや髪型にまでこだわっては来なかった。服に関しても、気分によってコーディネートのやる気はいくらでも上下する。集中力のない自分の性格を良くも悪くも表している様だが、それでも服は私にとって大切、というか魅了してやまないものなのだろう。憧れの女性達はいつも素敵な服を着ていたように思う。その人に合った、その人の魅力を引き出すような服を彼女らは着ているように見えた。 だが、私は最近まで自分に合う服はあえて選んでこなかった。私は自分に合うと思っているのは、機能的な、大人っぽい服である。顔も年齢高めに見られてきたし、背も高く、バストもないために、あまり「女性的」や「女の子」という言葉とは疎遠だった。この特徴は中学のころから変わっておらず、当時から「大人」という言葉が自分に合うような気がしていた。(見た目のみの話だから困ってしまう。)だからこそ、若かった私はこの言葉を拒否しようと考えた。高校でロリータファッションに出会った私は、自分にまだ若さがあるという認識があったため、ファッションにおいて「若気の至り」という逃げ道を自ら使おうと考えたのである。ロリータファッションは、今まで考えてきた自分の見た目には決して合わないもので、分離するに決まっていると思っていた。こっそりその憧れを友人に話すと、似合わないと笑われたくらいだった。しかし笑われるくらいのものだからこそ、若さを盾に絶対に着てやろうと思った。金銭的に追いつくのが遅く、実際に着ることができたのは大学に入ってからだった。 しかし一年も経たずに転機が訪れる。ライブを介して知り合った友人は、同じ田村ゆかりのファンであり、10年間も彼女を応援してきながらも、ロリータファッションとは別の今どきの流行を追っている女性だった。あれほどロリータファッションだったのに、そこではじめて私は田村ゆかりのコスプレのような感覚でロリータファッションを着ており、そこに自分の要素は存在しないことを知った。ただ着ているだけ、だったのである。ある意味、予想していたのと同じように、自分から服が分離している状態だったのだ。 それ以来、ロリータファッションにはこだわらなくなってしまった。自分の体型などを加味し、合う服を探すようになっている。跳ね除けていた大人というワードも段々と受け入れてきているような気がする。ラベルを大きく張り替えたというわけだが、中身の考えも変わった結果なのだと思う。 |