1.純愛

私は、基本的に恋愛要素の含まれた物語が好きだ。少女漫画はもちろん、映画や小説を読むときにも、どちらかと言えば男女の恋愛が含まれたものを多く選んでいるような気がする。少年コミックにおいても、多少なりとも男女のそういった関係がちらついていると良い。

その中で今回は、「純愛」について話したい。もっと具体的に言うと、狂った愛の中に芽生える純愛である。  漫画や小説、映画と、少しでも恋愛要素の含まれたものを見てきたときに、狂った世界観を描いた作品にこそその愛の「純粋さ」が際立つことに気付いた。そのうちに、私の中では狂った物語には「純愛」がつきものなのではないか、と考えるようになったのである。

 その元となった作品は三つある。小説「戯言シリーズ/西尾維新」。漫画「未来日記/えすのサカエ」。映画「愛のむきだし/園子温」の三つである。
 この三つの作品は、それぞれ現実世界では考えられない世界が、日常生活の中に描かれていることが一つの特徴である。その中で、「戯言シリーズ」と「未来日記」は、最初の設定として偏愛から始まっている。「戯言シリーズ」では、主人公とヒロインの恋愛はお互い依存しあうための勘違いの恋であり、束縛であり、身代わりであり、本当に少女に恋をしているわけではないとされる。しかし、最後の最後で二人はハッピーエンドを迎える。むしろこの作品は、王道な恋愛ストーリーと言えるほどに甘い恋を貫いている。そして「未来日記」もまた、主人公とヒロインの疑似恋愛から始まる。未来日記所有者のサバイバルゲームが開始し、弱くて何も出来ない主人公は、自分を偏愛的に愛するストーカーであるヒロインと自分を守るための恋人ごっこの契約をする。ヒロインもまた、依存できる相手ならばだれでも良かったと言うが、しかし最終的に二人は時空を超えた愛を確認することになる。この二つの作品に共通しているのは、最初が「偏愛」から始まり、精神・身体的にも苦境に陥る狂った世界をともに生きていくうちに、「恋」として認識されるようになったことが共通している。
 映画「愛のむきだし」は、上記のニ作品とは逆に、最初から主人公はヒロインに恋をする。しかし、やっと見つけたヒロインは妹となり、相思相愛のはずがたちの悪い新興宗教に目をつけられ、すべてが狂っていく。そのうえで、盗撮や偏愛、レズビアンによって主人公の想いは埋没していく。観客がこの作品は「純愛」作品であると気付くのは、本当に最後の最後で、そこでやっとハッピーエンドだと気付くのである。

 普段、少女漫画を見るときはただの「恋愛」があると感じるが、このように狂った世界におかれると私たちは「純愛」だと認識するようになる。漫画「最終兵器彼女/高橋しん」などもまた、ありえない設定の中で主人公とヒロインの間にある感情を「純愛」だと認識するのである。

 純愛は、どこからが純愛なのだろうか。普通の日常の恋は、純愛ではないのだろうか。私たちがどのような場面においてその恋を「純愛」だと定義するのかが、とても気になってくるのだ。