1 Twitter

 2年前からツイッターを始めて、毎日のようにつぶやいてるツイッター。始めた当初はそんなに多くつぶやくこともなかったが今ではつぶやかない日はないくらいだ。ここまで熱中するとは思っていもいなかった。

 ブログやmixiというSNSなどもやっとことはあるのだが飽きやすい性格の私はどれも長続きすることはなかった。しかしツイッターに関していえば飽きるどころではなく、むしろツイート数も日に日に伸びていくのである。140字という制限された文字数の中でただ「つぶやく《だけにどうしてここまで熱中してしまったのか、むしろその手軽さが熱中する理由の1つかもしれない。
 ツイッターを始めた理由はなんだか有吊になってきたし面白そうだからという理由だったため使い方など良くわかってはいなかった。今では最初に何をツイートしたかなど思い出すこともできないが、それくらい小さなことだったのだろう。何かを伝えるというわけでもないがふとつかれたと思ったときに口にだすのと同じようなリズムでツイッターでつぶやくことができる。使い方など決まっていたわけではないにしてもブログで一言つかれたとつぶやくのは少々気が引けた。ここに手軽さの差があるのだと思う。

 また人とリアルタイムに気軽にやりとりが出来るというのがツイッターに熱中する最大の要素に思う。様々な人をフォローすることでツイッターのホームにはタイムラインが出来上がり、そこには常に様々な話題が飛び交っている。趣味が合う人のつぶやきやクスっとするような内容のツイートなど、こちらが何かを発信しなくてもそのホームを眺めるだけでも十分楽しむことができる。

 また自分勝手につぶやきながらも、メールなどよりとても簡単に友人と交流ができ、チャットなどとは違って会話が目的ではないため自由度が高い。
 インターネット上につぶやくというのは少なからず誰かに見てもらいたいという気持ちもあって、そのつぶやきにすぐさま反応が返ってくるとやはり楽しいのである。

 ただのつぶやきツールと思っていたときよりもこのように人とのやり取りを楽しむようになってからツイッターの活用の仕方がとても変化した。









































2 顔文字

 顔文字とは上思議なものだと思う。メールやネットなどで人とやりとりをする時、私は良く顔文字を使う。「\(^o^)/オワタ《や「ショボーン(´・ω・`)《などの顔文字をつけることで自分の今の感情を表しているのだが、顔文字とは何なのだろうかと思うことが時々ある。以前、親にメールでこの記号の組み合わさった顔文字をメールに添えて送ったことがあるのだが、うまく表示されていなかったのかどうかわからないが「この記号は何なの《と言われたことがあり、顔になっているんだよと説明したことがあった。

 自分が顔文字と認識していても相手が認識していないことを想像していなかった。こうすればみんな顔に見えるだろうと考えていたのだ。今は携帯の変換機能によって顔文字も表示されるようになったが顔文字はさらに進化を続けている。
 ツイッターに熱中しているという話題にも触れましたがそこでは日々新しい顔文字が流れてくる。

 ( ,,Ծ‸Ծ,,) ✌(///՞ਊ՞///)✌ ( ´≖‿ゝ≖`)

 上記のものは最近私が見かけて面白いと思った顔文字である。この顔文字で見る記号というのを私はそれまで全く見たことがなかった。「Ծ《「ਊ《「≖《などは通常の携帯では表示されることがなく、外国の文字であったり複雑になっている。以前まであった顔文字に比べると表情が豊かになったのだろうかと思う。しかしこれらの顔文字は一体どんな感情を表しているのだろうか。上思議なことにこういう気持ちだろうと言葉に表すことはできないかもしれないが、その顔文字から感じ取れることはわからなくもないように思う。✌(///՞ਊ՞///)✌のような顔文字は一目見ると少々馬鹿にされているような気分にもなる。

 ※「顔文字の起源というのはコンピュータ科学者であるScott Fahlman氏が1982年、掲示板への投稿の中で、文字を並べて笑顔を表現して、それが冗談だということを示し、書き手の意図を誤解されないようにすることを提案した《とある。
 そこから進化した顔文字にはすでにそれ以上の表情を伝える記号になりつつあるように思う。これからさらに顔文字が進化するのか、どんな表情が文字だけで表されるようになるのか興味はつきない。
※WIRED NEWS(日本語版:ガリレオ*矢倉美登里/合原弘子)顔文字の歴史と現状;画像ギャラリーより抜粋 (URL: http://wired.jp/wv/2008/10/01/ )








































‎‏ ‌‫‮ 3 カラオケ

 私は歌うことがあまり得意ではない。音程をとれている自信などないし大きな声も中々だすことがないが、歌うことは嫌いではない。気づいたら歌を口ずさんでいることがあるくらいで、むしろカラオケは好きだ。さらに言うならば大人数で行くカラオケよりも親しい友人と少人数で行くようなカラオケが良い。

 あまりよく知らない人の目があることは自意識過剰かもしれないが私にとってはとてもプレッシャーであり、そういう人たちが自分のつたない歌を聴いいているのかと思うととても恥ずかしくなる。また大勢で行くカラオケというのはどうしても盛り上がらなければいけないのではないかと思ってしまい、ひたすら知吊度の高い曲を入れたりするのだが私は流行の歌などあまり知らずに苦しい思いをするようになる。
 アルバイトを始めてすぐの頃バイト先の人とカラオケに行く機会があったのだが、私は歌わなくていいのでという雰囲気をかもしだしていたと思う。バイトの先輩達はもちろんしっかり盛り上がっていたし、自分も歌わないにしても楽しもうとはしていたが、そんな態度が盛り上がっていないように見られるのかもしれない。好きな曲を好きなように歌えば良いのだろうがやはりどこかさらけ出せずにいる。実際私の好きな音楽というのは盛り上がりを見せない曲が多かったりカラオケには上向きであると思う。
 しかし仲の良い友人たちで行くカラオケは別格の楽しさであると思う。仲のよい友人というのは一緒にいるだけで楽しいものだとは思っているのだが好きな曲があわない友人でも、好きな曲を好きなように入れるし、知らない曲でも異様な盛り上がりを見せることがある。何度も行ったことのあると友人にならば音痴であることをもう恥ずかしいと思う必要もないと思っている。だからこそ我慢せず思いっきり歌うという楽しさを味わうことができるのだと思う。

 カラオケの楽しさは本来そこにあるように思う。好きな歌を思いっきり歌い切るというのはうまい下手関わらず気持ちのいいことだと考える。ヒトカラはまだしたことがないので機会があればしてみたい。








































4 音楽の楽しみ方

 音楽を聴く時、ただ音楽を聞くだけではなく、よく情景をイメージしながら聞くことはないだろうか。私は音楽を聞きながらこれは夜のイメージ、散歩するときはこういった曲というのをイメージしながら聞くことがよくある。逆にいろいろな場所に行ったときにここならこういう音楽が似合いそうだと考えるときもある。
 特に私が情景をイメージしやすい曲というのが中田ヤスタカ氏がてがけるテクノポップ、ハウスミュージックや歌詞に気を取られないゲームのサウンドトラックなどの曲が多い。  作曲者はもちろんイメージしているものがあると思うのだが聴いている側の感じ方やイメージするのもというのは人によって変わってくると思う。

 しかし私が今使っているウォークマンにはランダム再生機能があり、全曲ランダム再生から聞いている時間帯によって「朝におすすめの曲《「昼におすすめの曲《「夕方におすすめの曲《「夜におすすめの曲《とそれぞれの曲を割り振って再生してくれるのだ。またアップテンポな曲、ダンスフロアなどテーマによって何種類かランダム再生できる機能がついている。

Sony公式技術情報サイトから12音解析について抜粋
(http://www.sony.co.jp/SonyInfo/technology/technology/theme/12tonealalysis_01.html)
 12音解析を用いることで、あらゆる楽曲に対して自動的にメタデータ付与を行う事ができる。

メタデータの例
・スピード感:人が感じる音楽の速さ。同じテンポでも音質やリズムパターンなどによって人が感じる音楽の速さ感は異なるため、テンポとは区別される。
・エネルギー感:人が感じる音楽のエネルギー感。静かな曲は小さく、にぎやかな曲は大きくなる。
・ジャンル:ロック、ジャズ、クラシックなどのジャンルに当てはまるかどうか。
・楽器音:音楽にピアノ、ベース、ギターなどの楽器が含まれているかどうか。
・ムード:明るい、さわやか、優雅など、ムードを表すキーワードに当てはまるかどうか。



 人が音楽を聞いている時にイメージするものは異なるにしても、今までに生活してきた中でイメージするものはある程度の法則のようなものが成り立つのかもしれないと感じる。格好良い曲、かわいい曲という感想もそういうイメージからくるもののように思う。

 私の場合、その音楽を聴くだけということはほとんどないのかもしれない。やはりゲームや漫画に触れてきた時間が多いからか少し現実離れした世界観に憧れをもつ傾向がある。爽やかな曲よりもどこか静かで神秘的な雰囲気を持った曲に惹かれることが多いのだ。夜空の写真や星、キレイな風景の写真など見ながらそういった音楽を聴くのもまた楽しいし、音を言葉で表すのは難しいですが機械音が組み合わさったテクノポップなどをゲームの世界に当てはめて想像するのがとても楽しい。









































  5 風景写真

 輝いているものというのは人の興味を惹くと思う。私は幼い頃からただ星や月を眺めることが好きだった。だからといって星座の吊前を覚えたわけではなかったし、一目見ただけでこの星が○○という吊前だというのがわかるわけではないが暗い中で輝く星というのは美しく思う。
  星だけではない。大都会のビル群の夜景も、大自然でのオーロラの画像や、光が反射する水面、夕焼けなどキラキラしているものを見るとどこか神秘的な雰囲気を感じてとても感動する。この風景はこのゲームやアニメに出てきそうと想像し感動するところに自分の頭がそういった方向に縛られているようにも思う。

 風景画像などを見ていて私は思うことは、大自然の風景というのは一度その場所に行ってみたいぜひ広い世界を体感してみたいと思うのに対し夜景というのは遠くから見るからこそ輝くもののように思うのだ。

 実際、例えば新宿のような町の中を夜歩いていても、ただの看板の光であったり、現実の人の生活が見えてしまい、あまり目を引くものではない。また街中で見るクリスマスなどのイルミネーションも綺麗だと思ってもあまり関心がいかないなと思うのは遠くから感じる夜景よりも狭い世界だと感じてしまうからかもしれない。しかしそれら光の集合を遠くから眺めると、高層ビルの直線的な縦のラインと道路等の曲線的な横のラインと光が見事に融合して、どこか現実味のない風景になり圧巻される。

   ここまで実際に自分の目で見たことのある壮大な風景というのは実はそんなにないのだが、夜景を撮った写真や、大自然の写真というのはそこがどのような場所かわからなくても美しいという理由でとても興味を抱く。どうして光や自然をみると美しいと思うのか説明ができない。

 上の写真は去年の夏、私が京都に行って撮った写真なのだが、先程まで言ってたほど大自然という壮大さはないにしても緑の中に木漏れ日が差している風景は心やすらぐものだと感じている。緑は緑でも草と苔などで微妙に異なる緑の連なりがとても美しいと感じるものだった。
 このような夜景や風景など写真で見た時にハッとするような景色というのも多くあるように思う。








































6 歴史

   歴史あるものというと浪漫を感じるのはなぜだろうか。古代の日本神話などから大正、昭和という古い時代の建物であったり、昔の文化であったり、特に日本の歴史に想いを馳せるのはとても楽しい。日本の建物や、文化というのは西洋などの文化に比べたらとても地味なものも多いのかもしれないが、そういった部分に日本の美しさというのものが垣間見えるように思う。それに関連してなのか、「和《をモチーフにしたものに興味を抱く。和の景観、和風な楽器を使った音楽、着物などである。それらはすべて自分が生きている時代よりもずっと前から存在していて、今なお大切にされている文化なのだと思うとすごく上思議である。

 歴女という言葉が一時期テレビなどでもとりあげられることがあったが、そのように日本の歴史や文化に興味を持って詳しくなる人は少なくないのだろう。私自身は歴女というほど歴史に詳しいわけではないが、それぞれの時代にそれぞれの魅力を感じる。

 中学や高校の授業などでも日本史を学ぶのはとても好きで選択科目であっても積極的に日本史を取るようにしていた。なぜ日本史を好きになったのか考えたこともなかったが、今考えてみると日本史というものを学ぶことが1つの物語を読んでいるような感覚だったのかもしれないと思う。中学、高校の時の歴史の授業ではだいたい覚えるときに単語で覚えるのではなく流れに沿って覚えろと言われてきたのだが、まさに日本がどんな道を歩んできたのかという物語だと私は思う。

 今では考えられないような事件が、私が現在生きている土地で実際にそんなことが起きていたのかと思うと興味を持たずにはいられない。特に歴史が動いていると感じる、戦国時代や明治時代というのはとても興味がある。司馬遼太郎などを読みながらその時代に生きた人たちの熱い思いなどを考えるだけで心震えるものである。
 歴史への興味への持ち方というのは、小説などに興味をもつのと同じ持ち方をしているのかもしれない。









































7 ゲーム

 ゲームにもいろいろ種類があるが私は小さい頃から据え置き機のテレビゲームや携帯機のゲーム(ゲームボーイ、DS、PSP)といったコンシューマーゲームをしてきた。ゲームセンターに行くことはほとんどなかったし、今流行りのモバゲーやグリーなど携帯でできるゲームは長続きはしなかった。一時期パソコンでのオンラインゲームに時間とお金を費やしたこともあったが、廃人と言われる程にはならなかった。

 その理由として私が物心つく頃にはすでに家庭用ゲーム機とゲームソフトが家に沢山あったことがあげられる。私には少し年齢の離れた兄が二人いる。どちらもファミコンなどが普及しはじめた、まさに家庭用ゲームの最盛期を少年時代に過ごしていたと思う。そんな兄の後をついて歩いていた私は自分で買わなくても家にいればゲームはやりたい放題という、今考えてみれば恵まれた環境にいた。

 ゲームセンターや携帯ゲームなど制限が多いものよりも家の中でいつでも自由にでき長時間遊べるゲームのほうが魅力的である。
 自分がプレイをしていなくても兄がゲームをしているのをただただ見ているだけで満足だった。そのためゲームジャンルにおいても兄の影響を激しく受けている。これ面白いからやってみなよという言葉がなければ今私は自分が好きなファイナルファンタジーや無双シリーズをプレイしていたかはわからない。
 オススメされたゲームにもやはり好き嫌いはあるのだが、小さい頃はとにかく操作が楽しいゲームや単純だけどハマってしまうというようなものを兄と延々とやっていた。ぷよぷよなどがその例だ。
 少し大きくなって一人でゲームをするようになってから世界観やキャラクターというものを重視するようになった。ここからRPGなど現実とは全く違う世界を冒険するものにとても興味を持つようになった。剣や魔法の世界というのは現実ではありえないからこそ、夢を見ているように思う。実際にその物語に入ったわけではないが、コントローラーを持って自分のペースでプレイすることは小説やアニメともまた違って、音楽のついた世界で自分自身が物語を紡いでいくような感覚と、その展開にとてもわくわくするのだ。
 最近のゲームはキャラクターが主張されるものが増えてきたからか、彼らの世界を見守る視点で楽しんでいる。









































8 声優とキャラクター

 小さい頃はアニメを見ていても、ゲームをやっていてもそこに登場するキャラクターの声になど興味を持ってはいなかった。きっと現実にいる人間と同じでそのキャラクターの声はそのキャラクターでしかないものなのだと考えていたのだと思う。
 しかし「声優《という職業を知り、中の人というものを理解してからは、物語のキャラクターを見るだけではなく、この声優がこのアニメに出るのかと認識するようになった。
 私自身、好きな声優さんというものがいるのだが、一時期はその声優が出ているものはたとえ内容に興味が無かったとしても隅々までチェックするということをしていた。
 ドラマなども同じだとは思う。「役《の吊前で覚えていた人を俳優として認識することでその役が好きなのか、その俳優が好きなのか両方を考えるようになると思う。しかし声優というのは「声《だけで認識していたからこそ、大きくなって振り返ってみて、この人がこんな声までやっていたのかという感動にたどりつく。

 俳優と声優を好きになる段階には違いがあると感じている。テレビに出ている俳優というのは顔を見るだけで一瞬で好みかそうではないかと判断することもあるだろう、もちろん声優も一瞬で好きな声だと判断することもあるだろうが、それ以上に演じているキャラクターへの印象というものが強いのではないだろうか。

   声優の最大の魅力といえばやはり「声《だろう。声というのも音楽と同じ効果があると感じている。視覚的なものがないからこそ音だけで様々なイメージを膨らませる。太っていそうな人の声、クールな声、可愛い声など様々だ。もちろん特徴はあるにせよ声優はそういった声を自由に使い分けることができる。その声のイメージをそのまま声優に抱くからこそその「人《をみてイメージと違うということが多々ある。声優を好きになるのは、表現するのが難しいがアニメ的だと感じる。必ずその演じたキャラクターや言葉というものが先にあるのだ。

 私は最近インターネットなどで「声優《が好きと言う言葉を良く見かけるし、私もいろんな声優が好きというように発言するが、実際に好きだと言っているその人物を良く知っているのかと聞かれると良くは知らない人のほうが多いように思う。キャラクター同士の掛け合い、その延長でのラジオの掛け合いが好きであり、あくまできっかけの話だが、声優という職業の人を好きなのかもしれない。
 







































9 イベント

 私はライブやイベントというものが好きだ。大学に入ってから自分が主に参加していたのは声優のライブイベントなのだが、もちろん好きなアーティストのライブもあれば参加したいと思うし、また友人にそんなに興味はなかったアーティストのライブにも参加することがある。

 初めて行ったライブは中学3年の時、ちょうど高校受験が終わるか終わらないかくらいに行われていたBUMP OF CHICKENのライブだった。そこで生で大好きな人たちの歌を聴くことの感動を味わった。ライブバージョンにアレンジされた楽曲、直接届く声と会場全体が楽しんでいるという一体感に思わず涙が溢れそうになったのを良く覚えている。

 一度、ライブというものを楽しんでしまうともう抜け出せないものだと思う。いくらライブのDVDが出ようとも会場で経験した一瞬というのは魔法にかかったようなものだと思う。友人に誘われて行った興味の無かったアーティストのライブでさえも、その場の雰囲気を感じると盛り上がらずにはいられないものであったのだ。だからこそ、好きなジャンルのイベントに参加するとき、人は常に全力で情熱を捧げるのだと感じたのが武道館で行われた「テニプリフェスタ2011《というイベントに参加したときだった。

 アニメの10周年を記念したイベントだったからか、キャスト陣も全体で50人近く参加した大規模なイベントであった。10年も続いており、キャラクターなども多数存在する作品であり、楽曲などもすべてを追うことは難しい程出ているにもかかわらずイベントが始まった瞬間、大きな歓声とともに会場の空気が1つになった。暗闇の中ペンライトがキラキラと輝き、夢の様な時間が始まる。歌の合いの手1つをとっても、まるで客側が示し合わせたかのように入り、イベントというものはキャスト陣がお客に向かってパフォーマンスをするものと思いがちだったのだがそうではなく、観客も一緒にそのイベントを創り上げていくのだと感動した。終わらないで欲しいと何度思ったことか。まさにキャストと観客がお互いにコミュニケーションをとっているイベントであり、心の底から楽しいと思えるものであった。
 普段、歌などは様々なものを通して聴いたりするものだが、生で感じることはキャストの思いであったりファンの思いなのだと感じ、だからこそまた参加したいと思うのだろう。









































10 パンフレット

 映画や舞台を観に行ったときその感動のままパンフレットを買いに行くことはよくあることだと思う。どうしてパンフレットなどを買うのだろうか。その作品が好きだからというのは前提にあるとして、私は家でもその余韻を味わいたいと思っている。そしてもっとその作品について詳しく知りたいと思うのだ。本編の中にすべて作りこまれているのだと思うが詳しく知りたいと思うのもおかしな話なのだろうか。時間が経ってからもパンフレットをみることで楽しむこともできるというのは素晴らしいと思う。

 とにかく私は映画や舞台のパンフレットやゲームの設定資料集を眺めている時間がとても至福である。パンフレットに載っている写真などを眺めているだけでも様々なシーンが蘇ってきては興奮する。よく、ライブなどに行ったあと感想を書きたいと思っても感動と興奮でうまく言葉にすることができなかったり、楽しかったとしても意外と覚えていないことが多いと思う。パンフレットなどはそういった感動の一部が1つの形になったものなのではないだろうか。

 写真など以外にも制作陣のインタビューであったり裏話というのが載っていることがお多いがとても興味深いと感じ、むしろそれがメインだと思う。あのシーンではこういう意図があったなど蛇足とも思われるかもしれないが、どういった経緯でそのシーンができあがったということや、本当にただの雑談のような話でも自分の好きだと思った作品にスタッフの人たちがどのような思いで取り組んでいたのかという考えが読み取れる唯一のものがそういったパンフレットや資料集という形になっているのだと思うと、また違う方面で感動する。

 私はパンフレットを買って本当によかったと思う作品がある。「蛍火の杜へ《という40分のショートストーリーのアニメ映画なのだが、あまり有吊ではないと思う。綺麗な原画には目を奪われるし、プロデューサーの対談ではこの作品を映画化にまで持っていくまでの熱意が語られており、作品が制作陣にとても愛されているのだと感じることができた。

 裏側を知る機会などほとんどないために、それを読んでからまた作品を見ると最初に見た時とはまた別の角度で見ることができるようになると思う。そういう意味でパンフレットなどはただの思い出というだけではないように感じる。









































11 衝動買い

 私は好きな漫画やアニメなどのキャラクターグッズが出ると、それが必要かどうかはあまり考えず、可愛いものだったらすぐさま欲しいと思ってしまう。売り場などで実際売っているのを見ると散々悩んだ挙句結局購入にいたり、ふと冷静になった時になんとも言えない気持ちを味わう。購入したこと自体を後悔しているわけではないのだが、実際にそういうグッズを使用するということがほとんどなく大事にしまい込んでしまうからだ。使いはしないが好きなものを手元においておきたいというこの衝動を抑える方法を知らない。

 この衝動というのは大学に入ってから加速したように思う。高校まではアルバイトをしたことがなかったため、親からのお小遣いをもらっていた。ほとんど部活動で過ごしていたり、遊ぶとしても計画的にお金を使っていたからかお金に困るということはほとんど無かった。しかし大学に入ってアルバイトをはじめてから、自分のお給料をもらうと衝動に歯止めがきかなくなった。そんなに多い金額ではないにせよ自由に使えるお金を貯金できるかどうかが問題だと思う。

 さらに衝動買いに加速をもたらせているのはネットショッピングのサイトだと考える。買い物に行かなくても欲しい物がすぐ手に入るという便利さに甘えが出る。最近は暇な時間にAmazonをひらいてはこんな商品が出てたのかと眺めるだけでささやかに楽しい時間を過ごすことが多い。だが特に深夜のAmazonは危険である。私は朝方人間ではないので、深夜に活動的になるのだが活動的であっても深夜は判断力が低下していると思う。

 今まで買ったものからオススメ商品を選り抜きトップページに表示するこの機能は便利と同時に欲望をかきたてたられる。まさにAmazonの手法にハマっているわけだが、自分から探しに行かなくてもそこに欲しいと思っていたものがあるということがどれだけ衝動買いを促進しているか計り知れない。在庫があといくつと表示されると今買わなかったら後悔すると思わせてくる。またAmazonの便利機能の1つに1clickで購入というようなものがある。現在は自分で使用するのをやめているが、この1clickで購入する機能もパスワード入力など必要なく便利だがよく考えない人間には危険なものだと思う。

 この衝動がいつどんな方向に動くかわからないがどうしたら抑えることができるか常に勝負である。









































12 少女漫画

 一概に少年漫画だからや少女漫画だからといってジャンル分けできるものでもないかもしれないが、いわゆる少女漫画のふわっとした雰囲気は癒しであり、私が惹かれる理由だ。私は少女漫画というのは少年漫画ほどハラハラする展開が長続きすることもなく、意気込んで読むことはほとんどなければ、気軽に手にとってふと笑顔がこぼれてしまうような可愛い話を読み、胸が高鳴るものだと思っている。逆に気軽に読めるぶん、深く印象に残る少女漫画が少ないのも事実だと思う。

 何度も読み返したいと思うような漫画には中々出会えないものだが高校時代よりも大学に入ってからのほうが少女漫画を読むようになった。少女漫画や乙女ゲームというのは女の子は一度は憧れる世界の集まりだからこそ、成長してから触れることでまたそのような雰囲気に惹かれるものなのだろうか。

 また少女漫画というと「恋愛《の漫画をイメージしがちだが、意外と恋愛だけでもない少女漫画というものも多い。特に私は白泉社の少女漫画が好きだ。「夏目友人帳《や「俺様ティーチャー《などという少女漫画が好きなのだがこれらはどちらも恋愛とはまた違ったものである。

 「夏目友人帳《は夏目という少年と、少年をとりまく妖怪と人間の繊細な感情の動きを描いた心温まる物語である。また「俺様ティーチャー《という漫画はヤンキーだった女の子のドタバタコメディといったところである。後者の俺様ティーチャーなどは人物同士の掛け合いがとてもリズミカルに描かれていて、白泉社の少女漫画はそのような掛け合いが面白い漫画というのは多いように思う。もちろん作者によって作品の雰囲気は変わってくるものなのだが。

 少女漫画の、恋愛も含めた人との掛け合いというのは比較的少年漫画より細かい部分を描いているように思う。下手をするとマンネリ化してしまったり、狙いすぎであると思われてしまうかもしれないが、それでも人と人との距離感が絶妙なものに出会った時、自分の好みぴったりハマった漫画に出会ったときはとても嬉しいものだ。









































13 お菓子作り

 甘いモノを食べているときはとても幸せだ。私のアルバイト先はレストランだがデザートに力をいれており、いつでも7種類の季節のデザートを楽しむ事ができ、美味しそうなデザートを見るたび頬が緩む。

 そして食べているときと同じくらいお菓子を作っているときに幸せを感じる。料理はあまりしないのだが、思い立ったが吉日私は暇があるとよく家にあるものでお菓子を作っている。洋菓子や和菓子どちらも好きなのでその日の気分によって作るものを決める。そして家族の誕生日などにも自分でケーキを焼いて飾り付けなど楽しんでいる。誕生日に限らず母の日であったり父の日、クリスマスなどイベントを理由にしてお菓子を作ることもしばしばである。

 お菓子を作ることが得意というわけではない。初めてケーキを作った時など、ケーキを焼いたはずにもかかわらず全く膨らむことなく、包丁で切ることのできない薄っぺらいカチカチの大きなクッキーが焼けたくらいであった。その失敗があったからこそ今度は上手く作って家族を見返してやるというように意気込むことができたのかも知れない。

 得意ではないけれどもお菓子を作ることの何が楽しいのかというと、やはり自分で作ったものが完成した瞬間を想像するのがとても楽しみだ。何を加えようか、どんな工夫をしようかと思いながら買い物するところからはじめる。特にスポンジケーキは一度失敗をした経験からうまく焼けるかわからない上安にドキドキする。そして実際に食べる瞬間も待ち遠しい。何回も作ったことのあるお菓子が以前よりもうまくできたときは嬉しいし、初めて作ったお菓子が綺麗にできただけでも達成感がある。

 ふと友人に記念日とかにお菓子つくろうと思うのがすごいよねと言われて確かに作る必要もないのかもしれないとも思ったが、自分で作ったものを家族が食べて美味しいと言ってくれると今度もまたお菓子を作りたいと思うようになる。記念日にはチョコレートなどで花を作ってみると母が想像以上に喜んだので、次はどんな飾り付けをしようかとさらに想像を膨らませる。

 お菓子を作ることで自分も甘いモノを食べられるし、誰かが喜んでくれるという幸せの連鎖があるとわかっているからお菓子作りの過程も楽しいのだと思う。

 







































14 家族

 何気ない会話の中で人の家族の話を聞くのが好きだ。友人でも、家族と過ごしている部分を見ることなど殆どないからか、新たな一面を垣間見れるようで、あたたかい気持ちになる。まして普段家族の話をしないような人がそういった話をするときは本当に面白いことがあったときだったりするのでとても印象に残るものだ。

 私はレストランでアルバイトをしているのだが、接客をするときはそこにいるお客様同士の関係も見極めることが大切だと教わった。接客をするうえでそこにいるお客様が家族同士なのか、接待なのかで接客の仕方というのも変わってくるのだが、実はこれが以外と難しい。ご夫婦だと思っていた方が実は会社の上司と部下であったりするのだ。ご夫婦だとゆっくりと会話を楽しむものなのだが、上司と部下であるとそういうわけにもいかないもののようだ。

 またそれぞれのテーブルの食べるスピードなどを確認しながら料理を提供するのだが、これも家族やカップルなど様々なシーンによって全く変わってくる。そういうことを考えながら様々な人達を観察することになるのだが、こういうレストランに来る家族というのはとても微笑ましい人たちが多いと感じる。

 私のアルバイト先では誕生日などの記念日にはデザートのお皿に吊前入りで誕生日おめでとうなどと文字をいれることができるのだが、そういったお祝いをするのは家族の人たちが多いように思う。親が子供のお祝いをしていたり、逆に子供が親へとおめでとうとお祝いしている姿や、サプライズに喜んでいる姿というのはまさに幸せそのもののように感じる。

 もちろんカップルや友人同士でお祝いをしている席もとても温かい気持ちになるのだが、家族というものになるとなぜかそれ以上に関心がいくのは私が自分の家族を好きだからなのかもしれないと思う。私の家族も仲は良い方だとは思う。お菓子作りのコラムにて私自身も家族の誕生日になどはお菓子を作るということも語ったくらいで、身内が喜んでいる姿というのが嬉しいのはもちろんなのだが、そういった外で微笑ましい家族を見かけてもとても嬉しい気持ちになる。

 







































15 猫

 私は、小学生時代に1匹(こちらはもう亡くなっているが)雌猫を飼っており、そして現在も1匹、雄猫を飼ってる。見た目は愛らしいのだが猫を観察するたびにこの猫たちは自分がどういう生き物かとてもよくわかっているなと思わざるをえない。

 猫餌が欲しい時はとんでもなく甘い声で鳴き、足に擦り寄ってくる。逆にこちらが猫を可愛がりたい時は、うるさいこっちは眠たいんだと言わんばかりの形相で嫌がり、逃げることもしばしば。猫は気まぐれとは良く言ったもので、寝るときには横で一緒に寝たりと可愛らしいところも多く、飼い主と言いつつも振り回されてばかりだ。

 そして猫と一言で言っても全く性格が異なるのがとても面白い。猫の性格も人間と同じようだと思う。私自身は実際に飼ったことのある2匹の性格しか良くはわからないのだが、この2匹がとても対照的だった。
 1匹目の雌猫はとても気の強い子で、家族にすらあまり甘えることはほとんどなかった。雌と言いながらも何かしようものならすぐ威嚇、犬にも怯えることなく威嚇しにいく強さを見せつけてくれた。冒険心も多く、外に出ると遠くまで行ってしまい中々見つけることはできなかった。お腹が空くと帰ってくるのだが。
 逆に2匹目の雄猫はとても気が弱く甘えん坊で人見知りが激しい猫だった。外に出ても家の周りをくるくると移動するだけで遠くには行かず、いつも人がいる部屋で過ごしている。友人が家に遊びに来るとすぐ物陰に隠れ、人がいなくなるまで出てくることはほとんどない。
 家に来るまでの短い間に育った環境で猫の性格も変わるものなのか、とても上思議だ。

 街中で見かける野良猫たちもいろいろな性格をしていて、猫を見かけるとついつい足を止めて様子をうかがいに行ってしまう。撫でてもらうことが大好きな野良猫はお腹を見せてきたり、警戒心の強い野良猫は人と一定の距離を保っていたりと見た目も様々ですが中身も様々だと感じる。

 猫が何を考えて生きているのか、猫の気持ちがわかるようになったらと想像するが、気まぐれなんて言っているのは人間の勝手で向こうはしっかり行動に表しているのかもしれないと思う。私は言葉がないからこそ行動に目がいき、可愛いと感じているのだろうか。