講義の基本の「キ」                         
(001)(過剰生産)恐慌 over-production crisis
 資本主義的生産の発に伴い,生産が消費に対して過剰になり,恐慌をもたらすこと。それは資本主義の基本矛盾によって発生し,企業倒産,失業者の激増,株価の暴落,銀行倒産などとなって現れる。1929年の大恐慌が典型的例である。出典:金森・荒・森口編 (有斐閣,1998年)303頁(コンパクトで使いやすい経済辞典でおすすめ:以下有斐閣『経済辞典』頁数を略記)

(002)恐慌 crisis経済恐慌。
 景気循環が後退局面に入ると,需要は減退し,生産・雇用・所得の減少が見られるが,これがリセッションに止まらず,企業倒産や失業が急激かつ大規模に進行する現象。1825年の最初の資本主義的恐慌(イギリス)以来資本主義諸国でほぼ10年周期で繰り返され,特に1929年の大恐慌は史上最大規模の世界恐慌として有名。日本は1900年にはじめて恐慌を経験した。資本主義固有の病弊といわれたが,第2次大戦後は各国の完全雇用政策など恐慌を未然に防ぐ経済政策により,恐慌と呼ばれる局面は見られなくなった。(有斐閣『経済辞典』229頁)

(003)1929年恐慌 Great Depression of 1929
 今日「大恐慌」というときにはこれをさす。1929年10月24日のニューヨーク証券取引所の「暗黒の木曜日」の株価暴落に始まり,早期に景気回復した国でさえ,ほぼ32年まで景気指標は下がり続けた。この恐慌の特徴は,長期に及ぶ物価の激しい下落と大量失業の発生である。31年夏のヨーロッパ金融パニック以降は,投資家の期待が上向かず,その後の不況期が長引く結果となった。(有斐閣『経済辞典』705頁)

(004)ケインズ経済学 Keynesian economicsケインズ(J.M.Keynes)
 The General Theory of Employment, Interest and Money, 1936(『雇用・利子および貨幣の一般理論』)を中心に展開された経済学で,有効需要の原理を基礎におく。彼とその理論的後継者たちはケインズ学派とよばれ,新古典学派とともに現代経済学の一主流をなしている。戦後のケインズ経済学の主要課題は,資本蓄積,人口増加,技術進歩などの成長要因を短期的性格のケインズ体系に導入することにあったが,最近はケインズ経済学にミクロ経済学的基礎づけを与えようとする試みが,研究の1つの中心的課題になっている。(有斐閣『経済辞典』303頁)


(005-1)金本位制
金貨本位制度 gold coin standard真の金本位制度とも呼ばれ,実際に本位貨幣としての金貨が鋳造され流通している金本位制度。金貨の自由鋳造・自由廃幣が認められている。純真金本位制度ともいう。
金約款金為替本位制度 gold exchange standard金本位制度の一形態。金本位国の通貨を一定の為替相場で無制限に売買する貨幣制度。通貨と金との結びつきが間接的である点が本来の金本位制度と異なる。旧IMF体制下の国際通貨制度は一種の金為替本位制度といえる。(有斐閣『経済辞典』256頁)
 金本位制は1816年イギリス,1871年ドイツ,1897年日本,1900年アメリカで確立し,1912年には41ヵ国で成立した。この制度の核心は,①金の一定量を本位貨幣とし,②金準備高による紙幣発行量の制限であり,③紙幣は金との交換を保証する兌換券であり,④金の自由な流出入制にあった。当然,外国為替制度は各国通貨の金重量を比較基準とした金平価であった。この制度は,戦争と戦費調達(戦時国債の無制限な発行・金輸出禁止)と世界経済のブロック化などによって1929-36年にかけて崩壊した。(増田・沢田編著『現代と現代経済学(第2版)』有斐閣,有斐閣ブックス,2007年,35頁)涌井も執筆し経済学の経済原論の教科書として定評がある。第1版は10刷を重ね第2版が出版された。

(005-2) 管理通貨制度 managed currency system
 国内通貨の流通量を,正貨(金)準備の増減によって,機械的に増大させたり減少させるのではなく,通貨当局が政策目標に応じて国内の通貨流通量を管理調節しようという制度。1920年代前半にケインズ(J.M.Keynes)によって構想されたが,具体化したのは一般的に1930年代である。今日ではほとんどの国がこれを採用している。
==日本の管理通貨制度==日本銀行のホームページ
 管理通貨制度とは,中央銀行が通貨の供給(流通貨幣量)を政策的に管理する制度である。この制度の政策目標は,物価の安定,通貨の購買力の調節と信用と雇用の安定にあり,またその実現の責務を中央銀行は負っている。日本では,1882年の日本銀行設立後,戦時立法である1942年の日本銀行法によって管理通貨制に移行する。日本銀行は特殊法人(資本金1億円で政府55%,民間45%所有)であるが,「通貨の調節,金融の調整及び信用制度の保持育成」を目的とする中央銀行である。この中央銀行は一般的には次のような3つの機能をもつ。
第1は発券銀行であり,発行権を独占しているが,発券限度は政府決定による。第2は銀行の銀行であり,民間銀行との間で当座預金による取引・貸付け・債券売買・為替取引を行う。第3には政府の銀行であり,政府との間で預金・貸付け・国庫事務・外国為替事務などを行う。金融政策としては,公定歩合操作(手形再割引率),公開市場操作(手形や債権の売買で買オペレーションと売オペレーションで操作),預金準備率操作(支払準備率の変化で信用創造を調整。銀行の規模と種類,預金の種類に応じて1.2%~0.05%の幅)を行っている。(増田・沢田編著『現代と現代経済学(第2版)』有斐閣,有斐閣ブックス,2007年,38頁)


(006)IMF International Monetary Fund 国際通貨基金(IMFのホームページ)。
 第2次大戦後の国際通貨・金融制度の安定を図るため1944年のIMF協定に基づいて翌年12月発足したブレトン・ウッズ(アメリカ・ニューハンプシャー州の都市名)機構の1つ。設立当初の目的は,戦後復興期に国際収支が不調となった加盟国の救済を目的としていた。国際収支が赤字となり資金不足になった時に,その加盟国は各加盟国が出資した共同の為替資金(ドル)から借入れ(短期)が出来る。すなわち基本的な役割は,通貨安定のための各国の政策監視や国際収支が悪化した国への短期の融資である。最近では役割も変化し,途上国向けの中長期資金の融資も手がけるようになってきている。アジア通貨危機のタイなどへの融資もそのひとつ。最高機関は総会で,年1回開かれる。事務局はワシントン。(有斐閣『経済辞典』1313頁参照)
国際復興開発銀行(IBRD;International Bank for Reconstruction and Development)
 世界銀行と通称され,略して世銀といわれる。1944年のブレトン・ウッズ協定によってIMF(国際通貨基金)とともに計画され,46年に発足した国際開発金融機関。本部はワシントン。加盟国は94年現在159。当初,各国の戦後復興を目的としたが,現在は途上国の経済開発のための融資を主たる業務としている。この世銀グループの主な機関は以下のとおり。国際開発協会(Iternational Development Association)第2世銀:低所得国向けの無利子・長期融資。国際金融公社(International Finance Corporation)途上国民間部門への融資。

(007)GATT General Agreement on Tariff and Trade関税及び貿易に関する一般協定。
 ガットと呼ばれる。関税その他の貿易障害を軽減し,通商の差別待遇を廃止することを目的として1948年に発効した多国間条約。WTO(世界貿易機関)設立の1年後(1995年末)に廃止されたが,「1994年のGATT」と呼ばれる新たな協定としてWTOに引き継がれている。(有斐閣『経済辞典』1306頁)

(007-1)世界貿易機関(WTO)(World Trade Organization)
1995年1月、GATTウルグアイ・ラウンドの終結にともない、新しく国連の関連機関のひとつとして設立された。WTOは政府間協定のGATTの任務を引き継ぐが、初の国際貿易機関として、組織的に世界貿易の自由化と貿易ルールつくり、金融・財政政策との整合性をすすめていくことになる。世界的な地域主義、保護主義の台頭のもとで、グローバルな貿易進展の枠組みが設定されたことの意義は大きい。WTOの場では、投資、環境、労働基準、一方的貿易制裁、地域主義、競争政策、金融・通貨政策、会社法、国内法の域外適用、開発の10議題が討議される。96年末に第1回閣僚会議が開かれ、電気通信や金融サービス面での自由化交渉が行われている。現在、中国のWTO加盟が交渉されており、ロシアの加盟も間もないとみられる。99年10月末、アメリカのシアトル市で開催されたWTO閣僚会議では、世界のNGOが経済グローバル化に抗議したデモを行い、予定された新包括ラウンドが流れる事態となった。(現代用語の基礎知識2001年版)

(008) 固定為替相場制 fixed exchange rate system
 外国為替相場の変動を全く認めないか,ごくわずかの変動幅しか認めない制度。金本位制度下の為替相場制度がその典型。旧IMF体制下での変動幅上下1%,スミソニアン合意の上下2.25%の相場制度もそうである。(有斐閣『経済辞典』407頁)
このときのドルと各国通貨のレートは,以下のとおり。1ドル=360円,4.2マルク(西ドイツ),0.2481ポンド(英),119.107フラン(仏)

(009) 変動為替相場制 floating exchange rate system
 外貨の需要と供給とを反映して自由に為替相場を変動させ,国際収支の調整を行おうとする制度。1973年3月以降主要国通貨は総フロート時代に入っている。(有斐閣『経済辞典』1096頁)

(010)(東京)外国為替市場foreign exchange market
 銀行間為替市場で,一般にテレフォン・マーケット。為替銀行,中央銀行,為替ブローカーで構成され,銀行の為替操作・平衡操作の場である。欧州大陸で為替取引所(bourse)が存在する国もあるが,中心はこの市場である。広義では小売市場に相当する対顧客市場を含む。(有斐閣『経済辞典』110頁)

=では,どこでどうやって,為替の取引が行われているのか=兜町に東京証券取引所,東京・築地に魚市場があるが,「東京外国為替市場」はない。「では、テレビ・ニュースで映っている『東京外国為替市場』はいったい何か」。あれは民間の取引仲介会社が取引を仲介している映像(右の写真は上田ハーロー・「朝日新聞」朝刊,2004年5月3日,20頁,「朝日NIEスクール」)である。普通,外国為替市場とは銀行同士の取引である。写真の2台の受話器を持って話している人(Aさん)の電話の相手が銀行の担当者(Bさん)である。銀行の担当者(Bさん)が電話をとおして,取引を仲介する会社(上田ハーロー)に,例えば「108円でドルを10本(1本=100万ドル)欲しい」と注文する。Aさんがそれを聞いて、同じような条件でドルを売りたがっている人(別の銀行の担当者Cさん)を捜して,引き合わせて取引を成立させる。その条件をやりとりするためにホワイトボードを使ったり、メモを机の反対側の人に投げたりしているのである。(今ではほとんどの取引はコンピュータ・システムの中でされている)。こういうことをしている場の全体を指して「外国為替市場」と呼び、それが主に東京で行われているから「東京外国為替市場」という。
(011外国為替市場操作 exchange equalization operation外国為替平衡操作。通貨当局が為替市場に介入して外貨過不足を調整し,相場変動をなだらかにするために行う為替の売買。日本の介入窓口は日本銀行で,米ドルの直物のみ。介入資金は外為資金特別会計の外為資金で,不足円資金は日銀引受の外為証券で調達する。介入は外貨準備の増減をもたらす。(有斐閣『経済辞典』110頁)

==中国の元ドル==中国の元の為替レートも銀行間の取引できまります。ドルを買って元をほしい人(たとえば中国の輸出企業で,輸出代金のドルを持っている企業や人)は銀行(元とドルと交換してくれる銀行,たとえば中国銀行国内や香港支店,アメリカ・ニューヨーク支店もあると思うけど誰か調べて・・)に頼むわけです。元がほしい人(買う人)が増えると元高になります。例えば,中国に工場などを建てる目的のある人は,中国で建物を建てるためには,中国元が必要です。又中国国内にある企業が輸出代金のドルを中国元に換えるということもあります。そこで中国政府は,国家の財政=予算(中国元)で,逆に元をうりドルを買ってバランスをとろうとします。中国の貿易黒字が増えています。ドル売り・元買い基調(地合)が続いていますから,中国政府はこの為替への介入を銀行に頼んで行い続けます。したがって中国の外貨準備は大きくなり続けています。中国政府はそのドルを取引した銀行にドル預金したり,またアメリカの国債を買うなどして少しでも利子を稼ごうとします。またドルだけで持つとドルが暴落したとき困るので,ユーロなどで持つ(預金など)ようにしています。外貨準備高というのはこうした預金や国債の合計額のことです。これは基本的に日本でも同じです。また,中国国内でのこうした行為(元売り・ドル買い)は,中国国内に元を増やすこと(通貨供給量の増加→過剰流動性)にもつながりますから,国内のインフレーションの危険性も出てきます。

(011)基軸通貨
 世界各国で共通の価値基準として認められる通貨のこと。貿易の決済や金融取引などに幅広く使われるほか、各国政府の外貨準備にもなる。通貨発行国の経済規模や政治・軍事力、通貨取引の規制などで決まるとされる。小国の通貨は経常収支が悪化すれば通貨安になりやすいが、基軸通貨国は需要が多いため、経常収支が悪化しても通貨暴落などが起きにくい。
 19世紀以降、経済大国になった英国のポンドが基軸通貨を担ってきたが、20世紀半ばには米国の台頭で徐々に基軸通貨の座はドルに移行した。1945年に発効したブレトンウッズ協定で、米国が各国にドルと金との交換を約束したことから、ドルが基軸通貨の地位を確立した。1971年の金・ドル交換停止(ニクソン・ショック)後も米国の経済力を背景に、ドルは基軸通貨の役割を続けている。 欧州の通貨統合でユーロが誕生、国際取引でも存在感を増しつつある。世界の外貨準備高のうちドルの割合は99年3月末には7割だったが、現在は6割に低下している。
 [ニューヨーク2008年6月30日 ロイター] 国際通貨基金(IMF)が30日発表した世界の外貨準備高に関する統計によると、2008年第1・四半期末時点の各国中央銀行の外貨準備は、ドル保有額が増加する一方、ドル安を背景に全体に占める割合は低下した。全体の外貨準備は6兆8730億ドルで前四半期比7.4%増加。このうち構成が確認されている外貨準備は6%増の4兆3220億ドルだった。ドル準備は2兆7000億ドルで過去最高。しかし全体に占める比率は63.0%で、前四半期の64%から低下した。一方、ユーロ準備の割合は前四半期の26.4%から26.8%へと微増し過去最高となった。補足:このデータは世界のおよそ7割をカヴァーしている。

(012)NICs(NICs newly industrializing countriesニックス)
 新興工業国または中進国のこと。1970年半ば以降,,急速な「工業化」によって「経済成長」をとげ,工業製品の輸出においても著しいシェア拡大を示している開発途上諸国をさす。1978年のOECDレポートではじめて用いられた呼称で,それによると,韓国,台湾,香港,シンガポール,ブラジル,メキシコ,スペイン,ポルトガル,ギリシャ,トルコ,ユーゴスラビアの11カ国がNICsと認定された。88年のトロント・サミットにおいて,台湾・香港を国と表現することは中国に誤解を与えかねないとして,以後NIEsの呼称を用いることになった。

(013)輸出志向工業化(政策) export-oriented industrialization 
 輸出工業部門が工業化の主導的役割を担う開発方式。1960年代中頃より,韓国,台湾などで,従来の輸入代替工業化に代わって採用され,大きな成功をおさめた。輸入代替工業化が輸入代替産業を優遇するのに対し,輸出志向工業化はどの産業も差別しない中立的政策をとる。(実はかなりの優遇措置をとる)アジアの多くの開発途上国で採用されつつあり,輸出の中心は国際競争力の高い労働集約的製品である。

(014)輸入代替工業化(政策) import substituting industrialization;ISI
 国内工業の振興によって輸入工業品から国産品への代替を進め,保護の下で工業化を図ろうとする開発政策。すべての後発国の工業化は輸入代替から始まる。初期の国内工業保護が長引くにつれ,国内の輸入代替工業は非効率になり,自由化による輸出志向工業化へと変化していかなくてはならない。
 ==(013)(014)俗論に対する批判==
 輸出と「成長」との関係について周知のように次の議論がある。即ち,韓国の「離陸」「成長」の要因を,「輸入代替工業化政策」から「輸出指向工業化政策」への政策転換ととらえる見方である。1970年代の朴政権の「経済計画」の基本は「自立経済の確立」であり,「前後方関連の効果のある重化学工業」の育成であった。生産手段部門の優先的発展計画である。ガーシェンク理論いうところの「後発性利益」によって後発国は先進国の「成果」を享受できるから,それが可能となるというわけである。だが,歴代政権は「資本財」,機械設備・部品材料等を最初は輸入に依存しつつも,次世代の国産化を放棄したことはなかった。即ち輸入代替し「資本財」の国外依存を脱却し,自立的な国内の再生産構造の確立を求め続けてきた。例えば,1995年1から9月までの韓国の対日貿易赤字額が最高水準に達した時,韓国政府は次のように述べた。「韓国では機械,電子などの部品産業の育成が遅れており・・韓国政府は対日赤字が『国民感情に悪影響を与える』(金泳三大統領)として・・日本企業の韓国への誘致を進め,技術移転を通じて国内資本財産業を育成するなど,産業政策も絡めた対策を練っている」(「朝日新聞」1995年10月31日,5頁)。むしろ対日赤字補填のために輸出による外貨が必要となるのであって,輸入代替と輸出指向はメダルの両面の関係ある。「輸入代替工業化政策という誤った政策がすてられ,かわりに輸出指向工業化政策がそれにとってかわったというものではない」(梶村・鈴木編,前掲『韓国経済試論』(白桃書房,1984年)219頁)。今日の生産力水準が既に繊維産業でさえ国民国家の枠を越えざるをえなかったことは既に述べた。これに加えて【工程分割】という生産方法は,必然的に輸出へと帰結するのであって,要は資本・企業の要求への対応として政策の突き出し方が変わったにすぎない

(015)国内総生産 gross domestic product;GDP
 経済全体の総産出額から,二重計算を避けるために,原材料その他の中間投入物の価値額を引いたもの。したがって,居住者である生産者すなわち国内に所在する企業,政府および対家計民間非営利団体の創り出した付加価値の総計である。SNAで採用されている集計生産物概念で,生産,支出,分配の3面から測定可能であるが,支出面から測定したものをとくに国内総支出と呼ぶことがある。

(016)国民総生産 gross national product;GNP
 国民概念に基づく集計生産物概念であり,国内総生産に海外からの要素所得日本人・企業などが海外で得た雇用者所得,財産所得)を加え,海外への要素所得(外国人・企業などが海外で得た雇用者所得,財産所得)を控除したもの。

(017)貿易依存度 degree of dependence upon foreign trade
 一国の国民総生産(GNP)または国民所得に対する貿易の割合を示すもの。分子を輸出と輸入に分けそれぞれ輸出依存度,輸入依存度と呼ぶ場合が多い。日本は一般に貿易依存度の高い国と思われているが,ヨーロッパ諸国に比べるとはるかに低く,むしろアメリカに近い。
(018)スタグフレーション stagflation景気後退下の物価水準の上昇。スタグネーション(停滞)とインフレーションとの合成語。経済活動が停滞すれば物価は落ち着くのが経済の一般的傾向であるが,1970年代に入ってから生産の停滞や失業率の上昇にもかかわらず物価の高騰が続く傾向が見られた。この新しい現象に対するイギリスの元蔵相マクラウド(I. Macloed)の造語。特に,第1次石油危機後世界各国で高率のインフレと失業率が同時発生し,長期化したことが有名。

(018)労働生産性 labor productivity;productivity of labor
 産出量を労働投入量で割った比率。通常,付加価値額を従業員数(または総労働時間数)で除した付加価値労働生産性が重視される。労働生産性は国民経済計算においても用いられる。

(019)シンジケート・ローン international syndicate loan
 複数の金融機関が協調融資団(シンジケート)を組成し,協調して行う融資のこと。複数の銀行が参加することにより危険分散が図れると同時に,巨額の資金でも効率よく調達できるため,1970年代にユーロ市場で発達したもので,プロジェクト・ファイナンスなど各国政府・公共機関,大企業向けの巨額の融資に使われている。

(020)先物取引 futures transaction
 あらかじめ受渡期日が定期的にくるように定めておき,この間の取引は,受渡期日に決済しても,中途で反対売買をして差金決済をしてもよい,とする取引方法。一定期日に決済するところから定期取引ともいい,また差金の授受のみを行うところから清算取引ともいう。商品取引所で行われてきたが,1985年10月から東証で国債の先物取引が開始され,88年9月からは東証,大証で株価指数先物取引が,さらに89年には東京金融先物取引所が開設され,金融先物,通貨先物取引も開始された
具体的には金融,債券,為替取引などがある。

(021)先物為替取引 forward exchange transaction先物電信為替の売買取引。
 外国為替銀行が顧客に対して行う対顧客先物為替取引と,銀行同士が為替市場で行う市場先物為替取引とがあり,前者を特に為替予約と称し,さらに輸出予約(銀行の買予約)と輸入予約(同売予約)と呼び,顧客の混乱を避けている。

(022)WTI(West Texas Intermediate)
 西テキサス地方で産出される硫黄分が少なくガソリンを多く取り出せる高品質な原油のこと。そのWTIの先物がニューヨークマーカンタイル取引所(NYMEX)で取引される。

(023)EC〔A〕 European Communityヨーロッパ共同体。
 EEC,ECSC,EURATOMの3機関の統合体。1965年に署名された3機関の統合に関するブリュッセル条約に基づき,1967年に発足。加盟国は,発足当初からのフランス,西ドイツ,イタリア,ベルギー,オランダ,ルクセンブルクの6カ国に,73年1月にイギリス,アイルランド,デンマークを加え,さらに81年1月にギリシャ,86年1月にはスペイン,ポルトガルも加盟し12カ国となった。また,93年11月に発効したマーストリヒト条約により,オーストリア,スウェーデン,フィンランドが新たに加わり,欧州連合(EU)となった。経済・通貨統合が当面の目標。

(024)EU European Unionヨーロッパ連合
 ヨーロッパ共同体(EC)参加国は1991年12月にマーストリヒトで開催した首脳会議で,ヨーロッパ統合をさらに推進するため,EC基本法であるローマ条約を改正し,通貨統合,共通外交政策設定などを含むヨーロッパ連合条約(マーストリヒト条約)の締結に合意,EUと称することとした。同法は93年11月に発効。加盟国は,ドイツ,フランス,イタリア,イギリス,スペイン,オランダ,ベルギー,スウェーデン,オーストリア,デンマーク,フィンランド,ポルトガル,ギリシャ,アイルランド,ルクセンブルグの15カ国。

(025)ユーロ Euro
 1999年1月1日から経済通貨同盟 (Economic and Monetary Union)に導入される単一通貨。ECUと1対1で交換される。同日,各国通貨との交換比率が決定されるが,とりあえず非現金取引に導入され,2002年1月から紙幣(5,10,20,50,100,200,500の7種)と硬貨が流通,同年7月1日までに参加国の紙幣等にかわりその単独の法貨とされる予定。なお,欧州中央銀行は,ユーロによる単一金融政策や外国為替操作を行うことになる。また,非参加国の通貨をリンクさせるメカニズム(ERM2)も制定されている。

(026)公定歩合 official discount rate;bank rate
 中央銀行が市中金融機関に対して行う貸出に適用される基準金利。日本の場合,公定歩合は日本銀行貸出の形態(手形割引と手形貸付)に応じて,手形割引歩合と基準貸付利子歩合に分けられる。具体的には,《1》商業手形割引歩合ならびに国債,特に指定する債券または商業手形に準ずる手形を担保とする貸付利子歩合,《2》その他のものを担保とする貸付利子歩合で,通常《2》は《1》より0.25%高となっている。
(027)公定歩合操作 bank rate operations
 中央銀行が公定歩合を変更すること。これは基本的政策手段のなかで最も古い歴史を持ち,中央銀行の政策運営の基本的スタンスの変更とともに発動される。伝統的な考え方では,その変更は,《1》民間金融機関の資金調達コストに影響を及ぼし,その貸出や証券投資行動に影響する(コスト効果)とともに,《2》金融政策の基本的スタンスの変更を一般に公示し,それを金融市場の参加者に周知徹底させる効果(アナウンスメント効果)を持っている。

(028)人民公社 people's commune
「1958年に創設された中国農村の行政・経済機構。農業集団化に成功した中国は、58年なかばごろから従来の農業生産協同組合を合併させ、工業、農業、商業、学校、民兵の各組織を含み、またいままでの郷政府のもっていた行政機能をもあわせもつ人口数万にも達する一大コミューンをつくり始めた。毛沢東(もうたくとう/マオツォトン)の「人民公社はすばらしい」ということばにも励まされ、わずか1、2か月のうちに全国99%の農家が参加する人民公社化運動が展開された。「一大二公」(規模が大きくて公共的)が理想とされ、食事の無料供給を行う「公共食堂」が設けられたり、さらに一部の地域では公社規模での所有、管理、分配が行われた。
 しかし1959~61年の自然災害(それには公社化が引き起こした人災という面もあった)と、それによる農業、農民の疲弊の結果、人民公社制度は再編を余儀なくされた。 61年以降、最末端単位である20~30戸からなる生産隊を基本単位とし、そこが土地を集団所有するとともに、生産・分配の意思決定権をもち、その上の生産大隊が比較的大型の資本を有し、さらに公社が灌漑(かんがい)設備や大型トラクターといった大規模な資本を所有・管理するといった「三級所有制」ができあがった。また、この人民公社体制のもとで、農民は基本的医療、教育、あるいは生活を保障される体制にはなってきた。  農民は生産隊の集団耕作に参加し、各自労働力の質と作業種ごとに決められた労働点数を記録し、その年の収益を各人の労働日(一労働日は通常10点)に応じて分配する。ただし、収穫の変動が激しく、しかも政府により農産物価格や原材料価格を決められているために、一労働日当りの単価は低く、しかも変動が大きい。それを補うのが、耕地の5%を限度として各農家に経営と生産物の処分がゆだねられた自留地による所得であった。  機構としての公社制度をみると、公社の幹部は上級の行政単位である県から任命され、また中国の他の機構と同様に、公社の運営は実質上公社の党委員会が実権を握っていた。 しかし末端の生産隊や生産大隊の幹部は、比較的民主的に成員が選出していた。
 1976年の「四人組」失脚以後、それまでの人民公社制度の非効率性や国家による干渉が批判され、個々の農家の生産意欲を刺激するために、自留地の拡大とともにさまざまな請負耕作制、とりわけ農家ごとの請負制の普及が図られ、農業の脱集団化が進められた。 さらに82年の憲法において、58年以前の郷政府制が復活して、公社から行政機能がなくなり、それとともに人民公社の看板が下ろされ、名実ともに人民公社は解体したといえる。

(1)福島正夫箸『人民公社の研究』(1960年,御茶の水書房)
(2)嶋倉民生・中兼和津次編『人民公社制度の研究』(1980年アジア経済研究所 (3)近藤康男・阪本楠彦編『社会主義下甦る家族経営』(1983年,農山漁村文化会)

(029)文化大革命
 毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)主席の主導下で1965年秋から10年間にわたって全中国社会を揺り動かした政治的・社会的動乱。中国では「無産階級文化大革命」とよばれたこの事件は、社会主義社会における革命運動として中国社会を激しく揺さぶり、未曽有(みぞう)の混乱に陥れたばかりか、全世界に大きな衝撃を与えた。とくに66年夏に「造反有理」のスローガンを掲げて突如として出現した紅衛兵運動や相次ぐ政治指導者の失脚、そして毛沢東の絶対的権威の確立という一連の事態は、だれもが予想しえなかった政治的大変動であった。

■当時の規定■中国では、当時、このような文化大革命を「人の魂に触れる革命」だと強調し、「中国社会主義革命の新段階」を画するものだと公式に規定した。文化大革命は、毛沢東が1962年9月の中国共産党第八期十中全会で全党・全人民に向けて発動した「絶対に階級と階級闘争を忘れてはならない」との指示を出発点にするものだといわれたが、この「革命」の最大の目標は、社会主義社会における階級闘争の貫徹にあり、当面は「党内の資本主義の道を歩む一握りの実権派」を根こそぎ打倒することが最大の課題だとされた。

■三つの側面■文化大革命は、中国共産党内部の権力闘争としての本質と、こうした党内闘争の大衆運動化という内容をもっていたそこには、政治的側面とイデオロギー的側面および社会的側面という三つの面があった。  まず政治的には、文化大革命の第一段階において、毛沢東主席の絶対的権威を確立するとともに、林彪(りんぴょう/リンピァオ)を党副主席として、彼が毛沢東の後継者だとする新しい政治的リーダーシップを強行的に確立した。だが、このことは、林彪を中心とする人民解放軍の主導性に依拠しない限り、劉少奇(りゅうしょうき/リウシャオチー)、鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)をはじめとするいわゆる実権派勢力からの奪権が不可能であったことも示しており、そこには兵営体制化した中国の権力中枢における政治危機と内部矛盾が集中的に表現されていたのである。 1971年9月に起こった衝撃的な林彪異変は、その証明でもあった。  イデオロギー的には、文化大革命は、それが当初は「文芸整風」として現れたことに示されるように、従来の文化や価値意識を根本的に転換しようとした側面があったことも事実である。ここには、社会主義社会がその発展過程において、人類の文化遺産をどのように継承してゆくかという問題が含まれており、この点で中国は、自己の文明史をも徹底的に書き換えようとしたかにみえたのだが、しかし、「毛沢東思想」の絶対化は、思想や文化をその本来的な生命においてではなく、体制的なイデオロギーとして機能させる結果しか招かなかった。  社会的には、いわゆる「貧困のユートピア」を求めて中国社会を変革しようとしたのであり、毛沢東の意識下には、都市エリートを中枢にした中国社会の新しい階層化を打破しなければならないという構想が存在していたといえよう。だが、絶対的な毛沢東家父長体制のもとでそれが実践されるに及んで、中国民衆の抵抗に出会い、中国伝統社会の厚い壁に阻まれて、毛沢東の理想は破産したのである。1975年夏の杭州(こうしゅう/ハンチョウ)事件、翌76年4月の第一次天安門事件は、毛沢東政治への大衆の反乱であり、毛沢東側近の「四人組」も同年10月の北京(ペキン)政変によって失墜を余儀なくされた。

■本質■
 文化大革命の本質は、「階級闘争」という名のもとでの党内闘争であることは明らかであり、中国共産党に生起した深刻かつ未曽有の党内闘争を、あらゆる論理と強権を用いて、毛沢東の勝利に帰そうとした政治過程こそが文化大革命であったといわねばならない。もとより、党内闘争を大衆運動化していくところに毛沢東政治の著しい特質があることはいうまでもないが、このような党内闘争において、毛沢東が当初明らかに少数派であったことは、文化大革命の性格を決定づけたのであった。  毛沢東は文化大革命の開幕に先駆けて、党中央に「修正主義」が現れる危険を指摘した、といわれているが、文化大革命胎動期の政治状況のなかでは、すでに1950年代末の「大躍進」政策の挫折(ざせつ)以来、毛沢東らは党中央で少数派であり、毛沢東自身、北京を脱出して上海(シャンハイ)から文化大革命ののろしをあげざるをえなかったのである。→大躍進

■展開過程■ここで文化大革命のドラマの展開過程を顧みるならば、以下のとおりである。  毛沢東は、江青(こうせい/チヤンチン)、張春橋(ちょうしゅんきょう/チヤンチュンチヤオ)らいわゆる「江青文芸サロン」の面々が集まっていた上海から文化大革命の開幕を告げ、1965年11月10日、若き文芸批評家・姚文元(ようぶんげん/ヤオウェンユアン)(当時、上海市党委員会書記)は、「新編歴史劇『海瑞(かいずい)罷官』を評す」と題する論文を発表して、歴史学者として知られた北京市副市長・呉晗(ごがん/ウーハン)に対する全面的な批判を開始した。呉晗批判は、北京の指導的な知識人たち「三家村グループ」に対する批判へと拡大していったが、やがてその黒幕としての党北京市委員会が実権派の牙城(がじょう)として激しく批判され、彭真(ほうしん/ポンチエン)・北京市長(党北京市委員会第一書記)らが一斉に糾弾された。  こうしたなかで1966年4月上旬、北京市党委員会の改組が行われ、4月18日の人民解放軍機関紙『解放軍報』社説は、今回の一連のプロセスを「プロレタリア文化大革命」だと初めて公式に規定した。ついで5月16日には文化大革命の進軍らっぱの役割を果たした党中央の「通知」(5.16通知)を公布し、党中央文革小組(組長・陳伯達(ちんはくたつ/チェンポーター)、第一副組長・江青)を設置した。やがて5月25日には北京大学の若き女性教師・聶元梓(じょうげんし)が、校長の陸平らを「三家村グループ」の一味として激しく批判する大字報(壁新聞)を貼(は)り出した。毛沢東は、6月1日にこの大字報を全国放送するよう指示し、それを「20世紀60年代の中国のパリ・コミューンの宣言書」だとたたえたのであった。  そして6月3日、彭真らの解任と北京市党委員会の改組が発表され、ここに実権派の牙城の崩壊が告げられると同時に、「毛沢東思想」を堅持してきた林彪の功績が大きく報じられ始めた。1966年8月上旬には、中国共産党第八期十一中全会が北京で開催された。 毛沢東は会期中の8月5日、「司令部を砲撃しよう――私の大字報――」を自ら貼り出し、8月8日には「プロレタリア文化大革命に関する決定」(16か条)が発表された。  ところで、1966年8月18日に天安門広場での第1回100万人集会に集まった紅衛兵たちは、やがて全国主要都市に街頭進出し、「毛沢東思想」をたたえつつ旧文化破壊の激しい行動を繰り広げたが、紅衛兵中心の街頭闘争の段階から、やがて実権派打倒のための奪権闘争へと文化大革命は質的転換を遂げていった。しかし、実権派の抵抗も根強く、各地で奪権と反奪権の武闘が相次いだとき、林彪麾下(きか)の人民解放軍は1967年1月23日、奪権闘争への軍の全面的な介入を決定したのである。  「一月革命」といわれる上海の奪権闘争において、上海の造反派はコミューン型権力を構想し始めたが、毛沢東ら党中央は、このコミューン構想を急遽(きゅうきょ)押さえつけてしまった。これは文化大革命の一つの転換点であり、以後、毛・林主流派は、革命派の「大連合」による奪権、すなわち革命幹部・軍代表・革命的大衆代表からなる、いわゆる「三結合」の革命委員会を樹立するよう呼びかけ、革命委員会は、1968年9月をもって全国の一級行政区のすべてに成立することとなった。  こうしたなかで中国共産党九全大会(第9回全国代表大会)が1969年4月、1956年の八全大会以来13年ぶりに開催された。この九全大会は、文化大革命が上からの党再建という大きな結節点に達したことを示すとともに、毛沢東の無類の権威を確立し、林彪を毛沢東の後継者(接班人)として擁立するためのセレモニーであった。  この間、毛沢東側近として文化大革命の推進を担い、文革小組組長だった陳伯達は、翌1970年8~9月の第九期二中全会で「大野心家・陰謀家」だとされ、失脚していった。 このような状況のなかで発生したのが林彪異変である。林彪異変は、今日なお多くの謎(なぞ)に包まれているが、72年7月、中国当局は、林彪の毛主席暗殺計画失敗によるモンゴルでの墜落死という驚くべき筋書きを公表した。→林彪事件 文化大革命の一つの重大な結末が林彪異変という深刻な事件となって露呈したのちの1973年8月、中国共産党十全大会(第10回全国代表大会)が開催された。十全大会は、周恩来の政治報告、王洪文(おうこうぶん/ワンホンウェン)の党規約改正報告を採択し、新しい中央リーダーシップを選出した。 中央委員会主席には当然のことながら毛沢東を、そして副主席には、九全大会のときの林彪ただ1人の副主席とは変わって、周恩来(しゅうおんらい/チョウエンライ)、王洪文、康生(こうせい/カンション)、葉剣英(ようけんえい/イエチエンイン)、李徳生(りとくせい/リートーション)の5人を選出した。この十全大会は、林彪処断と対ソ非難を、全党をあげて行った壮烈な儀式の観を呈したが、「毛沢東体制下の非毛沢東化」と脱文革を志向する「潮流」の大きさをも確認させた。だが一方、十全大会と前後して生じた孔子(こうし)批判・始皇帝礼賛のキャンペーンはやがて「批林批孔」運動となっていわゆる「反潮流」の巻き返しが図られ、毛沢東体制末期の内部角逐はますます熾烈(しれつ)化していった。このようなとき、1975年夏に生じた杭州事件は、工場労働者の賃上げ要求ストライキによる杭州一帯の混乱を軍によって制圧したという深刻な事件であり、「貧困のユートピア」を強制してきた毛沢東体制の末期的な社会的矛盾を内側から露呈したものであった。→批林批孔運動 こうして「潮流」と「反潮流」とが内部的に角逐するなかで、1976年1月8日、周恩来総理はついに病に倒れた。だが周恩来葬儀において弔辞を読んだ鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)副総理は、あえて「四つの現代化」路線の継承を文革派リーダーの面前で誓ったため、このことが毛沢東体制末期の文革派側近を大いにいらだたせ、「走資派」批判のキャンペーンが76年2月初旬から一斉に展開された。この2月初旬には、文革派非上海グループの華国鋒(かこくほう/ホワクオフォン)が国務院総理代行に毛沢東から指名されて一躍クローズアップされたが、こうした「逆流」(「反潮流」)への大衆的抗議として起こったのが驚天動地の第一次天安門事件だったのである。党中央は、この事件を「反革命」事件として断罪し、鄧小平の全職務を解任したが、のちに天安門事件の評価が逆転し、「偉大な四・五運動」として称賛されるようになったように、天安門事件こそ毛沢東体制下の大衆反乱のクライマックスであった。→天安門事件 こうした状況のなかで、1976年9月9日、ついに毛沢東主席が逝(い)った。中国の権力中枢においては、毛沢東の死を悼むいとまもなく後継権力をめぐる闘争が毛沢東側近体制の内部で激化した。そして毛沢東の死を決定的な転機として、10月6日には「既定方針どおり事を運ぶ」との毛沢東「遺訓」を掲げて権力継承権をいち早く主張した文革派上海グループつまり「四人組」(王洪文、張春橋、江青、姚文元)が一網打尽に逮捕され、打倒されるという衝撃的な北京政変が起こり、ここに華国鋒体制が一挙に形成された。→四人組 こうして華国鋒は、毛沢東後継者としての正統性を「あなたがやれば私は安心だ」という、もう一つの毛沢東「遺訓」によって誇示したのであるが、しかし、そのような「毛沢東の影」は、やがて中国内政全体の非毛沢東化の進展とともに華国鋒の政治的将来を拘束することになってゆき、翌77年7月には中国共産党第十期三中全会で鄧小平が再復活を遂げた。同年8月の中国共産党十一全大会(第11回全国代表大会)では、新しい党規約のなかに「四つの現代化」が明記され、さらに78年12月の中国共産党第十一期三中全会では統一的な国家目標として定められた。  かくて中国は、毛沢東政治からの歴史的な転換をようやく実現し、今日の「四つの現代化」路線へと大きく旋回したのであった。
■今日の評価■中国は1979年10月1日、建国30周年を迎えたのであるが、建国30周年祝賀集会では葉剣英副主席が初めて文化大革命の誤りを指摘した。  こうして1960年代後半からの10年間は、いわゆる「文革の10年」として中国社会全体を混乱に陥れ、あらゆる機関や単位において組織的にも人的にも深刻な亀裂(きれつ)をもたらした反面、ついになんらの具体的成果を生み出すことはなかった。81年6月の中国共産党第十一期六中全会による「建国以来の党の若干の歴史的問題に関する決議」では、文化大革命が党の決議として公式に否定された。今日、「文化大革命」は一場の悪夢として公式には括弧(かっこ)付きで引用されるに至っている。そして劉少奇をはじめ文化大革命で打倒された指導者がすべて復活もしくは名誉回復する一方、文革派はことごとく失墜・凋落(ちょうらく)して、非毛沢東化が進展しつつある。一時期、人類史上の偉大な実験だと外部世界でたたえられた文化大革命は、当の中国にとっても大いなる幻影であり、虚妄でしかなかったばかりか、中国社会をずたずたに引き裂いた悲劇的な動乱だったのである。〈中嶋嶺雄〉 (C)小学館

(1)中嶋嶺雄著『北京烈烈』上下(1981.筑摩書房)
(2)スタンレー・カーノウ箸、風間龍・中原康=訳『毛沢東と中国一終りなき革 命』上下(1973.時事通信社)
(3)安藤正士・太田勝洪・辻康吾著『文化大革命と現代中国』(岩波新書)

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(030)為替感応度「日本経済新聞」2012年6月24日(日)



(031)マルタ会談
1989年 12月2~3日に地中海のマルタ島で行われた米ソ首脳会談で,第2次世界大戦後 40余年にわたった 冷戦 の終りを事実上告げた会談。東欧諸国の共産党政権が相次いで倒れ,会談直前にはついに ベルリンの壁 も崩壊するという事態のなかで開催された。アメリカの ブッシュ 大統領とソ連の ゴルバチョフ 書記長は,米ソ首脳として史上初めて共同記者会見にのぞみ,新しい平和の時代の到来を表明した。
[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2012]

(032)OECD
けいざいきょうりょくかいはつきこう
Organization for Economic Co-operation and Development; OECD

1961年に発足した西側先進諸国の経済に関する国際協力機関。略称 OECD。 1959年 12月のアメリカ,イギリス,フランス,西ドイツ4ヵ国首脳会議の共同声明をうけて, ヨーロッパ経済協力機構 OEECを改組し,1960年 OECD条約調印,1961年9月に発足した。 (1) 高度経済成長,(2) 開発途上国援助,(3) 世界貿易の拡大を三大目的とする。 OECDの最高機関は全加盟国で構成される OECD閣僚理事会 である。そのほか閣僚理事会の補佐的機関である執行委員会や,OECD経済政策委員会,OECD貿易委員会,OECD開発援助委員会 DACの三大委員会のほか,約 150の委員会や作業部会があり,環境や教育も含めて広範な活動が展開されている。重要な活動例としては各国の経済政策の検討, 政府開発援助 ODAの実績の審査,資本移動やサービス貿易の自由化などがある。 1990年にはソ連・東欧諸国の市場経済への移行を支援するセンターも設立された。本部はパリで,職員は約 1800人。原加盟国は 20ヵ国 (アメリカ,カナダ,西ドイツ,フランス,イタリア,ベルギー,ルクセンブルク,オランダ,イギリス,デンマーク,スウェーデン,スイス,ノルウェー,ポルトガル,オーストリア,アイスランド,スペイン,アイルランド,トルコ,ギリシア) 。日本は OECD発足当時から DACに参加していたが,1964年4月に OECDの正式加盟国となった。その後フィンランド,オーストラリア,ニュージーランド,メキシコ,チェコ,ハンガリー,ポーランド,大韓民国,スロバキアが加わって加盟国は 30ヵ国。
[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2012]

(033)南北問題
 アメリカはこうしたソ連・社会主義体制側の攻勢の前に,しばらくは防戦にまわることになるが,マーシャルプランによる欧州復興で得られた経験によって,途上国の「開発」にも乗り出してゆく。今度はアジア・アフリカそして中南米の番だ,と。冷戦構造のもとで,途上国をそれぞれの体制に取り込み,各体制を統合・維持するために,「開発」はキーワードとなった。資本主義対社会主義という体制間対抗・東西間の対立軸に加えて,途上国と先進資本主義国の間にもいま1つの対立と緊張の淵源が存在するという認識は,「南北問題」というタームとなってイギリス・ロイズ銀行頭取オリーバー・フランシスの口から発せられ,資本主義体制の側においても共通の認識となった。
 この共通認識は国連の場では以下のように進展していった。国際連合は1961年の第16回総会において60年代を国連「開発の10年」と宣言し,その努力を開発途上国開発問題に傾ける方針を明らかにした。同年OECDもその下部機構として開発援助委員会(DAC)を設け,開発途上国への資金援助体制を強化した。国際復興開発銀行(IBRD:いわゆる世界銀行)はすでに,いわゆる第2世銀(国際開発協会=IDA)を創設し,開発途上国に対してきわめて緩い条件での融資活動に乗り出していた。その後こうした国連・国際機関を中心とした途上国への融資諸制度は充実,伸展することになるが,この流れを受けて途上国の側からも,国連の場で開発途上国開発問題を総合的に議論し,先進国に対応を迫る要求が出されてゆく。1964年にはじめて開催された「UNCTAD(United Nations Conference on rade and Development)」がその場であった。(『東アジア経済論』129-130頁)

(034)アジアアフリカ会議(バンドン会議)
Afro-Asian Conference
 1955年4月 18~24日インドネシアのバンドンで開催されたアジア,アフリカの独立国政府間会議。バンドン会議ともいう。東西緊張の激化と新興諸国間の絶えざる紛争に直面してインド,インドネシアなどコロンボ・グループ5ヵ国が招請し 29ヵ国が参加した。国益,国策の異なる諸国間の見解を「求同存異」方式によって「バンドン十原則 ( 平和十原則 ) 」に集約した周恩来首相は,J.ネルー,スカルノと並んで会議を成功に導いた。領土主権尊重,内政不干渉,平和共存などから成るこの十原則は,54年6月に中国,インド間で確認された 平和五原則 を拡大発展させたもので,アジア,アフリカ諸国に反帝国主義,反植民地主義を主軸とする強い連帯感を生んだ。そればかりでなく,平和地域の拡大,東西の緊張緩和を目指すアジア,アフリカ諸国の願望を形に表わしたという意味で,かつてない歴史的会議であったが,60年代に入ってアジアはもちろん,遅れていたアフリカの独立もほとんど達成されると,反帝国主義,反植民地主義を軸とするアジア,アフリカの連帯感も以前ほどの強さを失い,65年6月アルジェで開催される予定であった第2回会議も流会となった。
[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2012]

(035)■中ソ友好同盟相互援助条約
 中華人民共和国とソビエト社会主義共和国連邦(現ロシア連邦共和国)との間の友好、同盟および相互援助に関する条約。本条約および二つの付属協定、交換公文からなる。 1950年2月14日モスクワで調印、4月11日発効。中華民国とソ連との間に1945年8月14日に結ばれた中ソ友好同盟条約を多くの面で継承している。この条約締結のために、毛沢東(もうたくとう)主席は建国直後の多忙な最中、1949年12月中旬から2か月にわたってソ連に滞在し、その間、周恩来(しゅうおんらい)首相もモスクワによばれるなど、スターリンとの交渉は困難を極めた。のちに毛沢東は、この協定によって中国の東北地方を自国の植民地にしようとしたと、ソ連を非難した。  本条約は前文と6か条からなり、日本および日本に同盟する国の侵略を共同で阻止する(第1条)、対日全面講和の促進(第2条)、相手国に反対する同盟・集団行動・措置への不参加(第3条)、重要な国際問題の協議(第4条)、経済・文化協力の強化(第5条)、条約の有効期間30年(第6条)などを規定している。付属協定では、中ソ共同管理の中国長春鉄道、旅順・大連(だいれん)の海運基地の早期返還、および3億ドルの対中国経済援助を約束している。交換公文は、旧条約の失効、モンゴルの独立の再確認を明記している。  本条約は1950年代の冷戦時代には中ソ社会主義陣営のシンボルとみられていた。60年代以後、中ソ対立の激化とともに本条約は有名無実化していき、日中平和友好条約交渉の過程で本条約の第1条の対日条項が問題となったが、中国側は79年4月3日に、80年4月11日の満期後は同条約を延期する意志のないことをソ連に通告した。ソ連政府はこの措置を「敵対的行為」と非難したが、同条約の失効後、両国間で関係改善の交渉が進められ、89年5月のソ連のゴルバチョフ書記長の北京(ペキン)訪問(10日後、最高会議議長に就任)によって、両国の国家関係、党関係ともに正常化した。ソ連崩壊後、中国とロシアの友好関係は回復され、96年4月のエリツィン大統領の訪中では、21世紀に向けての中ロ関係を「戦略的協調パートナーシップ」と位置づける共同声明に調印した。 (C)小学館スーパー・ニッポニカ

(036)■北欧福祉国家の実現■
 第二次大戦終結後、北欧諸国は戦禍からの復興を優先課題とした。ノルウェーは、大戦中の活動で商船の半分を失うなど打撃を受けていたが、復興のテンポは早く、3年後には国民総生産を戦前のレベルにまで回復した。中立維持により戦火を免れたスウェーデンは、国民総生産が2割増大するなど、隣接三国とは対照的な繁栄を享受していた。敗戦国フィンランドは、ソ連軍の占領は免れたものの、戦禍と厳しい休戦条件の履行にあえいだが、講和条約調印(1947)にこぎ着け、1952年には対ソ賠償を支払い終えて、同年ヘルシンキに第15回オリンピックを迎えた。また、アイスランドは、大戦の終結する以前の1944年に、国民投票の支持を背景に独立を宣言した。  1950年代から60年代へかけてのデンマーク、スウェーデン、ノルウェー三国の内政にみられる共通の特徴としては、社会民主党系の政党(ノルウェーでは労働党)が政権についた点をあげることができる。フィンランドでは、戦後、共産党の合法化によって、同党を含む人民民主同盟と社会民主党および農民党との連合政権が出現した。  こうした政権下に、北欧諸国は、1950年代には戦後の復興を終わり、戦前からの工業化の継続と発展を目ざすことになった。経済計画が行われ、その主目的は完全雇用の実現にあったが、国民の経済的平等が執拗(しつよう)に追求されたことが特徴である。50年代後半には北欧各国の工業発展のテンポは急速に高まり、とくに輸出部門の伸びが目覚ましかった。50年代の経済成長によって北欧諸国民の生活水準は向上し、また社会構成も、50年代末には、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンで全所得者中に占める農・漁業従事者の割合は、2割に満たなくなった。このような経済的・社会的条件のもとに、社会民主党諸政府の社会政策が推進された。60年代に、北欧諸国は福祉国家をほぼ実現するに至った。  1970年代以降の北欧諸国は、いわゆるポスト福祉国家の問題に直面し、そこで改めて環境問題や人間の問題が問い直されつつある。1960年代に北海油田が続々と発見されて経済的地位が向上したノルウェーを除くと、北欧諸国は先進世界の慢性的な景気後退のなかにあって経済不振に悩み、そのなかで福祉政策を維持していく困難も生じている。 こうしたなかで、社会民主党の長期政権担当に対する国民の倦怠(けんたい)もようやく表面化し、73年にスウェーデンで44年ぶりに社会民主党が政権を降りるなど、いわゆる保守化の傾向も現れている。 (C)小学館

(037)■イラン・コントラ事件()
 アメリカ, レーガン 政権時代に,イランへの武器売却代金の一部をニカラグア反米政権の反政府ゲリラ (コントラ) 支援に流用しようとした秘密工作。イラク・イラン戦争におけるアメリカの二枚舌作戦で,両国の「共倒れ」を狙った作戦。トハウス直属 国家安全保障会議 のノース中佐らは議会の反対を予測して秘密裏にコントラ援助を実行し,事件が発覚したのちは大統領が事前にそのことを知っていたかどうかが究明の核心となった。ホワイトハウスは工作の事実があったことを認めたもののノース中佐の解任,ポインデクスター補佐官の辞任で決着をはかり,結局大統領の責任問題にはいたらなかった。この事件により,最高責任者 (大統領) を取巻くスタッフ,官僚の壁の厚さが明らかになった。

(038)■偏差値  http://homepage2.nifty.com/zaco/xlgrd/page05.html 

偏差値の計算方法は、以下の通りです。


(得点 - 平均値)
―――――――― × 10 + 50
  標準偏差
    Excell関数  =STDEV(セル範囲 )
    セル範囲を母集団の標本とみなし、標準偏差の推定値を返します。

大手予備校主催の模試でこの処理が行われていることから、けっこう馴染み深い ことと思います。
高等学校の成績評価は絶対評価を標榜していますが、私の知る範囲では、考査素点の 平均点が低くなりがちな(いわゆる進学校の)数学や理科の先生で、成績処理に 偏差値を用いる人がいます。(偏差値を成績評価の素点にするということは、 結局は相対評価で成績を付けるということですね。) あるいはまた、定期考査や実力テストの集計において、各教科の「重み」を 均等にするように総合成績(順位付け)を計算する時などにも偏差値を使うことが 多いと思います。

偏差値とは、平均からどのくらい離れているか、を示す値です。 データ量が十分に大きいため、データの分布が正規分布に従っていると推定される場合、 各偏差値の生徒は、集団の中で下記のようなポジションにいるといえます。

集団全体=100%として

偏差値80以上 …… 上位 0.18%以内
偏差値70以上 …… 上位 2.28%以内
偏差値60以上 …… 上位15.87%以内
偏差値50以上 …… 中位以上
偏差値50   …… 真ん中(平均値)
偏差値50以下 …… 中位以下
偏差値40以下 …… 下位15.87%以下
偏差値30以下 …… 下位 2.28%以下
偏差値20以下 …… 下位 0.18%以下

非常に荒っぽい話をすると、テストで「偏差値60」を(いつも)とれる生徒は、 その学力が母集団全体の上位約16%の位置にあるということでしょう。 もし母集団から無作為に100人抽出したら、その中の16位ぐらい、1000人だったら 160位ぐらいの実力があると見てよい生徒です。

(039)ホームステッド法
Homestead and Exemption Laws
  アメリカ市民に公有地を提供した一連の自営農地法をいう。直接的には 1862年5月 20日連邦議会で成立した自営農地法をさす。入植以来,無償払下げを要求する農民と労働者の運動が続いたが,1862年5月 20日ようやく成立をみた。内容は,21歳以上のアメリカ市民あるいは市民になろうとする者で,家長または 14日間以上軍隊にいた者,連邦に反逆したことのない者に,10ドルの登録料で5年間定住し開墾すれば 64ha (160エーカー) の公有地を無償で譲渡するというものであった。その後種々の補足的法案が付加されたが,実質的にはこれらの土地法は,自営農民になろうとする者よりも,大企業,土地投機業者などの土地買占めに利用されることが多かった。

(040)重金主義
重商主義 の初期の考え方の一つ。貴金属が富であるという考え方に基づいて,国富増大のためには個々の国との個別的貿易差額を順にすることが最重要であるとし,為替制限,金銀の輸出禁止などの方策を唱えた。重金主義が貴金属を重視した究極的な目的は,国内の初期産業資本の発展に必要な貨幣を国内に確保することにあり,この立場から仲継貿易のために国外に金銀を流出させる東インド会社などの特権的貿易会社を批判した。

(041)国債のマイナス金利


国債の金利=流通市場における固定利付国債の実勢価格に基づいて算出した主要年限毎の金利                 国債のペーパーレス化2013(H5)年から紙の国債=証券を発行しない。国債の取引は、各保有者が金融機関に開設した振替口座への記録によって行われている。           

国債の市場価格=個人向け国債以外の国債の売却価格は、国債市場の状況によって右の模式図のようにがり続けている。変動する。             

なぜイナス金利が続くか=アベノミクス」の「三本の矢(政策)」の金融緩和策として日銀黒田総裁就任(
133月)以来,日銀は,マネタリーベースを2年で2倍に増やすという、「量的質的にこれまでと次元の違う」金融緩和策をとった。この政策で日銀は市中の国債を買い続ける,という思惑がはらたらき,国債の市場価格は上昇傾向にある。しかし日銀(中央銀行)が,国債を買うというのは財政規律の上でいわば「禁じ手」である。「朝日新聞」2016年07月08日「3銀行、長プラ過去最低に」mp未お出しのもと次のように報道した。
 「みずほ、新生、あおぞらの3銀行は7日、企業向け貸出金利の指標となる長期プライムレート(優遇貸出金利)を8日から0.05%幅引き下げ過去最低となる年0.90%にすると発表した。英国の欧州連合(EU)離脱決定などを受けて国債金利が低下したため。引き下げは日本銀行がマイナス金利を導入した後の3月以来で今年3回目。」



(041)シンジケート・ローン
international syndicate loan
複数の金融機関が協調融資団(シンジケート)を組成し,協調して行う融資のこと。複数の銀行が参加することにより危険分散が図れると同時に,巨額の資金でも効率よく調達できるため,1970年代にユーロ市場で発達したもので,プロジェクト・ファイナンスなど各国政府・公共機関,大企業向けの巨額の融資に使われている。有斐閣『経済辞典』の項目より=推薦図書コンパクト
(042) ロール・オーバー
roll over
短期資金の回転調達。短期調達資金の期日に同額の借換えを繰り返し,長期資金調達と同様な効果を得ること。調達資金がぐるぐる回転していることからいう。短期ユーロノートの償還のつどの同額発行の繰返し,邦銀の長期運用資金の短期借入の転がしによる調達,シンジケート・ローンの資金調達などがその例。有斐閣『経済辞典』の項目より