浅羽通明『野望としての教養』(時事通信社)
稲葉振一郎
『論座』2000年11月号

 浅羽氏の前著『大学で何を学ぶか』(幻冬舎)は、大学生及びその予備軍のための真摯なノウハウ本にして、政策論にも資するところ大の卓抜な大学論として、既にその評価が確立しており、もちろん筆者も多大な教示を得た。その続編ともいうべき本書は大学での「社会史」なるタイトルの下での講義を基にしており、同一のテーマがより歴史的な展望の下で展開されている。
 さて、浅羽氏の指摘を待つまでもなく、現代日本の(ことに人文社会科学系の)大学教育は大いなる虚妄の上に成り立っている。大学インサイダーの視点から、やや勝手にまとめさせてもらおう。
 90年代前半には多くの大学で教養教育がリストラされ、専門教育重視のカリキュラムへの移行が行われた。しかしこの「改革」によって「一般教養」というお荷物を切り捨てた大学が、専門化した学術研究・教育機関になれたというわけではない。結論から言えばこの新しい「専門教育」は、二重の意味で歪められ薄められた「教養教育」に他ならなかったのである。
 役に立たない「一般教養」を捨てて役に立つ「専門教育」に力を注ぐ、というかけ声はしばしば聞かれたが、大多数の学生たちにとって、大学での「専門教育」に、卒業後の職業生活にとっての訓練や準備としての意味はほとんどない。かつての「一般教養」を役立たず呼ばわりするなら、その刃はすぐさま学部の「専門教育」にも跳ね返ってくる。
 それでは研究者や専門職を目指す、つまり「専門教育」を職業訓練として必要とする少数派の学生たちにとってはどうなのか? 従来の大学教育の建前では、学生は学部課程を終了した時点で学問の基本的な体系を修得済みということになり、大学院入学の時点でその立場は知識の消費者・受け手のそれから、まだ「見習い」としてではあれ、知識の生産者・送り手のそれへと変わる。しかし学術研究の専門分化は、4年間の学部課程では学生をこの「知識生産者見習い」のレベルにまで訓練するにはとうてい足りない、という段階にまで行き着いてしまった。4年間の学部課程全体が、本当の意味の「専門教育」にとっての準備に過ぎない「教養教育」の場とならざるをえなくなったのだ。
 現在旧帝国大学を中心に一部エリート大学で「大学院重点化」が進められ、中堅大学でも「高度職業人養成型大学院」がブームになっているのも、所詮は同じことである。大学は今なお「専門教育」の見果てぬ夢を追いかけ、「教養教育」から逃げ続けているのだ。しかしその将来は決して明るいものではない。重点化されたエリート大学院は大量のオーバードクターを生み出すだけだし、職業人型大学院の卒業生たちにしても、日本のビジネス界にその受け皿が十分に整っているとは言えない。
 だとすれば、日本の大学、大学人が破局を避けてうまく生き延びようと望むなら「教養教育」から逃げるのではなく、逆に正面からそれに立ち向かう他はないだろう。単なる「専門教育」への準備段階ではない「教養教育」、「素人が玄人になろうとするための」ではなく「ずぶの素人が筋金入りの素人になろうとするための」(野矢茂樹『論理学』東大出版会「はじめに」より)「教養教育」の構築という課題に。
 浅羽氏が本書で開陳する「教養」への「野望」、普通の人々の生の必需品としての、「世界観」としての「教養」の再建という課題は、以上の筆者の認識と重なり合うところ大である。(というより筆者のこの考え自体が、まさに浅羽氏のこれまでの仕事から学んで紡がれたものでもある。)しかしながら本書を読んでかすかな違和感を感じるところがないでもない。浅羽氏も本書で高学歴バブルの崩壊による「大学のハルマゲドン」を予告しているが、では昨今の「大学改革」をどう評価しておられるのだろうか? もちろん「企業のリストラについても、(中略)体質の改革よりも、皆で横並びの貧乏を選んだんですよ、日本のサラリーマン「世間」は。大学なんてのも「世間」ですから、同様でしょうね。」(496頁)と見切る著者の醒め具合は見事であり、大学改革のアジテーターたちとは一線を画している。しかしこの記述では、「もしそれが可能ならやらないよりまし」程度には「大学改革」を評価しているようにも見える。しかし上述の通り筆者の見るところ、まさにこの「大学改革」ブームこそ、破綻を先送りにして「教養」の再建への障害となるバブル的延命策に他ならない。
 もちろん浅羽氏は、「大学のハルマゲドン」を大学や大学人、知識人が生き延びるために「教養」再建を、とアジっているわけではないが、大学人の端くれとしてはそう読んでしまわざるをえない。このままではハルマゲドンに行き着きかねない、あるいはハルマゲドンなしには克服できないような頽廃がこの国の大学とその周辺が覆っていることも確かだろう。しかしハルマゲドンの恐怖、脅しをもって大学人、知識人に「悔い改めよ」とアジっるのみでは、「大学改革」同様のバブルをあおるだけの結果に終わるだろう。
 みなもと太郎のマンガ『風雲児たち』の描く江戸時代、開国と維新の知的準備をしてきた「無用の人」たちの知が、また今野敏の小説『慎治』でいじめられた少年を立ち直らせるオタク道がそうであるような「教養」はたしかに存在する。それは浅羽氏が紹介するとおりだ。しかしそれへの「野望」をいかにして育てるのか。たまたま胸に兆したこの「野望」をいかに育てるのか。この課題はなお残ったままである。

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