2000年6月

6月29日(30日修正)

 ハンス・ヨナス『責任という倫理 科学技術文明のための倫理学の試み』加藤尚武監訳、東信堂)は、科学技術倫理、環境倫理を「世代間倫理」、将来世代に対する責任の問題として定式化した、あるいは「責任」の問題の基本型をこの「将来世代に対する責任」に求めたことで知られている。監訳者の科学技術・環境倫理に関するここしばらくの発言の「ネタ本」であることは、ご本人が認めておられるとおりである。(「訳者あとがき」、加藤『環境倫理学のすすめ』丸善ライブラリー、他。)
 世代間関係、親子関係を基本に据えた倫理学というのは、たしかに意外と少ない。この意味でも、また同じく亡命ユダヤ人哲学者であるという点からも、エマニュエル・レヴィナスと並べて読まれると興味深い存在であろう。更にハンナ・アーレントの終生の友人、ともにハイデガーに学び、アメリカに亡命している点も興味深い。

 アマルティア・セン『自由と経済開発』(石塚雅彦訳、日本経済新聞社)はノーベル賞受賞に先立って世界銀行で行われた連続講義の記録であり、公理的社会的選択理論からエンタイトルメント論やケイパビリティー論まで、センの全貌を初めて1冊で通覧できるお徳用の1冊。

 佐藤俊樹『不平等社会日本 さよなら総中流』(中公新書)は、SSMを踏まえたシャープな分析と大胆な提言。村上泰亮「新中間大衆」論のどこが間違っていたのかについての的確な指摘と、「機会の平等」概念の検討は必読である。

6月8日

 福田和也『作家の値うち』(飛鳥新社)、個々の作品への評価はともあれ、企画自体はすぐれたものだし、その志と腕力は買わねばならない。何しろほめるだけ、あるいはけなすだけの書評ではなく、「価値」「常識」の再建を目指す包括的、網羅的なブックガイドを作ろうというのだから、逆に取り上げる作品の取捨選択について、とりわけ取り上げないものについては邪推が横行することもあろう。(たとえば私自身、瀬名秀明と酒見賢一が取り上げられないのはなぜか、不思議に思っている。)そういう意味でもしんどい作業である。
 私自身はここでの選択基準は売れ行き、世間的な評判と福田氏自身の評価軸、であると思う。世間的に売れて話題になっている本、作家であれば、福田氏自身の尺度においては著しく低い場合でも取り上げる対象となっている、ということであろう。しかし、だとすれば瀬名秀明や酒見賢一が取り上げられないというのは個人的には解せない。福田氏の眼から見て彼らの作品が下らない、程度が低い、ということは十分にありうるし了解できる。しかし世間相場に鑑みて鈴木光司をわざわざ取り上げておいてこの二人を無視するというのはおかしい気もする。(梅原克之はどうか?)
 ここに邪推の入り込む余地がある。つまり福田氏の分類枠の中には、「下らないし大して売れてもいない作品」(とりあげない)と「下らないが結構売れて評価されている作品」(とりあげる)の隙間に「下らないが結構売れて評価されているので本当は取り上げなければならないが取り上げたくない作品」なるカテゴリーがあるのではないか、と。
 ただこの手の邪推は生産的な場合もあればそうではない場合がある。私自身はニューアカというか日本におけるポストモダンブームの悪しき副産物としてはアラン・ソーカル&ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞』(田崎晴明、大野克嗣訳、岩波書店)が指摘するような現象以外にこの「脱構築ごっこ」ともいうべき邪推ゲームの流行を挙げるべきではないかと思っている。私としては単純に、福田氏の気力体力知力が瀬名や酒見を取り上げるところまで及ばなかったのだ、と思うことにしている。
 それよりも気にかかるのは、本書の「コラム3 「動機の不在」と「幼時のトラウマ」」である。引用しよう。

「近年の大作エンターテインメントを読むたびに痛感せざるをえないのが、歴然とした「動機の不在」である。(中略)
 動機の不在にたいして猖獗をきわめているのが「幼時のトラウマ」という構図である。(中略)
 こうした状況を眺めていると、現在の日本人にとって肝心なこと、本質的なことは子供時代にしかないかの如くである。それをさらに敷衍すれば、成人してからの各人のみずからの意志と責任による行動ではなく、子供時代というみずから選ぶことのできない境遇や条件において、すべてが決まっているという人生観が伏在していることになる。これをさらに突き詰めれば、人間にはほとんど自分でなせることはない、という無力感の現れであると同時に、自分がこのような存在であるのは親や環境の責任なのだという責任回避の論理でもあるだろう。(中略)
 かつて松本清張が「動機の解明」をそのミステリー作品の主眼に置いたときに、人々はいまだに人が社会や条件と格闘しえるということを信じていた。その信頼があったゆえに清張作品は、社会の不正にたいする告発たりえていたのである。今日のミステリーは――桐野夏生ら一部を除いて――、闘いよりもむしろ諦めのための歌のように聞こえる。」(69頁)

 思えば私の『エヴァンゲリオン』論の筆を止めさせたのも、このような何とも言えない嫌な気分であった。「碇シンジ=アダルトチャイルド」の等式によって物語のすべてを個人の内面におけるダイナミクスへと回収していく読解、それはまたテレビ放映時終盤の製作者たち自身のとったそれでもあったが、そうした戦略へのどうしようもないいらだちが、私に『エヴァンゲリオン』論の筆を取らせた理由であり、少なからぬ「補完小説」の書き手たちにとっての理由であったに違いない。そして私はネット上で「碇シンジ=被虐待児」の図式によって『エヴァンゲリオン』を読み解く論者に出会い、協同作業を試みた。「児童虐待」という図式によって『エヴァンゲリオン』を読み解くことは、テレビ放映版的な内閉を突破するためのもっとも効率のよい方略のように思われたからだ。
 しかし「アダルトチルドレン」ブームは当然のように「児童虐待」ブームに転化した。(「アダルトチルドレン」の原因は「児童虐待」にあるのだから。)そして『エヴァンゲリオン』に対する「児童虐待」という解読図式もまたすぐさま今ひとつの内閉の様式へと頽落した。
 碇シンジの苦境の責任は碇シンジにはない。しかしその責任を本来負っているはずの大人たちは碇シンジのために何もしてはくれない。では碇シンジはどうすべきなのか――これが私の理解する『エヴァンゲリオン』の基本構図である。これに対してテレビ版の出した答えが、碇シンジ本人への責任の押しつけである。では、そこに穴をあけるべく、正しく大人の責任を追及するために「児童虐待」の図式を当てはめてみたとしよう。正しい診断は下されたとして、では今度は治療、そこからの回復の戦略はどうなる? どのみち責任者たる大人たちは責任なんかとってはくれないのだ。しかしこの回復への戦略を具体的に示せない限り、碇シンジの自罰化はほぼ必然なのである。
 最近読み始めたトラウマ、PTSDについての基本図書、ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復(増補版)』中井久夫訳、みすず書房)の中に、このパズルを解いていく手がかりがあるかもしれない。「理解しようとはせずにただ盲目的に受容するという態度」も一見それと反対の「手厳しい批評的な態度」と同様に、トラウマに苦しむサバイバーをむしろ追いつめるのだ、という指摘は、厚い雲をわずかながら払ってくれたような気がする。


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