2000年7月

7月22日

 かの巨匠西原理恵子の「師匠」銀玉親方山ちゃんこと山崎一夫氏も絶賛の、日本でギャンブルを科学的に語らせたら右に出るものなし、当代一のギャンブラー社会学者谷岡一郎『「社会調査」のウソ リサーチ・リテラシーのすすめ』(文春新書)は、前著『ツキの法則』(PHP新書)に続いてまたしても全国民必読の好著である。前著は確率論と心理学を踏まえ、「必勝法」の嘘を抉り、ギャンブルとの正しい(勝てないけど安全で楽しい)付き合い方を指南するものだったが、今回は新聞・官公庁・腐れシンクタンク・無能な学者たちのせいでちまたに氾濫するいい加減な「調査」の山に騙されないための「リサーチ・リテラシー」を説く。もちろん、大学での社会調査・統計調査の授業の教科書・副読本としても使える。
 それにしても「社会調査」の教科書って、アンケート調査や既存の公的統計データベースを使った大量観察の統計解析を扱ったものばっかりで、現場を訪問してのインタビューや実地観察に基づいたインテンシヴな事例調査の教科書って、ほとんどないですねえ。企業調査を念頭に置いた小池和男『聞きとりの作法』(東洋経済新報社)くらい。結局いまもって徒弟修行の世界なんだろうか。でもこんなことじゃあ、「調査」ってアンケートのことだとみんな勘違いするんじゃないかと心配になるですよ。

 さてついに出た『山尾悠子作品集成』(国書刊行会)だが、1985年の活動休止前の既発表小説作品のほとんどと、唯一の長編『仮面物語』の原型である未発表中編「ゴーレム」を収録している。収録作の大半は単行本未収録であり、ことに未完の連作長編「破壊王」や80年代の掌編が読めるのはありがたい。ことに掌編「繭」(初出は『夢の棲む街/遠近法』)が「破壊王」連作の中に位置づけられているという事実は、連作全体の未完の理由と合わせて、今回初めて明らかにされたものである。
 ただ『オットーと魔術師』初出の「初夏ものがたり」が落とされたことは惜しい。これは作家山尾悠子のもう一つの引き出しになりえた「通俗的」作品である。たしかに山尾悠子は、どちらかと言うと読者を選ぶタイプの作家であり、少数の読者に熱烈に愛される作品をこそ得意とするであろう。しかしジュニア小説、ヤングアダルトという枠の中で書かれた「初夏ものがたり」はより広い読者に受容されうる通俗性と同時に、「山尾悠子」ならではの余人を以て代え難い味わいを確実にそなえていた。
 さて、700頁を超える大冊である上に、見事な造本で値段もそれなりの本書だが、それでも買ってしまうのがファンというものである。よって見事に重版決定。(このペースからすれば、もうちょっと強気の売り上げ見込みで単価を引き下げられたとは思うのだが、これも所詮は後知恵、版元もリスク背負っての仕事だから、あまりとやかく言うまい。)関連情報はたとえばここを見よ。
 挿入の「栞」の中で瞠目すべきは何と言っても佐藤亜紀の一文。他の寄稿者が無邪気なファン心理をむき出しにただただはしゃいでいる(しかしもちろんそれは決して不快ではない)中で、その怜悧さはひときわ目立つ。しかしその佐藤氏をして結局最後には手放しの礼賛を書かせてしまうあたり、山尾悠子という作家の異例さが更に強く印象づけられる。
 山尾氏へのインタビューを元にした長文の石堂藍「解題」も労作である。第一世代のSF作家に通じるところのある、主流文学へのルサンチマンがときおりむき出しになるのがご愛敬である(なお、このルサンチマンの度合が高かった人ほど、作家としてその後ろくな運命をたどっていないというのは私見である。たとえば荒巻義雄とか平井和正とか――でも最近平井氏は持ち直しているかもしれない。相変わらず怪しい宗教に狂っているようだが、小説は心なしか軽やかになってきている)が、山尾氏の肉声を伝えてくれるのはありがたい。そこから浮かび上がってくるのは何というか「ごく普通の、どこにでもいる女子大生」、そしておそらく現在は「ごく普通の、どこにでもいるおばさん」の姿である。異様に研ぎ澄まされた、華々しい「天才」の姿をそこに見出すことはできない。そしてそれこそが素晴らしいことなのである。山尾悠子の作品は、一瞬の直観やイマジネーションよりも、むしろ入念に時間をかけた地道な手作業によってこそなりたっているのだ。
 かつて岩明均がある雑誌のインタビューで『寄生獣』着想の舞台裏を語っていたことがあるが、それが恐ろしいことに徹底的に理詰めなのである。当時多くの読者はあの作品におけるパラサイトの造形から、たとえばエッシャーとかを勝手に連想していたものだが、とにかく作家の視覚的イマジネーションを「天才」として賛美していたものだった。しかし岩明氏自身が語った種明かしは徹底的に散文的で即物的だった。すなわち、あの程度(人間の頭程度)の質量しか持たないパラサイトに強烈な殺傷能力を備えさせるためにはどうしたらよいか考えた末に、あの奇天烈な造形が生まれたのだという。多くの場合、直観やイマジネーションによる飛躍などより、論理の積み重ねこそが、結果的にははるかに遠く、思いも及ばないところにまで連れていってくれることを、ここで岩明氏はわれわれに教えてくれている。
 そしておそらくは、山尾悠子の「幻想世界」もまた、そのような質のものなのである。


インタラクティヴ読書ノート・別館

インタラクティヴ読書ノート・本館

ホームページへ戻る