2000年12月

12月20日

 広田照幸『教育言説の歴史社会学』(名古屋大学出版会)、「教育」「子ども」が「問題」としてフレームアップされ、みんなが浮き足立つ中、「落ち着け」と呼びかける。広い意味での社会構築主義的アプローチが用いられているが、その「特有の限界」=「問題やカテゴリーの構築の「過程」を説明するものではあっても、当のそれが構築されていった「原因」を説明する上では決定的に弱いということ」も鋭く指摘されている。たしかに、社会的に構築された問題枠組みの中での「原因」探しゲームを批判することは、その問題自体の構築の「原因」を探すことと矛盾することはないはずだ。個別的な論点としては、「少年犯罪凶悪化」を巡る前田雅英『少年犯罪』(東京大学出版会)との論争や、児童虐待に対して「心のケア」より福祉・労働政策重視で対応することの主張などが興味深い。
 児童虐待と言えば古典であるジュディス・L・ハーマン『父−娘 近親姦 「家族」の闇を照らす』(斎藤学訳・解説、誠信書房)が翻訳刊行。「補遺 あれからの二十年」でのエリザベス・ロフタスらの「捏造された記憶」論などへの落ち着いて断固とした反批判(「偽りの訴えがおきる確率は2〜7%であるという」)が印象深い。しかし訳者の斎藤氏らの最近の振る舞いはともすれば広田氏が批判している(そしてロフタスらにつけこまれるような)「煽り」になってはいないか? と少し心配。

 前田雅英『刑法入門講義』(成文堂)は講演を元にしたわかりやすい入門書である。氏の独自の立場としての「実質的犯罪・刑罰論」(伝統的刑法学のごとく、国家の暴力装置としての刑事司法の暴走を警戒し統制することよりも、刑事司法の積極的意義を基本的に肯定し、社会内の害悪としての犯罪をいかに統制するかを重視する)の解説としても便利だ。ただし、刑法学の枠組みで言えば本書のカバーする範囲は「刑法総論」であって「刑法各論」はない。その辺のおことわりがないぞ。その辺からも伺えるように、どっちかというとずぶの法律素人よりも法律初学者を主たる読者として念頭に置いていて(実際、講演の主な聴衆も法学部生や司法・法律実務関係者だったようだ)、「平野先生」「藤木先生」と注釈なしでその筋の大先生の名前がぽんぽん出てくるのは内輪受けな感じでいただけない。内田氏の本を読んだときにも感じたのだが、論文中でいちいち「××教授」と表記するのは実定法学者の慣習なのだろうか? 

12月19日

 古本屋の店頭で偶然見つけたヴィスワヴァ・シンボルスカ『終わりと始まり』(沼野充義訳・解説、未知谷)にすっかりはまる。何と言うことはなく平明だが、その激しい平静さにどうにもひきつけられてやまない。1996年ノーベル文学賞受賞とのことだが、不明にして知らなかった。とりあえず田口雅弘氏のページにおける紹介と、ノーベル賞eミュージアムの記事をリンクしておく。eミュージアムの詩、ことにUtopiaPossibilities(ともに邦訳があるはず)を参照されたい。これらは受賞記念講演で彼女が強調する「「私は知らない」と言い続けること」の端的な実践である。「でも私は分からないし、分からないということにつかまっている 分からないということが命綱であるかのように」(「詩の好きな人もいる」)。『橋の上の人たち』(工藤幸雄訳、書肆山田)、『シンボルスカ詩集』(つかだみちこ訳、土曜美術社出版販売)などほかにも邦訳があるはずなので、チェックせねば。

 田中圭一『百姓の江戸時代』(ちくま新書)、思想史ではなく、政治史・社会経済史のレベルで日本固有の近代として江戸を見直そうという試みの一つで、とても面白そうだ。さまざまな「禁令」(倹約令とか)をストレートな「政策」ではなく、現状に対する悲鳴のごときものとしてとらえろ、といった指摘はたしかにうなずける。ただ通説批判するときにはもっと具体的な文献名をあげてほしい。まあたしかに永原慶二とか佐々木潤之介とかいったビッグネームの名は上がっているが、多くの場合ストレートな引用ではなく「こんな風に書かれている」というやり方でされているのはひっかかる。

 貞本義行『新世紀エヴァンゲリオン 6』(角川書店)、ゆっくりと着実に、もう一つの物語は紡がれ続けている。どのような終わりにたどり着くのだろうか。

12月1日

 内田貴『契約の時代 日本社会と契約法』(岩波書店)は期待に違わぬ好著である。同じ著者による10年前の『契約の再生』(弘文堂)は、「契約の死」――主として「意思説」に立脚した古典的契約モデルの機能不全――と新動向としての関係的契約理論をめぐる英米の研究動向をよく紹介してくれる勉強ノートという趣が強かったが、今回の著作は近年の規制緩和やグローバリゼーションの動向をも踏まえ、オリジナルな内田バージョンの関係的契約理論――実証社会科学的知見を十分に踏まえつつも決して法社会学ではなく、あくまでも解釈論としての――が積極的に展開され、現代日本の法状況のなかでその切れ味が試されていく。第6章での借地借家法・定期借家権をめぐる議論など、管見の限りではいまいち迫力を欠くものが多い反規制緩和論・慎重論のなかでは明晰さと説得力で飛び抜けているように思う。また第7章で紹介されている契約法の国際化の話題については、私は不勉強にして今回が初耳であり、大変勉強になった。本HPの読者も「UNCITRAL(アンシトラル)」とか「UNIDROIT(ユニドロワ)」とか見たことも聞いたこともない、という方が大半であろうから、ぜひご一読をお勧めする。ある程度の社会科学的素養があれば、あるいはビジネスの現場でいろいろ考えることがあるような人ならば、実定法学の勉強をあまりきちんとしてこなかったとしても読みこなせるだろう。また各種試験必携の内田『民法 T・U・V』(東京大学出版会)しか知らないという受験生の君、君は大勘違いプラス大損している。息抜きにこれを読みなさい。
 ところで読んでいて印象深かった今ひとつのポイントは、今更ながらではあるが実証社会科学的、あるいは政策志向の立場からの法律観と法解釈学的、あるいは司法の立場からの法律観の食い違いであった。この辺のギャップを埋めようとする努力はもちろん多々なされていて、たとえば「法と経済学」「法と社会(この分野が従来の法社会学とどう違うのかいまいちピンとこない――「法社会学」が主に「法現象・領域への社会学的アプローチ」であるのに対して「法と社会」は「法現象・領域とそれ以外の社会現象・領域の相互作用の分析」といったところか?)」とかいった新領域が既に確立しているのだが、どちらかというと前者からの後者への越境、挑戦といった趣が強い。(同様のことは会計学における社会科学的アプローチ――アメリカにおける新古典派経済学的会計学とか、イギリスを中心とする社会学的会計学とかラディカル会計学とか――についても言えるのでは。)これに対して本書などは、逆の方向を目指しているめざましい例と言えるのではないか。
 著者の議論は私にはこう解釈できる。すなわち、政策志向の観点からは法は人や社会の振る舞いを事前的にコントロールする行為規範と見なされ、もっぱらその観点から評価されがちである。たとえば損害賠償や刑罰といった制度は、不法行為や犯罪を防止・抑止する機能において評価されるわけである。(私も拙著でそのようにアプローチした。)しかし司法的な観点にとっては法は主に裁判規範である。つまり紛争が現実に発生してしまったその後始末をする事後的な機能が重視されているのである。このリスク管理の二つの次元、あるいは政策・法を評価する二つの次元は、互いに還元できない関係にあるのではないだろうか。たとえば労働災害や製造物責任における無過失責任とか、あるいはそもそも過失責任まで含めて損害賠償のための保険というものが現に成立していることの意味をどう評価するのか? (後者はまさにP・S・アティヤ『法の迷走・損害賠償』(望月礼二郎訳、木鐸社)のテーマである。)たとえばモラル・ハザード論は、保険は保険加入者の油断を呼び込み、事故発生率を上げてしまうという危険を指摘し、この観点から公的保険への批判がなされたりもするが、この論法で賠償責任保険の批判をする論者を寡聞にして知らない。この辺は一体どうなっているのだろう?
 それはさておき、第6章で著者は以下のように書いている。

「経済合理的な理由もなく立ち退きを迫る家主はいないはずだ、という議論がなされることがあるが、紛争の現実を知らないというほかない。借家法1条の2(更新拒絶や解約申し入れに「正当事由」を必要とするとした――引用者)自体、相当悪質な事例が目立って、立法に踏み切ったという事情がある。(中略)もちろん、そのような悪質な事例は現実には例外的事象であろう。しかし、例外現象こそが訴訟になり判決にまで至ることが多いのであり、事後的紛争解決の観点からは、まさにそのような病理的現象でこそ機能する規範が求められるのである。」(230-231頁)

 犯罪学(社会科学的犯罪学であって、解釈法学としての刑法学ではない)のトラヴィス・ハーシの理論に対しても似たような解釈ができる。以前紹介したマイケル・ゴットフレッドソン&ハーシ『犯罪の基礎理論』(松本忠久訳、文憲堂)では「法と経済学」流の「犯罪の経済分析」が以下のように批判されている。すなわち、経済学的人間観(人間は自己の利益を最大化しようとする)は基本的には誤りではないだろうが、犯罪を分析しようとする経済学者は往々にして犯罪行動・犯罪性の本質を見誤っている。経済学者は犯罪をも一種の仕事、合理的になされるビジネスの一種と解釈してモデルを作り、その観点から刑罰の犯罪抑止効果などについて語るが、そもそも犯罪行動・犯罪性の本質はその短絡性・近視眼性に、犯罪者の特長はその自己統制の低さにこそある。犯罪行動はそもそも(普通の意味で、たとえば長期的に)合理的な選択ではない。それ故にたとえば厳罰主義の犯罪防止効果はきわめて疑わしい……と。
 ハーシはここから政策的な犯罪防止論を展開するが、残念ながら事後的な刑罰の機能・意義についてはあまり語ってくれていない。おそらくここには空白があり、この空白を埋めようとしているのが近年の被害者救済と被害者学への関心の高まりであろうが、多くは今後の課題として残されている。いずれにせよ法の二重の機能というか二つの顔の問題は、社会科学全般にとっての重要テーマである。


インタラクティヴ読書ノート・別館

インタラクティヴ読書ノート・本館

ホームページへ戻る