2001年1月

1月25日

 澤口俊之『幼児教育と脳』(文春新書)もトンデモ本だとある心理学者が太鼓判を押していた。「アマラとカマラ」の挿話は今時本気にしている専門家はいないんだそうだ。立ち読みなので確認は追ってします。
 もちろん「電車のなかで化粧する恥知らずは脳機能に欠陥がある!」という主張自体は、事実として正しい可能性はあるにしても、それとしてぽーんと出されたら笑うしかない。
 ちなみに私としては、他人に迷惑をかけていなければ、車内で化粧してはいけない理由をあまり思いつかない。車内でおむつ変えてはいけない理由もだ。私の脳には欠陥があるんでしょうか。
 他にもたとえば、人前でキスするくらい、当たり前の風俗になっている社会はいくらでもある。オーストラリア人はみんな脳に欠陥があるんでしょうか。(やっぱりあれですね、車内にラジカセ持ち込んで好きな曲かけるバスの運転手は、もちろんあるんでしょうね。ちなみにオーストラリアでは混んでさえいなければ電車のなかに乳母車も自転車も犬も持ち込みオーケーだった。)そこまで言いきる度胸があるならそれはそれでとても偉いと思うが。
 とにかく「すわ脳に欠陥!」以外にも可能な解釈はいくらでもあるから、そのありうべき対立仮説をまともに反駁することもしないで頭から結論を出す澤口氏のやり方は、たとえその結論が正しかったところで正当化できない。
 澤口「戸塚ヨットは正しい」論の中核にあるのはネオテニー論である。それ自体はそれなりに成り立ちうる議論だと思うのだが、第一に疑わしいのは「ネオテニーの度合いには人種間で差がある」という主張。例の南伸坊との対談本にはしかし、その主張の典拠は見あたらない。でも普通の人だったら、脳の権威たる澤口氏を信用して、「ああこれはきちんと検証済みの定説なんだな」と受け入れちゃうだろう。
 でもこういう重大なことについて人種間で有意な差があるなら、当然に、人種間で知能とか性格とかに有意味な差があるだろう、という推測が成り立つ。そういうところまで澤口氏は引き受けるつもりなんだろうか? ハーンスタイン&マレーとかバートとかアイゼンクとかラシュトンとかの仲間になって、世界中から人種主義者呼ばわりされる覚悟があるのか? 
 ちなみにラシュトン(『人種・進化・行動』)によれば、人種間の分離はどのような順序で生じたかというと、まずネグロイドが分かれ、続いてコーカソイド、最後にモンゴロイド、という順序になる。ラシュトンは、この順序にしたがって、あとの方に行くほど知能が高くなる、と指摘する。とは言っても「あとから来た奴ほど知能が高い」という進化論を毛ほども分かってないバカしか言わないような素朴な話をしているつもりではないらしい。ラシュトンによれば、知能の差異の背後には、繁殖戦略の違いがあるという。知能が高いのはウィルソン流に言うK戦略――少なく生んでしっかり育てるという奴――のゆえなんだそうだ。まあその限りではもっともらしいが、じゃあこの順序、「あとから来た奴ほど子沢山」になってますか? 
 更に言えば、まあ仮に人種間に有意な差があったとしたらどうなるんだろう。たとえば「ネオテニー度が違う人種は、その限りで互いに別の生き物である」と言ってもよさそうな気がする。何でそこまで突き進まないんだろう。「ネオテニー度が低い人種は、ネオテニー度が低い人種に比べて、教育が余分に必要だ」という主張は、教育の必要性の相場、規準をネオテニー度が高い人種に置いていることになる。つまり、ネオテニー度が低い人種の方が「正常」で、高い人種は「異常」ってことになる。でもなぜそっちの相場が規準になるんだろう。なぜ逆ではいけないんだろう。低い方が高い方に合わせてくれたっていいじゃないか。あるいはいっそお互いに別々の規準を持った別々の生き物としてお付き合いする、ではなぜいけないんだろう。その方がよほどすっきりするだろうに。だって別の生き物だというのなら、どっちが正常でどっちが異常だとかいう愚劣な議論の出番はない。進化は道徳とは関係ないし、そもそもどんな序列とも関係がないのだ。
 個人的には私は澤口氏とは同じ生き物でなくても別に構わない。学べるところだけ学ばせていただきますから、あなたの勝手な規準を私にはめに来ないでくれ。
 それから長谷川夫妻でも佐倉統氏でもいい、進化的人間学の必要を説いてやまぬその筋の方々、なんでいい加減澤口氏を叩かないんだ。ドーキンスやデネットなら黙っていないぞ。一体どういうつもりだ。私は澤口氏と同じくらいあなたたちにもムカついている。

 スラヴォイ・ジジェクの主著『イデオロギーの崇高な対象』(鈴木晶訳、河出書房新社)がようやく出る。私もご多分に漏れず「よくわかるラカン」を求めてジジェクの翻訳書いくつかに手を出したが、中途で挫折してばかりいた。ところが本書はよくわかるというかいちいち腑に落ちる。ペーター・スローターダイク『シニカル理性批判』(ミネルヴァ書房)を承けて、現代におけるイデオロギーの、シニシズムを通じての貫徹(だれもヒトラーのいうことを本気にせず、真に受けていなかったにもかかわらず、というよりそれ故にこそヒトラーを支持してしまったか阻止できなかった)のメカニズムについてきちんと分析を展開している。しかし、だ……依然としてわからないことがある。あんたの分析手法ってそもそも本当にラカン主義なの? ラカンなしにはできないことなの? 
 マルク・レザンジェ『ラカン現象』(青土社)なんかと読み合わせると、ラカン主義というのもまさにジジェクが解明の対象としているようなイデオロギーの一つ、というかその病理の典型例に見えてくる。それともラカンは、自らそのように振る舞うことによって、イデオロギー解明のための最大の手がかりになってくれてるというんでしょうか? いやこういう贔屓の引き倒しこそが……。

 武藤滋夫『ゲーム理論入門』(日経文庫)はコンパクトで目配りよい入門書である。中山幹夫『はじめてのゲーム理論』(有斐閣ブックス)同様、経済学畑のゲーム理論書では無視されがちな協力ゲームが取り扱われている上に、進化ゲーム、学習ゲームにまで筆がおよんでいて、練習問題までついている。来年のゼミのテキストはこれにしようかしら。

1月16日

 ラルフ・ダーレンドルフ『現代の社会紛争』(加藤秀治郎/檜山雅人訳、世界思想社)を買う。LSEの学長をしていたことは知ってたが、その後オックスフォードの学寮長をして、現在はイギリス上院議員になってたとはしらなんだよ。昔は西ドイツ連邦議員だったというし。それはさておき、前書きで著者自身が現代社会論の古典『産業社会における階級および階級闘争』(富永健一訳、ダイヤモンド社)の続編に当たるというようなことを言っている以上、買わないわけにはいかんでしょう。とは言っても今時の日本の若い社会学徒でこれ読んでる人はそんなにいるまいなあ。俺もモナシュの古本屋で英語版を10オーストラリアドルで買って積ん読だ。神保町の某古本屋に非常識な値段でもう何年も店晒しになってるけど、ホブズボーム『市民革命と産業革命』(常識的な値段で美本があったので買った)同様、どっかの本屋が文庫なりライブラリーなりで復刊しないもんかね。
 ウルリッヒ・ベック『危険社会』(法政大学出版局)も手配する。社会学部に転職するからには、今風の社会学をしこんどかないと。
 あわせて澤口俊之『知性の脳構造と進化』(海鳴社)も買う。最近ブライアン・スキナーばりに危ない(意味の分からない人はダニエル・デネット『ダーウィンの危険な思想』(山口泰司監訳、青土社)の17章あたりを読んでみよう)発言が多く「すわ第二の竹内久美子か?」「いやなまじちゃんとした業績がある第一線の学者だけによけい始末に悪い」と話題のお方の最初の本で、これは掛け値なしの名著だそうな。最近は他にもテレンス・ディーコン『ヒトはいかにして人となったか 言語と脳の共進化』(金子隆芳訳、新曜社)とかスティーヴン・ミズン『心の先史時代』(松浦俊輔訳、青土社)とか、脳進化の話を泥縄で追っかけています。

 研究室の引っ越しの準備をゆるゆると始める。ちょっと狭くなるようだから大変だ。


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