2001年2月

2月23日

 忙しいので代用原稿。

 明治学院大学社会学部社会学科編『社会学とはどのような学問か』2001年度版用原稿

稲葉振一郎 助教授

(1)社会学とはどのような学問とお考えですか。

 高校時代、「「社会学」と名が付いているからには人間と社会の総体を問題にする気宇壮大な学問に違いない」と勝手に思いこんで某大学社会学部(ここではない)に入学したらば「社会学部」という名とは裏腹に実は社会学者が全然いないという事実(いまでは事情は根本的に変化したそうだが)にまず打ちのめされ、更に勝手に勉強している内に「名が身体を表すとは限らない」という当たり前のことに気が付いた。つまり「社会学は人間と社会の総体を問題にするべきである」とはよく言われるが、現実につねに「社会学は人間と社会の総体を問題にする」ことができているわけではない。それに政治学や経済学や法学だって「政治」や「経済」や「法」にしか目がいかないというわけではなく、少なくともその一級の仕事においてはたしかに「人間と社会の総体」が問題にされている。じゃあ社会学の存在意義って、一体なんだ? 
 というわけでいつしか社会学熱は冷め、ちょうど労働問題に関心を持っていたこともあって別の大学の経済学の大学院に進んだ。で、いろいろと勉強したあげく分かってきたのは、経済学はそれとしてとても立派で意義のある学問だが、悲しいかな自分には経済学も労働問題研究も向いていないらしい、ということだった。それでも経済と社会問題がらみの思想の歴史をネタに少し論文も書き、どうにかこうにか地方大学の経済学部に社会政策担当として就職できた。
 それがこうして大学は違うがまた社会学部に今度は教員として戻ってきた、と言うより今度こそほんまもんの(社会学者でいっぱいの)社会学部に(しかも倫理学担当で!)やってきたわけであるから、色々いきさつもあるのだが、それは省略。しかし実のところ未だに自分には「社会学」なる学問の意義がよく分かっていない。
 世の社会科学の多くは、世の中の制度と(言い方は悪いが)共犯関係にある。一番はっきりしているのは法学と会計学である。法律にかかわる仕事をする(法律家になる)ためには法学の勉強をしなければならず、会計の仕事をする(会計実務家になる)ためには会計学を学ばねばならない。法学や会計学にとって法律や会計という存在はただ単に客観的に観察する対象ではなく、よりよいものへと改良すべく操作する対象でもある。法学や会計学は法律や会計という仕組みを作り上げ、動かしていく現実の力の一部なのだ。
 この両者に比べればずっと弱いが、政治学や経済学、経営学、あるいは教育学、社会福祉学もまたそれぞれに、現実の政治や経済、企業や学校、ソーシャルワークを動かしていく現実の力である。しかしそのような大多数の社会科学に比べたとき、社会学にはそのような力が余りない。個人としてそのような力量を持つ社会学者は少なくないが、制度としての社会学は世間からそのような尊敬を受けていない。(余談ながら、そういう有力社会学者の多くは「政治社会学者」として政治学者なみの、あるいは「産業社会学者」として経営学者なみの待遇を受けているにすぎないように思われる。)
 なぜそのように社会学は無力なのか? これは難しい問題だ。無力であることイコール悪いこととも、弱点ともただちには言えないこともまた、話を面倒にする。なぜなら、いま言ったような意味で無力であるということは、つまりは世の中の既成の権力とか利害関係とか、要するにしがらみから自由に、批判的に振る舞うことが容易である、ということであり、それはたしかに学問としての強みでありうる。だがそのような自由はもちろん、無責任であることと裏腹の関係にもあるのではないか。

(2)先生が専攻されている、あるいはこの大学で学生に教えられている社会学とはどのような学問ですか。

 言っておくが、俺は「××社会学」ではなく、「社会倫理学」担当ということで雇ってもらっているのだ。そこんとこよろしく。で、「倫理学ethics」って一体何だ? 以前は「道徳哲学moral philosophy」と言い換えられることも多かったし、こういう言葉遣いがされていた時代(結構昔だ)はいまでいう社会科学のことをmoral scienceと呼んだりもしていたわけだから、「社会哲学social philosophy」と言い換えたって構わない。となると「社会倫理学」は「社会社会哲学」じゃないか! ……というわけで実はこの講義名はあまり気に入っていない。
 となると倫理学というのは「社会の哲学」というわけだ。で、「哲学」って何? と話は更に飛びそうだが、「こうこうこういうものだ」と説明するより実例を見ていただいて自分で判断していただいた方が早いので、とりあえず「読んでほしい本」を見てくれ。それから俺の講義ですね。
 とりあえずの入り口としてはこう考えてほしい。いまの(いまに限った話ではないかもしれないが)世の中、社会は、「人間とはこういうもんだ」という点に関しておおざっぱな共通了解をみんなが共有していて、それ故になんとか動いている。具体的に「こいつは人間かそれとも人間以外の何かか」といったことであれこれ悩むようなことは、普通に生活していればあんまりない。ところが、この共通了解は大体においては問題ないが細かいところをうるさく理詰めで検討していくといろいろ訳の分からないことになってくる。こういう細かいことを考えるのが倫理学の主な仕事だ、とまずはかんがえてくれて結構だ。
 最近倫理学が急に脚光を浴びている(知ってたかい?)理由は、こういう細かい問題についての詮索が、暇人の道楽(倫理学に限らず、哲学というのは本来そうだったらしい)では終わらず、割と実務的、政策的に重要なテーマになってきたからだ。わかりやすいところでは、先端医療とかバイオテクノロジーだ。たとえば古典的なところで「脳死は人の死か?」といった問い。「脳死者は生きている(=人間である)」のか、それとも「脳死者は死んでいる(=人間ではない)」のか? その判定を、どういう規準で下すのか? あるいは将来、自分で考えて判断し行動する能力を持ったロボットが登場したとき、我々はそれをどう扱うべきか? あくまでも「機械」としてか、それともかつて手塚治虫が描いたように「人」としてか? 
 しかし実は実際の講義は、もう少し地味な話から始まるんだ。すまんよ。

(3)1〜2年生で読んでほしい本
 社会学入門読書案内、は(他の人がきっとやってるだろうし)やらない。強いて言えば6、8番か。まあ「1〜2年」「3〜4年」とかいう括りがどだいアホらしいのであって、読みたいとき、読めるときに読みゃいいのだ。

1 橋本治『青空人生相談所』(ちくま文庫)
 「自分でものを考えるとはどういうことか」の入門書として好適。
 本書をゼミ選考のテキストとして用いた際、著者の主張への批判の論法として学生諸君が用いた切り口は、ほぼ例外なく、社会学、心理学、ケースワーク等の専門的知見の観点から、著者の議論の素人臭さを突く、というものであった。まだ自分は専門家でも何でもないにもかかわらず、というか、それゆえに、というか。
 しかし著者橋本氏の身の上相談は、専門家のひとりとして素人さんの代わりに困難な問題について考えてあげよう、というものでは全くない。言っておくが、専門家に相談したところで、専門家がやってくれるのはせいぜいが情報提供であって、最終的に何をするのかを決めるのは、素人自身なのだ。橋本氏はその事実を常に相談者の前に突きつける。
 専門家になる前に、筋金入りの素人にならねばならない。と言うより、そもそも何のために大学に行くのかというと、専門家になるために、ではなく、筋金入りの素人になるためなのだ、ということを覚えておこう。

2 浅羽通明『大学で何を学ぶか』(幻冬舎文庫)
 現代日本の大学(ことに文系)とはどのようなところなのか、を縦横に論じた名著である。特に、若者が大学に入ったらとたんに勉強しなくなるのは充分に理由が……ことによったら正当な理由があるということ、それどころか逆に大学では、真面目に勉強することこそが、一種の現実逃避以外の何ものでもなくなる場合もあるということを初めて喝破した。更に、それでもなお学問を学びたいという者は何を目指すべきか、についての指針『教養論ノート』(幻冬舎)が続編として書かれている。

3 永井均『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書)
 せっかくだから哲学入門を1冊だけ挙げておく。世間の雑音に惑わされず、あくまでも自分にとって(だけ?)大切な疑問を大事に大事に考えていったら、なぜかそれが世間で「哲学」と呼ばれるものとぶつかり、更にどういう訳か少なからぬ一般読者の共感を引き起こすことになった、それがこの著者である。極端に私的な(はずの)問題が、なぜか他人の理解と、あろう事か共感を呼び起こすということの不思議。あるいはそれはただの誤解なのだろうか? しかしそもそも「誤解」と「正解」を分かつものは何か? 同じ著者の『マンガは哲学する』(講談社)も挙げておこう。

4 ジャレド・ダイアモンド『人間はどこまでチンパンジーか?』(新曜社)
 どうも社会学というのは、というか社会科学全般は、人間というのは特別な生き物だと(また近代というのは特別な時代だと)思いたがるきらいがある。だが人間は生物学的に見ればチンパンジーのごく近い仲間というかその一種であるという事実もまた動かしようがない。更に言えば、環境破壊も大量殺戮も必ずしも人間の(そして当然に近代社会の!)専売特許というわけではないのだ! 進化生物学の観点から人類史を通観した好著。なぜユーラシア大陸発の文明がアメリカ・アフリカ・オセアニアを制圧したのか、を生態学的に検討した同じ著者の『銃・病原菌・鉄』(草思社)も必読である。なお、「文系」向けの進化生物学・人類進化学の教科書としては長谷川寿一・長谷川真理子『進化と人間行動』(東大出版会)もある。

5 ブルクハルト・ヴェーナー『レオニーの選択』(光文社)
 物語仕立てで「民主主義政治」とは、その意義と限界とは何か、欠点だらけであるにもかかわらずそれでもなお「民主主義政治」を捨てるわけにはいかないとしたら、それはなぜか、をきっちり論じた政治版『ソフィーの世界』。いやたぶん『ソフィーの世界』よりいい本だ。
 何より重要なことは、今先進諸国で多くの人々が政治的無関心に陥っているのは理由のないことではない、それはまた道徳的に責められることではない、と言いきっているところだ。つまり、問題があるのは現代民主政治の制度的枠組み(もちろんそこには公民教育も含まれるが)の方なのであり、政治的無関心を嘆き、責めるよりも前にやることがある、と。すぐれた、普通の人々のための政治入門であると言えよう。なお政治学のスタンダードな入門書としては、的場敏博『政治機構論講義』(有斐閣ブックス)などがよい。

6 高根正昭『創造の方法学』(講談社現代新書)
 調査を中心とした社会(科)学方法論の入門書。社会(科)学において、仮説を構成し、それを検証する、とはどういうことなのか、具体的に例を挙げて説明していく。パソコンが普及して誰にでも簡単に統計分析の真似事ができるようになった今日でこそ読み返されるべき名著である。関連するテーマを扱った最近の本として谷岡一郎『「社会調査」のウソ』(文春新書)もすすめる。

7 ポール・クルーグマン『クルーグマン教授の経済入門』(メディアワークス)
 世に「経済学入門」は数々あれど、「経済入門」は、それも経済学をきっちり生かしつつ書かれた「経済学入門」ではなく「経済入門」はあまり例を見ない。本書はその意味で出色である。いずれはノーベル経済学賞確実といわれる著者は、専門論文だけでなしに一般読者向けの軽妙な、しかし科学的にしっかりとツボを押さえた経済エッセイのすぐれた書き手として知られている。同じ著者の『経済政策を売り歩く人々』(日本経済新聞社)の方は良質の「経済学入門」として使える。

8 Anthony Giddens, "Sociology: A brief but critical introduction", (MacMillan).
 英語だ。原書だ。たぶん誰かの授業で使われるだろう、社会学教科書の定番アンソニー・ギデンズ『社会学』(而立書房)の短縮版というか、下書きというか。翻訳がある方は枕のように分厚いが、こちらはごくあっさりと短い。文章も向こうの高校生程度を想定しているのか、非常にやさしい。しかし肝心なところをきっちりと押さえている。難を言えば、ベルリンの壁崩壊以前の本、というあたりか。
 普通、大学生の英語力は入学時を絶頂としてあとはくだる一方である。少しでもそれに歯止めをかけ、願わくば逆転させたいものである。
 現在は品切れだが、インターネット書店amazon.comを通じてコピーによる簡易版が入手できる。

9 中江兆民『三酔人経綸問答』(岩波文庫)
 福沢諭吉『文明論之概略』(岩波文庫他)と並ぶ、近代日本政治思想の古典。100年以上前に書かれたにもかかわらず、近代日本国家のぶち当たってきた、そしていまもぶち当たっている問題を不気味なまで言い当てている。「朝まで生テレビ」を見るのはこの本を読んでからにした方がよい。文庫版は現代語訳付きだから心配するな。なお、遠くから呼応し合うテーマを論じている、国際政治学の古典E・H・カー『危機の二十年 1919-1939』(岩波文庫)も読まれるとよい。

10 リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』(紀伊国屋書店)
 進化生物学の一般向け啓蒙書、なのだが、それにとどまらない衝撃を広く科学界、思想界に引き起こした問題の書。彼によれば、ダーウィン的進化のメカニズムは遺伝子を持つ生物の世界にのみ当てはまるわけではない。遺伝子と同じような振る舞いをするものがあれば、そこにおいてただちにダーウィン的進化のメカニズムは作動をはじめる。たとえば脳のなかのシナプス結合において。またコンピュータ・シミュレーションのなかで。あるいは言葉を備えた人間の文化の世界において! つまりダーウィン進化論とは単なる生物学の理論ではなく、世界観、形而上学なのだ。
 なお本書に対する哲学者からの補注がダニエル・デネット『ダーウィンの危険な思想』(青土社)である。物理学者デイヴィッド・ドイッチュの『世界の究極理論は存在するか』(朝日新聞社)もこの意味で面白い。

(4)3〜4年生で読んでほしい本
 専門書を並べ立ててもいいのだが、どうせ講義「社会倫理学」のリーディングリストで膨大な数を並べ立てることになるのだから、そんなのはアホくさい。(実はもうすでに「1〜2年生」でだいぶ放出しちゃったのだ。)
 というわけで、学術書より先にまず、社会人になる前に読んでほしい本、だ。

1 海外投資を楽しむ会『ゴミ投資家のための人生設計入門』(メディアワークス)
 インターネットトレーディングへの無責任な煽りとか色々問題はあるが、それでも掛け値なしの名著である。不動産、生命保険、社会保障、子供の教育、と要するに普通の個人(著者たちのいう「ゴミ投資家」)にとっての「資産」「財産」を、長期的な損得勘定を立ててきちんと運用し、「経済的独立」(身も蓋もなくいえば「安定した老後」なんだが)を達成するための基本スキルを指南する。本来こういうことを中学高校の「公民」ではまず教えるべきだし、大学教養課程の経済入門でやるべきなんだけど、自分で稼いで自分の家計を切り盛りするようにならないと、こういうことのありがたみって分からないんだろうな。

2 森永卓郎『リストラと能力主義』(講談社現代新書)
 『ゴミ投資家のための人生設計入門』にはしかし、「ゴミ投資家」にとってもっとも大切な資産である人的資産、つまり自分自身の労働能力、職業的スキルの育て方と守り方、が書いていない。若者は就職難、中高年はリストラの今日、こうした問題について考えるヒントに本書はなるだろう。

3 ジェーン・ジェイコブズ『市場の倫理 統治の倫理』(日本経済新聞社)
 身も蓋もなく言うと、商売人の道徳と役人の道徳とは互いに性質が違っていて、どちらが上等とかいうものでもなくて、どちらもそれぞれの局面において有用であり必要なものだけど、取り違えたり折衷したりすると腐敗堕落や破局のもとになる、というお話。読みやすい言葉で今日の政治倫理、経済倫理の根幹にかかわるテーマを論じてくれた名著であり、1、2年生でももちろん問題なく面白く読めるはずなんだけど、やっぱり就職前にも、というか就職してからこそ読んでほしい。とりわけ、会社でも役所でも、少しばかり責任ある地位についたときに、再読してみてほしいのだ。

4 ピーター・シンガー『実践の倫理』(昭和堂)
 「実践の倫理」という邦訳題名はいただけない。本当はむしろ「実用倫理学」とでもつけられるべきだった。(原題は"Practical Ethics"。)「社会倫理学」というか、現代の社会問題を前にしての、政策指針を提供する作業としての倫理学がどういうものか知りたければ、この本を読めばいい。著者の結論に賛成するかどうかは、ひとまずどうでもよい。この著者のものでは他に『私たちはどう生きるべきか』(法律文化社)がよいだろう。

5 アマルティア・セン『自由と経済開発』(日本経済新聞社)
 開発と貧困、福祉と公正についての経済学・哲学的研究で1998年度ノーベル経済学賞を受賞した著者の、世界銀行における講義録。スケールの大きい碩学の全貌を1冊で望むことができる。より立ち入った著作として他に『貧困と飢饉』『不平等の再検討』(岩波書店)『合理的な愚か者』『集合的選択と社会的厚生』(勁草書房)などが読める。南北問題、福祉国家などについて興味のある人は必読。

6 立岩真也『私的所有論』(勁草書房)
 ここ20年の日本の倫理学書のなかで1冊だけ選ぶとすればこれだ。(著者は「社会学者」だが。)主に生命倫理の問題を念頭に置きつつ、普通「自己決定」という言葉で語られてきた問題について、深く論じている。

7 デレク・パーフィット『理由と人格』(勁草書房)
 バカげて分厚い。長い。別に全部読む必要はない。しかし現代哲学というか倫理学の中には、いかにカッ飛んだ常識外れのことを考えている奴がいるか、という例として暇な人は拾い読みだけでもしてみてほしい。「人格の同一性は絶対ではなく、程度問題だ」という本書の主張は大きな議論を引き起こし、未だにそれは続いている。カッ飛び加減ではドーキンスやドイッチュといい勝負だ。

8 塩川伸明『現存した社会主義』(勁草書房)
 君たちにはピンとこないかもしれないが、20世紀という時代は社会主義の時代だった。それは社会主義国にとってだけのことではなく、「西側」、自由主義、資本主義の世界にとってもそうだったのだ。だから、社会主義とは何だったのか? を問うことは実は未だに非常にアクチュアルな作業なのだ。
 あと知恵的に振り返れば、社会主義はうまくいかなくて当然のシステムだったように見える。しかしそれではなぜ、いまにして思えば当然のことが、みんなには分からなかったのだろうか? 

9 アダム・スミス『国富論』(岩波文庫他)
10 ヘーゲル『法哲学講義』(作品社)
 せっかくだから古典を挙げておこう。古典のなかでもこういう重厚長大なものは学生時代でないとなかなか読めないよ。
 『国富論』はもともと読みやすいので「経済学書だから」と敬遠しない方がいい。最初の2部だけでも読んでおけば、経済学の基本発想がわかる。また難解の代名詞のようになっているヘーゲルだが、その中でも法哲学は比較的わかりやすく、そしてこの長谷川宏氏の訳になる翻訳は口頭の講義録がもとだから更にわかりやすい。実際の中身は「法律」の哲学なんかではなく、個人、家族、市民社会、国家、国際社会、と順を追ってのぼっていく、要するに総合社会哲学なのだ。


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