2001年4月

4月13日

 4月1日付(出勤は2日から)で明治学院大学社会学部社会学科助教授に転じました。が、依然として岡山大学経済学部のサーバからお届けしています。引っ越しはもう少しお待ち下さい。

 予告では大庭健・村上春樹・香山リカの共著という触れ込みだったはずが結局大庭単著で村上、香山のコメントという体裁になってしまった『私という迷宮』(専修大学出版局)である。「自分探しはやばいぞあぶないぞ」という趣旨自体は大変に分かりやすいしほぼ賛成なのだが、相変わらず永井均へのちょっかいというか、永井独我論への批判というより文句、因縁、繰り言が目立つ。これって本当に必要なのか? 
 今回も注意深くというかいいわけがましく、大庭は「永井独我論自体というよりそれが誤読されて「自分探し」のツールにされていることを問題にしたいのだ」という趣旨のことを書いている。これに対しておそらく永井はまたしても「それなら俺に文句を言う筋合いではなかろう」と繰り返すのみであろう。いまから不毛なやりとりが予想できてしまう。
 平たく言えば、大庭が「バカがあんたの言うことを勘違いしてバカやってるぞ、どうするんだ?」と詰めているのに対して、永井は「そんなことにまで責任はとれない」ということではなかろうか。
 大庭が永井に対して永井印独我論の製造物責任を問いたい気持ちは何となく分かる。「科学者の社会的責任」ならぬ「哲学者の社会的責任」という奴だ。それに対して永井の方は、そういう大庭の道学者ぶり――「哲学者であること」より「道学者であること」を優先するのみならず、この優先順位を疑ってもみないし、あろう事かそういう姿勢で自分にちょっかいを出してくること――が我慢ならないのだろう。道学者ではなく純然たる哲学者としての倫理学者、「善なる嘘」より「邪悪な真理」を重んじる倫理学者たらんとする永井には。
 ただ、本当に永井は「誤読するバカにまで責任は持てない」と居直っているのかと言えば、そうでもないような気がする。永井も永井なりの仕方で道学者をすることがあるのでは、と。『これがニーチェだ』(講談社現代新書)には「どのように世間的にはおぞましく危険なものと見なされ忌避され抑圧される欲望であっても、世の中と折り合いをつけてそこそこ実現し充足することは不可能ではない。しかしそれは倫理的というより政治的な力だ。」という趣旨のことが述べられていた。これはある意味できれい事だ(「常に可能だ」と言うならば欺瞞になってしまう)が、とても重要な指摘だ。
 乱暴に言えば、大庭はバカを説得してバカなことをやめさせようとしている。それに対して永井的なスタンスというのは、宮台真司の言う「バカが伝染らないようにする」に通じるものがある。大庭的アプローチは一見バカに優しい。「バカでも話せば分かる」「バカは治る」と。こういうアプローチには普通「お人好し」「性善説」という罵倒が飛ぶものだが、ここでは別の角度から考えてみたい。これは本当に「バカに優しい」立場なのだろうか。「バカでも話せば分かる」とすれば、「バカが治る」とすれば、その限りでバカはバカではなくなるわけである。結局それは「バカの存在を認めない」論理ではないだろうか。「バカな奴」はバカが治る可能性があるからこそ優しくしてもらえているだけではないだろうか。しかしもしどうしても治らないバカがいたら、いったいどうなるんだろうか。
 大庭の論理が「バカやキチガイやヘンタイやワルでも治る」というものだとすれば、ありうべき永井的道学とは「バカでもキチガイでもヘンタイでもワルでも何とか世の中と折り合いをつけることができる」である。治らなくても必ずしも構わない。バカのまま、キチガイのまま、ヘンタイのまま、ワルのままでも別によいのだ、他の世の中とどうにか折り合いがつきさえすれば。もちろん、「治る」ことに比べて「折り合いをつける」ことの方が易しいという保証は全くないが。(多分大庭的道徳の最悪の可能性が「洗脳」だとすれば永井的道徳のそれは「監禁」「追放」だろうか。そして双方にとって「抹殺」「無視」「忘却」?)
 『私という迷宮』の発刊に寄せられるはずの「専修大学出版局通信」に寄せられたわたしのこのエッセイは、要するに、こういうことが言いたかったのである、と納得してしまった。
 そしておそらく哲学者永井にとっての本当の(ありうべき)論敵は、大庭的道学ではなく、ここで私が素描したような永井的道学であるはずだ、という個人的確信がある。というのは、拙著『リベラリズムの存在証明』草稿へのコメントの中で、永井にインスパイアされて私が展開した独我論的道徳のことを永井は「自分が批判したいと思いつつ具体的には存在していなかった立場」と呼んでいたからだ。

 思うところあって少しビジネス書を読んでいるのだが、評判がいいらしいゲイリー・ハメル&C・K・プラハラード『コア・コンピタンス経営』(一條和生訳、日経ビジネス人文庫)がいっこうにピンとこない。言ってることは間違っていないかもしれないが、紹介されている膨大なケースにかかわらず、具体的なイメージが頭に結ばない。「ただの煽りじゃねえのか?」て気持ちになってしまう。それに対してジェームズ・C・コリンズ&ジェフリー・I・ポラス『ビジョナリー・カンパニー』(山岡洋一訳、日経BPセンター)は非常にヴィヴィッドで、妙に納得させられてしまう。システマテッィクな調査に基づいていて、なおかつ収集したデータを系統的に巻末付録にまとめてあることも功を奏している。

 中公新書ラクレ創刊。この新書過当競争の折りにいったい何を、と危ぶむが、とりあえず『論争・中流崩壊』『論争・学力崩壊』はなかなか好企画である。しかし「インセンティブ・ディバイド」の存在を指摘した『論座』2001年1月号の刈谷剛彦論文が収録されていないのは惜しい。


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