97年5月

5月30日

 お高いので買うかどうか迷っている1冊。一ノ瀬正樹『人格知識論の生成 ―ジョン・ロックの瞬間―』東京大学出版会)。ロックの知識論と社会理論を一貫した構想の下に見渡す試みってそんなにはないのよ。でも高い。哲学書はどうせ売れない、と最初からあきらめてないか? それに比べればまだましだが前者のおかげもあって迷いが増して結局買ってない1冊。西成田豊『在日朝鮮人の「世界」と「帝国」国家』(東京大学出版会)。このテーマの研究は実は結構あるのだが、単行本としてまとまったものが出たのはありがたい。こちらはまあそれほど高くないが決して安くはない。内容紹介は宣伝ページをリンクしてあるからそちらをご覧下さい。さてどうする? 図書館に入れてコピーするか? 古本屋に出るまで待つか? 学術書が高いのは仕方がないが、それにしてもこの版元はちょっと度が過ぎるぞ。前者の75000円というのはまあギャグとして。

5月27日

 永井均『ルサンチマンの哲学』(河出書房新社)、永井氏このところ絶好調である。買ってみると既に読んだ論文の再録が大半であるが、「永劫回帰」批判など新たな論考も追加されているし、私のような「永井追っかけ」でない人にはこりゃ完璧にお買い得、ではないか。私のボトムズ論とかも要するに永井氏のニーチェ論の自分なりに考えての変奏に過ぎないので、興味のある方は是非。私の永井哲学との対決(と言っても多くの社会科学者のように必死こいて独我論を反駁したいわけでは全くない)については近刊の拙著2冊を待たれよ。片方では「独我論的リベラリズム」の可能性について論じ、もう一方では『エヴァンゲリオン』を永井的霊魂論に学びつつ解読する予定である。

 そうそう、この本は河出が新しく始めたその名も「道徳の系譜」(笑)というシリーズの第一弾である。もとは雑誌『文藝』の同題の企画から始まったものだろう。で、腰巻に今後の刊行予定があるんだが、8月刊行予定の小泉義之『弔いの哲学』を今から赤丸チェックだ! 理由を知りたい人は、今年の『文藝』春季号の「道徳の系譜」、小泉氏の「死者によって、初めて悲惨な生でさえも生者の幸福だと教えられる」を読まれたし。

 ベネディクト・アンダーソン『増補 想像の共同体』も買ったぞ。よさそうだ。それから、ケイン&ホプキンズの大著『ジェントルマン資本主義T・U』(竹内幸雄他訳、名古屋大学出版会)の翻訳が出た。4月に遡及的に紹介した岩波の奴は雑誌論文の翻訳であり、今度のは大部の単行本の全訳である。無茶するものだ。売れるといいけど、と言いつつまだ買ってない私である。

5月23日

 昨日は東京は神保町でうろちょろして、古書新刊取り混ぜて何冊か買った。岡山に帰ってから改めて買おう、とチェックしたものもある。その中からいくつか。

 Hannah Arendt, Essays in Understanding 1930-1954, Harcourt Braceは見ての通りハンナ・アーレントの未収録・未公刊エッセイ集、Hannah Arendt Karl Jaspers Correspondence 1926-1969, Harcourt Brace Jovanovichは見ればわかるがアーレントとヤスパースの往復書簡集、どちらもそんなに新しい本じゃない。そして(特に後者は)枕のように分厚い。しかし翻訳も何時になるかわからないから、買っておいた方がいいだろう。研究費で購入し、図書館に入れることも考えたが、結局自腹を切った。1955年以降の未収録・未公刊エッセイ集も早く出してほしいものだ。

 雑誌書評の後追いになるが、探していたジェニファー・トス『モグラびと ニューヨーク地下生活者たち』(渡辺葉訳、集英社)、それから新刊のアルカージイ・ストルガツキー&ボリス・ストルガツキー『滅びの都』(佐藤祥子訳、群像社)を見つけて購入。トスの本は文字通りニューヨークの地下に棲むホームレスたちのルポ。この人々は少なくとも80年代から存在していたが、1993年に原著が出版されたこの本で初めて公然化されたらしい。読んだらまた何か書こう。『滅びの都』はストルガツキー兄弟の遺作ということになってしまうのか?(兄アルカージイは死んでしまった、SF好きとロシア文学通ならご承知の通り。ボリスひとりで頑張っているらしいことは心強いが。) とはいえ書かれたのは1960年代から70年代初頭にかけてで、この人たちの一番コアな小説の例に漏れず、やばいからペレストロイカまで封印されていたのだ。私はストルガツキー兄弟のあまりよい読者ではない。危なさも中位、どうにかソ連時代にも発刊できた奴、例えばマクシム三部作『収容所惑星』(原題『有人島』)『蟻塚の中のかぶと虫』『波が風を消す』とか、かの故タルコフスキー監督の眠い眠い映画『ストーカー』の原作『ストーカー』(原題『路傍のピクニック』、でもこれは眠くならないよ)(いずれもハヤカワ文庫)は読んだ(それにしても邦訳題名がひどい2冊を何とかしてほしい)が、群像社からどばどば出ている、ペレストロイカ以後初めて公刊可能となったストルガツキー作品の翻訳はどれも読んでない。群像社のストルガツキー本で買ったのはこれが最初だ。なぜ買ったか? これたしかにやばいよ、どう考えても出せないよソ連じゃ。あたしのような素人にも一目瞭然だよ。「全体主義の寓話」とかそういう生やさしいもんじゃないよそのまんま全体主義についての小説じゃないか! 読み終えてから何か書きます。

 まだ買ってない大物。ベネディクト・アンダーソン『増補 想像の共同体』(白石さや・白石隆訳、NTT出版)、全社会科学徒必読文献、ナショナリズム研究・国家論の現代の古典の増補版の翻訳が出版社をかえていきなり出た! 買え! 読め! 俺も買うぞ! と思って今日岡大生協に行ったらまだ置いてない。ぷんすか。

 ところで、新刊で買ってまだ読んでない本が古書店にあると心が傷付きませんか? 

5月15日

 新しい本、読んでません。そうそう読めるわけないだろ! とにかく、ハイエクひっくり返して、原稿書いてました。今も書いてます。伝言板の方にもいろいろ書いたしさ。ということで、伝言板のフォローを少ししましょうか。

 野崎六助『北米探偵小説論』(青豹書房発行、星雲社発売)と『アメリカン・ミステリの時代』(NHKブックス)は改めて紹介しておく価値はあるな、と思った次第です。前者は何とぎっしり二段組で600ページもあります。すごい。枕みたい。いや辞書。でも実際辞書みたいに使えます。「探偵小説」「ミステリ」と銘打ってますがSFについてもこれだけきちんと目配りして重厚に論じている本は他にありません。現代アメリカ文学全般に対しての見識ももちろんきちんとあります。これは言ってみれば、「ミステリを通してみたアメリカ帝国主義の精神史」なのです。ミステリ自体に興味のない人でも、20世紀アメリカ精神史として読めば、ずいぶん勉強になるはずです。

 以前に日本の自由主義について「上からの」とか何とかつまらないことを書きましたけど、ちょっと修正。「下からの成り上がり者の」ですか? これじゃ「下克上」だな。そういやずいぶん前に講演で関曠野氏が明治維新のことを「秀吉ルネッサンス」と呼んでたけど。横井小楠「学校問答書」「国是三論」(『近代日本思想体系55 渡辺華山 高野長英 佐久間象山 横井小楠 橋本左内』岩波書店、他)とか読んでると何か鷹揚で「上から」って感じするけど彼もそんな地位の高い人じゃなかった(偉くなる前に遭難した?)し、福沢諭吉『文明論之概略』(岩波文庫他)なんてもうまったく「下克上」な感じ。まだ読みが浅いんだとは思うが……。「下克上」の根拠というか、それなりのやむにやまれなさ、ってあったのだろうか?

 そういえば品切れという噂のあったロバート・アクセルロッド『つきあい方の科学』(松田裕之訳、HBJ出版局)、在庫あるみたいですね。店頭で見かけたけど結構最近刷られてた。いわゆる「囚人のディレンマの反復解法」、平たく言えば「協力の自然発生」についての先駆的業績です。学説史的なことは青木・奥野編著、いや池田さんの本とか見てね。

5月9日

 吉田司『宮沢賢治殺人事件』(太田出版)は昨日未明、というか一昨日の夜読了した。前に述べたような意味での「不吉さ」は問題となってはいなかった。でも面白い本だと思う。私はこれが出たことにうっかり気付かずにいて、「週刊読書人」での赤間啓之氏の書評を見てあわてて買ったのだが、今月の『情況』でも村井紀氏が取り上げていたりして、相当話題になっている。「宮沢賢治の聖人伝説の化けの皮をはぐ」という一見暴露本だが、かつての村井氏の柳田国男についての「一見暴露本」である『南島イデオロギーの発生』(初版福武書店、増補・改訂版太田出版。初版の書評は私も書いてます。)と同様、チンケな個人攻撃じゃなく、そのような聖人伝説に荷担する我々自身に対しても批判の刃は届いている。「賢治はもうちょっと長生きしてればもろファシストになっただろう」とか、「放蕩息子賢治と家・父親との相克は、他面では寄りかかり合い、共犯関係でもあった」とか、「賢治文学は被差別者の自己防衛の文学である」とか、「賢治は結核だったが、差別をおそれて懸命にそれを隠そうとした。ところが、後世の賢治研究者までがなぜかこの隠蔽に荷担している」とか、言われてみればその通りなのにほとんど誰もきちんと言ってなかった指摘がどっさりである。
 ただ、賢治研究というのがお追従の束だったとまでは言い切れないだろう。私は見田宗介氏に傾倒していた学部生時代、週1回氏の勤務先である駒場の東大教養学部まで出かけて、後にその成果が『宮沢賢治 −存在の祭の中へ』(岩波書店)にまとめられることになる演習に参加していた。その時いろいろ囓った賢治研究の中で一番印象深かった……当時まとまった最新の成果であったし、今読み返しても、見田氏の『宮沢賢治』より優れていると思われる……のは、菅谷規矩雄氏の『宮沢賢治序説』(大和書房)であった。それは既に、「思想としての宮沢賢治」の不毛さを正面からテーマとしていた。一種の高等な自己韜晦戦術として賢治の詩や童話を読み解く、という吉田氏のアプローチにしても、菅谷氏の「上演論」的アプローチとそう離れているわけではない。しかも吉田氏が「敢えて賢治の仕掛けた罠にはまらないために」作品論的、批評的アプローチを避けて伝記的アプローチという搦め手を使うのに対し、菅谷氏は作品論を通じて賢治思想の不毛さに積極的に挑んでいる。(ちなみに菅谷氏は多くの宮沢賢治研究者とは異なり、彼を「賢治」とは呼ばず「宮沢」と呼ぶ。この辺の距離の取り方もかっこよい。)

 この間フリードリッヒ・フォン・ハイエク『法と立法と自由』(矢島鈞次他訳、春秋社)を読んでいて原稿の手が止まっている、それどころか構想が少し揺らいでいる。ハイエクとアーレントの対決、なんてこれまで考えた奴はそんなにはいないはずだが、それ自体が面白くなきゃ意味がないし、私の貢献が「二人の対決の演出」だけじゃつまらない。私自身でも二人に言いたいことは結構ある。しかし……ハイエクって結構先のことを見ていたのね。一筋縄では料理できない。
 そりゃさ、俺だって「癒し」がどーのこーのゆー連中よりはハイエクの側にたつよ……。

5月4日

 業績リストの方をみて頂ければわかることだし、拙著『ナウシカ解読』をお読みになっても一目瞭然であるが、このところ私はロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』(嶋津格訳、木鐸社)を自分がものを考える上での大きな手がかりとしている。現在執筆中の著作でもこの本の提示した理論の検討に1章を割き、かなり好意的な評価を下している。ここで彼が提示するリバタリアニズム、自由尊重主義の立場にかなり洗脳されかけているような気さえする。その政治理論の基礎にある人間学、合理的行為者性と唯一性の重視も気に入っている。実は根本的なところで(唯一性の意味の解釈をめぐって)私はこれに同意できないのだけれども。(私が彼よりは福祉国家に同情的なのもこの問題と関係があるようだ。ま、自分でもう少し考えてみたい。)
 だがその筋ではよく知られているように、ノージック自身はその人間学のレベルではともかく、政治理論のレベルでは『アナーキー・国家・ユートピア』でのリバタリアニズムを捨て、もっと人間同士の共同性とか連帯を重視し、福祉国家などもより肯定的に評価するような立場をとるようになっている。(断片的にだが、『生のなかの螺旋』、井上章子訳、青土社。)もちろんそのこと自体、別にけしからんとは思わない。考え方や立場がよく考えた末に変わることはありうることだ。その背後事情についていろいろ考えをめぐらすのも楽しい。
 しかしこのように考えてみると、最近やけに気になるのが『アナーキー・国家・ユートピア』の「序」の中の次のような記述である。

「〔私に〕似た立場を取る人々の多くは、狭量・頑迷であり、皮肉なことに、他のもっと囚われない行き方に対する憤怒に満ちている。現在私は、自説に相応しい自然な対応を受けているが、そのために私はやりにくい人間関係の中に置かれている。人々が好ましく思わない立場、憎悪さえするような立場を支持するような強力な論証をしてみせることによって人々をいら立たせたり、驚愕させたりして、あまり褒められたものではない悦びを得るという時期は過ぎたのであって、私は〔現在では〕知人や尊敬する人のほとんどが私と意見を異にするという事態を歓迎するものではない。」(ii頁)

 最初に本書を通読したときは、この記述をあっさり読み飛ばしていた。むしろ同じ「序」の中の「様々な論議と考察によって、私は嫌々ながら、自由尊重主義的見解を支持するようになっていったのである。」(同上)の方に目が止まった。このような真っ当な学問的誠実さの匂いが、当時の私には結論的にはまったく容認しがたかった議論を展開している本書を、私に読ませたわけである。むしろ先の述懐は一種の人間的弱さの表明のように当時の私には映っていたのかもしれない。
 しかしノージックの「転向」を知った今では、この述懐は何となく私には微笑ましくも示唆深いものに映る。そういうことをポロッと洩らしてしまうあたりに、何というかリアリティを感じる。もちろん私は、ノージックの転向は、肩肘張って人に嫌われる立場を固持し続けることに疲れたからではないか、などと下司の勘ぐりをしているわけではない。むしろそのような人間の弱さを繰り込んだ哲学と政治理論に向け、彼は歩み始めたがゆえに転向したのでは、と思う。まあ、今書いてる本で正面切ってこういう議論をする気はないが、ちょろっと匂わせるくらいのことはしよう。

 ああ、本館の方で最初の書き込みが何と『新世紀エヴァンゲリオン』の謎本ネタになってしまっているが、ディープなファンの間ではおよそ謎本の中で役に立つもの、面白いものはほとんどない、ということは一致した見解になっている。『エヴァンゲリオン』についてはそこらへんの謎本でよりもパソ通、インターネットの伝言版での議論の方があらゆる意味で……オタク的幼児性の意味でも、シリアスな議論としてでも、また純然たる情報としての価値においてもレベルが上である。例えば私もよく行く 綾波レイの部屋 の伝言版をご覧になるとよい。またインターネット上で披露されているファンの書いたオリジナルの『エヴァ』小説の中にも、かなりレベルの高いものがある。少なくとも評論としての価値はちまたの謎本よりも数段上のものが掃いて捨てるほどある。ではなぜ謎本が売れるのか? インターネット使用者と非使用者の間の落差を利用して稼いでいるだけのことなのか? 
 繰り返すが、活字での『エヴァ』論にろくなものはない。スタッフのインタビューなどもまあ読まない方がましなものばかりだ。管見の限りで唯一読むに値するのが、田崎英明氏の「子供たちの心の中の戦争」(『文藝』97年春季号)である。

 それにしてもなぜこうも謎本というのはクズばかりなのだろうか? おそらくはこのジャンルを切り開いた東京サザエさん学会『磯野家の謎』(飛鳥新社)のレベルがあまりに低かったことが、後世に禍根を残したのではないか、と私は考えている。実は私は東京サザエさん学会なるものの存在自体は、この元祖謎本の出現以前から知っていた。たしか『週刊朝日』の連載記事「デキゴトロジー」で紹介されていたように記憶している。私はその記事を読んで、実は結構興味深く思った。『サザエさん』自体は誰が何と言っても古典であり、長谷川町子氏は天才であった。(戦後長谷川町子氏に匹敵する業績を達成したカートゥーニスト(コママンガ家)はいしいひさいち氏くらいであろう。手塚治虫氏が現代ストーリーマンガの創始者であるのとまったく同じ意味において、いしい氏は現代4コマの創始者である。この意味ではいしい氏は長谷川氏以上に重要な存在かもしれない。)そして長谷川氏の代表作『サザエさん』は優れた作品であるだけではなく、戦後史の資料としての価値をも併せ持っている。その『サザエさん』を丹念に読み解く好事家たちの存在は、とても頼もしく思えた。しかしその記念すべきデビュー作は、あのようなクズであり、しかもその後のクズの大量生産への道を切り開いてしまったのだ。

 私がマンガ論を書くときの基本方針は「正しい謎本を書く」この一点のみである。『ナウシカ解読』もまた、正しい謎本たらんとして書かれた。私の『エヴァ』論もまた、そのようなものになるはずである。

 しまった。つまらないものについては書かない、と言ったはずなのに……。

5月2日

 とりあえず本館と別館の2本立てにしてみたが、どんなもんだろう? 自分の位置を特権化しているような気もしてちょっと迷いがある。

 平石直昭『日本政治思想史 =近世を中心に=』(放送大学テキスト)を読了する。こちらの素養不足で十分に理解できたとは言えないが、参考文献も提示されていて役に立つテキストであると思う。やはり「積ん読」の丸山真男『忠誠と反逆 ―転形期日本の精神史的位相―』(筑摩書房)は読まねばならないな、と改めて思えただけでもこちらとしては得るところがあった。それにしても、当方は自由主義論に現在手を出しているのだが、いかに思想史を脇に置いての理論的作業であるとはいえ、洋もののテキストばかりを検討素材にして、日本のものを扱わないのには問題があるな、とかねてから思っていた。そういう理由もあってこういう本を読むのだが、どんなものかねえ、日本における「自由主義」や「市民社会論」の出発点を敢えて挙げるとすれば、結局幕末・明治初期の「開明的知識人」(横井小楠とか福沢諭吉とか)になってしまうんだろうか? 本書を読んでもこの予想は決定的には覆らなかったんだけど、できれば私は誰かによってこの予想を覆されたいんだよね。って、他力本願でしたね。

 私の師匠の中西洋氏(『増補・日本における「社会政策」・「労働問題」研究 資本主義国家と労資関係』東京大学出版会、『日本近代化の基礎過程 三菱長崎造船所とその労資関係 1855-1900年 上・中(下は未完)』東京大学出版会、『〈自由・平等〉と《友愛》 ―“市民社会”:その超克の試みと挫折―』ミネルヴァ書房)は、かつてしばしば私に「日本の近代は吉田松陰で流産している」とおっしゃった。いまだにその含意をつかみかねたまま、折りに触れて氏がすすめる松陰の『講孟余話』(岩波文庫、講談社学術文庫)を読み続けている。もしも小楠とかあるいは諭吉のような人物が日本の近代の思想的出発点(乱暴な言い方だな……「近代」に固定的な「出発点」などもちろんあるわけはない)であれば、ずいぶんと平凡な図式ができあがる。それも不吉ではあるが、そういう不吉さってたかが知れてる、というか、「しょせん日本の自由主義とか民主主義って「上から」のものなのよね」という聞いた風な話で収まる。しかし松陰にはそれには収まらないダイナミズムがあり、それが左右両翼を引きつける「魅力」なのだろう。しかし私が理解した限りでは、中西氏はそこに、例えば「草莽」という言葉に不吉なものを感じていたようだ。それを私はいまだにつかみかねている。

 そういう不吉さを宮沢賢治に嗅ぎつけるのが、吉田司『宮沢賢治殺人事件』(太田出版)なんだろうか? 読んでみないと何とも言えないな。


インタラクティヴ読書ノート・別館

インタラクティヴ読書ノート・本館

ホームページへ戻る