斉藤貴男『カルト資本主義』(文芸春秋)。気がついたら書店のビジネス書コーナーと精神世界コーナーの区別が付かなくなっているこの国の状況についての的確なルポルタージュ。それほど深く突っ込んだ分析がなされているわけではないが、同時代についてのレポートとして大変価値がある。労務管理としての宗教、マーケティングとしての宗教の馬鹿馬鹿しさと恐ろしさ。
実はこの間、従軍慰安婦論争のことがとても気になっている。気になっているとはいえ、丹念にフォローし、折あらば参加しよう、というわけではない。ひどくうっとうしくて目障りで、それでいて無視できない、そのような意味で気になるのだ。論争自体が何だかひどく愚劣な、ピントを外したものであり、そうした愚劣さの見本としてのみこの論争には意味がある、という風にしか私には思えないのだ。
この間これに関連して私の目に留まったものの中で唯一共感できたのは、小泉義之「死者によって、悲惨な死でさえも生者の幸福だと教えられる」(『文藝』97年春季号)であった。これは8月に出る『弔いの哲学』(河出書房新社)の中核をなすであろうインタビューである。
「「他者と我々」という問題設定をする人は、国民や民族をユニットにしてしか思考していない。そんな思考法を捨てなければ、死者を弔うことにはならない。
たとえば先日、イスラエルとパレスチナで戦闘があって、パレスチナ人が何人死んで、イスラエル人が何人死んだという把握の仕方がされる。卑しい思考法です。直ちにやめるべきです。ぼくは、誰が死んだのか、誰が殺されたのか、そして誰が殺したのか、名前を知りたい。戦争の問題でも同じです。誰が死んだのかということだけが大事であって、誰が引き金をひいたのか、それを拒めなかったなら誰が強制したのかということにしか関心はない。何千とか何万とかの数字の問題ではないし、それを日本人とか中国人とかくくることが問題なのではない。従軍慰安婦をめぐっても、誰か特定の男たちとの関係の問題であって、まさにそこで決着をつけなければならない。
とにかく、死者の名前を思い起こさないような論争は、およそ無意味な無駄話にしか見えない。たしかに現状における国家的、政治的責任の取り方を考えると、国家や民族というユニットで考えることになるし、それ以外に救済の道はないように見える。一応、それならもっときちんとやれとしか言いようがないけれども、やはり腹をくくってそんな道は捨てなければならない。実際特定の人間が特定の人間によって殺されたということから出発し直すと、最初からアプリオリに国家や民族をユニットにする思考法はまったく欺瞞的であることがわかるし、そんな思考法こそが戦争を引き起こしているとわかってくる。そんな思想は捨ててもらわないと困る。捨ててもらわないと何も始まらない。」152-153頁
この意見に現在の私はまったく同感である。実のところ、拙著『ナウシカ解読』第5章での「記憶の政治学」をめぐる議論、とりわけ高橋哲哉『記憶のエチカ』(岩波書店)でのアーレント批判への批判も、同様の問題意識から出たものであった。なお、これについても小泉氏は以下のように述べている。
「証言不可能性や表象不可能性をめぐる議論も、率直に言って不毛だと思う。証言不可能で表象不可能な出来事があるのは、殺されて死ぬという出来事を表現してくれるはずの当人が、まさにそこで死んでしまったからだ。だからこそ、さまざまな不可能性が派生するわけで、そんなことは自明だし、それをめぐって議論しても何にもならない。その不可能性は、生者には乗り越えようがないし、目撃者や殺害者の証言をもってしても追い付きようがない。この意味でも死者の名前を想起するしかない。」153頁
ところで関曠野『歴史の学び方について 「近現代史論争」の混迷を超える』(窓社)は、小泉氏とは別の仕方で従軍慰安婦論争を批判している。歴史観と歴史教育をめぐる藤岡信勝氏の問題提起は、従軍慰安婦をめぐる教科書論争に矮小化された、と氏は言うのである。つまり、関氏は藤岡氏と同じ土俵に乗ろうとしている。その意味で、氏が展開している「自由主義史観」とその批判者たちへの両面批判はごくオーソドックスなものである。それゆえ今の私にはこの本はさほど切実な共感を呼び起こさない、それでも、
「それにしても教科書論争は、戦後の日本ではお馴染みのパターンをそっくり繰り返した。とにかく日本の右派や保守は、民族の生ける伝統について語ることができない。そんなものはないからだ。だから彼らが「あるべき日本国家」を論ずるとなると、もはや再生することのできない日本帝国を美化し、自滅に終わったこの国家の罪や過ちのミソギを図る以外にやることがない。そして南京虐殺の犠牲者はもっと少なかったはずだとか、中国人の便衣隊が民間人に紛れこんでいたので虐殺が起きたといった類いの、ワイセツ行為で現行犯逮捕された中年男のように見苦しい弁解をする。過去の悪魔払いをその唯一の情念とする国家主義。他方で、左派は戦後民主主義の成果を強調する。彼らは基本的には、現状に満足し成果を守ろうとする保守的な人間であり、「あるべき国家」などという耳障りな議論をきくと不愉快になる。戦後民主主義者の極意は、憲法と現実のズレには目をつぶり保守を非難しながら保守長期政権が実現してきた繁栄の成果を享受する無原則な処世術にある。左派のモラリズムは見せかけにすぎない。日本の戦争で被害を受けた他国の人々に謝罪すべきだという主張も、国家の原則ではなく、近隣諸国に対する気配りのすすめという処世術の産物にすぎない。」44-45頁
などという記述はとても興味深い。
さて、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』であるが、結論的に言って、意外と面白かった。映画としては、『もののけ姫』よりこちらに軍配を揚げたい。だが実のところ、この『エヴァ劇場版』よりも、『クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡』の方が更に面白い、と言っておかねばならない。『クレヨンしんちゃん』アニメ版、更に毎年1本作られ続けている劇場版のクォリティの高さはほとんど知られていないようだが、だまされたと思って見ていただきたい。かくいう私もつい最近友人にしつこく進められて見に行ったクチだが、とにかくこのシリーズは娯楽の王道を走っている。
まあとにかく『エヴァ』だ。予想通り、大半の謎は解かれなかった。人類補完計画についても、春の『REBIRTH』で説明された以上のことはわからない。ゼーレとゲンドウの思惑の違いも結局うやむやになったままだ。ただひとつだけ、エヴァ初号機に消えたユイの思惑が、実はゼーレのそれもゲンドウのそれも超えたものであったらしく、冬月がゲンドウに従っていたのも実はこのことを知っていたからであるらしいことがわかるのは、新たな展開であったが。そして予想されたとおり、バラバラの個体の集合としてのヒトを丸ごと一個の生命体とする補完計画は発動したが、主人公シンジは結局それを拒否して、もとの個体であること、自分のみならずすべてのヒトが以前と同様の個体である世界を再建することを選択して物語は終わる。ただそこでめでたしめでたしではなく、とって付けたようなオチがあり、このオチが多くの人を困惑させているようだ。私はこのオチを肯定する。不愉快に感じる人も多いだろうし謎めいてもいるが、ヒネリとしてはこれ以上ないようなヒネリである。比喩でなく文字通りの「オチ」として見れば実にすばらしい。それに理に適ってもいる。もとのような個体としてのヒトが多数いてひしめき合う世界では、いいこともあれば悪いこともある。シンジがそこに帰還することを選んだのは、ヒトが丸ごと一個体となる世界では悪いこともないがいいこともないからだ。だが、シンジがひとつの個体に戻ることは、当然にまた悪いこと、いやなことの危険に晒されることを意味する。そして戻って早々シンジはとてもいやな目に遭う。しかしそれも結局自業自得である。それだけのことだ。
だが、結局私の最大の期待は満たされなかった。この期待が外れるであろうことは、ほぼ確実に予想できたことだが、やっぱり、ちょっとがっかりである。所詮『エヴァ』もアーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』(ハヤカワ文庫)とかグレッグ・ベア『ブラッド・ミュージック』(ハヤカワ文庫)を超えるものではなかった。借り物ではない、自前の形而上学ないしは倫理を紡ぎだす作品とはならなかった。その意味で、マンガ『風の谷のナウシカ』あるいは岩明均『寄生獣』(講談社)を超えることはできなかったのである。私のエヴァ論は、この裏切られた期待、ほのかに予感された形而上学についての本となるはずだ。しかしそれは『ナウシカ解読』のような形で書くことはできないだろう。多分それはエヴァ論と言うよりは、エヴァを座標軸としたロボットアニメ総論とでも呼ぶべきものになるはずだ。しかしそれを書くには、今の私にはなお絶望的にロボットアニメ全般についての素養が欠けている。ちょっと困った。
というわけで積ん読シリーズ。浅沼萬里『日本の企業組織 革新的適応のメカニズム 長期取引関係の構造と機能』(東洋経済新報社)。ついに出た、やっと出た浅沼氏の単著。しかも氏は去年亡くなってしまっていて、弟子の菊谷達弥氏が遺稿を編集してなった1冊である。かつての氏は組織の経済理論の日本における紹介者みたいなところがあり、その点では自ら積極的に理論構築を行って国際的に名を挙げていた青木昌彦氏なんかの後塵を拝していた印象があるのだが、ある時開き直ったのか、日本の製造業の下請関係を中心に地道な実態調査を精力的に進めていった。そしてその実態調査の知見を踏まえて、経済学的組織理論に多くの刺激をフィードバックしていった。本書はその氏の実態調査の集大成であり、職場レベルの労働組織、企業レベルの人事管理システムを扱った第1部と、企業間関係を扱った第2部に分かれている。