97年7月

7月20日(21日修正)

 昨日『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 The End of Evangelion Air/まごころを、君に』(GAINAX)を見てきた。とはいえ2回続けてアニメネタに終始しては「インタラクティヴ読書ノート」の沽券に係わるので、取りあえずこの間の本の紹介もしよう。

 斉藤貴男『カルト資本主義』(文芸春秋)。気がついたら書店のビジネス書コーナーと精神世界コーナーの区別が付かなくなっているこの国の状況についての的確なルポルタージュ。それほど深く突っ込んだ分析がなされているわけではないが、同時代についてのレポートとして大変価値がある。労務管理としての宗教、マーケティングとしての宗教の馬鹿馬鹿しさと恐ろしさ。

 実はこの間、従軍慰安婦論争のことがとても気になっている。気になっているとはいえ、丹念にフォローし、折あらば参加しよう、というわけではない。ひどくうっとうしくて目障りで、それでいて無視できない、そのような意味で気になるのだ。論争自体が何だかひどく愚劣な、ピントを外したものであり、そうした愚劣さの見本としてのみこの論争には意味がある、という風にしか私には思えないのだ。
 この間これに関連して私の目に留まったものの中で唯一共感できたのは、小泉義之「死者によって、悲惨な死でさえも生者の幸福だと教えられる」(『文藝』97年春季号)であった。これは8月に出る『弔いの哲学』(河出書房新社)の中核をなすであろうインタビューである。

「「他者と我々」という問題設定をする人は、国民や民族をユニットにしてしか思考していない。そんな思考法を捨てなければ、死者を弔うことにはならない。
 たとえば先日、イスラエルとパレスチナで戦闘があって、パレスチナ人が何人死んで、イスラエル人が何人死んだという把握の仕方がされる。卑しい思考法です。直ちにやめるべきです。ぼくは、誰が死んだのか、誰が殺されたのか、そして誰が殺したのか、名前を知りたい。戦争の問題でも同じです。誰が死んだのかということだけが大事であって、誰が引き金をひいたのか、それを拒めなかったなら誰が強制したのかということにしか関心はない。何千とか何万とかの数字の問題ではないし、それを日本人とか中国人とかくくることが問題なのではない。従軍慰安婦をめぐっても、誰か特定の男たちとの関係の問題であって、まさにそこで決着をつけなければならない。
 とにかく、死者の名前を思い起こさないような論争は、およそ無意味な無駄話にしか見えない。たしかに現状における国家的、政治的責任の取り方を考えると、国家や民族というユニットで考えることになるし、それ以外に救済の道はないように見える。一応、それならもっときちんとやれとしか言いようがないけれども、やはり腹をくくってそんな道は捨てなければならない。実際特定の人間が特定の人間によって殺されたということから出発し直すと、最初からアプリオリに国家や民族をユニットにする思考法はまったく欺瞞的であることがわかるし、そんな思考法こそが戦争を引き起こしているとわかってくる。そんな思想は捨ててもらわないと困る。捨ててもらわないと何も始まらない。」152-153頁

 この意見に現在の私はまったく同感である。実のところ、拙著『ナウシカ解読』第5章での「記憶の政治学」をめぐる議論、とりわけ高橋哲哉『記憶のエチカ』(岩波書店)でのアーレント批判への批判も、同様の問題意識から出たものであった。なお、これについても小泉氏は以下のように述べている。

「証言不可能性や表象不可能性をめぐる議論も、率直に言って不毛だと思う。証言不可能で表象不可能な出来事があるのは、殺されて死ぬという出来事を表現してくれるはずの当人が、まさにそこで死んでしまったからだ。だからこそ、さまざまな不可能性が派生するわけで、そんなことは自明だし、それをめぐって議論しても何にもならない。その不可能性は、生者には乗り越えようがないし、目撃者や殺害者の証言をもってしても追い付きようがない。この意味でも死者の名前を想起するしかない。」153頁

 ところで関曠野『歴史の学び方について 「近現代史論争」の混迷を超える』(窓社)は、小泉氏とは別の仕方で従軍慰安婦論争を批判している。歴史観と歴史教育をめぐる藤岡信勝氏の問題提起は、従軍慰安婦をめぐる教科書論争に矮小化された、と氏は言うのである。つまり、関氏は藤岡氏と同じ土俵に乗ろうとしている。その意味で、氏が展開している「自由主義史観」とその批判者たちへの両面批判はごくオーソドックスなものである。それゆえ今の私にはこの本はさほど切実な共感を呼び起こさない、それでも、

「それにしても教科書論争は、戦後の日本ではお馴染みのパターンをそっくり繰り返した。とにかく日本の右派や保守は、民族の生ける伝統について語ることができない。そんなものはないからだ。だから彼らが「あるべき日本国家」を論ずるとなると、もはや再生することのできない日本帝国を美化し、自滅に終わったこの国家の罪や過ちのミソギを図る以外にやることがない。そして南京虐殺の犠牲者はもっと少なかったはずだとか、中国人の便衣隊が民間人に紛れこんでいたので虐殺が起きたといった類いの、ワイセツ行為で現行犯逮捕された中年男のように見苦しい弁解をする。過去の悪魔払いをその唯一の情念とする国家主義。他方で、左派は戦後民主主義の成果を強調する。彼らは基本的には、現状に満足し成果を守ろうとする保守的な人間であり、「あるべき国家」などという耳障りな議論をきくと不愉快になる。戦後民主主義者の極意は、憲法と現実のズレには目をつぶり保守を非難しながら保守長期政権が実現してきた繁栄の成果を享受する無原則な処世術にある。左派のモラリズムは見せかけにすぎない。日本の戦争で被害を受けた他国の人々に謝罪すべきだという主張も、国家の原則ではなく、近隣諸国に対する気配りのすすめという処世術の産物にすぎない。」44-45頁

などという記述はとても興味深い。

 さて、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』であるが、結論的に言って、意外と面白かった。映画としては、『もののけ姫』よりこちらに軍配を揚げたい。だが実のところ、この『エヴァ劇場版』よりも、『クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡』の方が更に面白い、と言っておかねばならない。『クレヨンしんちゃん』アニメ版、更に毎年1本作られ続けている劇場版のクォリティの高さはほとんど知られていないようだが、だまされたと思って見ていただきたい。かくいう私もつい最近友人にしつこく進められて見に行ったクチだが、とにかくこのシリーズは娯楽の王道を走っている。
 まあとにかく『エヴァ』だ。予想通り、大半の謎は解かれなかった。人類補完計画についても、春の『REBIRTH』で説明された以上のことはわからない。ゼーレとゲンドウの思惑の違いも結局うやむやになったままだ。ただひとつだけ、エヴァ初号機に消えたユイの思惑が、実はゼーレのそれもゲンドウのそれも超えたものであったらしく、冬月がゲンドウに従っていたのも実はこのことを知っていたからであるらしいことがわかるのは、新たな展開であったが。そして予想されたとおり、バラバラの個体の集合としてのヒトを丸ごと一個の生命体とする補完計画は発動したが、主人公シンジは結局それを拒否して、もとの個体であること、自分のみならずすべてのヒトが以前と同様の個体である世界を再建することを選択して物語は終わる。ただそこでめでたしめでたしではなく、とって付けたようなオチがあり、このオチが多くの人を困惑させているようだ。私はこのオチを肯定する。不愉快に感じる人も多いだろうし謎めいてもいるが、ヒネリとしてはこれ以上ないようなヒネリである。比喩でなく文字通りの「オチ」として見れば実にすばらしい。それに理に適ってもいる。もとのような個体としてのヒトが多数いてひしめき合う世界では、いいこともあれば悪いこともある。シンジがそこに帰還することを選んだのは、ヒトが丸ごと一個体となる世界では悪いこともないがいいこともないからだ。だが、シンジがひとつの個体に戻ることは、当然にまた悪いこと、いやなことの危険に晒されることを意味する。そして戻って早々シンジはとてもいやな目に遭う。しかしそれも結局自業自得である。それだけのことだ。
 だが、結局私の最大の期待は満たされなかった。この期待が外れるであろうことは、ほぼ確実に予想できたことだが、やっぱり、ちょっとがっかりである。所詮『エヴァ』アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』(ハヤカワ文庫)とかグレッグ・ベア『ブラッド・ミュージック』(ハヤカワ文庫)を超えるものではなかった。借り物ではない、自前の形而上学ないしは倫理を紡ぎだす作品とはならなかった。その意味で、マンガ『風の谷のナウシカ』あるいは岩明均『寄生獣』(講談社)を超えることはできなかったのである。私のエヴァ論は、この裏切られた期待、ほのかに予感された形而上学についての本となるはずだ。しかしそれは『ナウシカ解読』のような形で書くことはできないだろう。多分それはエヴァ論と言うよりは、エヴァを座標軸としたロボットアニメ総論とでも呼ぶべきものになるはずだ。しかしそれを書くには、今の私にはなお絶望的にロボットアニメ全般についての素養が欠けている。ちょっと困った。

7月14日

 本ではない。アニメ映画の宮崎駿『もののけ姫』(スタジオジブリ)である。まだ一度見ただけで、何とも言えない。ある意味、『風の谷のナウシカ』のリテイクにすぎない、という趣旨の岡田斗司夫氏の形容も確かに外れてはいない。もちろん仮にリテイクとしても、金を払って見る価値は十二分にあるけれど。
 アニメ映画の『ナウシカ』の「甘さ」は、一にかかって「自然」の擬人化、物象化にある。「自然」などというものはない。あるのはさまざまの具体的な生物、無生物たちであり、その関係性である。その点をおおざっぱに割り切って「自然と人の闘いと和解」という形で括ったのがその「甘さ」である。マンガ版の『ナウシカ』がその「甘さ」を振り切ることができたのは、具体的な個々の生き物たちの姿をより詳しく描き込んだこと、「自然と人の闘い」を描かず、人間同士の闘いの向こう側に超然としてそびえ立つ自然(というより人間以外のものたち)の姿を描くことができたからである。その点からすると、『もののけ姫』は苦しい。「自然」というおおざっぱな括りは放棄されているものの、そこに登場する生き物たちは「神」として擬人化されている。そして自然と人間との闘いも一種の「戦争」、つまり人間同士の闘いと質的にさして異ならないものとして描かれている。つまり、ところどころでマンガ版『ナウシカ』から後退しているように見えてしまう。映画という尺に合わせた作り物である以上、それ以上のことを求めるのは酷なのかもしれないが。
 ただ興味深いのは、この物語の実質的な主人公たちは蝦夷の少年アシタカともののけ姫サンではなく、森を切り開いていく製鉄者集団たたら衆であることだ。これは白土三平『カムイ伝』(小学館)の展開と比較してみると極めて興味深い。『カムイ伝』第1部の主人公たちは農民、百姓たちであり、物語は彼らと武士、領主、幕府権力との階級闘争であった。そして名目的主人公のカムイは被差別民から階級的脱出を目指して最強の戦士たる忍者となるが、それは単なる権力の走狗でしかなく、彼はそこからも脱落して「抜け忍」つまり単なる階級脱落者、アウトカースト、パーリアとなってしまい、自分ひとりの生存に汲々とするだけで、愛する者たちの闘いに積極的に協力することもできない無力な存在である。これは今ひとりの主人公である浪人笹一角についても言える。これに対して現在『ビッグコミック』で連載中の第2部では、ずいぶんと様変わりしている。第2部の主人公と言える特定の階級ないし身分は存在しない。例えば農民のリーダーである庄屋が名字帯刀を許される、つまり半ば武士となることがはっきりと描かれている。しかしそれ以上に重要なのは非農民たちの姿がさまざまに活写されていることだ。第1部末尾で少しだけ描かれた漁民たち、土木技術者たち、山師、たたら者、土地に固着せず市場経済に積極的に係わっていく者たちが登場する。第1部の実質的主人公であった農民指導者正助も土木技術者として再登場する。被差別民たちも特異な職能集団としての側面に重点をおいて描かれるようになっている。何よりカムイさえも、「抜け忍」であることを危険と背中合わせの自由として肯定して、積極的に仲間たちとともに闘いに参加するようになっている。そして一角を中心とする主人公たちの闘いも、すでに総力戦的階級闘争ではなく、誰が敵か味方かもわからないし割り切ることもできない複雑な政治的駆け引きの世界に入り込み、幕閣の中枢にまで介入していく。
 『ナウシカ』と並行して進んだ階級闘争史観の放棄は、宮崎氏も折りに触れて口にしていた。また『カムイ伝』に触れて、その屈折をやはり白土氏における階級闘争論の挫折として解釈する発言もあった。しかしマンガ版『ナウシカ』と『もののけ姫』においては階級闘争論のみならず、素朴エコロジズム(「自然と人間の闘争と和解」図式)の放棄もまた問題となっている。『ナウシカ』では主題化されることのなかった技術、産業というテーマの片鱗が、『もののけ姫』にはのぞいている。ただ、『カムイ伝』はまだ終わっていないが、『もののけ姫』はすでに完結した作品である。これ以上の展開を宮崎氏に求めるなら、次作を待つしかない。 

7月2日

 買ってないが、しかし読んだことのあるものからひとつ。先週の朝日の書評で大塚英志氏がジョージ秋山『ザ・ムーン』(小学館文庫)を「早すぎる傑作」と紹介していてぶったまげてしまった。まさか復刊になるとは! 1972、73年頃に『週刊少年サンデー』に連載されたが、その頃小学館は独自のコミックスを備えていなかったため少し遅れて朝日ソノラマのサン・コミックスから刊行された単行本を当時小学生の私も途中まで買って読んだ。ずいぶん前に売っぱらったけど。何というか、あえて言えば巨大ロボットものである。折しも『マジンガーZ』、『ゲッターロボ』の時代、「乗り物としてのロボット」時代の到来であり、脳波による遠隔操縦というコンセプトは若干時代遅れとも言えたし、何よりテレビアニメ化されていないが、それでも当時まさに絶好調のジョージ秋山氏の作品である。生やさしい代物ではない。(いや実は『マジンガー』や『ゲッター』も生やさしい代物ではないが……。)心をひとつに合わせて巨大ロボット、ザ・ムーンを操る9人の少年たちはまったく普通の子供たちであり、まさに子供であるが故の自由闊達さと純粋な正義感の故に選ばれたのであるが、その戦いは常にそれぞれに自らの正義を掲げる、あるいはやむにやまれず追いつめられた敵とのまさに気力、精神力の戦いであり、最後の地球人類全体の命運をかけての戦いは、絶望のうちに、悲惨な敗北のうちに幕を閉じる。折しも新左翼内ゲバ、連続企業爆破の時代、『日本沈没』、ノストラダムスなど終末ブームの時代、その影は明らかに少年マンガに濃厚に垂れ込めており、それが楳図かずお『漂流教室』永井豪『デビルマン』『バイオレンスジャック』といった異様な傑作を生み出したことは広く知られているが、本作品もそうした観点から再評価されているのであろう。ただ大塚氏のように「エヴァを先取りしている」と言ってよいものかどうか。愚直に「正義」をテーマとし、テロリズム、公害、老人問題をテーマとして取り込んだ『ザ・ムーン』(そして実は『マジンガー』『ゲッター』もそうであった!)と、今日の『エヴァンゲリオン』との距離は意外に遠い(それをもって『エヴァ』を貶めるつもりはないが)ものであることは、氏も十分に理解されているはずだ。短いようで長いこの20何年かの持つ意味について、改めて考えるきっかけになってくれそうである。

7月1日

 ぼやぼやしている間に6月が終わってしまった。この間も本を結構買ってはいるのだが、読めない。雑用は多いは、自分の本は書けない(5月中に書いた1章をまるまる捨ててやり直している)は、でどうにもならない。しかし、「積ん読」情報も買ってもいない本の情報も流すぞと銘打ち、ある程度実行している以上、更新しなかったのは怠慢と言うべきだろう。

 というわけで積ん読シリーズ。浅沼萬里『日本の企業組織 革新的適応のメカニズム 長期取引関係の構造と機能』(東洋経済新報社)。ついに出た、やっと出た浅沼氏の単著。しかも氏は去年亡くなってしまっていて、弟子の菊谷達弥氏が遺稿を編集してなった1冊である。かつての氏は組織の経済理論の日本における紹介者みたいなところがあり、その点では自ら積極的に理論構築を行って国際的に名を挙げていた青木昌彦氏なんかの後塵を拝していた印象があるのだが、ある時開き直ったのか、日本の製造業の下請関係を中心に地道な実態調査を精力的に進めていった。そしてその実態調査の知見を踏まえて、経済学的組織理論に多くの刺激をフィードバックしていった。本書はその氏の実態調査の集大成であり、職場レベルの労働組織、企業レベルの人事管理システムを扱った第1部と、企業間関係を扱った第2部に分かれている。


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